1、さて、株価の回復と円高修正(円安)がさらに続いている。
当ブログのリピーターの方々も、6か月前 ((+_+)) ⇒ 今 (^^)v という方は増えているでしょ。
 
長く不振の相場状況の後に回復が始まった今のような局面で注意しなければいけないのは、早過ぎる利食いだ。行動経済学で指摘される「アンカリング」という認知バイアスのこと。人間は直近に経験した事情、数字に強く引きずられて判断してしまうバイアスがある。
 
感覚が低い相場水準に慣らされているから、ちょっと回復しただけでも、とても上がった気持ちになり、早めにprofit takeしてしまう。例えば私も2003年夏場からの回復過程で、新日鉄やトヨタの株を底値圏で買えていたのに、早めにprofit takeして、期待利益を失った。
 
あるいは91年までの不動産バブル、住宅価格高騰を経験し、93年頃にちょっと住宅価格が下がった局面で買ってしまい、結局高い買い物をしてしまった方々も少なくない。
 
「でも、まだまだと思っているうちにまた何か悪い事件が起こって(例えばイラクが湾岸封鎖の暴挙にでて原油価格暴騰で世界経済が失速とか)、一転急落とかなったらどうしよう?」とか思うのは人間の心の常、しょせん世界は不確実なんだから、絶対大丈夫なんてことはないと腹を括ろう。
 
今日3月14日の日経新聞の記事は次のように書いている。
 
 「(円安と株高の)連動性が一段と高まるようになったのは、海外のヘッジファンドによる取引だ。米景気回復や日銀の金融緩和を背景に、「グローバル・マクロ」と呼ばれるヘッジファンドが「円売り・株買い」の持ち高を膨らませている。そこに、相場の流れに追随する短期筋のファンドが同様の持ち高を増やし、株高・円安を助長している面もある。」
 
円高の修正と株価回復というのは、95年の1ドル=80円の超円高からの戻り過程に、今の局面は実に良く似ている。その次に待っている局面が1998年の危機の局面と類似したものでないと良いんだが・・・・目先よりちょっと先を心配しておこうか。
 
追記:3月14日
考えたくないリスク:首都直下大地震による日本財政破綻

「最悪のシナリオでも想定外にせず、考えろ」とは言うものの、3月13日付雑誌エコノミストで小黒一正一橋大学准教授が、2015年に首都直下型の大地震が日本を襲うと財政赤字がどうなるかというシミュレーション結果を披露している。

2020年までに家計の金融資産(現在1450兆円)の対する公債残高比率が90%を超える状況を「財政破綻」と呼ぶならば(その想定自体には議論の余地がありますが)、2015年に首都直下型大地震が起こると「70%の確率で財政は破綻する」という。
...
円安、株安、国債暴落シナリオになるね。
そんなことが起こる前に、やはりまずフローの財政の均衡化を実現する必要がある。
天よ日本を見捨てたもうな・・・・・・(>_<)
以下ご参考
 
追記2 3月15日
本日の日経新聞「経済教室」翁教授の論考、以下の部分、これも一歩先のリスクとして念頭にいれておこう。
「デフレ脱却が展望された時点では、物価のゴールを守るために国債購入を平時モードに戻す必要が生じる。その時点で財政再建の道筋がついておらず、日銀の購入拡大が国債市場の価格形成に組み込まれる形で金融政策の財政化が進行していれば、金融システム安定と物価安定に深刻な矛盾が生じる」
 
2、自助哲学
facebookで既に書いたが、昨日3月13日の日経新聞「経済教室」で北岡伸一教授の以下の部分に共感した。
 「多くの人が「安全・安心」を強調する。しかし大事なのは安全の確保であって、安心の確保ではない。安心を強調するのは、実はお上に依存するということである。 国民が安心を求め、リスクをゼロにせよといえば、政府はこれに答えて、リスクはゼロだという。こういうフィクションはやめるべきだ。人生はリスクに満ちている。リスクを直視し、これをできるだけ減らすように様々な努力をし、あとはリスクを取って行動することが必要だ。日本の経済発展の停滞も、根源にあるのはリスクを取らない精神ではないだろうか。」
 私も何かというと「安全・安心」と重ねて繰り返す政治家の姿勢とそれを要求する「世論」をおかしいと感じていたので共感する。 客観的に実現できるのは確率的に検証できる「安全」まで、「安心」は主観の問題であり、政府は政策でそれを保証することはできない。
 同様に「幸福度指数」なんて発想もバカげたものだと思う。幸福は個人の主観的な次元の問題、政府が政策でコミットし得るのはデータで計測できる経済成長や雇用までだ。 「私を幸福にする政策をしてくれ」と政府に要求することのバカバカしさを考えれば自明だろうと思う。
 投資経験の良いところは、様々な成功、失敗の度合いはあっても、それを通じて自己責任原則、自助の精神を養うことができるころじゃなかろうか。