kyunkyun02さんが、以前書いたブログに以下のコメントを寄せていたのを発見したので、とりあえず私の理解する範囲でお答えしておこうか。
 
「C・H・ダグラスのA+B理論は、現代の経済を考える上で、大変重要なものだと思っているのですが、古典派経済学からは批判も多いようです。たけなか先生は、どのように思われますか?
◆ 参考
http://social-credit.blogspot.jp/2007/10/douglass-ab-theorem.html
http://social-credit.blogspot.jp/2011/01/quantity-theory-of-money.html 」
 
C・H・ダグラス(1879 – 1952)という研究者は知らなかったが、サイトを読むと経済学者ではなく、英国のエンジニア、会計士で、ソーシャル・クレジットのアイデアの先駆者だったそうだ。私は彼の著書を読んだことがないので、紹介された上記のサイトの論考をざっと読んだ限りでコメントさせて頂こう。
 
“In any manufacturing undertaking the payments made may be divided into two groups: Group A:
 Payments made to individuals as wages, salaries, and dividends; Group B: Payments made to
other organizations for raw materials, bank charges and other external costs. The rate of
distribution of purchasing power to individuals is represented by A, but since all payments go
into prices, the rate of generation of prices cannot be less than A plus B. Since A will not
purchase A plus B, a proportion of the product at least equivalent to B must be distributed by
a form of purchasing power which is not comprised in the description grouped under A.”
(C.H. Douglas, “The Monopoly of Credit”)
 
要するに所得を構成するのはAだが、A<A+Bなので、世の中は需要不足・供給超過になる一般原理が働いているということのようだ。 これを読む限り、私には経済学史の分野で言うと「セイの法則」に対して提示された様々な反論、批判のひとつに分類されるように見える。(セイは1800年前後の経済学者)
 
セイの法則は有名だからご存じの方が多いだろうが、以下ウキペディアのサイトを紹介しておこう。
 
セーの法則についてウキペディアの文面をそのまま引用すると次の通り。
「あらゆる経済活動は物々交換にすぎず、需要と供給が一致しないときは価格調整が行われ、仮に従来より供給が増えても価格が下がるので、ほとんどの場合需要が増え需要と供給は一致する。それゆえ、需要(あるいはその合計としての国の購買力・国富)を増やすには、供給を増やせばよい」
 
ウキでも紹介されている通り、セイの法則については古くはマルクスからケインズまで様々な批判がある。セイの法則を現代まで継承していると考えられる新古典派も、今日では生産自体がそれに見合った需要を自動的に生み出すことは、短期的なタイムスパンでは保証されないことを認めている。それが実現するのは、長期のタイムスパンであると考えている。
 
なぜいつでも供給力と需要は一致しないのか?この点に貨幣(マネー)の存在が関わっていることは、経済学では常識だろう。
 
まずマネーの存在しない状態(物々交換)の単純な例で考えよう。
 
①一期にパン屋は100単位(単位はなんでもかまわない)のパンを生産する。
②その生産のために製粉業者から100単位(単位はキロでもトンでもかまわない)の小麦粉を買う。代金として50単位のパンを渡す(同期中の後払い)
③製粉業者は小麦粉をつくるために農家から100単位(単位はなんでもかまわないが、小麦粉やパンとは同じではない)の小麦を買う。代金として農家に自分の得たパンのうち25単位を渡す。
 
経済全体で生産された付加価値はパン100単位である。各経済主体が作った付加価値は、パン屋50単位、製粉業者25単位、農家25単位)。パン屋は50単位のパンを自家消費する。 それで100単位のパンが全部消費されて、所得=需要=供給(正確には供給力か)となる。
 
これは単純化しているが、マネーを商品の売買を仲介するだけのものとして考えた古典派(スミスやリカード)の世界だ。この古典派のマネー観を批判したのがマルクスやケインズであるわけだ。
 
なぜマネーが存在すると物々交換の単純な構図が崩れるかというと、現実にはマネーは商品の売買を仲介するだけでなく、流通過程から引き上げられて退蔵される部分があるからだ。パンと違ってマネーは腐らず、退蔵されるので、例えば上記の製粉業者に払うマネーの内、半分がパン購入に向かわずに退蔵されれば、パン屋のパンは12.5単位売れ残ることになる。
 
さらに生産設備の存在を考慮すると問題は更に厄介になる。上記の例にパン屋がパンを焼く窯を、窯職人から購入し、窯ひとつが10期使用されるとしよう。窯の代金はマネー10単位(=パン10単位相当)だとする。
 
窯職人が10単位のマネーをその期に全部パン購入に充て、消費するなら問題はないが、窯は10期間使えるので、10期に一回しか売れないとすると、窯職人としてはマネー10単位のうち今期は1単位のみパン購入に充て、残りは将来9期に分けて消費しようとするだろう。その場合、今期のパンは9単位売れ残る。
 
これが解決されるためには、例えば窯職人が窯代金を10期に分割した割賦契約(あるいはリース)でパン屋から受け取るとすれば良い。毎期、窯職人はパン屋から1単位の代金を回収して、パン購入に充てれば、需要と供給は一致する。パン屋は毎期49単位のパンを自家消費する。
 
あるいはパン屋が窯職人から10単位の金を借りて、毎期1単位、10期にわたって返済するとなれば、窯職人は毎期回収したマネー1単位を消費に充てるから、需要と供給力は一致する。
 
つまり世の中全体としては、こうしたパン屋と窯職人の間に生じるファイナンス関係が各方面に機能してマクロ的に所得と生産をバランスしないと需要と供給力は一致しない。短期、あるいは中期のタイムスパンではそのようにファイナンスが理想的に機能する必然性も保証もなさそうだ。
 
経済主体の誰かが、貯蓄超過(マネー退蔵、あるいは借金返済)に傾斜すれば、需要と供給力のバランスは崩れ、世の中に過剰生産力が生じる。 今の日本はこれだね。あるいはバブル崩壊の後、経済の停滞が相対的に長くなるのも、バブル期に膨張した債務を圧縮しようとする経済主体が増えるからだと考えられる。
 
ただし過剰な生産設備を永遠に維持することは(赤字経営の持続が不可能であるため)不可能なので、何らかの部門で過剰生産力が生じても、長期のタイムスパンではそれは最終的には調整(淘汰、廃棄、移転など)されるはずだ。だから長期では需要と供給力のバランスは回復されるだろう。
 
しかし、ケインズが言った通り「長期では私達は皆死んでいる」のだから、政策的な対応(それが金融政策によるか、財政政策によるか、または別の何かかはともかく)の余地が生じるのだと思う。 
 
竹中正治HP
最近facebookでの書き込みを活発化しております。本ブログのリピーターの方はfacebookでお友達リクエストをして頂ければ、つながります。