たけなかまさはるブログ

Yahooブログから2019年8月に引っ越しました。

2012年11月

本日の日本経済新聞の記事
「生保15グループ、株評価損8割増 4~9月6900億円 リスク圧縮へ売却 」

大丈夫だろうか?この業界の動かす資産規模は大きいので、動くと確かに需給関係に大きな影響を与え、相場は動くのだが、ちょっと長い目で見ると概ね外れているように思う。

引用:「各社は価格変動リスクが大きい株式の圧縮を進めている。日本生命など大手生保7グループは4~9月期に約1000億円の株式を売り越した。朝日生命は595億円を圧縮。241億円の売却損を計上したが「リスクの圧縮を優先した」(初瀬良治常務)。下期も7グループ合計で1000億円超を圧縮する。」
背景にはかつて経営を苦しめた市況悪化の記憶がある。バブル崩壊後の金利低下などで、実際の運用利回りが契約者に約束した利回り(予定利率)を下回る「逆ざや」が拡大。大手各社の逆ざや額は2000年度前後には年間で合計1兆円超に膨らんだ。
 
近年では高利回り契約の減少で逆ざやは当時よりも縮小。直近では投資マネーの流入で株価も回復傾向にあるが、「世界的にリスク要因が相次いで顕在化しているなか、むしろ下振れリスクを意識する必要がある」(日本生命の松山保臣専務)と慎重な見方が多い。」
 
****
生保の大きな投資動向を私の知っている限りでまとめると。

1980年代前半:大規模なドル債購入(「金利差があれば怖くない」投資)→85年以降の急速な円高ドル安で莫大な為替損
 
1980年代後半:株買い、不動産投資、長期固定高金利での保険商品販売→バブル崩壊で莫大な評価損、長期の逆鞘状態

90年代前半:海外投資のリストラ、圧縮、撤退(円買い外貨売り)→それが終わると90年代後半は円反落、外貨相場上昇

2000年代はどう動いたのは良く知らないが、今は政府の債務残高が急膨張して、将来の国債リスクが懸念されているのに、株からこの超低利回りの長期国債にシフトだって・・・・・・繰り返すけど大丈夫かな?
まあ、銀行業界も下手ですけどね。
やはりサラリーマン組織に投資は無理か・・・・
 
 
竹中正治HP
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ロイター社コラムへの寄稿です。本日掲載されました。
「老いるアジアと老いた日本~人口動態の転換点で生じたバブル崩壊~」
ご覧になってよろしければ、ロイターサイトにて「おすすめ」クリックなどもお願い致します。<(_ _)>
 
引用:
「日本は1990年代初頭に、この人口動態上の転換点を迎えた。それは成長率の長期的な下方屈折を意味するが、同時に資産バブルの崩壊が起きた。米国はこの転換点を2007―08年に越えた。その後の成長率は下方シフトしたものの、下のグラフで分かる通り、変化の速度は日本より緩やかだ。若い移民労働力の流入などが高齢化の速度を緩めているからである。興味深いことにやはり同時にバブル崩壊が起こった。
 
韓国はこの転換点を2010年前後に迎えた。そしてやはり成長低下とバブル崩壊現象が発生している。一方、中国がこの転換点を迎えるのは2015年前後だ。韓国も中国も、この人口動態の転換点を越えた後の高齢化の進行速度は日本と同じか、あるいはそれ以上に急である。
 
転換点を迎えると、趨勢的な成長率が低下すること自体は分かりやすい。しかし、バブルとその崩壊現象が転換点付近で起こることに、なんらかの必然性はあるのだろうか。循環的な景気後退と長期的な成長見込みの下方修正の波が重なった時に、それまでの高成長下での信用の膨張、金融レバレッジの拡大が一気に収縮に転じ、資産価格が急落するのだと仮説を立てることはできる。
 
この点について、日本同様にすでに転換点を過ぎた西欧諸国について見てみたが、サンプル数が少なすぎて、バブル現象との相関性は明確ではない。しかし、日本、アメリカ、そして韓国と似た現象が続いていることは不気味な暗示だ。」
 
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この記事は興味深い。
 
引用:
「9月16日、あのときあなたは、なぜ反日デモに参加したのか」と記者が問い、「宿舎にいても退屈だった」と李が答える。
 
その後、福田区の警察署は、当時デモに参加し襲撃行為を行った暴徒をビデオから洗い出し、指名手配のポスターにして街中に貼り、ネットでも配信した。
 
李は自分が “指名手配中”である事実を友人から聞いて知った。それは確かに「自分の顔」だった。9月23日の出勤途中、街頭に貼り出された自分の手配写真を発見し、自首することを覚悟した。そして彼は、しばらく留置所に入れられた。・・・・・
 
彼らの標的とされた車に、張慧さんが運転するホンダの新車があった。蔡洋が率いるデモ隊が前方から突進してくるのが見えたが、別の道から逃げようにも渋滞で動けなかった。彼女はすぐに車から降り、跪いて叫んだ。
「どうか壊さないで!中に子どもがいるんです!」
 車の中には姉と姉の息子(17歳)が乗っていた。にもかかわらず、ひとりの若者がフロントガラスを脚で蹴破ると、それ以外のデモ参加者も後に続き、棍棒でホンダ車の破壊にかかった。・・・・・
 
さて、これら反日デモ経験者の述懐からは、このデモが最初から最後まですべてが政府主導だったわけではないことが見て取れる。また、中国全土で「同時発生」したという現象は、「官製デモ」と判断されがちだが、デモ前夜にはデモの組織化に向けて蠢く市民のやりとりがあったこともわかる。」
 
ただ、共通するのは、デモの参加者たちは格差社会のの底辺層であり、全体として「十分な教育と十分な収入を得ている層ではない」という点だ。上海の場合は、デモ参加者の使う言葉に方言が多く、地元の“上海弁”がほとんど聞こえてこなかったことからも、「外地出身者」の比率が非常に高かったことが想定される。」
*****
 
なぜこの記事が特段私の関心をひいたのか? 私が学生時代にやった「中国研究」の論考で描いたこと、つまり60年代の文革を通じて、全く同様の構図、抑圧された大衆の不満と権力の意図の二重構造からなる中国的動乱の構図が現代の中国でもそのまま続いていることを示唆しているからだ。
大学2年生当時の私の論考の一部を引用しておこうか。
 
引用:「限定された文化思想状況の中で、彼らは自らの不満要求を毛沢東の奪権の論理に直結させることによってしか表明することができなかった。それが本来ならば民主的合理的に解決されるべき彼らの不満・要求を動乱という形で爆発させた原因である。
 
そして、その動乱による秩序破壊を収拾するためにより一層の軍事官僚主義支配が必要とされるという悪循環。
そこに、この資料に現れた労働者の権力闘争が官僚主義的労務管理への批判を内在させながらも、一層の官僚主義的秩序の中へ収束していかなければならなかった悲劇の根拠があった・・・」
(竹中正治 「『紅衛兵通信集』に見る文革期の中国労働者階級の一局面に関する考察」全日本学生中国研究会連合中央論文集「燎火」1977年掲載)
 
ただし違いもある。いくらなんでも当時の毛沢東のように自分の権力奪回のためなら「文革」的動乱を繰り返しても良いと思っている権力者は今はいないだろう・・・と思うのだが。
 
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塩沢由典著の「市場の秩序学、反均衡から複雑系へ」を再読した。この本は単行本が出たのが1990年、掲載されている諸論考は1980年代に執筆されたものだが、今読んでも全く色あせていない。私が最初に読んだのは1998年の文庫本だ。
 
「今読んでも色あせていない」というのは言い換えれば、今日の主流的な経済学が本書が挑戦的に提示した課題に応えていないということでもある。新古典派の一般均衡論のアプローチが相変わらずはばをきかせているということでもある。
 
今では複雑系研究とその経済現象への応用を説く一般書も、訳本を中心にずいぶんと増えたが、90年当時では本書がパイオニア的な存在ではなかろうか。一般書と言っても、かなりつっこんだ経済学の議論が展開しているから、経済学部生でもかなりしっかり勉強している学生でないと読み通せないだろう。
 
示唆的な個所は多数あるのだが、11章の「複雑系における人間行動、ゆるやかな結合系(p363)」から記録ノートとして引用しておこう。
 
引用:
定型化された行動が有効であるためには、経済はゆらぎのある定常過程でなければならない。・・・定型化された行動は状況が互いに切断された、少数の変数からなる小部分に分解されることを前提としている。・・・
各部分が一時的に他から切り離されて独立に動きうるために、経済にはさまざまな切り離し装置
(decoupling devices)が内蔵されている。たとえば貨幣は交換を需要の二重の一致から解放し、取引を売りと買いに分離することに成功した。・・・
在庫の存在によって、需要と生産、あるいは供給と生産とが切り離され、たとえ不規則に変動する需要があっても生産を平準化することができる。・・・
 
(2つの関連する変数の動きは)紐で相互に結びつけられたふたつのボールによく似ている。一定の間隔内ではボールはそれぞれ独自の運動をなしうるが、紐がぴんと張る場面ではふたつのボールは相互に強い力で引っ張り合う。・・・
 
経済のほとんどの変数は一定の限度内で他から独立に動かしうる。・・・変数がこのようなあそびを持つことは、経済という系の作動と調整の様式に決定的な差異をもたらす。
企業や個人など各主体がそれぞれ自己の決定を下すことが可能になるのも、諸変数があそびを持っているからである。
長い目で見れば全ての変数が関連していながら、短期かつ一定の限度内では各変数が他から拘束されていないシステムを「ゆるやかな結合系(loosely connected system)という。」
 
私の為替相場に関する著作を読まれた方は、市場の為替相場が相対的なPPPから乖離と回帰を繰り返す様を強調していることを想い出して頂きたい。短期、中期ではPPPから乖離しながらも乖離には限度があり、PPPに回帰する為替相場の動態は、まさに上記に述べられている「ゆるやかな結合系」の一例である。
 
2通貨の金利格差変化と為替相場変動の相関関係が、安定的な局面と不安定な(相関の崩れた)局面を不規則に繰り返すのも、2つのボールの例でイメージしたゆるやかな結合系だからだと考えると分かりやすい。しかもボールを繋いだ紐はゴム紐であり、伸びたり縮んだりするとイメージした方が適切だろう。
 
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本日(11月18日)の日経新聞「経済史を歩く~日米自動車摩擦(1995)~」
この時代を知らない若い世代には読んで知っておいてもらいたい内容だ。
以下に一部引用しておこう。顔文字は私の添付。

引用:「ホワイトハウスから3ブロック離れたオフィスビルに、日
本自動車工業会のワシントン事務所がある。そこに1本の電話が入ったのは1994年9月21日のこと。
...

電話の主は米通商代表部(USTR)代表のミッキー・カンター。 「米国から日本車を全部締め出す。代わりに日本から米国車を締め出せばいい<`ヘ´>」などと一方的にまくし立て、最後は電話をたたき切った。

同事務所の所長代理だった岩武俊広は、電話を受けた上司の困惑ぶりを今も覚えている。「米国の閣僚が外国の団体に電話して直接文句を言う。こんなことが本当にあるのか」という驚きだった。(゜o゜)
・・・・
とりわけ強硬だったのは冷戦後に登場したクリントン政権だ。90年代半ば、通商産業審議官として対米交渉に携わった坂本吉弘は「覇権国は自分の覇権を脅かす国にことさら厳しい。ソ連崩壊後は通商上の仮想敵として日本の存在感が増大した」と振り返る。
・・・・
なんともきわどい合意だったが、米国事業を拡大するという日本企業の計画は空手形ではなかった。「米国のよき企業市民になる」を合言葉に現地生産や雇用を拡大。米市場でのシェアはさらに伸び、ビッグスリーを追い詰めたが、日本車たたきの風潮は下火になった
(^^)v」
*****

安全保障条約を結んでいる日本が米国の「仮想敵国」になるはずがないのだが、記事に書かれている通り「通商上(経済競争上)の仮想敵国」にされてしまったことは事実だ。
今の米国はその矛先を中国に向けようとしている。中国の場合は同盟国ではないので「経済競争上」にとどまらないだろう。 

ただ、中国からの輸出は、その半分以上が中国に進出した米国や日本を含む先進国の外資系企業(含むJV)だから、この点が利害関係を複雑にしている。GMなんかは中国でのシェアーが大きいので親中だからね。

歴史を振り返ると、超大国(帝国)というのは、それが繁栄している時代には概ね理性的で寛容だったりする。 しかし自分の存亡が脅かされていると感じると、「手段を選ばず」の挙に出る。予想外の「反則技」だって使う。 それが1970年代後半から90年代半ばにかけて日米貿易摩擦として起こったわけだ。
 
ところで、この記事、最後の締めくくりがとてもよい。
 
追記:
90年代半ば頃までのワシントンDCは、政策シンクタンクやロビースト界には米国側の資金と日本側の資金(防衛の戦い)が流れ込み、日米貿易問題をテーマにすると人と金が集まり、この問題にかかわっていた人々は「ウハウハ」だったようです。私が赴任した2003年には、既にそういう「飯の食い方」はできなくなり、代わって9.11で安全保障問題やテロとの戦いが大きくクローズアップされ、90年代にウハウハしていた人々はちょっとさびしそうでした。
 
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今日の日経ビジネスオンラインの記事に目がとまった。
 
引用:「今、朴正薫・副局長の記事と前後して韓国メディアは「日本病に罹った」という趣旨の記事を一斉に載せ始めた。不動産価格が依然として下げ続けるうえ、株まで大きく下げる。さらには経済成長率の急速な鈍化など、状況が「バブル崩壊後の日本」と似てきたからだ。」
「中央日報の社説(10月27日付)は説く。「過去3回の低成長は一時的な、外からの衝撃によるものだった。しかし、今度は(外からの)特別な危機ではない。構造的な低成長時代に入ったのではと疑わせる」」
 
人口動態の観点からみると、インドを除くアジア諸国の経済成長率は今がピークで、今後趨勢的に下がる可能性が高い。これはエコノミストにとっては常識だろう。
 
日本でこの問題を一般向けに語った最近の本は小峰隆夫教授の「老いるアジア」(2007年、日本経済新聞社)だ。
 
従属人口(14歳以下と65歳以上の人口)の労働人口(15歳~64歳)に対する比率を従属人口比率という。
他の条件が同じならば、従属人口比率の低下は経済成長を押し上げる(人口ボーナス)、逆に従属人口比率の上昇は経済成長を押し下げる(人口オーナス)。
 
この人口動態上の転換点を日本は90年代初頭に越えた。それは成長率の長期的な下方屈折を意味するのだが、なぜか同時にバブル崩壊が起きた。
 
米国はこの転換点を2007-08年に越えた。当然その後の成長率は下方屈折する。ただし以下のグラフで分かる通り、変化の度合いは日本より緩やかだ。若い移民労働力の流入などが高齢化の速度を緩めているからだ。またなぜか同時にバブル崩壊が起こった。
 
韓国はこの転換点を2010年前後に越えた。そしてやはり上記の記事の通り、趨勢的な低成長へのシフトとバブル崩壊現象が語られている。
 
中国がこの転換点を迎えるのは2015年前後だ。韓国も中国も、この人口動態的な変化速度は日本と同じか、あるいはそれ以上に急であることに注意しておこう。
 
またインドだけは例外で、転換点は2040年頃とまだ先だ。
 
人口の変化は極めてゆっくりなので、人口動態予測は20年~30年のタイムスパンでは高い精度で当たることも言い添えておこう。
 
転換点を迎えると、長期的趨勢的な成長率が下方シフトするのは、極めて論理的な結果であり、わかる。しかし、バブルとその崩壊現象が転換点付近で起こることに、なんらかの必然性があるのかどうかは、よくわからない。
 
日本同様に既に転換点を超えている西欧諸国について見てみたが、サンプル数が少なくて、バブル現象との相関性は明確ではない。
 
しかし、日本、アメリカ、そして今韓国と似た現象が続いていることは、想像力をかきたてるね。
果たして中国はどうなるかな????
 
以上は、先週私が参加してきた米国ワシントンDCでの私のプレゼン内容の一部でもある。
「興味深い」とご評価を頂いた。 
 
追記:人口動態の転換点を迎えることで中国の経済成長率はどの程度低下するか?
この点、先週参加したワシントンDCでのエコノミスト会合で、私の親しい中国担当のエコノミスト(中国系アメリカ人)は、今後の中国の長期的な実質GDP成長率(目先10年~20年)を6.5%と予想していた。
まあ、統計データの信頼性が乏しいので、数字自体を議論しても意味がないかもしれない。
以下は参考になる論考。
 
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「金融財政ビジネス」2012年11月5日号に寄稿した小論です。
***
財政赤字を軽視する論者は「日本政府の財政赤字は大きいが、国内の貯蓄でファイナンスされているから問題ない」と語る。
 
確かにそれは日本の経常収支が黒字であることと表裏一体の事実だ。そして誰かの金融資産は他の誰かの負債(あるいは出資金)である。従って日本全体で対外的に赤字や負債超過にならなければ問題はないと言えるだろうか。実はそうではない。
 
単純化して、周囲から完全に閉ざされたXとYの2つの村があるとしよう。 X村では、Hさんが貯蓄超過で、村長のGさんはHさんの貯蓄超過分をそっくり借金している。村長のGさんはHさんからの借金で毎月村人を集めて宴会をし、借金分は全部消費している。 
 
一方、Y村ではH’さんが貯蓄超過でFさんがH’さんから借金して、新しい果樹園の開墾に精を出している。果樹園の果物が収穫できるようになるまで3年かかるので、その間FさんはH’さんからの借金で自分と従業員の生活費をまかなっている。
 
両村とも外部から閉ざされているので、村人の間の債権債務関係は相殺するとチャラになる。存在する債権債務関係は、HさんとGさん、並びにH’さんとFさんのものだけであり、額は同じだとしよう。
 
さて3年後に豊かになっているのはどちらの村だろうか。言うまでもない。3年後にY村ではFさんが開墾した果樹園で収穫ができるようになり、FさんはH’さんへの借金を返済し、村人全体の消費できる財は果樹園の収穫分だけ増える。
 
一方、X村ではGさんに借金を返済する資産はない。Gさんは村長の特権で、村人から税金を徴収し、Hさんに返済することはできる。しかし村人の間でゼロサムの所得移転が起こるだけで、果樹園を開いたY村のように付加価値の増加は起こらない。
 
当然のことだが、経済が豊かになるためには、現在の貯蓄は将来の付加価値を生み出す投資に回らなくてはならない。反対に政府の赤字国債に吸収され、消費されるだけなら、将来の付加価値は増えない。
 
赤字国債を発行すると政府のバランスシートの負債側には「国債発行残高」が増えるが、政府の資産側には負債に見合う資産は何もない(建設国債の場合は公共事業による建設物が資産として生まれる。ただし日本で急増しているのは赤字国債である。) 
 
今日の日本の家計、民間企業、政府、海外の4部門の資金バランス(フロー)を見てみよう。1980年代まで家計貯蓄は民間企業部門の投資超過に吸収され、設備投資に向けられていた。ところが90年代後半以降は企業部門が貯蓄超過に転じ、家計と企業の貯蓄超過は政府部門の赤字に吸収されている。
 
つまりこれは果樹園の開墾が行われずに、村長のGさんがH’さんから借金して宴会しているX村の構図と同じだ。 
 
「需要が増えないのだから投資も増やせない」と思う方が多いだろう。本当にそうか。キャッシュフローが増えても内部留保を増やす(借金があれば返済する)ばかりで、技術開発など将来に向けた投資や人員を削減している「縮み志向」の企業は多くないだろうか。
 
社会資本を見れば、様々な公共インフラの老朽化が進み、潜在的な更新需要は増えている。政府も企業、家計も縮み志向のために「需要減→生産減→投資減」を自己実現しているのではなかろうか。今の日本に必要なのは広義の「投資需要」の喚起なのだ。
 
民間の貯蓄が将来の経済的な富の増進に繋がるインフラ、技術開発、教育などに向かうように流れを変えることができなければ、21世紀中葉の日本は豊かさを維持できないだろう。
*****
 
追記:12月10日 関連して伊藤元重教授の本日の論考を掲載しておきます。
 
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「人はお金だけでは動かない(Economics2.0)」(ノルベルト・ヘーリング/オラフ・シュトルベック著、NTT出版)を読んで懐かしい問題に出会った。
 
この著書自体は、行動経済学の成果とそれが示唆する新しい経済学の方向性を一般向けに解説したもので、大竹文雄教授が解説を寄せている。紹介されている研究事例は、他の行動経済学の一般書でも既に繰り返し紹介されているものと重複しているのだが、知らなかった事例もある。
 
それが第3章「労働市場の謎」で紹介されているマックス・ウエバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で提示した命題への歴史家による実証的な批判研究だ。
 
史的唯物論
この問題の文脈を語るためには、私の場合、まずKマルクスが経済学批判の序で展開した史的唯物論の命題に遡る必要がある。
 
引用:「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。
 
最近の学生諸君は読まないのだろうが、私の時代ではこの「経済学批判」のこの有名な序言を読んで知っているぐらいのことは、知的な学生の教養の一部だったんだ。イデオロギー的な体系は上部構造、「生産関係の総体」は下部構造と呼ばれ、「上部構造は下部構造によって規定される」とやや教条的に定式化された。
 
私を含む少なくない学生が、こういう人間の価値観に関するこうした唯物的な理解に共鳴した。偉そうな顔して「かくあるべきだ」と説いている先生の主張だって、所詮は物質的生産様式の中での自分のポジションによって規定されている事情、下世話にいうと広義の経済的な利害関係に規定されていて、それをもっともらしい理屈と修辞で正当化しているだけだ、という認識はラディカルな魅力を放っていた。
 
ウエーバーの命題
そうした思潮に対するひとつのアンチ・テーゼ、あるいは「修正」「補正」として受けとめられたのが、ウエーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で述べた歴史観だった。
 
手短に言うとこういうことだ。資本主義的な生産過程が封建制のなかから生じて来た極めて初期の段階では、「資本主義的な精神」はどのように形成されたのだろうか?まだ下部構造の大半は封建制であるから、それに対する上部構造(意識、習慣、価値観、法体系)も封建制に対応するものだったはずだ。
そこでウエバーは「プロテスタンティズム特有の宗教観、倫理」に注目し、自分が神に選ばれていることをただひたすら信じて、勤勉に働き、富を蓄積するプロテスタンティズムの倫理が、資本主義的生産様式の揺籃期においては、その勃興に適合し、重要な働きをしたという仮説を提示した。
 
要するに、上部構造(プロテスタンティズムの倫理)が下部構造(資本主義的な生産様式)の変革、形成に重要な役割を果たす場合もあることをウエーバーは示したわけだ。
 
こういう思潮的な流れを経て、既に私が学生だった1970年代後半には、よほどゴリゴリに教条的なマルクス主義者でなければ、上部構造の下部構造に対する相対的な独立性や、上部から下部への「反作用」の可能性を認識する程度に柔軟な見方をしていたと思う。
 
ウエーバーの命題への批判
さて、ここでEconomics2.0(第3章)で紹介されている産業革命期のプロイセン地域を対象にした実証的歴史研究の話になる。ドイツとスコットランドの二人の研究者は、プロイセン統計局の旧いデータを丹念に調査し、その結果、当時プロテスタント教会が優勢な地区とカトリック教会が優勢な地区を比較して、その間に経済的な富裕さについて、つまり資本主義的な生産様式への適応度において、プロテスタント優位の事実があったを確認した。
 
ただし検証の結果、次の結論に達したそうだ。
識字能力を除くと、プロテスタンティズムが経済の成果に単独で影響を及ぼしたとは思われない。経済的な富裕度の違いが、プロテスタントは努力を惜しまず、経済的な成功を目指して励み、質素な生活で貯蓄に励み、労働の流儀が効率的であるといったプロテスタント特有の労働観、倫理観だけに根ざしている可能性はほとんどない。(p72)
 
二人の 研究者が注目したプロテスタントとカトリックの相違は、宗教的倫理観全般というある意味では捉えにくい違いよりも、両者の識字率の相違である。プロテスタントは、カトリックが重きを置く教会の権威から個人主義的な独立を果たした点が宗教改革の最も重要なポイントだった。それはひとりひとりが聖書を読むことで実現できる特徴だ。すなわちプロテスタントは聖書を読むために文字を習い、それが識字率の向上⇒労働、ビジネス上のカトリックに対する優位になったと言う。
 
一般書なので二人の研究者が行なった検証方法は具体的には本書には説明されていないが、これは仮説としてなかなか魅力的、有力なものだと思う。プロテスタントの倫理観全般というある意味で捉え難い要因に比べて、識字率という明確に特定できるシンプルな要因で、プロテスタントとカトリックの違いを説明できる点で有力だ。
 
そして人間社会における進歩(あるいは生物における進化)が、必然的で単線的なプロセスではなく、様々な偶発的な要因により左右されることを示唆している点でも、より現実に適合した仮説だと思う。
ただしこの研究は当時の経済的な富裕度の違いは「プロテスタントとカトリックの労働に関する倫理観の相違」だけでは説明できないと言っていると同時に「識字率相違だけで説明できる」と言っているわけではないので注意しようか。人の世の現実は複雑だ。
 
 
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