「偶然の科学(Everything Is Obvious)」(ダンカン・ワッツ)早川書房、2012年2月を読んだ。
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著者はコロンビア大学の社会学の教授で、ネットワーク理論を専門にしている。
英語の原題に首をかしげる方もいるだろうが、これは偶然の連鎖で引き起こされたような結果でも、人間は後知恵で解釈する強い性向があるために、必然的な因果の結果だったと考えてしまう(つまりそうなるのは自明だったと思ってしまう)認知上のバイアスのことを意味している。
 
そしてこのような認知上のバイアスによって出来上がった「常識的な知恵」が、私達の日常の選択から政府の政策まで支配している結果、様々な不毛で非合理的な選択が繰り返されると説く。しかもこうしたバイアイは歴史学や経済学などの繰り返し実験することが困難、あるいは不可能な研究領域を対象にした学問の世界にも根強く見られると指摘する。
 
そうした視点から様々な問題が論じられているが、例えば社会学者が「ミクロ-マクロ問題」と呼ぶ視点はとても普遍的な問題を扱っている。これは例えば社会学や経済学の分野では、個人のミクロ的な選択から実社会のマクロ的な現象をどう導きだして理解できるかという問題であり、また原子から分子、分子からアミノ酸やたんぱく質、タンパク質から生命をどう説明できるかという問題だ。
 
筆者は、ミクロの階層からマクロの階層を直接的に説明するのは不可能であり、それは階層をひとつ上がる毎にミクロの層には還元し切れない「創発現象」が起こるからだと説く。こうした複雑系の厄介な問題は予測可能性という期待を打ち壊してしまう。(p73)
 
ところが人間はそれでも後知恵解釈で起こった出来事に対して偽りの因果連鎖を想定し、そうした偽りの因果連鎖やそれに基づく教訓が「常識」として横行すると論じる。
 
例えば、ミクロ経済学では方法論的個人主義の立場が支配的で、「代表的個人」「代表的企業」というものを想定することでモデルを構築する。そうやって作られる「経済学者の数理モデルは、経済の途方もないほどの複雑さを全く体現しようとしない」(p75)と批判する。 こうしたアプローチは複雑性を排除することで、「マクロ経済学のマクロたらしめている核心を無視している」 
 
方法論的個人主義の父とみなされている経済学者のシュンペーター自身が、代表的個人アプローチは欠陥があって誤解を招きかねないと酷評していると言う(p75)
 
この点は経済学分野からは反論があろうが、私はむしろ著者に共感してしまう。マクロ経済学のミクロ的な基礎を構築するというのが、例えばネオケインジアンのやってきたことであるが、私にはバブルの形成やその崩壊など重要な創発現象を(試みてはいるが)リアルに説明できていないと感じているからだ。
 
それに続いて紹介される「暴動モデル」も興味深い。これは個人が他人の選択に影響を受けるという前提で、100人の集団を想定し、ある人は他人の選択の影響を最も影響を受けやすく、ひとりが暴動を起こすと自分も暴動に参加する。次のひとは2人暴動を起こすと自分も暴動に参加する。最後の人は99人が暴動を起こすまで自分は参加しない、というように異なる影響度を設定する。
 
この場合は、ひとりが暴動すると連鎖が起こり、100人全員が暴動する。ところが、ひとりだけ暴動感染度を変えて、2人が暴動を起こすと暴動に参加するひとを除き、代わりに3人が暴動を起こすと暴動に参加する人に置き換えるとどうなるか(3人暴動で同調する人が2人になったわけだ)? 2人の暴動が起こっても、それで暴動に参加する人が抜けているので、暴動は2人どまりでおしまいになる。
 
この2つの集団構成の相違は、たった100分の1に過ぎないが、最初のひとりの暴動というインパクトに対して集団全体が暴動する結果と、2名しか暴動しないという全く極端に異なった結果がもたらされるわけだ。 
 
これは極めて単純化した例だが、プレーヤーが他のプレーヤーの行動の影響を受けるという条件を加えると、システム(集団)の変化は僅かな変化で著しく異なる結果に至る場合が生じ、要するに事実上予測不能になる、ということだ。標準的なミクロ経済モデルがプレーヤーの独立した意思決定を想定したがるわけも、良くわかるね。
 
暴動をバブルに置き換えると、経済的な含意は興味深い。同じような金融緩和の下でも、それが大バブルに至る場合と、そうでない場合の違いは実は極めてわずかであり、事実上予測も制御も不可能であるかもしれないのだ(断定を避けて「かもしれない」と言っておきたい)。
 
またエコノミストやアナリストは「こうなる確率は20%」とかよく語る。私自身もついそういう書き方はしている。しかしサイコロのように何度も同じ条件で繰り返される事象に対して、「特定の目がでる確率は6分の1だ」ということと、選挙結果や多くの経済現象のように同じ条件で繰り返されることがない、つまり一回限りの歴史的現象について、例えば「オバマ再選の確率は**%だ」「今年、景気の回復が持続する可能性は**%だ」ということは明らかに意味が違う。
 
後者の場合はどういう意味があるのだろうか?(p162) これは難しい問題だ。本当は確率など語れないのだが、そういう表現法をすると客観的な印象を与えるので使用されているだけだ、という言い方もできる。
 
ただし、多少弁護しておくと、エコノミストも全くの主観で**%とみな言っているわけじゃなく(そういう方も沢山いるが)、過去にAならばBという同種のパターンが繰り返し観測され、因果関係があると判断される場合に、その経験則に基づいて、「現状はAだからBになる、その確率は過去データに基づく限り**%」という判断は最低限許されるのではないかなと思う。そうでもないと、私達は将来起こり得る事態に対して全く何も語れない、わからない、手がかりもない、ということになるからね。
 
もっとも本当に重要な変化は過去の経験則や相関関係をひっくり返すような形で生じることがある。しかもバブルの時にも見た目上は同様の「過去にないような変化」が登場し、期待感が過剰に高まってしまうこともある。その違いを事前に見抜く一般ルールはとりあえず、見出せそうにない。以上は著者ではなく私のコメントだ。
 
最後に本書の本論からはちょっと脱線するが、伝説的なファンド・マネジャー、ビル・ミラーについて逸話が書かれているので記録のために抜き書きしておこう(p249)。
 
かれの投資ファンド、Value TrustはS&P500を15年連続で上回るパフォーマンスを上げ、同様のことを成し遂げた例は他にないそうだ。 ところが連勝記録の途絶えた2006年から2008年の3年間はボコボコのやられとなり、その結果、ミラーの実績は過去10年間の平均はS&P500のそれを下回る水準まで落ち込んだそうだ。 さてミラーは天才だったのか、それとも10万匹サルの中の運の超良かった一匹に過ぎないのか?
 
本書と関連した最近の書籍としては以下の2点をあげておく。