この記事は興味深い。
 
引用:
「9月16日、あのときあなたは、なぜ反日デモに参加したのか」と記者が問い、「宿舎にいても退屈だった」と李が答える。
 
その後、福田区の警察署は、当時デモに参加し襲撃行為を行った暴徒をビデオから洗い出し、指名手配のポスターにして街中に貼り、ネットでも配信した。
 
李は自分が “指名手配中”である事実を友人から聞いて知った。それは確かに「自分の顔」だった。9月23日の出勤途中、街頭に貼り出された自分の手配写真を発見し、自首することを覚悟した。そして彼は、しばらく留置所に入れられた。・・・・・
 
彼らの標的とされた車に、張慧さんが運転するホンダの新車があった。蔡洋が率いるデモ隊が前方から突進してくるのが見えたが、別の道から逃げようにも渋滞で動けなかった。彼女はすぐに車から降り、跪いて叫んだ。
「どうか壊さないで!中に子どもがいるんです!」
 車の中には姉と姉の息子(17歳)が乗っていた。にもかかわらず、ひとりの若者がフロントガラスを脚で蹴破ると、それ以外のデモ参加者も後に続き、棍棒でホンダ車の破壊にかかった。・・・・・
 
さて、これら反日デモ経験者の述懐からは、このデモが最初から最後まですべてが政府主導だったわけではないことが見て取れる。また、中国全土で「同時発生」したという現象は、「官製デモ」と判断されがちだが、デモ前夜にはデモの組織化に向けて蠢く市民のやりとりがあったこともわかる。」
 
ただ、共通するのは、デモの参加者たちは格差社会のの底辺層であり、全体として「十分な教育と十分な収入を得ている層ではない」という点だ。上海の場合は、デモ参加者の使う言葉に方言が多く、地元の“上海弁”がほとんど聞こえてこなかったことからも、「外地出身者」の比率が非常に高かったことが想定される。」
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なぜこの記事が特段私の関心をひいたのか? 私が学生時代にやった「中国研究」の論考で描いたこと、つまり60年代の文革を通じて、全く同様の構図、抑圧された大衆の不満と権力の意図の二重構造からなる中国的動乱の構図が現代の中国でもそのまま続いていることを示唆しているからだ。
大学2年生当時の私の論考の一部を引用しておこうか。
 
引用:「限定された文化思想状況の中で、彼らは自らの不満要求を毛沢東の奪権の論理に直結させることによってしか表明することができなかった。それが本来ならば民主的合理的に解決されるべき彼らの不満・要求を動乱という形で爆発させた原因である。
 
そして、その動乱による秩序破壊を収拾するためにより一層の軍事官僚主義支配が必要とされるという悪循環。
そこに、この資料に現れた労働者の権力闘争が官僚主義的労務管理への批判を内在させながらも、一層の官僚主義的秩序の中へ収束していかなければならなかった悲劇の根拠があった・・・」
(竹中正治 「『紅衛兵通信集』に見る文革期の中国労働者階級の一局面に関する考察」全日本学生中国研究会連合中央論文集「燎火」1977年掲載)
 
ただし違いもある。いくらなんでも当時の毛沢東のように自分の権力奪回のためなら「文革」的動乱を繰り返しても良いと思っている権力者は今はいないだろう・・・と思うのだが。
 
竹中正治HP
http://masaharu-takenaka.jp/index.html (←ホームページ、リニューワルしました(^^)v)
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