既にブロッガー、ナドレッグさんのサイトを紹介する形で昨年12月にとり上げた映画、
The Space Battleship ヤマト をようやく昨日見た。
実はあまり期待していなかったのだが、細かい不満点は複数あるものの、予想以上の出来栄えだった。いや、なぜか琴線にふれる要素が多く、全く予想外にも「じ~ん」としてしまったと白状しておこう。 そのため何が琴線にふれたのか、昨晩から考えている。
まず、なぜ期待していなかったのか? 私には1973年-74年にTVアニメで放映された「宇宙戦艦ヤマト」の印象が心深く刻まれているので、実写版を「キムタクや黒木メイサがやるからって、なんぼのもんじゃい」というイメージがあったからだろう。原作マンガや原作アニメが、実写版映画になってがっかりするほど陳腐化する例は多いからね。
なぜ原アニメが私の心深く沁み込んでいるかと言うと、TV放映が始まった1973年は偶然私が大学受験を控えた高校3年生だったことも影響している。番組放映は1974年3月に完結する予定で展開した。まさに大学受験のタイミングにピタリと重なっていたのだ。
放映の最後に出る「地球滅亡まで後150日、急げ、ヤマト!」のフレーズは「大学受験まで後**日」という私自身の切迫感、緊張感と重なり、物語で展開する悲壮と希望の交錯が心に沁み込んでしまったのだ。
しかし、予想外に感じてしまった原因はそれだけじゃないだろう。
とりあえず次のような要素が考えられる。
1、日本人の大好きな「悲壮感」いっぱい
悲壮感という言葉、英語に訳そうとすると一語で適切な訳語が出てこない。つまり日本的カルチャー、 価値観に特有な要素を代表している言葉なんだ。
2、ヒーローが最後に死ぬ(ネタバレごめん)
日本では生き残るヒーローは2流で、真のヒーロー(伝説化されたり、神格化される)は死なねばならな い。超タフに生き残るヒーロー物語が大好きなアメリカ人のヒーロー像とは違うのだ。もちろん双方例外 はあるがね。
3、「戦艦ヤマト」が日本人に想起させる複雑な思い
太平洋戦争に対する否定的情緒と同時に、その汚点を濯ぎたい、あるいは否定を肯定に転換するよ うな復権を希求する感情
まだあるだろう。この映画の映画としての評価は別にして、なぜか琴線にふれる構図は、良くも悪しくも、けっこう複雑かもしれないと思い始めている。