たけなかまさはるブログ

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2012年07月

1980年代から顕著になった米国の所得格差拡大傾向はリベラル派と保守派の議論が最も先鋭に対立するテーマだ。
リベラル派を代表する経済学者ステグリッツ教授が、所得と資産の格差拡大は今次の金融危機と不況を契機に益々ひどくなっている、このままだと近未来には米国は格差拡大による中間層の没落と社会的な荒廃が進み、民主主義的な政治体制も崩壊するだろう、民主党のオバマ政権も、この問題に有効に対応していないと厳しく批判している。
 
(アマゾンにレビュー書きました。「参考になった」クリックしてね↑)
 
「市場メカニズムは所得格差を拡大する傾向を持つ」というのが日本で見られる通俗的な市場原理主義批判であるが、ステグリッツ教授の議論はこの点で異なる。 
 
むしろ市場機能は、それが公平にルール化され、運営されるならば経済全体の各層に恩恵と繁栄がもたらされるものだ。ただし「市場は独力では望ましい効率的な結果を出せないため、政府は市場の失敗を正す役目を果たさなくてはならない。税制と規制に関する制度設計を通じて、個人のインセンティブと社会的利益を同調させるのだ」(p78)と主張する。
 
この点は、市場メカニズムそれ自体を「搾取」「悪」としてイメージする日本の市場原理主義批判と一線を画するポイントだろう。
 
米国では税制も規制も、社会的全体の厚生を増進する方向ではなく、人口の1%の富裕者をますます富まし、99%を困窮化させる方向に政治的に操作されてきたというのが、ステグリッツ教授の批判の中核的論点である。
 
すなわち現在の金融関係者や大企業CEOら富裕者層の富は、市場の公平な競争の結果ではなく、「市場機能をうまく機能させない」手段が講じられている結果だという。これを「レントシーキングによる富の収奪」と批判している。
 
注:In economics, rent-seeking is an attempt to obtain economic rent by manipulating the social or political environment in which economic activities occur, rather than by creating new wealth,
for example, spending money on political lobbying in order to be given a share of wealth that has
already been created. (Wikipedia)
 
その手段とは例示すると以下の通り。
 
1、「市場の透明性を低下させる手法」(p81)金融のデリバティブ取引で顕著
金融業界がデリバティブの取引所取引を回避し、店頭取引の維持に執着したのはこのためである。
 
2、「情報の非対称性を利用する方法」(p82)
貧困者層と情報弱者層を対象にした掠奪的な貸付慣行(predatory lending practice)と濫用的クレジッドカード業務など
これを規制する法的試みは、金融界の徹底的なロビー活動で封じられてきた。
 
3、逆累進課税制度(p148)
ブッシュ減税:株式配当税率、15%←35%
キャピタルゲイン税率、15%←20%
遺産相続税:段階的にゼロに引き下げ
 
リベラル派の億万長者バフェットが「私の税率が16%で、私の雇っている秘書の税率は20%を超えている」と保守派の税制議論を批判したことは有名でしょ。
 
4、公的医療保険について政府が医薬品価格を医薬品メーカーと交渉することを禁じた法律条項
これもブッシュ政権の「成果」、医薬品メーカーは大儲け
 
ステグリッツ教授が主張する政策は、手短に言うと、累進税率を上げ、相続税を復活させ、まっとうな所得再配分政策を実現させることで、需要不足による低成長の現状から成長軌道に戻し、雇用の回復、経済成長、長期の財政再建を実現することだ。 
 
消費性向は富裕層ほど低くなるので、超富裕層から中間、低所得層への所得再配分は、全体の有効需要を増加させる。
 
それでは、なんでこんな1%の富裕階級ばかりに利する政策とそれを積極的に実施してきた共和党が政治的な支持を得られるのか?これが問題になる。
 
実はこの点は、リベラル派経済学者のもう一人の重鎮、クルーグマンが「米国政治史における最大の謎」と呼び、自らその謎を解明するために以下の著作を書いている。
 
この点に関するステグリッツ教授の見解は「6章 大衆の認識はどのように操作されるのか」に示されている。
一言で表現すると様々なイデオロギー的な装置で大衆は自分らの利益に反する誤った認識や信条を植え付けられているということだ。
たしかマルクスも何かの著作で「その社会の支配的なイデオロギーとは支配者階級のイデオロギーになる」と書いていたことを想い出す。
 
最後にフリードマンに代表される保守派の経済学者とリバラル派の対立軸を端的に表現している部分がわかり易いので、引用しておこうか(p371)。
 
「フリードマンは・・・外部性の重要度を控えめに見て、情報の不完全性などの“エージェンシー”問題を無視する。・・・自由市場に関する彼の所見は、経済分析ではなく、イデオロギー的確信に基づいていた。
 
不完全な情報や不完全なリスク市場がもたらす帰結について、フリードマンと長時間議論したのを憶えている。わたし自身の研究と、他の数多くの同僚の研究では、これらの条件下で市場は通常うまく機能しないという結果が示されていた。彼はそういう結果をまったく把握できなかったか、把握しようとしなかった。反論もできなかった。」(p371)
 
ところで、この本、翻訳本で読んだのだが、翻訳本にはリファレンスが全くついていなかった。データの出所など確認したい点もあるのだが、それができないので困る。
手間がかかるので出版社がコスト削減のために省略したんだろう。99%の読者にとっては、それで良いのだろうが、1%の読者にとっては問題になることもあるんだが・・・(^_^;) やっぱり英語版も買うかな・・・
 
追記:
米国の所得格差に関する最近の調査レポート2件、以下にご紹介しておこう。
おそらくステグリッツ教授の引用しているデータのかなりの部分は、以下の2つのレポートによるんじゃないかと思う。
(下段添付図参照)
 
ステグリッツ教授は連邦議員は大資本に雇われたロビースト達に籠絡され、FRBは大金融機関の手先であるかのように批判しているが、こういうデータとレポートが議会予算局やFRBで作成され、公表されているところに、米国の健全性と希望を感じる。 データそのものが隠蔽され、あるいは歪曲される国とは違う。
  
竹中正治HP
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進化心理学者ニコラス・ハンフリーの「ソウルダスト(Soul Dust)意識という魅惑の幻想」を以前レビューを書いて紹介した。ハンフリーの「喪失と獲得(The Mind Made Flesh)」(紀伊国屋書店、2004年)も良いですよと知人が言うので、読んでみた。本書は独立に執筆された長短のある論考を編集したものなので、様々なテーマを扱っているが、実に面白い。
 
進化心理学とは
まず「進化心理学」に馴染みのない方のために補足しておくと、これは、人間はその数百万年から数十万年の歴史の中で支配的だった環境に適応するように進化してきたわけであり、人間の様々な選好や行動特性から意識の機能と存在まで、環境適応上の優位があったからこそ今の様にあるのだという視点で考える学問だ。同時にそうして形成されたあり方が、現代のテクノロジーが発達した環境では一部不適応になっているとも推測できる。
 
ひとことでいうと、「人間は宇宙時代に生きる石器時代の生き物だ」(p386)となる。
 
奇形の変容
私にとって最も関心を惹かれたのは第8章「奇形の変容」だ。論旨を紹介しよう。
生き物は多数の表現型特性(背の高さ、体重、羽の有無、色等など)の構成物であり、それによって環境の中で特定の生物学的な適応度を実現している。
 
ある高さの適応度からもっと高いレベルの適応度への移行(進化)はどのように実現されるだろうか?遺伝子のランダムな変化と環境による淘汰圧が漸進的な改良をもたらすというのでは、実は説明が困難だ。
 
というのは現状の適応度は局所的には最も高い位置にあるはずであり、もっと高い適応度への移行は、現在の局所的には最適の組み合わせを変更することで、適応度の低下という局面を乗り越える必要があるからだ。その際、適応度の低下が大き過ぎれば、その種はより高い適応度に辿りつく前に絶滅するだろう。 進化とは着実で漸進的改良というよりは、文字通り命がけの飛躍というイメージに近いのかもしれない。
 
こうしたより高い適応度に向けた変革にまつわる事情は、実は生命の進化過程だけでなく、我々も身近に経験していることだ。 スポーツ選手がパフォーマンスを上げるためにフォームの改善に挑戦する場合、その過程でパフォーマンスを落とすことは良くあることだ。
 
例えば、ゴルフスイングという身体の動かし方それ自体、複数の動きの微妙な組み合わせで構成されているわけだが、従来の馴れた組み合わせは局所的な最適化を実現している。その組み合わせを一度、解いてより高い適応度を実現する新たな組み合わせを試行錯誤する過程で、パフォーマンス(適応度)が落ちるわけだ。
 
人間は意識的にそうした再構成に挑戦するが、生物進化の過程では意識的な再構成という仕組みは働かない。その場合、変化を強いるのは突然変異による「喪失」であると著者は言う。つまりなんらかの変異の結果、それまでの局所的な最適化を実現していた表現型特性を失うことによって、適応度の局所的な高みから転落した生物が、進化的な試行錯誤の結果、より高い適応地点に辿りつける可能性を得る。
 
その例として、著者はサルの先祖から分岐した人類が体毛を失った例を上げている。体毛を失ったことで寒さへの防寒能力が低下したが、人類はどこかの時点で火を扱うことを習得し、防寒ばかりか、料理、獣からの防衛など様々な用途に火を使うことを発達させることで、有毛の祖先よりも高い適応度に到達したというシナリオである(仮説である)。
 
著者のよるとサルにはない人間の抽象概念を操る能力も、それはサルにはある「写真的記憶力」を人間が失った結果、その能力を補完する能力として発達したものであり、最終的には圧倒的に高い適応地点に人間を導いた能力だと言う。
 
脳の驚異的な適応力
さらに人間はそれまでの生き物にはなかった優位も実現した。「人間の脳は(遺伝的にプログラムされた肉体とはまったく異なって)個人の一生という時間のなかで驚くべき進歩を遂げることができるひとつの器官(唯一の器官かも?)なのである」(p180)
 
この点は脳の可塑性として比較的近年注目されている。別のレビューで紹介した「奇跡の脳」は、脳内出血で左脳の機能を損なわれた著者の脳が、生き残っている部分を再構成し、様々な機能を一歩一歩回復して行く物語だが、そのキーワードは脳の「可塑性」である。
 
視力を失った人の聴力が鋭くなることは昔から知られている。これは注意力が視力から聴力に移るだけではなく、それに見合って脳内の機能も再構成されている可能性がある。
 
facebookで紹介したが、NHKのロンドンオリンピックに向けた特集番組「ミラクル・ボディー」で体操の内村選手の飛び抜けた空間感覚を科学的に分析した過程で、ひとつの注目すべき脳内現象が紹介されていた。
 
内村選手は、子供時代から優れた体操選手のビデオを繰り返し見て、その動きを試み、イメージトレーニングと実際の動きの練習を果てしなく繰り返してきた。そうしたイメージトレーニングしている時の内村選手の脳の動きをMRI(磁気共鳴画像装置)で他の普通の選手の脳と比べると、活性化している部位に大きな相違が見つかった。 イメトレ中の内村の脳は運動機能をつかさどる運動野と呼ばれる部分が活性化している一方、普通の選手は視覚野が活性化していた。
 
つまり普通の選手は、イメトレ中に第3者の視点で運動を「見ている」のだが、内村の脳は運動している自分自身を感じていると推測される。これは内村の脳が、イメージと練習を繰り返すことで運動機能の点でより高い適応度に変容した結果だろう。
 
歴史を振り返ると、それまでの局所適応的な組み合わせを失ったことで大きな変革が起こり、それがより高い適応に、人、企業、ビジネス、社会を導く事例に満ちていると気がつくだろう。今の停滞気味な日本社会に求めらていることは、戦後の繁栄を築いた局所適応的な組み合わせの破壊的再構築なのだとも言えようか。
 
大学教授としての私の第2のキャリアの展開も、ある時点で銀行員としての適応(つまり出世)を捨てた、あるいは失ったところから始まっているとも言える。まことに塞翁が馬ですな(^^)v
 
竹中正治HP
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本日の日経新聞、経済教室に掲載された鈴木亘教授(学習院大学)の論考は、現在の世代間賦課方式による公的年金制度は、世代間格差を拡大するばかりで、このままでは持続不可能であり、積立方式への超長期的な移行を主張するものだ。
やはりこうした事実には目をそむけずに向き合っておこう。
 
引用:
「年金財政はもはや崖っぷちの状態にある。厚生年金と国民年金を合計した積立金の推移をみると、5年前の2006年度末に165.6兆円あった積立金は、11年度末には125.7兆円まで取り崩されている(図参照)。もし今のペースで積立金の取り崩しが続けば、28年ごろには枯渇する。
 
筆者の推計では、厚生・共済・国民年金を合わせた公的年金全体で750兆円の「債務超過」に陥っている。この莫大な債務を、今の若者世代やこれから生まれる将来世代に強制的に背負わせている「世代間格差」こそが、現在の年金問題の本質だ。
それでは、どのような抜本改革が必要か。筆者は「年金清算事業団創設による積み立て方式移行」こそが真の問題解決方法だと考える。積み立て方式とは、若いころに納付した保険料を積み立て、老後にそれを取り崩して年金を受け取る方式だ。」
 
しかし、世代間賦課方式から積立方式への移行は、移行期に莫大な負債が生じる。なぜならば、移行によってすでに「もらい得」している高齢者の給付原資が宙に浮いてしまうからだ。そこで鈴木教授は次のような対策を提案している。竹中
 
消費税引き上げ(物価スライドの反映なし)や年金課税強化をすれば、高齢者世代に負担を求められる。さらに彼ら(高齢者)が亡くなってから、その相続資産に一律課税する「年金目的の新型相続税」を創設してはどうか。高齢者世代は、若者世代が負担をしていることで、過去に支払った保険料をはるかに上回る年金を受け取り、相続資産を残せるわけだから、若者世代のために相続資産の一部を返却するという考え方は合理的だ。
それでも不足する債務処理の財源として、遠い将来の世代まで薄く広く負担する「年金目的の追加所得税」を創設する。国が設立した年金清算事業団は倒産することはないから、100年でも150年でも債務を背負い続け、将来世代にわたり少しずつ債務を返却する計画が立てられる。」
 
http://www.nikkei.com/content/pic/20120719/96959996889DE6E1EAE4EBE1E6E2E3EAE2E5E0E2E3E09997EAE2E2E2-DSKDZO4386939018072012KE8000-PN1-4.jpg
 
相続税を引き上げるのは、ひとつのオプションだが、中小企業経営者などの相続資産は経営する会社への出資金、株式だから、高い相続税率は事業継承を困難にする問題を生む。その点をどのように対応するか問われる。
 
また相続税を高くすると、「それなら相続せずに生きている間に使っちゃおう」ということで、シニア消費が増えるかもしれないね。まあ、それは有効需要の増加ということで良いだろう。
 
いずれにせよ、ひとつの税項目だけで不足を補うのは不可能だろう。給付の削減、消費税を含む各種増税は不可避だと思う。
 
 
竹中正治HP
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PhD!
このたび、京都大学にて経済学博士号の学位をいただけることになりました。
かなり嬉しい(^^)v(^o^)丿(*^。^*)

学位評価対象論文:「米国の対外不均衡の真実」晃洋書房より発刊、2012年2月
学位審査委員会主査:岩本武和教授(国際金融論)

銀行を退職し、大学に移ってから3年かけた作業が実を結びました。
ここに至るまでご助言、ご支援くださった先生方に御礼申し上げます。<(_ _)>
 
大学関係者の方々はご存じのことですが、博士号の取り方は2種類あります。 ひとつは大学院で修士課程、博士課程と進み、博士論文を書いて承認される方法で「課程博士」と呼ばれます。 
 
他ひとつは、「論文博士」と呼ばれる方法で、大学により多少異なりますが、京大の場合は学術的な評価対象になる著作を刊行し、それで大学に申請し、審査(含む口頭試問)を経て承認されるものです。 
大学は自分の母校である必要はありません。
 
私の場合は、学部を卒業して大学院に進まず、52歳まで銀行ビジネスの世界でやってきたので、博士課程はおろか、修士課程も経ていないので、もちろん後者の「論文博士」です。
 
論文博士の場合、事前に自分の著書の学位審査を引き受けてくださりそうな先生にお願いして、ご了承を頂く必要があります。審査作業はけっこう手間がかかりますから、どなたでも引き受けてくださるわけじゃありません。私は京大の岩本武和教授(国際金融論)にめぐり合えたことがラッキーでした。京大の方角に足を向けて寝れません。 
 
修士課程、あるいは博士課程を卒業したまま博士号論文を書いて申請せずに、博士号なしで大学教授をしている方々は、実は沢山おり、特に50歳代以上の年輩の方々には多いです。ただし現在の20歳代、30歳代では大学で教職に就くなら博士号は事実上必須です。 論文博士ならば年齢制限もありませんので、50歳過ぎてからでも挑戦できます。
 
しかし学術書というのは、まことに売れないね(^_^;)
「50歳過ぎてからの博士号の取り方」って本書いたら、売れるかな?
 
 
竹中正治HP
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週刊エコノミストの連載「賢い資産運用」はもうすぐ25回で終了します。余裕ができたので、ロイターのコラム執筆を引き受けました。以下が本日掲載の第1回目、月一回のペースで書いて行くつもりですが、続くかな・・・(^_^;)
 
2011年末時点の米国の対外純負債が1年間で1.5兆ドルも拡大
ロイターのサイト(一番下段)にコメント書き込めます。
 
 
 

週刊エコノミスト(7月17日号)掲載の岩井克人教授による「経済学者の思想と理論」「クヌート・ヴィクセル」に関する論評が面白かった。
 
ちょっと引用しよう。(・・・は省略した部分)
「だがヴィクセルはあまりにもまじめな新古典派経済学者になりすぎた。・・・物価水準と貨幣量とを関係づける貨幣数量説には何のミクロ的基礎もないことに不満を抱く。・・・ヴィクセルはこう推論した。『物価水準の上昇は、総需要が何らかの理由で総供給を上回る状況を想定して初めて理解し得るはずである』と。物価水準の下落も同様である。
ここでヴィクセルは愕然とする。自分が新古典派経済学の基本公理を否定していることに気がついたからである。供給は自らの需要を生み出し、総需要と総供給は常に一致するという『セーの法則』である。
だが、すぐに貨幣経済ではセーの法則は成立しないことを理解する。・・・
貨幣経済における不均衡は『単に永続するだけではなく、累積的』に進展してしまう本質的な『不安定性』をもっている。」
 
この後、ケインズとヴィクセルの違いについてもふれている。「ヴィクセル的な不安定性」から資本主義を救う条件として、ケインズが貨幣賃金の硬直性に注目したことだ。これは、物価の下落に対して労賃の下落が遅れる結果、実質賃金が増加し、消費が底支えされる効果のことだ。
 
かつてマルクス経済学に数理的なモデル化手法を取り入れてユニークな実績を築いた置塩信雄教授も景気循環を説明する自身のモデルで、この点を強調していたことを想い出す。
置塩信雄 「蓄積論」1976年)
 
ただし、デフレ、不況下で実質賃金が高止まりすると、個人消費は底支えされる一方、設備投資は抑制されるから、プラスとマイナスの双方の効果を総合して、どちらの効果が大きくなるかは、微妙だと思う。
 
きちんと理論モデルをつくって議論すれば、総合してプラスになる場合とマイナスになる場合の分岐の条件を特定することもできそう。既存研究で、そういう論文もあるかもしれないが、不勉強なので私は知らない。
 
ハイマン・ミンスキーが、面白い。
 
ミンスキーはポスト・ケインジアンの重鎮経済学者ということだ。新古典派、新古典派総合学派、ネオ・ケインジアンへの徹底的な批判が展開されている。そのテーマは資本主義経済の不安定性を外的なショック論ではなく、貨幣経済に内在する本質的な不安定性から説明することだ。この問題関心に関する限り、ヴィクセルやケインズ、あるいはマルクスと同じだね。
 
ただしこの本はちょっと難しいよ。数式の使用は最低限に抑えられているので私でも読めるが、経済学部生のレベルでは難しいだろう。院生以上かな。
 
竹中正治HP
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ダイヤモンドオンラインで伊藤元重教授が連載を始めた(7月2日付 以下サイト)。
「大いなる安定」が終わった後に必要なシュンペーター的思想とは?
http://diamond.jp/articles/-/20887

以下の点、100%同感。日本社会は不安定を嫌って、守ろう、保護しようという意識が強過ぎるのではなかろうか。いつも「政府がなんとかしろ」ということで、財政赤字ばかり累積して来た。このままだと緩慢な衰亡コースだろう。ぶちこわす力、登場しないだろうか?

引用: 「資本主義の持っている本源的な不安定性と、そして創造的な破壊の持つパワーを意識すること──これが今後の日本や世界経済の先行きを見るために必要なことである。別の言い方をすれば、過去の微調整の先に日本の将来像はない。過去を破壊した先に新たな価値が生まれるという、創造的破壊の将来ビジョンが必要ということなのだ。」(4ページ)
 
論考の前半でイデオロギー的には保守(右)を代表する新古典派的なアプローチとリベラル(左)を代表するケイジアン的なアプローチの対立から説き起こしている。そして、こうした既存の左右の対立の構図から抜け出す視点としてシュンペーターのイノベーションと創造的破壊(creative destruction)を議論している。
 
この発想法は、伊藤教授が初めてではない。私が知る日本の経済学者では吉川洋教授が以下の著書のなかで、ケインズとシュンペーター的アプローチの総合とでも呼ぶべき議論を展開している。
 
ダイヤモンド社2009年
 
さらに遡ると、吉川教授は以下の著作で、ケインズ的な短期・中期の有効需要のアプローチにシュンペーターのイノベーションと長期経済成長の視点を繋ぐ議論を展開していた。
転換期の日本経済」岩波書店、1999年
 
大雑把にその要点を説明すると、同じ財やサービスばかり供給していると必ず需要は飽和して、成長の限界に突き当たる。たとえば携帯電話は国民一人に1つまでは普及するだろうが、それ以上は保有する動機が急速に減退する。したがって、そこまで普及したら、あとは更新需要しか生じないので、携帯電話の成長は鈍化するだろう。経済全体でもそうだ。
 
そうした状態では、たとえば政府が財政赤字を拡大して有効需要を増やしても成長を後押しすることはできない。そうした市場の飽和を超えて経済が成長するのは、イノベーションで新しい財やサービスが生まれ、それが私たちの生活や仕事のスタイルを変革して、新しい市場が開拓されるからだ。
 
馬車から自動車、ラジオやTVの発明、PCの登場など、すべて大きなイノベーションは私たちの生活や仕事のスタイルを変革し、飽和した旧商品群にとって代わる新しい市場を開拓して長期的な経済成長を実現する駆動力になってきた。
 
その過程は、当然ながら、創造的破壊のプロセスである。ワープロ・マシンはタイプとタイピストを駆逐してしまった。そのワープロ・マシンもPCで駆動するワープロソフトの登場で、あっという間に駆逐されてしまった。
従って、極めて原理的に大雑把に言うと、経済ビジネスにかかわるルールは、こうしたイノベーションと創造的破壊を促進する競争促進的なものである必要がある。
 
ルール(諸規制)が保護主義的でイノベーションを抑制するものであるならば、競争促進的なものに変革する必要がある。そうでないと、短期的には既存の職を守ることができても、長期的な経済成長のチャンスが損なわれるということになる。
 
今回の伊藤教授の論調も、吉川教授の論調に近い。
いずれも日本を代表する経済学者の議論だ。傾聴しておこう。
 
 
竹中正治HP
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