たけなかまさはるブログ

Yahooブログから2019年8月に引っ越しました。

2014年10月

相対的購買力平価(以下相対的PPP)の概念と図表について、私は著書やその他の著作の中で繰り返し紹介してきた。
私が以前勤めていた国際通貨研究所のホームページで継続的に更新・公開し、日経新聞などでも繰り返し取り上げて頂いた結果、多少世間的にも知られるようになってきた。
 
↓(公益財団法人)国際通貨研究所、ホームページ、相対的購買力平価図表
 
とりわけ、現在のドル円相場のように100円台前半の膠着相場を抜けて水準変化が生じるような局面では、新しい水準観を求めて改めてこの図に関心を払う方が増えるようだ。
 
ところがその図の見方に付いては、肝心な点で誤解している方が多い。これは以前当ブログでも説明したのだが、「見た目に惑わされる」という勘違いというのは実に根強いもので、為替相場について何かしらのことを書いているエコノミスト、アナリストの間にも勘違いしている方がいるようだ。
ここで改めて取り上げておこう。
 
以前のブログ(2013年6月)
 
ここで説明することは新著「稼ぐ経済学~黄金の波に乗る知の技法」の4章(p126~128)に書いてあるので、既にご購入下さった方は、そこを読んで頂きたい。
 
【罫線分析のイメージでPPP図表を見ることの間違い】 
よくある勘違いは、例えばドル円の企業物価指数(米国では生産者物価指数)をベースにしたPPPをドル相場の「上値のメド」あるいは「抵抗線」、それよりもドル安の水準である輸出物価ベースのPPPをドル「下値のメド」あるいは「支持線」のようにチャート(罫線)のイメージで理解することだ。
なぜそうした理解が不適切なのか、説明しよう。
 
相対的PPPは以下のように計算される。
 
PPP=起点時点の為替相場×自国の物価指数/外国の物価指数
(起点時点の物価指数を100として計算する)
 
この結果、相対的PPPは起点依存である。つまりどの時点を起点に選ぶかで、市場実勢相場(名目相場)とPPPの位置関係はいか様にも変わってしまう。国際通貨研究所のPPP図表はドル円について1973年を起点にしている。
 
どの時点を起点にするか次第でPPP図の姿がまるで変わってしまうことは、上記の以前のブログに添付した1995年3月起点のPPP図表を 国際通貨研究所のPPP図表(1973年起点)と比較すれば一目瞭然だろう。
 
この1995年という円高に傾斜した時点を起点にしたPPPでみると、市場の円相場はいつも円安にバイアスがかかった動きをしていることになる。しかしそれは間違いで、実は円高にバイアスのかかった1995年3月が起点になっているからそう見るだけだ。
 
どの時点がPPPの計算時点として最もふさわしいのか、その点については「日本の経常収支不均衡が比較的小さく、変動相場制の移行年時である1973年を選んだ」と私も説明しているが、相対的な問題であり、決定的にこの年次がふさわしいと言える根拠はない。
 
起点時点を変えれば、がらりとPPPの形も水準も変わる。つまり起点次第で無数のPPP図が描けるのだから、特定のPPPグラフの形状と水準を対象に、支持線だとか抵抗線だとか言うのは合理的に考える限り意味のないことだ。
 
【実質相場指数は長期的な平均値からの乖離と回帰を繰り返す】
 
それで起点依存に陥らない見方とは、実質相場指数をつくって、その長期の平均値からの乖離度を見ると言うことだ。
 
実質相場指数=名目相場/PPP
 
つまり実質相場指数は名目相場(市場相場)のPPPからの乖離度を指数化して示したものだ。
 
実質相場指数の長期にわたる平均値をとり、この平均値からの乖離を見ることで、当該通貨相場の割安割高を見抜くことができる。 これならば特定時点の起点に依存せず、対象となった全期間の平均値との比較になる。その図は私のホームページで公開しているが、以下掲載図が最新のものである(2014年9月時点)。
 
もちろん、通貨相場は短期的な振れ、行き過ぎもあるので、一定の幅をフェアウエイにして見ることだ。
図ではひとつのめどとして平均値から±10%の水準に黄色の線を引いてある。
 
赤い線は過去の消費税率引き上げによる企業物価の上昇分を差し引き調整した場合のPPPによる実質相場指数だ。 消費税率による物価上昇分は通貨円の対外的な購買力には影響を与えないはずなので、それを差し引いて調整するのが望ましいだろうと考えてのことだ。
 
また、長期的な平均値自体、当然ながらこれまでの相場の変動で変化して来たものであり、絶対的なものではない。下図に緑の破線で示したのが1973年を始点にした1983年以降の平均値である。過去の各時点ではこの緑の線の水準を「長期平均」として見ていたわけだ。 
 
平均値の振れはデータ期間が長いほど安定的になる。その結果、1995年以降は平均値の振れはとても小さい。
 
【円安方向への均衡点のシフト?】
円安になると必ず、「円安方向へ長期的な均衡点がシフトした」という趣旨の主張が登場するが、惑わされてはいけない。
今後、消費税率引き上げの影響を除いたベースで、日本のインフレは2%、米国のインフレも2%程度に収束すると想定すると、PPPは横ばいになり、1970年代末から続いてきた円高ドレンドは終焉することになる。 それはPPPの横ばい推移を意味するだけだから、ドル円相場の長期的な均衡点が大幅に円安水準にシフトするようなことは意味しない。
 
また、日米の長期的なインフレ期待が変わらないまま、ドル金利が来年上昇すれば、ドル円の実質金利は格差は拡大する。実質金利格差の拡大は短期、中期的な円安・ドル高効果を生む。
 
ただしより長期では、日米のように資金の移動が自由な2国間では、実質金利の長期的な平均値は同じ水準に収束する傾向が強いことが確認できる。 実質金利格差拡大がもたらす円安・ドル高効果はあくまでも中期(1年から3年程度)のものである。 長期的には下図の実質相場指数が再びドル安・円高に戻るという予想は不動である。
 
現状の水準からの極端な円安シナリオ、例えば1ドル130円とかそれ以上のシナリオは、次のようなケースを想定しない限り起こらないだろう。
 
①日本を含む投資家一般が日本国債への信認を喪失し、日本の円建ての金融資産全体からキャピタルフライト(資本逃避)が大規模に起こる「円危機」
 
②日米のインフレ格差が逆転し、例えば米国2%、日本4%となり、そうした状態が長期に持続する。この場合は年率2%でPPPは円安方向に変動し、10年で22%円安にシフトする。
 
このようなケースの発生確率がどの程度かは、事前に推計しようもない。超長期のタイムスパンで考えれば、そういう時代の到来可能性もゼロではないだろう。しかし現時点では極めて可能性の低いシナリオだと考えるのが妥当だろう。
 
補足(10月26日):現在の私のドル資産に対するドル売りヘッジ比率は70%です。今回、最初の108円台で売ったヘッジ売りは106円台で買い戻しました。来年、本当にドル金利が上がるようになってきたら115円前後までもしかしたらあるかなという見込みで、残り30%未ヘッジ分を売り上がる方針です。
 
 
 
イメージ 1
 
 
 

米国の株価指数S&P500のオプション・ボラティリティを指数化したVIX指数が先週金曜日のNY引け値で21%に達した。
 
 
当ブログのリピーターの方々は思い出して下さるだろうが、VIX21%という水準について、私は7月の当コラムとYahooニュース(個人)で次のような語っている。
http://blogs.yahoo.co.jp/takenaka1221/19227124.html (今年7月の当ブログ)
 
引用:「VIX指数には投資家のリスク許容度の指数としての意味もあり、投資家のリスク許容度が拡大している時(投資家のオプション購入需要は減少する)は下がり、リスク許容度が縮小している時は(投資家のオプション購入需要が増加する)上昇する。
 
昨年9月頃までは16~17%だったVIX指数は、その後株価の続騰に連れて低下し、7月16日の引け値は歴史的にも11.0%と極めて低い水準となった。翌日のウクライナでの民間航空機撃墜の報で一瞬15%まで急騰したが、18日金曜日のNYでは12%近辺まで再び下がった。
 
ちなみに、VIX指数の2000年1月以来の平均値は21%である。
さて、更新した回帰分析の結果、現実値>推計値の乖離がほとんど消えたので、「現在の米国株価は過大評価ではない」と判断して良いだろうか? いやいや、そう能天気に楽観はできない。
 
なぜかというと、問題はVIX指数が超低位水準にあることだ。述べたとおり、VIX指数の2000年1月以来の平均値は21%だ。そして回帰分析の結果では、1ポイントのVIX指数の上昇は0.9%のS&P500の下落に対応している。この関係性は前回の回帰結果でもほぼ同様だから、比較的安定していると見ていいだろう。(回帰結果は下段の表、参照)
 
つまり7月16日に11%だったVIXが長期平均値の21%に戻るだけで、株価指数は9%も下落するのだ。もちろんこの関係性は確率的なものであり、バラツキがある。回帰分析が示す標準誤差は9.4%だ。これは2/3の確率で現実値と推計値の乖離はプラスマイナス9.4%の範囲に収まることを意味している。
 
以上、まとめると米国の景気回復が持続し、企業収益やEPSの改善トレンドが持続することを前提にしても、投資家層にとって「肝を冷やす」ような事態が起こり、VIX指数が長期の平均値前後に戻るようなことが起これば、株価が直近の高値から大雑把に言って10%前後反落しても、不思議でもなんでもないということになる。 」
 
太字までつけて強調した(後から太字にしたんじゃないよ。書いた当初から太字です)。
S&P500の10日(金曜日)のNY引け値は、高値から5%ほど下落している。だからまだ下げ余地はありそうだということになる。
 
過去のS&P500の反落を大雑把に頻度で分類すると次のようなめどができるだろうか(かなりアバウトです)。
 
直近高値から
5%前後の反落 : 小反落 (1年間に複数回)
10%前後の反落: 中反落 (1年に一回あるかないか)
20%以上の反落: 大反落・暴落   (数年に1回、例:2018-19年、2001-02年、1987年)
 
今回は中反落ぐらいまでいくだろうか?
その場合の方針は9月のロイター社コラムに書いた通り。
 
引用:「来年にかけて直近高値から5―10%程度の反落場面があれば、このヘッジ持高を手仕舞い、ヘッジ益を稼ぐつもりだ。もし幸運にもブラックマンデーのように30%も下落するような大暴落に遭遇したら、その時は手持ちのキャッシュをぶち込んで盛大になんぴんしようか。」
 
それでは皆様、Good luck !
 
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takenakamasaharu/  Yahooニュース個人
↑New!YouTube(ダイビング動画)(^^)v
 

タイラーコーエン著の「大格差(Average Is Over)」(NTT出版2014年)を読んだ。
主たる内容は、情報技術革命、とりわけ人工知能の急速な発達が所得格差の一層の拡大をもたらすという技術革新による経済格差論だ。
 
つまり従来のホワイトカラー・ミドルクラスの仕事を機械が代替する傾向が今後ますます進む。その結果、これまでのミドルクラスは、低賃金の現場労働者と高付加価値の知的創造的労働者に2極化していく。
人工知能の急速な発達で、医師や法律家、エコノミストなどの業務領域もコンベンショナルな業務から次第に人工知能に代替されていく。
そうした技術環境の中で、優位に立ち高所得を享受できるのは、人工知能の機能をフルに活用しながらそれと協業できる業務クラスの人材である、という内容だ。
 
これは近年では目新しい説ではない。最近読んだ同分野の関連書籍としては、
 「機械との競争(Race Against The Machine)」 (日経BP社、2013年)などがある。
 
むしろ私の目を引いたのは最終章である第12章の「新しい社会契約」だ。経済格差が一層広がると、その果てに社会はどのような社会になるのか? 格差の拡大に怒った大衆の反逆が頻繁に起こり、政治的な激変が起こり得るのか、あるいは別のコースとなるのか、この部分の見解だ。
 
コーエンの見解は米国の保守派の見方をある程度代表するものであり、例えばリベラル派の中でもかなり極端な(少なくとも米国の政治的な位置では)レフトウィングを代表するPクルーグマンの見解と鋭く対立する。この点が興味深いので、以下まとめておこう。
 
「格差はつくられた」 クルーグマン
この点に関するPクルーグマンの主張は「格差はつくられた(The Conscience of a Liberal)」 (早川書房、2008年)にまとめられている。
 
クルーグマンにとって米国の現代政治史上の最大の謎は、共和党がその富裕層とビッグビジネス優先の政策にもかかわらず、大衆的な支持を、しかも富裕でもなんでもない層の支持まで獲得、維持することに成功してきたことだ。この問題に対する同氏の直近の見解が本書にまとめられている。
 
まず技術革新やグローバリゼーションと経済格差の関係について、従来は同氏も技術革新&グローバリゼーション⇒所得格差拡大という因果関係をある程度受け入れていたが、逆ではないかと考えるに至ったという。 つまり共和党がより先鋭に保守化した結果生じた「党派主義という政治的な変化こそが経済的な不平等と格差の大きな要因なのではないか」(P10)
 
その結果実現した政策が、例えば80年代のレーガン政権や2000年代のブッシュ政権による富裕層優遇の大減税や所得税の累進税率のフラット化(あるいは逆転)である。
 
そして共和党がその富裕層とビッグビジネス優先の政策にもかかわらず、米国の大衆的支持、富裕でもない草の根保守層の支持を維持してこられた理由を以下のようにまとめる。
 
戦後1970年頃までは経済的な成長と格差の縮小、あるいはすくなくとも成長の比較的平等な分配が実現したが、1980年代はレーガン政権の下で、所得格差の拡大が急速に進み始めた時期だ。ところが同時に、この時期は保守派ムーブメントが大いに強まった時期でもある。
 
「『保守派ムーブメント』は、一般大衆の感情にアピールする2つのことを見出し、広い大衆支持基盤を掘り起こすことに成功したのである。その2つとは白人の黒人解放運動に対する反発と、共産主義に対する被害妄想であった。」(P82)
 
要するに共和党は、この2つの大衆的な情念を巧みに利用するのとにより、その反大衆的な経済政策から大衆有権者の目をそらすことに成功したのだという。
 
この主張は、同書の9章でさらに詳述されるのであるが、私は十分に合点がいかず、ずっと考え続けていた問題だ。 たとえば、黒人の公民権運動が勃興した1960年代には、人種差別的な感覚からそれに反発する白人層が、低所得者層にも広がった。 
 
民主党は公民権運動を支持するリベラルな立場をとった。南部の諸州は伝統的には民主党の支持基盤が強い地域だったが、これを機に南部の中・低所得層の白人(従来の民主党の支持層)が、公民権運動に寛容ではない共和党の支持に転換するという政治的に大きな変化が生じた。これは米国政治史の常識だ。
 
しかし私は思うのだが、その変化のインパクトは60年代がピークであり、70年代まで影響が持続したとしても、80年代以降の今日まで保守派の政治的な武器として強い効果を発揮していると考えるのは、かなり無理がある。なにしろ、今や黒人が大統領になった時代なのである。
 
もうひとつの「共産主義に対する被害妄想」については、80年代にはレーガン大統領がソ連を「悪の帝国」と呼び、「ソ連を圧倒する軍事力を築く」という扇動が大衆にもある程度の効果を持ったと考えられる。しかしソ連は91年には崩壊し、米国を脅かす超大国ではなくなってしまった。
 
にもかかわらず、2010年代の今日まで共和党が大衆的な支持基盤を維持している。その理由はクルーグマンの説では上手く説明できないだろう。
 
クルーグマンの志向するリベラルは、ミドルクラス社会への回帰である。(P239) その観点から経済格差の拡大、ミドルクラスの解体・2極化は、自由な米国社会の優位点である「機会の平等」も損ない、民主主義的な政体の基盤すら掘り崩す危機への道だとして警鐘を鳴らす。この点は、私も共感できる。
 
「経済格差の拡大は怒れる大衆の反逆ではなく、むしろ社会の保守化を進める」 コーエン
コーエンは上記著書で、クルーグマンとは真逆の社会変化をイメージしている。
まず、上述した技術革新の波は、おそらく人口の10~15%の人々にますます経済的な豊かさをもたらし、それ以外の人々の所得は頭打ち、あるいは減少するかもしれないという。(P275) つまり2極化は1%対99%ではなく、15%対85%だという。
 
経済的格差の結果、低所得者層は住宅コストの安い地域へ移動する。米国はもともと所得階層による地域の住み分けが、日本よりもずっと進んでいる社会だが、そうした住み分けがますます進むということになる。
 
「所得の2極化が進み、多くの高齢者と貧困層が家賃の安い土地に住むようになる未来。そういう時代に、政治はどのようなものになるか?」
「アメリカ社会が抗議活動に引き裂かれ、ことによると政治的暴力が吹き荒れると予測する論者も多い。 しかし私の見方は違う・・・・アメリカ社会はもっと保守的になると、私は予想している。政治的に保守的になり、変化を好まなくなるのだ。」(P300)
 
保守化の理由の第1は、米国でも進む高齢化だ。革命や抗議運動は血気盛んな若い世代がやることであり、高齢者層は中・低所得層も変化を好まない保守的な傾向が強いからだ。
 
第2の理由は、人間の格差に対する感覚は、同じ地域や職場の同僚など自分に極めて身近な存在と自分を比較することから生じるものであり、そもそも中位・下位所得の大衆はスーパーリッチな階層や高学歴インテリの富裕層と自分を比較して不満を募らせるようなことはないのだという。
 
社会不安の度合いを数値で評価すると、犯罪率がひとつの指標になるが、米国の犯罪率は過去数十年間にわたり低下してきた。格差が拡大したからと言って、米国のように絶対水準が豊かな国では社会秩序が悪化、不安定化するとは限らないことを歴史が語っている。(P302)
 
実際、戦後米国でデモと暴動の嵐が吹き荒れたのは、60年代から70年代であり、リベラル派が所得格差が縮小した、あるいは経済成長の成果が比較的平等に分配された時代ではないかという。
 
「左派の論者(あきらかにクルーグマンらをイメージしている)は、格差に手を打たなければ、人々が力で問題を解決しようとするだろうと主張する。 ・・・・この種の主張をする人たちは、そうした暴力の影を利用してみずからの主張に力をもたせよとしている」(P303)
 
「アメリカでいま保守主義の力が最も強いのは、所得水準と教育水準が最も低く、ブルーカラー労働者の割合が最も多く、経済状況が最も厳しい地域だ。」
「一方、最もリベラルなのは、高所得の専門職が多い都市部や都市郊外の住宅地だ。」(P305)
 
「低所得層は2つのグループに分かれる。一方は、極端な保守主義を信奉する人たち、もう一方は、民主党穏健派が支持する社会福祉制度を頼りにする人たちだ」(P306)
 
以上、対極的な見解を紹介した。
私自身はこの問題をどう考えるかというと、健全なミドルクラスを分解させてはならないというクルーグマンの信条には惹かれる。一方、上述の通り、クルーグマンの説明には無理を感じており、経済格差がもたらす社会・政治的な変化の事実認識の点ではコーエンの見解の方が説得力があると思う。
 
この問題、日本について考えるとどうなのか?長くなったので、それはまたの機会に。
 
追記:
コーエンの著作の最後に若田部昌澄教授(早稲田大学政治経済学術院)が解説を寄せて、以下のように語っている。「仮にコンピュータ化と機会の勃興の加速化という診断を認め、かつ政治システム改革を前提としなくても、もう少し政策には改善の余地があるかもしれない」(P338)
 
このコメントは経済成長率と格差問題の双方に関しているようであるが、この指摘の通り、技術革新による格差の拡大がたとえ必然的な傾向あろうとも、税制や社会保障給付のあり方を調整すれば、たとえグローバル化の時代とは言え、一国内で経済的な格差の拡大を抑制することは政策技術的には可能であろう。
 
「21世紀の資本主義」のピケッティ氏は所得再分配のための「グローバルな累進課税制度」という到底実現不可能な政策を提起しているが、富裕層の税率が少々高いからと言って、海外に移籍してしまう富裕層は極々少数に過ぎない。むしろ問題はどの程度の格差抑制が望ましいのか、そのためのコストを社会各層がどのように負担するのか、その点の国民的合意を形成することが難しいことであろう。
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

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