レビューを本当に書きたくなる映画に出会うことはそう多くない。
しかし映画「アレキサンドリア」(原題、AGORA)は久しぶりにビーンと来た作品だ。
この映画は2009年のスペイン映画(ただし日本公開は英語版)で、カンヌ映画祭で公開されたそうだ。スペインでは大反響だったそうだが、国際的な興行ネットワークでの動きは鈍かったという。だから日本ではようやく今年公開された。
映画の世界最大の興行市場はやはりアメリカだろうが、間違いなくアメリカでこの映画を大々的に上映しようとする興行筋はないだろう。なぜならキリスト教の反知性主義的な側面をえぐり出している歴史映画だからだ。
小説&映画「ダビンチ・コード」がアメリカでカトリックからごうごうたる非難を受けながらも興行的に成功したのは、ダビンチ・コードの批判がクリスチャンの半分、つまりカトリックの教義に向けられたものだからだろう。つまりアメリカでは主流のプロテスタントを敵に回していない。
ところが映画「AGORA」の矛先は4世紀頃に確立されるキリスト教会それ自体に向けられている。だから現代のキリスト教国家であるアメリカで大規模に興行しようとすれば、クリスチャンのブーイングを浴びてボイコットされただろう。
舞台は紀元4世紀末のエジプト、古代史上最大の図書館があったアレキサンドリアを舞台に実在したギリシア系の女性天文学者&数学者のヒパティアを主人公にしている。4世紀にローマの国教となったキリスト教が、それまでの迫害される立場から一転して、ギリシア、あるいはローマ以来の多神教、自然哲学を嘲笑、破壊する勢力に転換していく過程が描かれている。ユダヤ教徒との相克も登場する。
ローマの皇帝を頂点とする権力がキリスト教側についたことで、アレキサンドリアの有力者も次第にキリスト教に転向して行く。 主人公のヒパティアはそうした宗教的な転向には一切妥協せずに、天文・自然哲学に専心しているが、最後には魔女だという避難を浴びてキリスト教徒らによって惨殺されてしまう。
アレキサンドリア図書館の古代からの貴重な所蔵文献がキリスト教徒によって破壊、焼却される場面は、歴史の中で古今東西様々な権力、勢力によって繰り返されてきたこととは言え、人類史における反知性主義的な蛮行として心に突き刺さる。
ブログをご覧になる方の中にはもしかしたらクリスチャンもいるかもしれないから、念のために言っておくと、もちろん私はクリスチャンがみな反知性主義者だと言っているわけではない。私など足元にも及ばないような教養と知性の持ち主もおられる。キリスト教という巨大で、かつある程度多様な宗教の中に反知性主義的な要素があると言っているに過ぎない。同様の事情はイスラム教についても言えるだろう。
この物語で思い出すのは、辻邦生の歴史小説「背教者ユリアヌス」だ。やはり4世紀のローマ帝国の末期に、ギリシア・ローマ文化を守ろうとしながら、キリスト教に傾斜していく社会の流れに抗ったユリアヌス皇帝の物語だ。 もちろん「背教者」というのはキリスト教徒からの呼び方であり、ギリシア・ローマ文化の立場からは擁護者だった。
私が辻邦生のこの歴史小説を読んだのは、高校生か大学生の時だったが、ローマという日本人作家にとって異文化の古代歴史を背景に、これだけいきいきとした小説が書かれていることに感嘆した記憶がある。
アメリカのSF映画「コンタクト(CONTACT)」も思い出した。ジョディ・フォスターが演じる無神論者であることを公言する女性科学者がキリスト教的世論と鋭く対立する場面が印象的だった。ただし、こちらの映画は宗教的な情念に対してより妥協的に出来上がっていると思った。
ちなみに普通のアメリカ人に「あなたの宗教は?」と尋ねられた時に「no religion」とは言わない方が良い。それは彼らにとっては「私はエイリアンです」「私はゾンビです」と言っているようなものだ。
信心がなくても「I am a Buddhist」と言っておくのが良いだろう。実際、死んだらお寺の坊さん供養してもらうのだから、ウソではない。
4世紀のローマ帝国でキリスト教、とりわけキリスト教諸派の中でも後にカトリック教会として確立される派が優勢になった理由、背景については、私は塩野七生「ローマ人の物語、キリストの勝利」を読んで感銘を受けたことがある。塩野さんは、キリスト教が優勢になっていくプロセスをとても世俗的な事情(税制事情など)、旧い言い方をすれば唯物史観的な観点で描き切っているのだ。観念的な言い草でごまかさない、こういう醒めた視点、私は大好きだ。
ところで原題のAGORAというのはギリシャ語で「広場」を意味するそうだ。ポリスの広場で様々な議論を自由に闘わせることができる政治、文化環境を象徴する言葉としてタイトルになったのではないかなと思う。そういう意味では「知」と「自由」の喪失は、歴史の中で繰り返し同時に起こったと言えるだろう。
我らが大日本帝国でも、政治のAGORAから合理的、理性的な機能が失われつつようで心配だ。AGORAの崩壊の次に来るものが、戦前に見られたような日本版反知性主義の復活でないと良いのだが・・・。

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