本日(8月17日)の日経ビジネスオンライン掲載の筆者の論考
 
浅田次郎の新作、アマゾン・レビューでは本書への辛口のコメントが散見されるが、私も著者の小説を読むときは、どうしても「蒼穹の昴」と比較してしまう。しかし「昴」は超別格であり、常にそれと比較されるのは、著者としては難儀なことだろう。

「昴」はともかくとして、本書は歴史小説として十分読み応えがある。日本海軍の海上輸送能力が壊滅した結果、当時の日本の最北端の島、占守島に強固な要塞と戦車隊を保有する無傷の精鋭部隊が2万人以上も残存し、8月15日の日本の降伏宣言(ポツダム宣言受諾)後に島に侵攻、攻撃を仕掛けてきたソ連軍と交戦したという歴史のひとこまとその含意を気づかせてくれただけでも、高く評価したい。

疎開先を脱走して東京に向かう子供二人が、苦しい旅を励まし合いながら、宮沢健治の「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」を暗誦し、「ああ、本当の大和魂とはこのことだったんだ!」と覚醒する場面に、じわ~んときた私は根が単純なんだろうか。

中国戦線での「武功」で勲章をもらい英雄に祭り上げられた鬼熊軍曹が「おれは死なぬ。アメ公が上陸してきたら真っ先に降参してやる。勅諭も戦陣訓もくそくらえじゃ!」と言う。 その軍曹は、日本の降伏後に島に侵攻、攻撃を仕掛けてきたソ連軍と交戦し、憤死する。

この小説が、戦争の悲惨さを通じて描いているものは、政治的なイデオロギーとしての愛国心や、戦後の教条化された平和主義でもなく、人を愛して生きることへの草の根的なたくましさ、思想的な萌芽であろうか。

300万人の命と主要都市を焦土と化した犠牲を払いながら、戦後の私達はその萌芽を強固な思想にまで育てるとこに成功していないのではないか、と痛感せざるを得ない。そういう意味で「この夏」は終わっていないのだろう。