たけなかまさはるブログ

Yahooブログから2019年8月に引っ越しました。

2010年04月

 
この本にはちょっと驚いた。私達の日本の農業観を根底からひっくり返す内容だ
というか、農水省、農業族議員、農業諸団体の永年にわたるプロパガンダによって自分の日本の農業に対する認識が歪められ、洗脳されてきたと思い知らされる。
 
もちろん私は農業経済は専門でもなんでもないので、著者の語っていることが全部事実に基づいているかどうかは、いちいち検証できない。しかし、平明な論理とデータに基づいて語られる内容には強い説得力がある。
 
民主党の戸別所得補償制度も、数ばかりは多いが、日本の農業生産において既にマイナーな役割しか果たしていない多数の疑似農家を温存するばかりで、本気で農業を営んでいるプロの農家の足を引っ張り、日本の農業を衰退させると木端微塵に批判する。民主党はそれでかまわない。農業が弱くなるほど、補助金への依存が高まり、補助金を仕切る与党の票田となるからだと痛烈だ。その点は、私もそう思っていたが、農業事情に疎いので著者のように雄弁、明解に語ることはできなかった。
 
専業のプロ農家こそ政府は支援すべきであり、その視点で見れば、日本の農業は衰退産業でも弱小産業でもない。「農家=弱者」のイメージは農水官僚と政治家が自らの利権のために生み出した都合のよいイメージに過ぎない。
 
また「偽装農家」神門善久、飛鳥新社も本書と共通する点が多い(神門氏は明治学院大学教授、農学博士)。 本書を合わせて読めば、あなたの日本の農業観が一変するだろう。

今年邦訳が出版されたロバート・スキデルスキー著の「なにがケインズを復活させたのか?」(日本経済新聞出版社)、これは私にとってケインズの経済学に関する「眼から鱗の剥落効果」抜群だった。
原著のタイトルはKeynes:“The Return of The Master” なかなかやるね、スキデルスキー先生。
映画スターウオーズの“Return of Jedi”を思い出す。
 
大学の先生方との研究会の後の宴会などで、私はこの本を「どう思います?」と幾度も話題にしてきた。
まだ読んでいない人、読んで感銘を受けた人、様々だ。
著者は第1級のケインズ研究者で、新古典派、1960年代に全盛期を迎えたアメリカ・ケインジアン、マネタリストによる「反ケインズ革命」、そして1990年代に「復活」したニューケインジアン、これら全てに対してラディカルな批判を展開し、ケインズの経済学の今日的価値の復興を唱える。
すごいなあ、それってほとんど全部を論敵に回しているってことじゃないか。

私自身、大学ではケインズ経済学の主要ポイントのひとつは労賃の下方硬直性だと習った。更に広げて、価格の硬直性があるから、需要減少などのショックが起こると相対価格の調整に時間がかかり、生産、所得、消費などの実体経済の縮小が起こるのであり、それが古典派に対置するケインズ経済学のポイントだと習った。ところが著者によると、それはケインズの体系の一部ではあるが、副次的なポイントに過ぎない。
ケインズの提起したポイントは「不確実性」の概念にあるという。それは確率計算によるリスク計測のできない不確実性であり、ナイトの不確実性と本質的に同じものだ。 えっえええ、そうだったの!
たしかにケインズが晩年、アメリカのケインジアンを自認する経済学者らと会議をした後、ポツリとこう言ったという逸話がある。「みなケインジアンだったよ、私以外はね」

新古典派も、新古典派総合も合理的期待仮説によってケインズの提起した不確実性の問題を体系から排除してしまった。ニューケインジアンも価格の硬直性をベースに体系を再構築したものの、合理的期待仮説の点では迎合し、ケインズの本質を継承できていない。 その結果、現代の主流の経済学の体系は、バブルとその崩壊、金融危機に対して無防備で、理論的に破綻していると批判する。
 
価格の硬直性なら、価格が修正されるまでに時間がかかるというファクターを体系の中に導入するだけで済む。ところが、計測不可能な不確実性というファクターは、どうにも厄介極まりない。それを体系の中に導入しようとすると、数理的に精緻に組み立てられたモデル自体が解体してしまうのだろう。
数理的に精緻なモデルに惹かれてきた先生方には耐えられないことだ。
 
現代の金融工学、現代投資理論も、リスクを計測可能なものと定義することで成り立っている。ところが私達が現実の経済活動の中で直面する不確実性とは、計測可能性を拒否するようなものの方が遥かに多い。 「ブラックスワン」のナシム・タレブが強調していることだね。
 
また、アカロフ&シラーは「アニマルスピリット」の中でこう書いている。「事業者たちは、未来についての根本的な不確実性を抱えたまま決断を下す」 その時の不確実性とは、1921年にシカゴ大学のフランク・ナイトが書いた『危険・不確実性、および利潤』の中で述べられた確率計測不可能なものだ。
 
精緻な虚構を愛し続けるか? それとも、現実の不確実性と混沌を受け入れ、少々野蛮でも生き残る知恵に賭けるか? そういう選択かな?

世の人に伝えたいメッセージがあるから本を書いてきた。
だから、そのメッセージをちゃんと受け止めてくれる人がいることは素直に嬉しい。
2月に出版した「なぜ人は市場に踊らされるのか?」(日経新聞出版社)についてアマゾンにある人が書いてくれたレビューはそうした嬉しい気分してくれるひとつだ。
ここに引用させていただく。
 
★★★★★
基軸通貨である米ドルの地位がゆらぐのではないか、米国型の金融資本主義はやっぱりだめだったのではないか、中国が米国債をたたき売ると米国債と米ドルは暴落するのではないか、などなど、リーマンショック以降に噴出した悲観論が、どうもそうでもないらしい……でもなぜ??? という、日ごろ新聞を読んだりニュースを見たりして感じるモヤモヤを、すっきりきっぱり払ってくれます。

もともと、難しいことをわかりやすく説明してくれる著者ですが、この本でさらに磨きがかかったように感じます。経済学の基本的な理論や、著者のキャリアで見聞きした金融の現場での知識・経験談などを基に、例えば「なぜ米国経済&ドルはそんなにもしたたかなんだ?」という疑問をきれいに解決してくれます。
経済の基本的な仕組みをわかっておくことは、自分の人生を左右する財産形成という視点においても、決して損でも無駄でもなく、むしろわかったほうがトクなんだなぁと、改めて感じた次第です。(とはいえ「どうすれば市場に踊らされている人を出し抜いてもうけられるか」という浅薄な内容では全くありません。むしろ経済学の教科書の副読本として読むといい内容です。念のため)

個人的には『大暴落1929』(J.K.ガルブレイス著、日経BPクラシックス)と合わせて読むと、いろいろなことがつながって、さらに興味深いと感じます。どちらを先に読むかはお好みで。
*****
どこの誰だか知らないけど、ちーさん、ありがとね。

mojoさんから頂いた次のコメント&質問
 
「現在、国内の資金需要は払底して、国外もよくありません。そのため、日本国内の資金が国債に集中して、それをたけなかさんは「逆バブル」と表現したと理解しています。そこで数年の金利の推移を調べてみました。
2005 1.62 2006 1.76 2007 1.94 2008 1.86
しかし、サブプライム前は当然外国の資金需要は今よりも高かったはずですが、2005-2007の金利上昇は0.32%です。そうなると外国でサブプライムをはるかに上回るようなバブルが長期間継続しないと金利の上昇=国債の暴落は起こらないのではないかと思いました。ですから、たけなかさんは国債暴落のメカニズムを踏まえたモデルケースをある程度想定しているのではと考えている次第です。」
 
2005年から07年までの世界景気の好況を背景とした日本経済の好況局面でも国債利回りは0.32%しか上がらなかった。どの程度の好況(あるいはバブル)が起これば10年物国債利回りの例えば1%ほどの上昇(価格の8%程度の急落)が起こるのか?
 
mojoさんのアプローチは直近の過去の実体経済と国債利回りの変化に基づいているので合理的なように見えるのですが、実はこの考え方では金融・投資市場の変化を予見することはできないと考えています。
 
例えば、山の斜面に雪が1メートル積もった。そこからさらに1メートル積もった。雪の重みで雪の層が10センチほど下にずれ落ちた。だからその上に、さらに1メートル雪が積もった場合も10センチのずれ落ちを予想するという発想は正しいだろうか?
 
正しくないですよね。雪の層が高くなっていくとどこかの時点で、それまでの変化とは異なった大きな崩れが起きる。つまり雪崩現象です。一種の相変化ですね。
 
市場の参加者が蓄積する様々なリスク・ポジションも同様で、実体経済の規模との比較で無限に積み上がることはあり得ない。どこかで崩れ始めると、投資家は一斉に期待(予想)の変更を行い、資産価格の変化は雪崩現象的な大きな変化になる。そういうことがバブル崩壊の度に起こっているわけです。
 
日本の政府債務の累積、国債価格も、逆バブルとして同様だと私は考えているわけです。ただし、現代の経済学はこうしたバブル崩壊的な現象を上手くモデル化できていません。私も別に予想モデルなど持っていない。経験則で考えています。
 
私自身2000年代半ば頃までは、アメリカのエコノミストに日本の政府債務の累積、国債価格の問題を問われると、日本の政府債務は日本国内の貯蓄によってファイナンスされており、政府債務の半分以上が海外投資家によってファイナンスされている米国とは事情が違うから、国債価格は安定的だと説明して来ました。
 
しかしそれも限度がある。2007年までの景気回復過程でプライマリーバランスベースの赤字が比較的急速に縮小したので、私は先行きをそれほど悲観していませんでした。しかし、2009年からの政府債務急膨張で、私は自分の楽観的見通しを修正する時だと考え始めたわけです。
 
もちろん、政府債務のソフトランディング・シナリオは全く可能性がないわけじゃない。日本国民としてそれを望んでいる。そのための条件は、やはり政府が本格的に増税を含む長期的な財政再建計画を設計して、投資家の信頼を将来にわたってつなぎとめることができるかどうかにかかっている、と考えているわけです。
 
鳩山首相にはもはや何も期待できない状況となりました。政局は混とんとしてきました。与党と野党が大連立でも組んで、財政再建問題に取り組まないと、やがて雪崩が起こり、儲けるのは国債の空売りをしたヘッジファンドばかりというとんでもないことになると心配しています。
 

昨晩のNHKの「龍馬伝」
武田鉄也ふんする勝海舟が龍馬に言う。「日本は異国相手にどうしたらいいのか?おまえの考えを言ってみろ。ゆっくり考えて、心の中から上がってくる考えを言ってみろ。」

すると龍馬はう~ん、う~んとうなりながら、自分の剣術の経験から発想する。
「自分は剣術は強いが、人を斬りたくはない」
→「強い剣術士は戦わなくてすむ」
→「日本が強い海軍を持てば異国とも戦わずに日本の独立を守れる」
という着想を経て、攘夷派と違う「開国、富国強兵」というアイデアに達した。

ドラマだけど、世間の意見に流されずに、自分の頭で考えるってことの基本をみごとに描いていると合点した。
 
一方、攘夷派の武市半平太の発想法 「夷敵が大国じゃろうが、強かろうが、神州日本の土地を犯す以上は断固打ち払う」
あまりに観念的で、戦略も合理性も欠いている。
ところがこの発想法が、やがて旧日本軍、特に陸軍を支配してゆくと司馬遼太郎は「竜馬がゆく」で強調している。
 
旧日本軍だけではないだろう。今の日本にもそういう観念論的発想から抜け出せない方々がいるだろう。


昨年12月28日付の日経ビジネスオンラインの「もう鳩山首相をあきらめる?」で消費税率の引き上げを含む長期的な財政再建と足元の景気対策の抱き合わせ政策を私は主張した。
 
「鳩山首相よ、日本の未来を救うため、勇を鼓して「消費税4年間引上げ凍結」の公約を翻し、景気対策と同時に増税を含む財政再建に取りかかって欲しい。国民新党や社民党が消費税引き上げに反対するなら、さっさと切り捨てて自民党と大連立を組めばよい」と結んだ。
 
この時は、やはりアクセス件数が爆発して、ブロッガーの方々から「消費税引き上げだって?何言ってんだ、この野郎」的なコメントを沢山いただいた(^_^;)(以下URL)。
私としては正論を尽くしているのだが、聞く耳のない方には何を言っても無駄か・・・と思った。
 
それでも結局、その後現実の政治はようやく私が「それしかない」と考える方向に動き出したようだ。
以下は本日4月18日(日曜日)の日経本紙の記事だ。
***
政府・民主党内で財政健全化や消費税増税を巡る議論が盛んになってきた。2010年度予算は過去最大の歳出と新規国債発行に踏み切り、財政悪化の歯止めが求められているためで、野党や世論の政権批判を封じる狙いも透けてみえる。消費税増税を夏の参院選後の「大連立」構想と絡める向きもあり、政局に発展する可能性も秘める。
『今の税収のままなら大きな壁にぶち当たる。歳入改革を掲げて選挙をしなければ国民に失礼なことになる』消費税増税に積極的な仙谷由人国家戦略相は13日、消費税増税を次期衆院選の争点にすると表明した。菅直人副総理・財務相も同日、増税と経済成長の両立を目指す考えを示した。
 
鳩山由紀夫首相は昨年の就任時に「4年間は消費税増税をしない」と公言している。一方で、鳩山政権が初めて編成した10年度予算は、衆院選マニフェスト(政権公約)を詰め込んだ結果、国債発行額が税収を上回るいびつな形となった。
 
財政に携わる2閣僚が積極発言を繰り返すのは、参院選公約や中期的な財政運営方針の策定が迫っているなか、11年度予算編成以降も財政健全化の姿勢を示さなければ国債市場の動揺を招き、政権への信頼が失墜するとの危機感がある。」
 
『増税するには大連立しかない。でも増税のために大連立を組むと言ったら批判されるな』。政府高官は16日、こう語った。仙谷氏は同日のテレビ番組収録で、財政健全化を争点にした「衆参同日選」の可能性にまで言及。消費税論議は政局の思惑もはらんだ動きになりつつある。
***
 
日経新聞だけではない。朝日も読売もほぼ同様の政治の動きを報じている。予算を見直して無駄を削減すれば、打ち出の小槌のように予算が出てくると言う幻想(鳩山さんは本気で信じていたのか?)から醒めて、ようやく避けられない現実に目が向き始めたようだ。
この動きが実ればまだ「日本をあきらめない」でいられるんだが。もっとも、それを実現できるのはもはや命脈の切れた鳩山内閣ではなくて次の誰かだろう。
 

「「日本の財政」の「破綻」の定義がわかりませんでした。どのような状態が「破綻」なのか教えていただけますでしょうか?」
このコメントにお応えしましょう。私は実は「日本政府の財政破綻」という言葉を普通は使いません。コメントされた方がお感じになっている通り、あいまい過ぎる用語法ですからね。
 
前のコラムで「田代さんは日本国債の価格が急落すれば、国債を大規模に保有している郵貯簡保も年金も財政破綻すると強調している。それはその通り。」と書いているのは、田代さんの引用ですが、ここで対象になっているのは、日本政府自体ではなく、郵貯簡保と年金基金という事業体です。特定の事業体については、「債務超過=財政破綻」という言い方が一応可能だと思います。事業体として自律的存続ができないことを意味しますからね。
 
それでも「破綻」という言葉はあいまいだから、私は郵貯について、「国債が急落すれば債務超過になる」と、もっと具体的な、定義可能な書き方をしているんです。ただし、その場合、間違いなく政府は財政資金を投入して貯金を保護するでしょう。
だから「問題ない」ではなくて、「だから問題」なわけです。
 
また日本政府については、既に債務超過です。主要国の政府はほとんどみなそうです。程度の違いだけ。ですから、債務超過=破綻という定義は特定の事業体に関しては使用可能だけど、政府自体には適さない。
 
私の言い方は、「このまま政府債務がGDP比率で無限に上昇を続けることは不可能であり、いずれ国債の急落が起こる」と書いているわけです。
政府が財政再建に取り組めないならば、最後は高インフレによって国債の実質価値が急落することで、国民=国債保有者の負担が劇的に顕現化する。これは日本では戦後直後にも起こったことですね。
 
その時には経済全般が深刻な事態に陥るのは間違いないので、そうした事態を回避できるコース変更をすべきだと考えているわけです。GDP比率で見た政府債務が膨張するほど、最終的にそれが増税と給付削減という形で顕現化するか、高インフレとして顕現化するか、いずれにせよ日本の将来世代への負担とリスクが増大するのは不可避ですから、コース変更は今の世代の責務だと思っています。
 

デフレと長期国債利回りの超低位安定についてさらに考えてみよう。経済論的にかっちりとした議論ではない。ブログというカジュアルな場所を使って、ラフで直感的でいいから、いろいろ議論を試みることが私にとってこのブログの意味なので、そのようにご理解頂きたい。
 
「超低金利といいますが単純にデフレ下の状況ではそれに見合った金利がついているだけでは?」というコメントを頂いた。日経ビジネスオンラインでも「日本経済の低成長、低投資リターンの結果、国債が買われて、その利回りも低位で安定しているだけだろう」という趣旨のコメントがあった。
 
この指摘は間違いなく事実の一面であり、私も含めて誰も否定できない。ただし、経済・市場現象は様々の要因の相互依存だから、原因と結果の関係も相互依存でループ(因果関係の循環的な構造)を形成している。経済活動は、沢山のポジティブ・フィードバック・ループとネガティブ・フィードバック・ロープの組み合わせで出来上がっている複合体(コンプレックス)だ。
 
ご存知の方には言わずもがなであるが、ここで言う「ポジティブ」「ネガティブ」という言葉に「良い」「悪い」という意味はない。一方向の変化が生じた時にその変化をさらに促進する要因が働くループが働いている場合をポジティブと呼び、反対をネガティブと呼んでいるだけだ。
 
ネガティブ・フィードバック・ループが強く働いている例としては、需要が増えると価格が上がり、対応して供給が増え、価格が下押しされるというようなプロセスであり、この場合は均衡維持、バランス維持型の動きになる。
 
ポジティブ・フィードバック・ループの例は、バブルに展開的に見られる。2000年代の米国の住宅バブルでは、住宅資産価格の上昇、信用の膨張、消費の増加の3つの間でポジティブ・フィードバックが働いていた。しかし、住宅価格の上昇のテンポが実体経済の拡大テンポを大きく上回り、限界に達した時、ループが逆に回転し始めた。これがバブル崩壊だ。
 
私は短期的には今年2010年の日本経済は2003年-06年とほぼ同様の輸出主導の景気回復過程に入ったので、実質GDP2%程度の成長が見込めると楽観的に考えている。それでも、90年代後半以降の日本経済には基調的に、「足元の低成長と価格下落圧力→将来の成長見通しの下方修正とデフレ持続予想→投資減少→低成長」というポジティブ・フィードバック・ループが「祟り神」のようにつきまとって来た。
 
デフレ的な状況下で投資が減れば、資金需要も減り、金利は低下し、実物投資するよりも低金利で安全な国債を買っておこうということになり、政府債務が急膨張を遂げる状況下で、国債金利が低位に安定するという状況が生まれている。
 
すべての病気が心理的要因(気持)から生じるわけでは無論ないが、病状、あるいは回復状況と心理的な要因(気持)の間に相互作用が働いている。回復することに楽観的な気持ちを抱いている人の回復は、悲観的な気持ちの人よりも、ずっと良くなるそうだからね。人の営みである経済も同じに思える。
 
ポイントは、ポジティブ・フィードバックが無限に続いて、そのトレンドが永遠に続くということはやはりあり得ないということだ。GDP比率で政府債務が無限に膨張を遂げると言うのは不可能だ。どこかで投資家がこれ以上を日本政府の債務を保有したくないという限界が来る。
 
その時までに累積している政府債務がGDP比率で膨大であれば、あるほど、調整局面も激しいものにならざるを得ないだろう。「調整局面」といえば穏やかに聞こえるが、要するに国債価格の急落だ。
 
もちろん、私は国債価格急落、暴落のシナリオを望んでいるわけではない。日経ビジネスの論考でも書いた通り、手遅れになる前に政府が財政再建に腰を上げて欲しい。しかしどうも国債利回りが低位安定していること自体が、政治家の危機感を乏しくさせているようだ。
 
ならば投資家サイドが、赤字国債は実物的資産の裏付けのない空手形であるという当然の事実に覚醒するしかない。リスクさえ少々負う気になれば、もっと有望な投資対象になる資産は日本の内外に沢山あるように私には思えるのだがね。

インターネットの時代、新聞の凋落が語られているが、それでも大手新聞の影響力は強い。
 
2月下旬に出版した弊著「なぜ人は市場に踊らされるのか?」(日経新聞出版社)、鳴かず飛ばずに近かったが、朝日新聞4月11日(日曜日)の書評欄に書評(評者:加藤出さん)が掲載されたら、アマゾン売れ行きランキングが100番近くまで躍進した。
 
ありがたや、ありがたや・・・と、ここは素直に感謝、深謝。m(__)m
 
書評の内容は以下私のホームページでご覧いただけます。
 
追伸
山崎元さんも「週刊金融財政事情」(4月12日号)に書評を書いてくれた。
山崎さんの評論はしばしば拝見するが、面識がない。
連絡先も知らない。
とりあえずこの場で深謝。m(__)m
 

文芸春秋の5月号に田代秀敏さんの「あと4年、財政と年金は同時に破綻する」が掲載された。田代さんに私が語ったコメントもいくつか引用されている。
 
私は田代さんと全く同じ意見というわけでもない。例えば「あと4年で・・・破綻」と危機が切迫していることを同氏は強調しているが、私はそこまで具体的なタイムスパンを特定する合理的な根拠はないと思っている。
 
かつての不動産バブルやITバブルと同様に資金が国債に向かう「逆バブル」についても、それがどの時点で破裂するかを合理的に予想することは不可能である。エコノミストや経済学者が指摘できるのは、「このままのコースは持続不可能である」という判断と、コースを換えるための処方箋までだ。(出版編集者がインパクトの強い具体的な予想を求めるのは、毎度のことですがね。)
 
しかし、ここまで財政赤字が膨らんだ今、このままのコースを日本政府の財政が進めば、日本の未来が危機に瀕するという点では共通する。まあ、そんなことは財政学者でなくても分かることだ。
 
田代さんは日本国債の価格が急落すれば、国債を大規模に保有している郵貯簡保も年金も財政破綻すると強調している。それはその通り。
 
さらに考え詰めてみると、企業年金や個人年金の運用として自国の国債を買うのはマクロ経済的には愚策中の愚策だと気がついて、茫然とした。もちろん、どの国の政府も公的年金、企業年金、個人年金ともに莫大な規模で自国の国債を保有している。しかし、よく考えてみよう。
 
年金の原理については異なる2つの原理がある。「世代間扶助の原理」と「自助の原理」だ。前者は公的年金、後者は企業年金、個人年金の原理だ。
 
後者の「自助の原理」に立つならば、年金基金は現役世代が将来の引退した時に給付する年金支給のために今積み立てるファンドだ。それならば、将来取り崩して(換金して)消費に充当できる実物資産の裏付けがあり、将来の購買力を担保された資産に投じるべきではないだろうか? これはミクロの視点ではなく、マクロの視点での主張だ。
 
実物資産は株式や社債、不動産でも良い。株式や社債ならば財やサービスを生産・供給する企業の実物資産の裏付けがあるからだ。(もちろん個別の企業には破綻も衰退もあり得るから、分散されたポートフォリオを持つことが欠かせない。)
 
あるいは国債でも他国の国債ならな、将来それを売って海外から財やサービスを購入する対外的な購買力になり、海外諸国から自国に所得の移転を実現できるから、良いだろう。ただし、最低限の財政節度のある国の国債にしよう。私が外国投資家なら日本の国債は買わないな・・・。
 
なぜ民間の年金が自国の国債を買うことがマクロ的に意味がないのか? 今の現役世代の貯蓄が将来にわたり財やサービスを生産・供給する資産の形成に投じられるのなら、経済は豊かになり、引退後もその資産の保有を続けるか、将来の現役世代に移転するかはともかく、その富を享受できる。
 
しかし赤字国債の購入に当てられるなら、政府のバランスシートの資産側には見合いとなるなんらの実物資産は形成されていない。(建設国債なら公的資本形成=公共事業が行なわれ、どの程度役に立つかはともかく実物資産は残るが、今の問題はあくまでも赤字国債の膨張だ。)
 
単純化して日本に家族はひとつしかないと想定しよう。家族の構成は、引退したあなたのオヤジとオフクロと義理のオフクロ3名、現役のあなた方夫婦2名、あなたのこども1名である。
 
あなたは3名の引退世代を自分の所得による負担で扶助している。これが世代間扶助(公的年金)である。ところがあなたのオヤジはあなたの扶助だけでは足りずに、あなたから借金して消費しているとしよう。オヤジに悪意はなく、あなたから金を借りたお金でお土産を買ってきて家族全員にふるまったりしている。オヤジはあなたから金を借りるたびに借用証書を書いてあなたに渡している(これが国債に相当する)。
 
さて、あなたの子供はひとりだけだ。自分ら夫婦二人が将来引退した時にひとり息子の世話になるのは息子の負担を考えると無理そうだと考えて、あなたは自らの将来のために貯蓄しようと考える。これが個人年金、あるいは企業年金に相当する。
 
さてあなたの引退後の将来の所得確保のために相応しい資産は、次のうちどれだろうか? ①果樹園、②他国の国債、③オヤジの発行する借用証書
 
答えはもちろん、①と②である。 果樹園はあなたの引退後も果物を供給してくれる。他国の国債はそれを売って、他国から財やサービスを購入できる。ところが、③のオヤジの借用証書(日本の赤字国債に相当する)は、あなたがいくらためても将来の所得(購買力)にならない。オヤジは死ぬ時に言うだろう。「オレのおまえからの借金は、おまえがオレから相続するこの家と土地と相殺だ。」
 
要するに急膨張している赤字国債は何の実物資産の裏付けもない。唯一の保証は将来の徴税によって償還されるという政府の約束だけだ。しかし徴税される(税金を払う)のは国民自身だから、税金払って、その分年金もらうなら、キャッシュフローとしてはマクロ的にはチャラになるだけだ。
 
また、公的年金が世代間扶助の原理である限りは、国債を買うことで政府を通じて今の引退世代に払う年金給付金を負担していると考えられるので、それはそれでいいだろう。ただし、少子高齢化で将来の現役世代の人口は間違いなく減少する。従って、現在の現役世代が受け取れる将来の年金も間違いなく減少する。
 
それを回避するためには将来の現役世代の負担を重くするしかないが、世代間の格差が拡大するばかりで、政治的抵抗が起こり、それはできないかもしれない。ならば、実質給付が減少するしかない。これを回避する方策はない。
 
一方、民間の企業年金、個人年金はどうだろうか?これらは現在の現役世代自身が将来受け取る給付のために積み上げているという原理でできている。ならば、国債という実物資産の裏付けのない金融資産に投じるのはマクロ的には意味がないのではないか?
 
日本だけでなく世界の株式や社債、国債に分散投資して、確実に将来の購買力に転換できる投資を行なうのが合理的だろう。実際、公的年金も民間企業年金もある程度はそうした分散されたポートフォリオを保有しているのだが、それでも圧倒的に高い比率で日本国債に投じられている。
 
すくなくとも民間の企業年金、個人年金に関して言うならば、自国国債に投じることはマクロ的に見る限り、自分の髪の毛を自分で引っぱり上げることで自分を持ち上げようとするようなものだと言えるのではなかろうか。
 
政府債務が空前の規模に累積する状況下で、国債金利が超低金利で安定しているのは、安全な金融資産としての国債の体裁に幻惑され、それが将来の徴税権の発動以外に何の資産的裏付けもないことを人々が忘却しているからかもしれない。
 
将来、国債を増税で償還できなければ、インフレで価値が目減りする形で結局国民が負担を負うだろう(インフレタックス)。赤字国債をいくら買っても、日本の未来は拓けない。この当然の事実に国民、投資家が気がつかなければ、日本は衰退するしかない。

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