タイトルぐらいはぼんやりと知っていたのだが、「タテ社会の人間関係」中根千枝著(1967年)を読んだ。「戦後の日本文化論の名著」との定評があり、読み続けられて110万部だそうだ。
読んでみてちょっと驚いたのだが、43年前の著書であるにもかかわらず、その分析、洞察がほとんど色あせていないのだ。 逆にいうと著者によって「タテ社会」として洞察され、特徴づけられた日本社会の構造は、多少の変容や動揺を起こしながらも強固に持続しているということだろう。
私が「ラーメン屋vs.マクドナルド」(2008年)に盛り込んだ「洞察」のいくつかは、43年前の本書の中で指摘されていたことのバリエーションでしかないことに気がついた。
そうした点を「タテ社会の人間関係」から以下に引用しよう。
欧米(並びにインド)のように資格(クラス)ではなく、「場(会社、家、地域共同体など)」を軸に形成される日本社会では、「資格の異なる者に同一集団成員としての認識を持たせる方法として、『われわれ』というグループ意識を強調する。」 「内部的に『同じグループの成員』という情緒的な結びつきを持つことである。資格の差別は理性的なものであるから、それを超えるために感情的なアプローチが行なわれる。」「この感情的なアプローチの将来するものは、絶えざる人間的な接触である。」「タテ社会の人間関係」page37
「日本人の『話せる』とか『話ができる』という場合は、気が合っているか、相手に共鳴、あるいは同情を持つことが前提となる。すなわち、感情的合流を前提として、初めて話ができる・・・」page180
以下は上記の本書と共通する私の論考の一部である。
「いい加減『情緒政治』と決別せよ」2009年日経ビジネスオンライン
「それでは日本の2大政党は、いったい何をベースに寄り集まっているのだろうか。政治から政策原理とビジョンを抜いたら、あとは人脈、金脈、それと情緒しか残らない。人脈と金脈が政治の世界で強い「紐帯(結び付ける力)」となるのは古今東西のことだ。
日本的な特徴は「情緒の共有」にある。「苦楽をともにして長年やって来た」「相手の気持ちが分かる。私の気持ちも分かってくれる」「お世話になっている」。そうした紐帯関係である。
政党の代議士同士のみならず、代議士と地元有権者の関係にも同じ原理が働いている。政治家の地元での活動の多くが、後援会活動などを通じた支持者らとの情緒の共有による紐帯強化に費やされている。」
あるいはまた、「ラーメンvs.マック」の3章「ディベートするアメリカ人vs.ブログする日本人」の中で情緒の共有がないとまともな議論が成り立たない日本(人)的事情を指摘した部分が「タテ社会の人間関係」とぴたりと共通する。
先人の成果を読まず、知らずに、自論として展開していたことを恥ずかしく思うと同時に、先人の成果を知らずに同じ洞察に至った自分を「まあ、良い線いっているわけじゃん」と思う気持ちが交錯した。
だって社会文化論は私にとって余興なんだから大目に見て・・・・(^_^;)
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