たけなかまさはるブログ

Yahooブログから2019年8月に引っ越しました。

2014年08月

今朝の日経新聞web版のマネー欄、北沢編集委員の記事で私のインタビューが引用、掲載されております。
「株も不動産もリスク性資産は不況の時にこそ買おう」 弊著作でも繰り返していることですが、基本にしてかつ極意だと思っています。

以下ご参考まで<(_ _)>
http://www.nikkei.com/money/features/32.aspx?g=DGXLMSFK2800A_28082014000000&n_cid=DSTPCS008&df=2

引用:「「株式に長期投資するなら不況のときだけ買うべきだ」。龍谷大学教授の竹中正治氏はそう主張する。 グラフに見るように、株価は景気の波と連動しながら上げ下げを繰り返す。ならば、相場が下がって十分安いときに買い、高値圏が近づいてきたと思ったときに売ればいい、という。言うはやすく、行うのは難しそうなこの「不況時の株式買い」を、竹中氏は実践してきた。

竹中氏が日本株投資を始めたのは、日本が消費税率引き上げや金融危機で不況のさなかにあった1998年。株式市場がITバブル崩壊に見舞われた00年以降も、評価損を抱えながら少しずつ買い増していった。

損益がプラスに転じたのは03年で、相場が戻り歩調の04~06年には何度かに分けて保有株を売却。その後はいったん日本株投資を休止したが、リーマン危機後の09年に再開し、10~12年の3年間はじっと株価の回復を待ち続けた。そして株価が急反発した昨年は戻り売りに徹し、今は「保有株数を半分程度に減らしたところ」という。

経済の専門家でもない普通の人は、どのように景気の好不況を判断すればいいのだろう。竹中氏は2つの方法を挙げる。

1つは内閣府の景気動向指数のうち、景気の山谷を示すCI一致指数(グラフ参照)の方向で判断する方法だ。一致指数が下げ続けてきたら買いの準備を、上げ続けてきたら売りの準備をする。同指数は株価の遅行指標だが、「長期投資なら慌てずゆっくり反応していい」という。

2つめが四半期ごとに日本経済新聞に載る「業界天気図」を利用する方法で、「雨」の業界が増えているのか、「晴れ」の業界が増えているのかを見る。

竹中氏が「好不況の判断以上に大切」と話すのは、近視眼的な思考で株価の水準を判断しがちな、心理的バイアス(アンカーリング効果)の克服だ。例えば、日経平均が8000円台で低迷する時期が長く続くと、多くの人は1万円がとても高く感じてしまう。

すると、せっかく8000円台で投資できても、大台に乗ったとたんに喜んで売ってしまい、その後の上昇相場は指をくわえて眺めるしかなくなってしまう。そんな心理的バイアスをコントロールするには、「10年、20年の株価チャートを見て、大きな流れの中で株価の水準を判断するのが有効だ」と強調する。」
***

「不況の安い時に買え、わかっちゃいるつもりだけど、できないのよね~」
まあ、何事も「わかっちゃいる」程度のことの実践を徹底できるかどうかで、成否の7割ほどは決まるんでしょうね。

そして「わかっちゃいること」を徹底していると、そのうちに「わかっちゃいなかったこと」が見えてくる。
ここでさらに伸びる。私もまだまだ修行中ですが、仕事、勉強、投資、みなそんなもんでしょう。
 
景気循環を反映した株価の変動に関して、効率的市場仮説から想定できる株価の変動性よりも、実際の変動性ははるかに大きいのだろうと思います。
 
この点について研究では、株価の変動性は正規分布ではなく、それよりもfat tail(正規分布が想定するよりも稀な大変動の頻度が高い)であるとか、急騰、急落局面には株価の変動に時系列的な相関性が生じるとか、そういう形で表現しています。
 
つまり株価に限らず相場はしばしばオーバーシューティングするということですね。だからオーバーシュートした局面を買ったり、売ったりできれば、超過リターンが生じる。 しかしどの水準からオーバーシュートなのか、それを見極める理論モデルを作るのは難しいようです。
 
私はドル円については、実質相場指数の長期的な平均値からプラスマイナス10%をフェアウエー、それをはずれたら行き過ぎ(オーバーシュート)というのをめどにしているんですが、所詮経験則的なめどでしかない。 
 
株価についてもオーバーシュート現象を、経験則ではなく理論モデルとして構築して説明できるとすごい成果になるんでしょうが、難しそうです。
 
追記: 効率的市場仮説の世界では、市場平均を継続的に上回る投資リターンをあげることは不可能とされています。 なぜなら、ある投資手法で超過リターンがあがることがわければ、みな真似するから、その投資の超過リターンは消えてしまうからです。  
 
短期売買の世界では私は、この仮説は概ね正しいと思います。  しかし「不況期に買え」は、合理的かつ長期投資に徹する人間にしか利用できない投資方針で、そうした市場参加者はかなり少数ですから、超過リターンの可能性があるのだと思っています。 
 
みなさんできるだけ真似しないでくださいね(^_^;)
 
さらに補足追記:「不況の時に買えは一種のマーケットタイミングだと思うが、それで本当に超過リターンが上がる確証があるのか?学問的な検証ではマーケットタイミングによる超過リターンは検証できないと言われているようだが」
 
マーケットタイミングもいろいろで想定のおき方、ルールの設定の仕方次第で良い結果が出たり、出なかったりします。  ですから、過去に成績の良かった手法で将来の好成績が保証される確証はないという厳密な意味では、「マーケットタイミングで超過リターンは検証できない」というのは正しいと思います。  
 
従って私も「可能性がある」という控えめな表現にしています。 しかし人生を通じた投資は繰り返すことのない一回限りの歴史的な現象ですから、そもそも確証なんて不可能、ある程度の可能性(蓋然性)があれば十分やってみる価値があるし、成功をおさめる方々も出てくる。 その点が「学問的な知識」と「実践的な知恵」の違いかなと思います。 確証を求める方は投資には不適ですね。
 

最近の米国の株価上昇は「量的金融緩和(非伝統的金融政策)による超低金利の産物だから、金利が上がり出したら一気にしぼむよ」というようなコメントは、かなり言われていることだ。特に株ベアーの論者が口にすることが多いかな。
 
このブログのリピーターの方からは、「米国株のPERが過去の長期的な平均値と比べて割高とか言われますが、趨勢的に金利も低下しているのでその分は株高・PER高も正当化できるんじゃないですか」という趣旨のご質問を頂いた記憶がある。
 
金利水準調整後のPERという概念もあるが、それ自体の変動がかなり大きい。名目金利と株価の水準は当然かなりばらつきのある関係だ。 そこで以下の図のように、10年物米国債利回りとS&P500ベースの一株当り利益率(=PERの逆数)の相関関係をグラフにしてみた。
 
関係性は有意で、決定係数R2=0.40、相関係数=0.635、まずまずの相関度だ。
一応以下のような判断ができるかもしれない。 
 
近似線の左上エリア:利益率が国債利回りよりも相対的に高く、株価が相対的に割安
近似線の右下エリア:利益率が国債利回りよりも相対的に低く、株価が相対的に割高
 
近似線の傾きは0.6325で、これは国債利回り1%の変化が利益率0.6325%の変化に対応していることを意味する。利益率0.6325%の変化は現在のPERの水準をベースにすると約11%の変化(PER20→17.8)に相当するので、今後国債利回りが1%上がると、一株当り利益に変化がなければ株価は11%下落する関係があるということだ。
 
また近似線の方程式のY切片は2.37、これは国債利回りゼロ%の時の一株当り利益率が2.37%という意味だから、株式投資のリスク・プレミアムは2.37%という含意になろうか(?)。
 
図上での現在の位置は、国債利回り2.5%をベースにすると、近似線の左上であり、国債利回りに比べて利益率の方が高く、株価は割高とは言えないということになるが・・・・・この関係性はかなりばらつきが大きいことに留意しておこう。
 
例えば国債利回りを説明変数、一株当り利益率を被説明変数にした単回帰分析で得られる標準誤差(2/3の確率で値が分布する範囲)は2.1%だ。 これは国債利回りが同じでも利益率は±2.1%の範囲に2/3の確率で分布することを意味する(残りの1/3の確率で、その外に分布する)。
 
2.1%という利益率の変化は、現在のPERの水準をベースにすると約30%の変化に相当する。これは言い換えると、一株当り利益が同じでも、2/3の確率で株価は±30%異なる水準になり得るということを意味する。
 
±30%のブレというのはかなり大きいから、この関係性だけを頼りに株価の割高・割安を判断するのは無理があるだろう・・・ということになってしまう。
 
まあ、株価というのは不確実な変動性が高いものだと今さらながら覚悟するしかないね(^_^;)
 
近著「稼ぐ経済学~黄金の波に乗る知の技法」(光文社)2013年5月20日
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takenakamasaharu/  Yahooニュース個人
↑New!YouTube(ダイビング動画)(^^)v
 
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ロイター社コラム、論考が掲載されました。
元のタイトルは「労働生産性革命で成長持続へ」という感じ表現だったんですが、そこはやはりビジネス情報社ですから、「『労働生産性革命で株価1万8000円へ』としていいでしょうか?」という編集の要請があり、かなり強気イメージのタイトルになりました。
 
もちろん、書いてある通り、中長期の時間軸を前提にした内容です。もっとも、2013年の春もそうでしたが、市場って期待が膨らむと目先1~3年程度の変化を数カ月で自己実現してしまいますから、どういうタイミングで実現するかどうかは、わかりません。 目先はまだ消費税増税後の落ち込みとか、地政学的な緊張とか気になっているので、2013年春のような一気に上昇の可能性はないだろうと思いますが。
 
引用:「日本経済はデフレから抜け出した途端に人手不足、労働需給のひっ迫に直面している。これは何を意味するのか。
 
足もとではイラクなどでの地政学的な緊張で株価が少し不安定化し、日本経済についても消費税増税後の4―6月期の消費と生産の落ち込み(反動減)の深さと、7―9月期にそれがどれだけ回復するかに関心が集中しているが、本稿ではもっと長い時間軸で考えてみよう。
結論から言うと、日本経済はデフレを抜け出し、長期にわたる景気拡大につながる好位置に立ったと筆者は見ている。労働需給のひっ迫は今後、労賃の上昇、家計所得の増加、最終消費需要の増加、生産と設備投資の増加という好循環が始まる可能性を意味している。
 
ただし、長期の持続的な経済成長が実現するためには、いくつかの課題を乗り越える必要もある。その点をご説明しよう・・・」
 
追記(2014年10月16日) やはりこういう方向への変化が出てきましたね。↓
 
 
 
 
 
 
 
 

多くの標準的な経済モデルは、なんらかのショックで経済の諸変数が均衡から乖離しても、価格と需給の自由な調整が働くかぎり均衡点にもどる・・・そういう形になっている。
 
しかし現実の経済現象、相場現象はファンダメンタルな均衡水準(その水準自体、時間と伴に変化する)からの乖離と回帰を繰り返す。 このファンダメンタルな水準からの乖離がすべて外生的なショックだとは考えがたい。むしろ多くの場合、ファンダメンタルな水準から乖離する内生的なメカニズムが働いているはずだ。これが大雑把に言って、私の基本イメージだ。
 
ファンダメンタルな均衡点からの乖離と回帰を繰り返す、そういう具合に相場現象を説明するモデルは、少ないけどもある。為替相場について、そうしたモデルの例が「ドーンブッシュ・モデル」(別名オーバーシューティング・モデル)だ。
 
以前勉強したけど記憶が薄らいでいたので、私自身の復習として以下に整理しておこう。為替相場にご関心のある方には参考になるはずだ。(テキストとしては、岩本武和著「国際経済学、国際金融編」ミネルバ書房、2012年、第3章を参照。 ちなみに岩本先生は京都大学経済学部教授で私の2012年の博士号申請について主査を引き受けて下さった方。ご関心のある方は本書ご購入ください。)
 
まず方程式が2つ
i=i*+(Se-S)/S     (わかりやすく期間1年の想定)
M/P=L(Y,i)      ② 
 
i  自国金利(ここでは日本円金利)
i* 外国金利(ここでは米ドル金利)
S 現在の為替相場(1ドル=**円表示)
Se 将来の期待為替相場
 
M マネー供給量
P 物価
L 貨幣需要  
貨幣需要はY(生産量、総所得)とi(円金利)を変数にしており、Yとは正の相関、iとは負の相関
M/Pは実質マネー供給量を意味する。
 
①式はいわゆるアセット・アプローチであり、ドルでの運用と円での運用が為替相場の変動を介してイコールになる金利平価原理を示している。
 
②式は貨幣市場の均衡条件、ただし短期と長期では変数の読み解きが異なる。
短期:価格Pの硬直性(粘着性)を想定しており、Pは不変で、例えば金融緩和でMが増加すると i は低下する(逆は逆)。
長期:PはMと比例的な関係で変化する(貨幣の長期中立性)。
 
具体的な数字例で考えた方がわかり易いので、 i=2% I*=2%  S=100(円) Se=100(円)を起点にやってみよう。
 
ステージ1:まず日本で金融緩和が行なわれ、M増加、i は2%から1%に低下するとしよう。
するとドル円相場は日米金利差の拡大に対応してドルが上昇する(S:100→101)
 
ここで金融緩和によるMの増加が一時的なもの(将来また戻る)と予想されると、これだけで終わってしまうのだが、もしMの増加が恒常的なものと予想されるなら、円通貨の将来の減価が予想され(円の購買力の減少・物価上昇の予想)、将来の期待ドル円相場Seも円安方向に変化する(例えばSe:100→101)。
 
ステージ2:そうなると、①が成り立つためにはSは更にドル高・円安に変化しなくてはならない。S:101→102
ここまでが短期の変化だ。
 
ステージ3:さらに時間が経過して中長期になると、PはMの増加に比例して上昇し、実質マネー供給量M/Pはもとの水準に減少する。
これに対応して円金利 i も元の水準に戻る。i : 1%→2%
この円金利上昇に対応してドル円相場はSはドル安・円高に戻る。 S:102→101
 
従って101→102の部分が短期的なオーバーシュートである。値幅が小さい感じるだろうが、これは期間1年、金利変化1%の想定でやっているからにすぎない。もっと長い期間の運用(期間数年物の債券など)を想定し、で金利の変化幅も大きくすれば、値幅も大きくなる。
 
このように考えると、現在の黒田緩和による円安はステージ2にあることになり、今後物価上昇が進み、円金利が戻る(上昇する)局面では円高に揺れ戻すということになろう。
 
ただしドルについては円より先に来年ステージ3(ドル金利上昇局面)に移行すると見込まれているので、この点ではドル高方向への力がさらに働く余地が残っている。 そういう意味で、円とドルの金融緩和とその終了のステージのタイムラグが、来年もう一段のドル高に作用するチャンスがあると考えるのは、理にかなっているとも言えようか。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

8月のこの時期になると、原爆、終戦(敗戦)のテーマがTVなどメディアで特集などされますね。まあ、一種の国民的なトラウマなのだから、ある意味で当然だけど、世間に流布する議論のあり方にいまいちしっくりとこないものを感じてきました。 
 
そのしっくりとこないものが何のなのか? それ考えて書いた2010年8月(日経ビジネスオンラインの論考です)。再掲で恐縮ですが、ご覧になってない方も多いと思うので、それに自分ではかなり気に入っている論考のひとつなので、そのまま掲載させて頂きました。
 
掲載当時は、共感くださるコメントと当時にネトウヨ系の「何言ってやがるんだ!」風のコメントが殺到して、けっこう火を噴いた感じがあります(^_^;)
***
「なぜもっと早く降伏できなかったのか」を議論しよう
原爆記念日に考えた日本的二分法の危うさ
2010年8月17日(火)  竹中 正治  日経ビジネスオンライン
 8月6日の広島平和記念式典にルース駐日大使が米国の代表として初めて出席したことが話題になった。広島に原爆を投下したB29爆撃機エノラ・ゲイの機長ポール・ティベッツ氏(故人)の息子さんはテレビ・インタビューで、広島の式典への米国代表の参加について、「参加すべきではなかったと思う」と不快感を示したという。
 
 もっとも原爆投下についてルース大使が謝罪を述べたわけではない。これに対して、日本の被爆者やその遺族・家族らは強い不満を感じているようだ。一方、米国では「参加したこと自体が『無言の謝罪』になるので許せない」という批判が起こっている。ポール機長の息子さんは、同じテレビのインタビューで「原爆投下が戦争終結を早め、多数の人々の命を救ったとして、『当然、正しいことをした』と話したという。
 
 「原爆投下がなければ、降伏しない日本は本土決戦となり、日米ともに原爆による死者数をはるかに上回る数の死者が出たはずだ。それを避けるために原爆投下はやむを得なかった」
 こういう意見は米国ではむしろ今に至るまで支配的だ。(ちなみに広島の原爆死者数は1945年時点で9万~14万人、累計で約22万人、長崎は累計で約15万人だという)
 
サンデル教授の「正義」を当てはめてみると…
 この議論に改めて接して、私の脳裏に浮上した1冊の本がある。最近NHKで講義が放映されて日本でも大評判となった米ハーバード大学マイケル・サンデル教授の「正義(JUSTICE What's the right thing to do?)」だ。倫理・哲学分野としては異例の超ベストセラーになった。
 
 お読みになった方もいるだろうが、「暴走する路面電車」の例が「正しいこととは何か」を考えるケーススタディーとして第1章に登場する。あなたは路面電車の運転手だが、ブレーキが壊れて電車は暴走している。正面方向には線路で工事をしている人が5人いて、電車の暴走に気がついていない。このままなら5人が轢かれて死ぬ。ところが右に線路の待避線があり、そちらでも線路で人が働いているが1人だけだ。
 
 さてあなたはどうする? 何もせずにまっすぐ暴走して5人を死なせるか、あるいは右の待避線にハンドルを切って1人の死を選ぶか?  私も大学の学生諸君に実際に問うてみたが、大多数の学生は右にハンドルを切って1人死なすを選択する。やむを得ざる場合は最小限の不幸で済ませるのが正しいという選択だ。
 
 そこで、サンデル先生は、ケース2を提示する。  あなたは、その路面電車の線路を見下ろす橋の上に立っており、傍らにはとても太った男が立っている。あなたが彼を橋から突き落とせば、彼の巨体が電車の行く手を阻んで線路上の5人を救えるとする。しかし彼は死ぬ(あなたが飛び降りたのでは小柄過ぎて電車は止められない)。
 
 あなたは何もしないで5人の死を見るべきか、あるいは彼を突き落として、1人の死を選ぶべきか。この場合、既存の法律などは関係ないとして、正しい選択はどちらか。5人の死か、1人の死かという選択はケース1と変わらない。しかし、ケース1と違って1人の死を選択すべきだという人は一転、極めて少数となる。
 
 「最初の事例では正しいと見えた原理(5人を救うために1人を犠牲にする)が、2つめの事例では間違っているように見えるのはなぜだろうか?」とサンデル先生は問う。
 
あれが日本だったら、どのような選択をしたか?
 要するに私たちの社会には「できるだけ多くの命を救うべし」という原則と、「どのような状況であっても無実の人を殺すのは間違いだ」という異なった原則があり、いずれも捨てられない。ところが2つの原則が対立し、私たちが道徳的に板挟みになることがあるという厄介な事実が、提示されているわけだ。
 
 5人を救うために1人の犠牲を正当化する思想は、「最大多数の最大幸福」を原理とする功利主義の系譜であり、それが原理主義的に極端になると個人の自由も人権も結果的に否定される。サンデル先生はそこまで書いていないが、共産主義への「歴史の進歩」のために労働者階級による独裁を唱えた20世紀の共産主義は、ある意味で功利主義の思想的伝統を継承したと言えよう。
 
 その対極が、個人の自由を至上とする米国のリバタリアニズムであろうか。米国のリバタリアニズムは特異な思潮傾向で、保守派に属しながらも、その個人主義的な自由原則の徹底の故に一切の対外的な軍事的関与に反対する。リバタリアニズムを自覚的な信条とする人々は対イラク戦争にも反対だった。
 
 アメリカ人の原爆投下を合理化する議論は、「5人の命を救うために1人の命を犠牲にして何が悪いか」と主張していることになる。日本人の私たちが米国の原爆投下の論理を肯定できないのは、この場合、犠牲になって死んだのが日本人ばかりだからだろう。仮に原爆投下で死ぬ人間の半分がアメリカ人だったら、たとえ本土決戦の場合の数分の1の死者数で済んだとしても、米国政府は原爆投下には踏み切れなかったのではないか。そう考えると、やはり米国の意見は正当化のための傲慢な屁理屈に過ぎないと日本人は思う。
 
 しかし、さらに一歩踏み込んで、もし日本が原爆の開発に成功し、それを米国本土に投下する手段があったとしたらどうだろうか。 日本は間違いなくやっただろう。
 
 実際、日本は風船爆弾という気球爆弾を大量に生産し、無差別攻撃の目的で米国本土に向けて飛ばしている。ただし、ほとんど攻撃成果を上げることはなかっただけだ。
 
 もっとも、この時期の国際情勢はかなり複雑で、日本は本土決戦の準備をする一方で既に降伏交渉を模索しており、原爆投下がなくても降伏は時間の問題だったとも言われる。しかし、問題は「時間」だったのだ。米国の原爆投下はソ連の対日参戦(8月9日)という動きに対して、ソ連の対日占領を防ぐ目的で日本の降伏を促すためだったという解釈もある。もし原爆の投下がなく、日本の降伏が長引いていた場合は、ソ連軍はカラフトのみならず北海道、東北の一部に進駐していたかもしれない。その場合は、戦後の日本はドイツと同じような分裂国家になっていた可能性がある。
 
 歴史解釈はともかく、本稿では倫理の議論に限定しよう。
 
なぜ出ない?「もっと早く降伏すべきだった」論
 私が不思議に思うのは、毎年8月になると被爆問題が議論される中で、「なぜ当時の日本政府はもっと早く敗戦、降伏の決断をしなかったのだ。そうすれば、沖縄の惨劇も広島、長崎の被爆も避けられたではないか」という方向に日本での議論が向かわないことだ。
 
 「戦争したこと自体が間違いだった」として当時の日本の軍国主義を非難することは、戦後ならばたやすいし、そういう議論は繰り返されてきた。私もあの戦争は、戦争したこと自体が間違いだったと思う。しかし、間違いを犯すことは国でも個人でもあり得る。間違いだったと思った時点で、それを撤回できれば被害は少なくできる。
 
 もちろん、戦争遂行者(権力者)は無条件降伏となれば処罰は必至だから、容易には降伏などしない。それでも、それができなかった故に国民の命と財産の莫大な損耗に輪をかけたことを訴える、あるいは問題にする声があっても良さそうなのだが、なぜか日本の議論にはそれが欠けている。
 
 原爆は是か非か、戦争は是か非か、軍事力は是か非か──。白か黒かの二分法の論理だけに議論が支配されている。興味深いことに、旧日本軍では戦争の展開までも、勝利か玉砕かの二分法に支配され、「投降」という選択肢が最初から否定されていた。「撤退」という言葉すら否定されて「転進」と言われた。これはけっこう根の深い問題かもしれない。次にこれを考えてみよう。
 
戦闘を凄惨化した投降否定の日本軍律
 2007年のクリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙(Letters From Iwojima)」は「父親たちの星条旗(Flags of Our Fathers)」との異色の姉妹編だ。「星条旗」は父島で星条旗を掲げたことでヒーローとして祭り上げられてゆく米国兵士らの心の屈折と悲劇を描いている。一方、「硫黄島」は終始日本人兵士の目線でその苦悩が描かれている。
 
 この2つの映画を見ると、旧日本軍と米軍の対照的なカルチャーの違いを感じずにはいられない。米軍は様々な逸脱があっても、原則的には可能な限り兵隊を生きて祖国に帰還させることを前提に作戦を進める。負けとなれば撤退し、戦闘不能になれば降伏、投降することは恥ではない。
 
 一方、日本軍は最初から滅私奉公主義で、命を捨てることが前提とされている。出兵する兵士に「無事に生きて戻って来ておくれ」という家族の本音を人前で語ることさえタブーだった。日本軍の軍律では、銃弾が尽きて戦闘不能になっても降伏は厳禁であり、投降すれば非国民扱いとなる。だから万策尽きると、日本軍は「自決」するか「玉砕」するしかない。
 
 栗林中将は「安易な玉砕」すら禁じた。その結果、硫黄島に配置された約2万余の日本兵は、戦闘開始から約1カ月で組織的な戦闘が終わった後も、投降せずに地下壕にこもり続けた。
 
 その結果、小さな島であるにもかかわらず、米軍は制圧するのに長い時間を要した。日本兵が潜んでいると思われる地下壕に海水を注ぎ、ガソリンを流し込んで火をつけ、まるでネズミ駆除のような凄惨な「掃討作戦」が行われたのだ。
 
 映画の中で栗林中将は「本土への米軍の侵攻を1日でも遅らせるために最後の1人まで戦うべし」と訓示する。
 
 2006年8月にNHKが制作、放映した硫黄島の戦闘に関するドキュメンタリー番組によると、硫黄島での日本軍の予想以上の抵抗で当初の想定を大幅に超える2万8000人もの死傷者を出した米軍は1つの教訓を引き出したと言う。
 
 それは日本が降伏しない場合に予想される本土上陸戦において、アメリカ兵の人的な損耗を最小限にするために、日本本土への徹底的な空襲を行い、事前に日本の攻撃力、戦意を最大限に削ぐことだった。こうして徹底的な大空襲や2発の原爆の投下につながった。戦争が生み出す運命はまことに容赦がなく皮肉で、無慈悲だ。
 
映画「大脱走」に見る捕虜になるのを恥じない文化
 こうした旧日本軍と対照的な米軍のカルチャーが描かれた映画が「大脱走(The Great Escape)」(1963年)だ。スティーブ・マックイーンを始め、当時あるいはその後のハリウッドの代表的なスターとして活躍した俳優たちが勢揃いしたこの映画、アメリカ人の間では「大好きな戦争映画」の代表作として金字塔的な存在である。
 
 欧州戦線でのドイツとの戦いで捕虜となったアメリカ兵を含む連合軍兵士たちが集められたドイツの捕虜収容所で、彼らは「捕虜収容所から脱走し、敵地で後方を撹乱してやろう。成功すれば、敵地を脱し、祖国に帰還できる」と空前の規模の大脱走を企てる。米国の陸軍情報部の秘密組織MIS-Xからの極秘支援があったことも今では知られている。
 
 映画で描かれるのは、死ぬ前に降伏し、捕虜となっても脱走することで抵抗し、最後まで生きて祖国に帰ることを諦めない執着と楽観主義だ。とりわけこの映画の最人気はスティーブ・マックイーンが演じるキャラクターで、彼は収容所から脱走しては捕縛され、それでも脱走、捕縛、独房、再脱走を繰り返すダイハード・ガイだ。捕縛されることは悔しいが恥とは思わない。 「だって、生きてさえいれば、また脱走することができるだろう」
 
投降否定の背後にある「討ち死に精神」
 旧日本軍の「降伏否定」や兵士の損耗を顧みない体質を生み出した原因は、いくつか考えられる。第1は当然ながら当時の日米の国家観と政体の相違だろう。米国の個人主義を基本にした民主制政体に比較して、当時の日本は天皇という君主あっての国家であり、国民は君主に尽くす臣民である。危機存亡の時となれば臣民の命は消耗品でしかなくなった。
 
 第2の要因は旧日本軍の物理的な劣勢であろう。とりわけ、戦争の後半からは軍事的な劣勢のために、多くの兵士を帰還できる見込みのない戦闘に駆り立て、そうした作戦を正当化するために、命を投げ捨てる滅私奉公がますます美化された。劣勢にある集団ほどメンバーに自己犠牲を求め、それを正当化・美化するイデオロギーを喧伝するものだ。今日ではイスラム過激派の自爆テロにそうした例を見る。
 
 第3の要因は日本に根強い一種の観念論的精神主義である。このルーツは旧日本軍以前の時代にまでさかのぼるようだ。それを象徴する場面をNHK大河ドラマ「龍馬伝」の中で見た。土佐藩の武市半平太は勤皇党を組織し、尊王攘夷を掲げる。武市が勝海舟や龍馬と議論になる場面があった。
 
 勝が欧米列強の軍事、経済、科学技術の面での優位を説き、今の日本に攘夷を行う力はないと説く。これに対して武市はこう主張する。
「異国がどんなに大きかろうと、どんなに強かろうと、そんなことは関係ない。神州日本の地が異人によって汚されている。だから死を賭して討ち払うだけだ!」
 
 この種の発想法からは「間違っていたから修正する。負けたら降伏する」という選択肢は出てこない。失敗した時は討ち死にするだけだ。
 
 アメリカ文化を特徴付ける1つの要素がプラグマティズムだとすると、武市に見るのは現実的合理的な判断を否定する観念論的精神主義であろう。これは藩全体が攘夷に傾斜した長州藩の行動にも表れている。司馬遼太郎は「竜馬がゆく」の中で語っている(第4巻60ページ)。
 
「幕末における長州藩の暴走というものは、一藩発狂したかと思われるほどのもので(中略)……当時の長州藩は、本気で文明世界と決戦しうると考えていた。……(中略)この暴走は偶然の理由で拾いものの成功をしたが、『これでいける』という無知な自信をその後の日本人の子孫に与えた。特に長州藩がその基礎をつくった陸軍軍閥にその考え方が、濃厚に遺伝した」
 
「攘夷」という思考停止は「平和主義」という思考停止に?
 私はこの3番目の文化的要因を強調しておきたい。というのは、この性向は今でも私たちの心の奥底に巣くっている気がしてならないからだ。
 
 以前本欄の「危機感駆動型ニッポンの危機!?(続編)」(2008年3月21日)で日本人を「危機感駆動型」と類型化し、危機感を強調する体質と、その一方で危機管理は杜撰さである傾向がどのような構図で並存しているのかを論じ、次のように述べた。
 
「様々な致命的な事故は、失敗と上手くつき合うことができなかったことが原因で起こる。要するに失敗の発生を前提とし、小規模の失敗が生じた時にはそれが大規模な失敗に発展しないようなフィードバックを働かす、あるいは起こった失敗の諸事例から失敗の要因と法則性を抽出して未然に防止する仕組みを整える、こうした運営、学習に日本型の組織、教育は弱いのではなかろうか」
 
「旧日本軍は作戦の立案から遂行まで全ての面にわたって、失敗した場合の代替策を用意せず、成功も失敗も合理的に分析して教訓を抽出することのない組織だった。合理的で柔軟な戦略形成が不在だから、特に戦争の後半戦では兵力において勝る米軍に対して、本土防衛の危機感をあおり、あるいは『精神力では勝っているから勝機はある』などという陳腐な鼓舞を繰り返し、玉砕していったわけである。東条英機の『人間たまには清水の舞台から目をつぶってとび降りることも必要だ』という情緒に支配されて開始された戦争は、危機感をあおりながら、危機管理のない戦争として展開していったわけだ」
 
 幕末の攘夷思想も、旧軍国主義体制も崩壊したものの、観念論的な精神主義は今でも私たちの心の底に形を変えて巣くっている気がしてならない。というのは、排外主義的なイデオロギーは姿を潜めているものの、世界における戦争と他国の軍備の存在を前提に、日本の安全保障政策を現実的に理性的に議論する風潮も論壇も育っていないからだ。
 
 攘夷という排外主義的な思考停止は、平和主義という別の思考停止にとって代わられただけではなかろうか。
 
 その結果、少数の犠牲か、多数の犠牲か、その二者択一を迫られると日本政府はほとんど判断麻痺に陥る。そうした空白の結果、将来再び日本が安全保障上の危機に直面した時、新たな武市半平太や長州藩が登場しても不思議はないと危惧するのは私だけだろうか。
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本書「システムの科学」はこの分野では名著と言われている書籍で、第1版は1978年に出版され、私が読んだのは原著1996年(邦訳99年)の第3版だ。 大幅に改定されていることは読めばわかる。
また「この分野」と言っても、それをひと言で表現する適当な単語がないほど実に学際的な内容となっている。 
 
著者ハーバートAサイモン氏はカーネギー・メロン大学のコンピューター科学・心理学の教授で、1978年ノーベル経済学賞の受賞者でもあるが、2001年に亡くなっている。 コンピューターから心理学、経済学まで専門にし、そのどの分野でも世界トップクラスの学識と実績・・・・いやあ、天を仰ぎみるような存在だ。
 
で、「この分野」というのは、企業、政府などの人間組織から経済システム、コンピューターまで人工的に作られたシステムの科学的研究とはどういうものであるか、自然現象と何が違って、何が同じか、そうしたテーマを語っている。 
 
本書全体の概要を語るのは荷が重いと言うか、絶品ぞろいのフルコースを食べた後で、「ちょっと手短に説明」するようなつまらなさを感じるので、私の問題関心である「市場現象」とりわけ「投資活動」の視点からビビビと感じた個所をテイク・ノートしてコメントしておこう。
 
個所は第6章「進化する人工物のデザイン」「フィードバック」(p178-179)だ。
 
引用:「進化の過程でつくられてきた人間の手によってつくられてきた適応システムのほとんどは、未来に対応するのに、予測というものに頼っていない。外界の変化を処理する2つの補完的なシステムは、しばしば予測よりもはるかに効果的である。
 
すなわちその1つは、システムを外界の影響から守るホメオスタシス(恒常性)のメカニズムであり、もう1つは、外界の変化に適応していく事後的なフィードバックのメカニズムである。
 
たとえば工場は、在庫のおかげで、ごく短期の商品受注の変化に左右されずに生産を行なうことができる。肉食動物は、筋肉組織内にエネルギーを蓄えているので、捕食の機会の不確実性に対応することができる。・・・・ホメオスタシスのメカニズムは、環境の短期的な変動に対応する場合に有効であり、したがって短期予測の必要性をなくしてしまう。
 
他方フィードバック・メカニズムは、システムの望ましい状態と実際の状態との間の差異を継続的に応答することによって、予測を用いることなく環境の長期的な変動にシステムを適合させるものである。 環境の変化がどの方向に変化しようとも、フィードバック調整は多少の遅れを伴いつつ、その変化を追っていく。
 
予測がある程度合理的にできる分野では、予測制御とホメオスタシスおよびフィードバックの2つの方法を結びつけることによって、環境に対するシステムの適合性を、さらに改善できるのが普通である。・・・・不正確な予測データをあまりまともに取り上げると安定性を失わせるようなことにもなりかねないので、予測の精度が高くない場合には、フィードバックだけに頼ることにして、予測を全く省略してしまう方が良い時もしばしばある。」
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投資戦略のことは明示的にはここでは語られていないが、私がもっとも適応的とイメージしている投資方針のエッセンスがこの一連の文章で語られている。 どういうことか? 私の著作「稼ぐ経済学」を、その含意まで汲み尽くして頂けた方は、お分かりになるのではなかろうか。
 
各種の市場相場の先行き、上がるか下がるかは所詮不確実だ。「専門家」と言われるアナリストやストラテジストの予測も、極めて精度の低い予測でしかない。 
 
ただし常に全く予測不可能という状態でもない。ある程度の蓋然性で資産価格の割高(将来は下がる)、割安(将来は上がる)という判断ができる局面も時々はある。
 
そういう市場の本来的な性質を前提にすれば、投資家の適応戦略としての合理的な投資手法はどのようなものになり得るか、これが私の一貫した問題意識だ。
 
株式銘柄の分散から、長期債券と株式、不動産などポートフォリオのリスク分散方針は、短期的な変動に資産価値が過度に揺さぶられることを防ぐという意味で、ポートフォリオのホメオスタシス(恒常性)を維持する操作だ。
 
投資家のリターン向上のためには、安く買って高く売ることが必要であるから、長期的な相場変動の波の中で、相場が著しく高くなった局面では段階的に売り上がる。大きく下がった場面では段階的に購入する。これは長期的な相場変動に対応してポートフォリオのなかみを少しずつ事後的に修正するフィードバック操作である。
 
一番不適応な操作方針は、本来不確実な環境であるにもかかわらず、「上がりそう?下がりそう?」という精度の極めて悪い短期予想に依存して売買を繰り返すことだ。その結果、ポートフォリオの価値は過度に不安定化し、その安定的な成長を損なってしまう。
 
このように言い換えると、上記の一連の説明は私のイメージする投資戦略にぴたりと当てはまる至言のように感じるのだ(^。^)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

本日の日本経済新聞M&I「積立投資 今期と工夫」(北沢千秋編集委員)で私のインタビュー内容(修正積立法)が紹介されています。
http://www.nikkei.com/paper/article/?b=20140806&ng=DGKDZO75262240V00C14A8PPE000

日本株については、定額積立法で1990年から毎月投資しても、その投資リターンは例えば10年物国債投資より低い、というハイリスク・ハイリターンの原理に反する状況が長期に持続してきました。

そうした状況に対するひとつの対応として「修正積立法」を考案し、このブログと雑誌(エコノミスト)で過去説明・提案してきました。

記事引用:「(4)や(5)のパターンで収益率が高かったのは、ドルコスト平均法の特徴である「高値づかみの回避」と「安値拾い」がうまく機能したからだ。

この機能をさらに生かせば投資効率の向上が期待できる。龍谷大学の竹中正治教授が提唱する「修正積立法」だ。

方法は、月末に評価損が2割を超えていたら投資額を4倍の4万円にして、反対に評価益が2割を超えていたら2万円分のファンドを売却する、というもの。評価損益率で機械的に投資額を決めるので、主観が入る余地はない。

実際には資金の制約もあるので、評価損が2割を超えたときの投資額は2万円として、日経平均連動型ファンドに10年前から積立投資したケースを試算した(表C)。 結果は累積投資額が131万円で、最終的な資産額(ファンドの評価額と売却益合計)は約183万円。年率リターンは3.5%に改善した。

日経平均が8000円台で低迷したのはリーマン危機後のように、市場が総悲観に陥っているとき。そんなときに買い増すのは勇気がいるが、「株式は不況期に安値で買い、好況入りした後に高値で売る」のが竹中氏の考え方。「米国株のように長期的に右肩上がりの上昇が期待できない日本株で投資効率を上げるには工夫が必要」と主張する。」
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記事に書かれている通り「株式は不況の時(自分の株価ポートフォリオが評価損を出している時)に買い、好況の時(評価益になっている時)に売る」が私の投資原理、簡単なことなんですが、なぜかできる方は少ない。やはり人間って「目先のニンジンを追いかけるバイアス」が強く働いているからでしょうね(^_^;)
 
提唱しておきながら言うのもなんですが、この投資方針が普及して多数派になることは、まずないだろうと私は確信しています。 その最大の理由は、目先の短期的な利益を追いかけるという人間の本性に根ざしたバイアスに人間の多数派が支配されているからです。
 
「株式市場の平均的な投資リターンを上回るような投資手法が開発されても、それはすぐに真似されることによって必ず有効性が消滅する」 これは効率的市場仮説が核にしている命題です。ところが人間には長い進化の過程で形成されたヒューリスティック(heuristic)な思考法、選択法に支配されていますよね。 
 
このヒューリスティックなバイアスというのは、ほとんどDNAのレベルに根ざしているから、合理的な思考法を教育されても、多数派の人間はそのバイアス(例えば「目先のニンジン・バイアス」)から逃れることができない。従って真似できない有効な投資法が存在する余地がある、というのが効率的市場仮説の命題の「大穴」だという結論に私は辿りつきました。 
 
逆にいうと「目先のニンジン・バイアス」からある程度解放された人間は、長期投資で市場平均を上回る投資を実現できるチャンスがあるというこになります。 というわけで、「目先のニンジン・バイアス」の克服が人生における重要な修行課題というわけです。投資に限ったことじゃありませんがね。
 
私もまだまだ修行途上、がんばりましょう(^。^)
 
修正積立投資法に関しては過去のブログ、以下ご参照
 
 
「目先のニンジン・バイアス」は私の表現ですが、以下の図書が参考になります。
 
追記(8月10日):上記の日経記事がweb版10付けに再掲され、「マネー記事」のアクセスランキングのトップになっている。http://www.nikkei.com/money/features/37.aspx?g=DGXMZO7526224005082014PPE001&df=1
 
 
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