「金融財政ビジネス」2012年11月5日号に寄稿した小論です。
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財政赤字を軽視する論者は「日本政府の財政赤字は大きいが、国内の貯蓄でファイナンスされているから問題ない」と語る。
 
確かにそれは日本の経常収支が黒字であることと表裏一体の事実だ。そして誰かの金融資産は他の誰かの負債(あるいは出資金)である。従って日本全体で対外的に赤字や負債超過にならなければ問題はないと言えるだろうか。実はそうではない。
 
単純化して、周囲から完全に閉ざされたXとYの2つの村があるとしよう。 X村では、Hさんが貯蓄超過で、村長のGさんはHさんの貯蓄超過分をそっくり借金している。村長のGさんはHさんからの借金で毎月村人を集めて宴会をし、借金分は全部消費している。 
 
一方、Y村ではH’さんが貯蓄超過でFさんがH’さんから借金して、新しい果樹園の開墾に精を出している。果樹園の果物が収穫できるようになるまで3年かかるので、その間FさんはH’さんからの借金で自分と従業員の生活費をまかなっている。
 
両村とも外部から閉ざされているので、村人の間の債権債務関係は相殺するとチャラになる。存在する債権債務関係は、HさんとGさん、並びにH’さんとFさんのものだけであり、額は同じだとしよう。
 
さて3年後に豊かになっているのはどちらの村だろうか。言うまでもない。3年後にY村ではFさんが開墾した果樹園で収穫ができるようになり、FさんはH’さんへの借金を返済し、村人全体の消費できる財は果樹園の収穫分だけ増える。
 
一方、X村ではGさんに借金を返済する資産はない。Gさんは村長の特権で、村人から税金を徴収し、Hさんに返済することはできる。しかし村人の間でゼロサムの所得移転が起こるだけで、果樹園を開いたY村のように付加価値の増加は起こらない。
 
当然のことだが、経済が豊かになるためには、現在の貯蓄は将来の付加価値を生み出す投資に回らなくてはならない。反対に政府の赤字国債に吸収され、消費されるだけなら、将来の付加価値は増えない。
 
赤字国債を発行すると政府のバランスシートの負債側には「国債発行残高」が増えるが、政府の資産側には負債に見合う資産は何もない(建設国債の場合は公共事業による建設物が資産として生まれる。ただし日本で急増しているのは赤字国債である。) 
 
今日の日本の家計、民間企業、政府、海外の4部門の資金バランス(フロー)を見てみよう。1980年代まで家計貯蓄は民間企業部門の投資超過に吸収され、設備投資に向けられていた。ところが90年代後半以降は企業部門が貯蓄超過に転じ、家計と企業の貯蓄超過は政府部門の赤字に吸収されている。
 
つまりこれは果樹園の開墾が行われずに、村長のGさんがH’さんから借金して宴会しているX村の構図と同じだ。 
 
「需要が増えないのだから投資も増やせない」と思う方が多いだろう。本当にそうか。キャッシュフローが増えても内部留保を増やす(借金があれば返済する)ばかりで、技術開発など将来に向けた投資や人員を削減している「縮み志向」の企業は多くないだろうか。
 
社会資本を見れば、様々な公共インフラの老朽化が進み、潜在的な更新需要は増えている。政府も企業、家計も縮み志向のために「需要減→生産減→投資減」を自己実現しているのではなかろうか。今の日本に必要なのは広義の「投資需要」の喚起なのだ。
 
民間の貯蓄が将来の経済的な富の増進に繋がるインフラ、技術開発、教育などに向かうように流れを変えることができなければ、21世紀中葉の日本は豊かさを維持できないだろう。
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追記:12月10日 関連して伊藤元重教授の本日の論考を掲載しておきます。
 
竹中正治HP
http://masaharu-takenaka.jp/index.html (←ホームページ、リニューワルしました(^^)v)
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