たけなかまさはるブログ

Yahooブログから2019年8月に引っ越しました。

2015年08月

毎度のトムソン・ロイター社のコラムです。ただ今掲載されました。


冒頭部分引用:「以下の4つの事情で、中国経済の成長率は深刻な下方屈折を起こしている。構造的な変化に適応しなくてはならない中国の苦しい過程は始まったばかりだ。他の国々も程度の違いこそあれ中国経済の失速から受ける実体経済面の負のインパクトに備える必要がある。また、新興国投資全般は当分の間、高リスク・低リターンの「冬の時代」に入るだろう。順番に説明しよう・・・」


結論部分引用:「今回の中国ショックは投資家層が中国の経済成長率の将来期待(予想)を下方シフトさせた結果であると同時に、BRICSブームに代表される大型新興国投資の「冬の時代」の到来を示唆していると思われる。

これら諸国の株価や対ドル為替相場も、アジア通貨危機時のような激発性の暴落は回避されるかもしれないが、軟調基調が続き、高リスク・低リターンを余儀なくされる期間が長期化しよう。新興国への株式投資をするのであれば、これからが買い場なのかもしれない。ただし、リターンを上げるまでに相当長い期間の辛抱が必要になりそうだ。

一方で、米国で9月に利上げが行われるかどうか、今回の事態で微妙になったと言われるが、2008年の金融危機から7年を経て、今では米国経済に目立った金融的な不均衡や脆弱性は見られない。
記述の通り中国の内需低迷、輸入減少の負の影響度も米国は最も軽微である。

また、日本は追加的な経済対策がなければ対中輸出減少による負の影響をある程度免れない。米国経済全般の相対的な優位が持続することになろう。」

以下掲載の上段の図はロイターと同じです。
下段の図は、OECD合成景気動向指数とMSCI-Emerging ETF(ドル建て)の変化の相関関係を示したものです。ロイターには図表を1つしか掲載できない制約があるので、このブログで掲載しておきます。

一点言い添えると、日本の景気動向指数(先行)がTOPIX株価指数をひとつの項目として含んでいると同様に、OECDの合成景気動向指数も国によって株価指数をひとつの項目として含んでいるので、ある程度の相関関係が出るのは当然です。それでも株価は大局的な景気動向全般に連動していることを散布図は示していると思います。

追記:ロイター社のサイトは他社のサイトへのURLの添付を会社の方針として許容していないので、代わりに本文中で引用した重要な資料や記事のURLをここにはっておきます。
既存大手メディアって、引用が雑だったり、不親切なんですよね(^_^;)

The Guaradian
The Economist
JCER(ただし当該資料の掲載されたフルレポートは会員限りでした)


 
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8月21日(金)の中国でのPMI指数が6年半ぶりの低さとなったという発表を契機にした世界の株価の急落、とりあえず短期的な底を打った感じにはなってきた。そこで8月28日の引値ベースで各国主要株価指数と新興国株価の合成指数であるMSCI-Emerging連動ETF(ドル建て)の騰落率を一覧にしてみた。

上段の表は年初来の騰落率で順番にしてある。これを見ると日経平均はプラス9.9%とトップの位置にある。ボトム4つは、台湾、MSCI-Emerging ETF、シンガポール、香港と並ぶ。

中段の図は今年の高値からの下落率の小さい順に並べてある。日経平均はマイナス8.3%で下落率の小ささでは米国(S&P500)に次いで2番目である。 ボトムには中国、香港、MSCI-Emerging、台湾が並ぶ。

下段は7月31日比の騰落率だ。日経平均はマイナス7.0%で上から4番めだ。ボトムには香港、中国、MSCI-Emergingが並ぶ。

まだ1週間しか経っていないが、以上の状況を素直に読み取る限り、今回の世界同時急落は中国を中心とする中華経済圏に対する投資家の景気、経済成長への期待(予想)が大幅に下方修正されたことが背景にあると理解して良いだろう。日本を含む先進国の株価は、その負の影響を受けたのだ。

この点で野口由紀夫氏は以下のように語っている。

引用:「確かに、表面的に見る限り、世界の株式市場での値下がりを引き起こしているのは、上海株式市場での株価下落が収まらないことだ。
 しかし、現在生じていることは、短期的・一時的現象として捉えるのでなく、長期的な展望の中で捉えるべきだ。具体的には、「リーマンショック後続いてきた金融市場での世界的なバブルの終了」と捉えるべきである。現在生じている株価下落は、リーマンショック後の新しい均衡を求める動きである。・・・アメリカの金融政策は投機を煽った。」

問題の核心が米国の3次にわたる量的金融緩和とそれによる株式バブルであるならば、米国株の下落が一番大きくなるのが自然であろう。また、2013年から同様に大胆な量的金融緩和と円安への転換で株価が上昇してきた日本の株価の下落幅も並んで大きくなるのが自然な帰結だと思うが、事実は反対なのだ。

一方、小幡績氏は以下のように述べている。
引用:「今回の株式市場の暴落が、中国の金融政策によるものではなく、米国の利上げという金融政策によるものでもなく、純粋に、中国経済の後退を中心とする世界的な新興国の実体経済の低迷が理由だからだ。この暴落は、ある意味静かで怖い。
 
最後に、なぜ日本の株価がなぜ世界の主要国で一番下がるかを述べよう。それは、日本が一番上がってきたからである。日銀が買う、GPIFが買う、という理由で海外の投資家が買い、GPIFが買うから海外の投資家が買うから、と言う理由で国内の投資家も買い、個人の投資経験の浅い人々も、最後にその流れに乗ってきた。

だから、下がり始めれば、日本だけは、金融的なセンチメントでも下がるのである。・・・今後、株価は乱高下と言うよりは、次第にいったん戻したり、また下がったり、という一進一退を繰り返すようになるだろう。そのときに、明示的な、大きなネガティブショックが来たときが、大きく崩壊するときだ。それは日本発ではなく、中国か米国発だろうが、そのときに一番下がるのは日本であろう。」

前段の理解には大いに賛同するのだが、日本株が一番下がるという主張は、とりあえずこの1週間は真逆に外れているし、その理由づけもあまりに粗雑過ぎてほとんど説明になっていない。アベノミクスは失敗すると言い続けてきた方だから、ここで「日本株暴落論」で当てて一気に憂さを晴らしたいと思っているだけではないかと勘繰りたくなる。

もっともまだ中国ショックから1週間経ったに過ぎない。1か月後、6か月後、1年後にまた振り返ってレビューしてみよう。

私自身の直近の見方を言うと、日本株については悲観的な見方はまだしていないが、日経平均2万円前後の水準からは、それほど強気・楽観的にはなれない。中国の経済成長の下方屈折は深刻で長期化すると思う。この点については来週トムソン・ロイターのコラムで詳述する予定だ。
請う御期待。

 
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今回の世界的な株価急落はチャイナ・ショックと呼ぶのが良いだろう。
中国経済の失速というじわじわ続いていたトレンドの上で起こったことであるが、直近のニュースとしては8月21日に報道された8月の中国PMIが6年半ぶりの低さという報道だろう。

引用:「【北京】中国の経済メディア「財新」と調査会社マークイットが21日発表した8月の中国製造業景況指数(PMI)速報値は47.1と6年5カ月ぶりの低水準となり、7月確報値の47.8から低下した。」

中国の第2四半期の実質GDP成長率、政府公表の7.0%(前年同期比)を額面通りに信じる人はエコノミストを含めて少なかったと思うが、このデータを見て「やっぱり政府公表より相当に悪い」と悲観的なシナリオに舵を切る投資家が増えたようだ。

私はさらにVIX指数のNY市場での21日引け値が28%に急騰したのを見て(前週末は12.8%だった)、今週は(8月24日の週)市場参加者のロスカットが炸裂するような週になると、そしてさらに大波乱相場は最低数週間続くだろうなと思った。

VIX指数は、このブログでも過去に紹介してきた指数であるが、S&P500株価指数をベースにした株オプションのインプライド・ボラティリティーを指数化したものだ。投資家のリスク回避姿勢が強まればオプションは買われ、オプション料算出の主要な変数となるボラティリティは上昇する。逆は逆である。
(VIX指数推移  ↑)

このVIX指数は株価の短期的な変動と非常に高い負の相関関係がある。
上段の図は、S&P500株価指数の変化(前週末比%)とVIX指数の変化(対前週末差分)の相関関係を示している。

相関係数(R)はマイナス0.765、決定係数(R2)は0.586、これは株価指数の変化の60%近くはVIXの変化(その背景にある投資家のリスク許容度の変化)で説明できることを意味している。
近似線の傾きから、VIXの10ポイントの上昇は、株価指数の6.2%下落(週間変化)をもたらすことを意味している。赤い点が8月21日時点のものだ。近似線の上に位置しており、株価指数は「下げ足りない」ことを示唆している。

このVIX指数はS&P500を対象にしたものだが、それ以外の株価とも高い負の相関度を示している。
2番目の図は、途上国の合成株価指数であるMSCI-Emergingの週間の変化とVIXの変化の関係を示したものだ。
(MSCI-E  ↑)
 
相関係数はマイナス0.723、決定係数0.523と高い。また近似線の傾きはS&P500よりも傾斜が強く、VIX指数10ポイントの上昇は株価指数8.3%(週間変化)の下落に対応している。やはり8月21日時点の位置(赤い点)が近似線の上方にあり、このVIXの水準を前提とする限り、株価は下げ足りていない。

VIXは日本株、日経平均の変化とも負の相関関係が見られる(3番目の図)。1990年から相関係数の変化を測ると、局面により相関係数はかなり変動するものの、その相関係数の近似線はきれいにマイナス1に向けて下がってきており、関係性のすう勢的な上昇が見られる(4番目の図)。

要するに、グローバル投資が活発化するにつれて、各国の株式相場は連動性を高めて来たということだろう。

またVIXの特徴として、①長期では一定の平均値に収束する、②株価の上昇時には低下し、株価の下落時には上昇する、③一度跳ね上がる(相場は荒れる)としばらく(平均で数週間は)高い状態が持続する(相場は荒れ続ける)、という特徴がある。やはり相場はランダムではなく、変動性の低い時期と変動性の高い時期を繰り返す傾向があるようだ。

というわけで、投資家のリスク許容度を反映していると考えられるVIXに注目すると、目先数週間は続落を含む荒れた相場となる。

関連してドル円相場の通貨オプションのインプライド・ボラティリティは、多くの場合は、ドル上昇(円安)局面では下落し、ドル下落(円高)局面では上昇する強い傾向がある。これはドル資産・円負債の持高(含むオフバランス取引)を保有している市場参加者が多数だからそうなるのだ。つまりドル下落(円高)→損失発生→リスク回避(リスク許容度低下)→オプション買いニーズ増加(オプション売り供給減少)→ボラティリティ上昇となるわけだ。 逆は逆である。

また、今回のような全般的な株価下落の局面で、円高になる説明として、あいかわらずメディアは「消去法で円が買われている」という陳腐な解説をしているが、意味のない講釈だ。 上記同様にドル資産・円負債(日本の多くの投資家はこのサイドである)の持高を保有する市場参加者が多数の場合は、ドル下落→損失発生→リスク回避(リスク許容度低下)→既存のリスク持高の縮小→ドル売り・円買いとなるのが実情である。


もちろん、経済の諸要因間の関係は相互依存的だから、相場の下落→ボラの上昇(リスク許容度の低下)→相場のさらなる下落というループ(フィードバック)が働いていると理解すべきだ。


中長期的には?

より中長期的に、これが株価の上昇トレンドの終焉、下げトレンドの始まりなるかどうかは、実体経済の動向、つまり景気回復が頓挫するかどうかに依存している。米国について、私は景気後退への転換リスクは非常に低いと思っている。 日本についても景気回復シナリオを維持しているが、今回のチャイナ・ショックの影響度次第の面もあり、米国ほどには楽観的にはなれない。

投資方針は、日本株についてはかねてより売り上がり、日経平均2万円台でもかなり売って軽くしたので、買戻し余力は大いにあるが様子見である。利食った資金はマンション投資のローン返済に充てることにしよう。

米国株についてはNYダウベアETN(東証上場)を買って20%ほどヘッジ持高(一部ポジションを回転売買させて持値を改善しながら昨年より引っ張ってきた持高)を維持してきたので、本日ヘッジ10%分のETNを売って解消した。残り10%も様子を見ながら売る予定だ(ETNの利食い)。

ドル資産の為替リスクについては、ほぼ100%近くFXのドル売りでヘッジしているので目立って操作することはないが、120円を大きく割れこんだら、少しだけヘッジ率を下げて(ドルを買い戻して)トレーディング的な回転(上がったらまた売る)をするかもしれない。

皆様のご好運をお祈りします(^^)/

追記:本件記載(24日午後10時)後、24日のNY市場ではVIXは40を超えた。これはリーマンショック時ほどではないが、リーマンショック後の相場では2011年の欧州債務危機時に匹敵する水準であり、今回のチャイナ・ショックは本格的な危機局面になってきたと言えるだろう。


http://bylines.news.yahoo.co.jp/takenakamasaharu/  Yahooニュース個人

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「市場は物理法則で動く(Forecast)」マーク・ブキャナン(2015年8月)を読んだ。共感した。
著者マーク・ブキャナンは、物理学で博士号も取得しているが、アカデミズムの研究者にはならずに、「ネイチャー」や「ニューサイエンティスト」などの編集者を経てサイエンス・ライターとして活動している。だから解説がわかりやすい。 訳文もこなれていて読みやすい。

本書のメッセージを要約すると、一般均衡理論、合理的期待形成仮説、効率的市場仮説で構築された現代の主流派(新古典派、並びにネオケインジアン)のモデルでは、大小のバブルとその崩壊を繰り返す現実の金融市場現象を解明できていない。経済学者は物理学の数理モデルの手法を経済現象にも適用してきたつもりかもしれないが、カオス現象、複雑系、非平衡現象などを対象に物理学が近年発達させてきたアプローチとは全く違う方向に進んでしまっている。

とりわけ効率的市場仮説の提唱で有名となり、ノーベル経済学賞を授与したユージン・ファーマ教授に至っては、「そもそも、バブルというのが何のことかわからない。そういう言葉はよく使われるが、とりたてて意味があるとは思えない。・・・(バブルは)予測可能な現象でなければならない。今回の現象(2007-08年の金融危機)で特に予測可能な部分があったとは思えない」(p301)と耳を疑うような発言をしている。これは台風や地震のメカニズムが完全に解明されて予測可能にならない限り、台風や地震現象について論じるのは意味がないと言っているのと同じではないかと言う。

この点は本ブログでも以前取り上げた。

効率的市場仮説の擁護については、例えばバートン・マルキールが「ウォール街のランダム・ウォーカー」の比較的新しい版で次のように強調している。すなわち、もし市場に非効率があり、それを認識することができるならば、それで超過利得が得られるはずだ。そのような非効率(価格形成のゆがみ、アノマリー)を発見したという報告もたびたび行われてきたが、それが認識されるとアノマリーは修復され、超過リターンの機会は消滅してしまう。これは市場が結局ところ効率的だからだ、と説明されている。

しかしこれは市場と市場予測の自己言及的な構造を指摘しているだけであり、使用可能なすべての情報が適切に価格に反映されていることを必ずしも意味しないだろう。著者によるとこの仮説を「効率的(effecient)」呼んでいるところに、「こずるさ」があり、もっとストレートに「市場予測不能仮説」と呼ぶべきだと言っている(p114)。確かにそうだと思う。  

私の意見を言うと、すべての情報が市場参加者に共有されていることと、その情報が適切に相場形成に反映されていることとは別事だと考えている。多数の市場参加者が悲観的なバイアスに傾いている場合は、同じ情報でも相場への反映のされ方は悲観的となり(資産価格の過小評価)、多数が楽観的な時は、楽観的な相場形成(資産価格の過大評価)を結果するからだ。 

もちろん、情報が相場に「適正」に反映されているかどうかは、ある程度時間が経過してから、つまり事後的にしか確認できないが、金融危機や不況下では多数が悲観的に、好況下では楽観的になることは、経験的によくわかっていることだ。

本書の内容に戻ると、金融現象の内在的な不安定性を解明するひとつの有力な概念は、実はシンプルでポジティブ・フィードバックだ。これは各種の需要、供給が均衡維持的に調整し合って均衡点に収束させるネガティブ・フィードバックとは逆のフィードバックであり、ロバート・シラー教授もバブルとその崩壊のメカニズムを理解する仕組みとして、かねてより強調してきたことだ。しかし主流派の経済学者は、こうした均衡破壊的なメカニズムをなぜか慎重に排除してしまう、と著者は批判している。

もう一つの概念は、異端のケインジアン、ハイマン・ミンスキーが「金融不安定性の経済学」で強調した金融レバレッジの拡大(バブル形成)と収縮(バブル崩壊)だ。主流派の既成概念を捨てて、この2つの要素に注目してモデル化して行けば、やがてバブル現象をコンピューターでシュミレーションできるようになるだろうと指摘している。 

もちろん、それはバブルの形成と崩壊がピンポイントで予測できることを意味しない。予測し、行動を変更するという人間活動としての市場の自己言及的な構造があるからだ。金融バブルに対する早期警戒警報が信頼できる筋から出るようになり、それを信頼して行動する市場参加者が増えれば、相場の高騰は抑制され、大きなバブルは回避されるようになるかもしれない。

そうした変化は、相場変動に対して順張りする(上がるから買う、下がるから売る)プレーヤーの数に対して、大局的な逆張りをするプレーヤーが増えるのと同じ効果をもたらし、相場変動はなくなりはしないが、過剰な変動性を抑制することになることが期待される。

1930年代の大恐慌は、古典派経済学の限界、無効性を露にし、変革としてケインズ経済学を生み出した。2007-08年の米国の金融危機と世界不況では、新古典派やネオケインジアン(ならびにその動学モデルとしての確率的動学一般均衡モデル、DSGE)の限界、無効性が露になっているにもかかわらず、ケインズ経済学に匹敵する新しい経済学が登場していないとも言われてきた。しかし本書はまだ大雑把ではあるが、新しい経済学の方向性を描いているように思う。

本書の内容は、ポジティブ・フィードバック、金融レバレッジなどバブルとその崩壊を繰り返す金融市場のを理解するために、私自身も著作「なぜ人は市場に踊らされるのか」などに書いてきた方向性と一致する内容が多く、共感すると同時に、とても参考になった。

本書は一般向けの解説であるが、「原注」として引用学術論文は多数掲載されており、それをたどって勉強を深めることができるだろう。本書に関連した当該著者以外の文献を以下に二つ紹介しておこう。

Financial System)」ディディエ・ソネット、2004年


(本ブログはアマゾンに筆者が寄稿したレビューを加筆したものです)

昨晩行われた戦後70年の安倍首相会見における談話、比較ポイントを3点に絞って1995年の村山談話と読み比べてみよう。

安倍談話全文:戦後70年安倍首相談話

1、どのように国策を誤ったのか?

安倍談話引用:百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。

 世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。

 当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。そして七十年前。日本は、敗戦しました。」

村山談話引用:「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。」

村山談話では「国策を誤り」と言っているだけで、どのような国際情勢の中で、どのように国策を誤ったのか、その説明が全くない。その点、安倍談話では先日公表された有識者報告をベースにその歴史的な過程が説明されている。そのことを通じて、主要な過ちが第1次世界大戦後に起こった点も明らかにされている。 戦前の日本を明治期まで遡って一括りに否定するような歴史認識の粗雑化を許さないために、これは重要な説明だろう。

2、侵略、植民地支配、反省、お詫びなど

安倍談話:「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。

 先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。

 我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。」

村山談話:「私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。」

村山談話のこの部分の主語が「私は」であるのに対して、安倍談話では「我が国は」「こうした歴代内閣の立場は、今後も、ゆるぎない」となっている。この点をさっそく日本共産党の志位委員長は「「反省」と「お詫び」も過去の歴代政権が表明したという事実に言及しただけで、首相自らの言葉としては語らないという欺瞞に満ちたものとなりました」と批判しているが、果たして公正な批判だろうか?

直接話法から間接話法になってトーンダウンしているという批判は公正か?

主語が村山談話の「私は」に代わって「我が国は」となっているが、これは首相が何らかの意味で日本を代表して語るときの語法としては全く真っ当なものであり、批判される理由が理解できない。
さらに言えば、村山元首相は1924年生まれであり、学徒出陣で日本陸軍歩兵になり、終戦時点では陸軍軍曹の階級で終戦を迎えたという戦争経験世代であったため、首相としての立場と戦争体験者の自分個人が重なり、「私は」という主語になったと理解できる。それはある意味で自然なことだ。

一方、安倍首相は戦後1954年生まれであり、戦争体験者としての「私」は存在しない。したがって自分が経験したことではないが、日本国を代表して語る首相として「我が国は」となったののも自然なことだ。反省やお詫びを弱める意図があったというのは、中傷・誹謗の類だろう。

過去形にすることでトーンダウンしているという批判は公正か?
 
この点も、「こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものでありますと語っているのだから、語っている事実に基づかない誹謗・中傷だろう。

3、戦後生まれの世代が、戦争に対する道義的な責任、お詫びを共有すべき理由はない?
前回のブログで私が取り上げたこの問題に関連して、安倍首相は談話の中で以下述べている。もちろん村山談話にはない部分だ。

引用:「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。

 首相談話でこの一言が盛り込まれたおかげで、私はほっとした。首相の語りとしてはこれで十分だろう。この点に関連して、談話後の質疑応答で産経新聞の阿比留さんがすかさず以下のフォローを入れている。

引用:「Q:今回の談話には「未来の子どもたちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」とある一方で、「世代を超えて過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません」と書かれています。ドイツのワイツゼッカー大統領の有名な演説の「歴史から目をそらさないという一方で、みずからが手を下してはいない行為について、みずからの罪を告白することはできない」と述べたのに通じるものがあると思うのですが、総理の考えをお聞かせください。

A:戦後から70年が経過しました。あの戦争には、何ら関わりのない、私たちの子や孫、その先の世代、未来の子どもたちが、
謝罪を続けなければいけないような状況そうした宿命を背負わせてはならない。これは、今を生きる私たちの世代の責任であると考えました。その思いを、談話の中にも盛り込んだところであります

しかし、それでも、なお、私たち日本人は世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければならないと考えます。まずは、何よりも、あの戦争のあと、敵であった日本に善意や支援の手を差し伸べ、国際社会に導いてくれた国々、その寛容な心に対して、感謝すべきであり、その感謝の気持ちは、世代を超えて忘れてはならないと考えています。

同時に過去を反省すべきであります。歴史の教訓を、深く胸に刻み、よりよい未来を切り開いていく、アジア、そして、世界の平和と繁栄に力を尽くす、その大きな責任があると思っています。そうした思いについても、合わせて今回の談話に盛り込んだところであります。」

TVで談話と質疑応答を見ていて、この部分で溜飲が下がる思いだった。これでいいだろう。

最後にもう一点、「安保関連法案で支持率が低下して来たので、首相は自身の真意を曲げて、妥協した内容を語ったのだ」という非難の仕方がある。 しかしこれは語るに値しない非難だ。

有権者としての私にとって首相の個人的な心情などには関心がない。首相という公人として、何を語り、何を行うか、それが全てだ。近代的な政治、政治家と有権者の関係、さらには国家を代表する政治家相互の関係とは、そういうものだろう。欧米の政治家もみなそう考え、そう反応するだろう。

前述の日本共産党の立場としては、安倍談話がなんと言おうと、非難 ・反対するのが彼らの政治的な宿命のようだから、もはや論外だろう。

むしろ試されるのは韓国と中国の対応だ。英語を含む各国語で安倍首相談話は公表されるので、各国の政府関係者らも読み、中韓以外からは「これでOK」「よかった」という反応があるはずだ。この内容をもってしても、例えば韓国が対話を閉ざすというのであれば、それは韓国が意固地に日本と世界の良識に背を向けていることを露にするだけだろう。

安倍首相が行う戦後70年談話の参考となる「有識者懇談会の報告書」、全文読んだ。
正式名称は「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会(21世紀構想懇談会)による報告」である。

例えば以下のような記述には、中韓や日本の左派が批判する「歴史修正主義」の要素は微塵も感じられない。

引用:「日本は、満州事変以後、大陸への侵略1を拡大し、第一次大戦後の民族自決、戦争違法化、民主化、経済的発展主義という流れから逸脱して、世界の大勢を見失い、無謀な戦争でアジアを中心とする諸国に多くの被害を与えた。

特に中国では広範な地域で多数の犠牲者を出すことになった。また、軍部は兵士を最小限度の補給も武器もなしに戦場に送り出したうえ、捕虜にとられることを許さず、死に至らしめたことも少なくなかった。
広島・長崎・東京大空襲ばかりではなく、日本全国の多数の都市が焼夷弾による空襲で焼け野原と化した。特に、沖縄は、全住民の3分の1が死亡するという凄惨な戦場となった。植民地についても、民族自決の大勢に逆行し、特に1930年代後半から、植民地支配が過酷化した。
1930年代以後の日本の政府、軍の指導者の責任は誠に重いと言わざるを得ない。」


アメリカの位置づけをめぐる二つの対立する世界観

私にとっては概ね違和感のない良くできた内容だが、安全保障関連法案に対する左派と政府の対立点は、たどって行くと結局「アメリカ」という国をどう位置付けるかで大きく分岐するのだと思う。この点、党としての見解が統一できずに、「憲法違反一点張り」で実質的な安全保障問題の議論ができない民主党は、ある意味で論外だろう。

SEALDsなどに参加している若者諸君も、以下の2つの世界観の対立の中で、自分がどちらにつくことを選ぶのか?そういう問題に行き着くことを熟考して欲しい。

懇談会報告書の見解:
1960年代までに多くの植民地が独立を達成したことにより、世界中全ての国が平等の権利を持って国際社会に参加するシステムが生まれた。そして、新たな国際社会の繁栄の原動力となった諸原則が、平和、法の支配、自由民主主義、人権尊重、自由貿易体制、民族自決、途上国の経済発展への支援であった」

上記の太字にしたポイントこそ、2度の世界大戦を経験した20世紀の教訓として継承すべきものと報告書は総括しており、その実現を主導してきたのは、アメリカとその同盟諸国である西欧並びに日本であると位置づけている。

一方、この見解と真逆の立場は、例えば日本共産党の綱領に記載された以下のようなものであろう。

引用:「アメリカが、アメリカ一国の利益を世界平和の利益と国際秩序の上に置き、国連をも無視して他国にたいする先制攻撃戦争を実行し、新しい植民地主義を持ち込もうとしていることは、重大である。   
アメリカは、「世界の警察官」と自認することによって、アメリカ中心の国際秩序と世界支配をめざすその野望を正当化しようとしているが、それは、独占資本主義に特有の帝国主義的侵略性を、ソ連の解体によってアメリカが世界の唯一の超大国となった状況のもとで、むきだしに現わしたものにほかならない。   

これらの政策と行動は、諸国民の独立と自由の原則とも、国連憲章の諸原則とも両立できない、あからさまな覇権主義、帝国主義の政策と行動である。   いま、アメリカ帝国主義は、世界の平和と安全、諸国民の主権と独立にとって最大の脅威となっている。」  

私は戦後、アメリカがやって来たことが全部正しい、正義だなんて全く思っていない。アメリカはアメリカとして自国の国益と価値観の実現を追求して来ただけだ。ただし、例えばかつてのソ連、今のロシアや、戦後の中国が世界最大の大国、覇権国家になった世界を想像して頂きたい。あるいはアメリカではなく、ソ連が戦後の日本を占領した世界を想像して頂きたい。

そして自分がそうした世界に生きることを選ぶか、あるいは今の世界に生きることを選ぶか、それを考えれば、私にとって選択は後者(今の世界)しかありえない。そういう相対比較の問題として考えているわけだ。 

日米同盟破棄は中国の戦略の上で踊るようなもの

中国ウオッチャーはみな同意するだろうが、今の中国の権力者は日米同盟を破棄させることができ、かつ米中が手を握れば、中国にとって日本などはどうにでもなる対象、赤子の手をひねるような存在になると判断し、それを戦略的に志向している。 現実の世界はパワーポリティクスだからね。日米同盟破棄を掲げるなんてのは、主観的にはそういうつもりはなくても、結局中国の思惑通りに踊ることになる。この点、間違いないと確信している。

自分が生まれる前に起こった過去の出来事に対してどうして謝罪ができるのか?

今回の報告書については中韓を含め日本の左派は村山談話にあった「おわび」や「謝罪」をすべきとの指摘がないと批判をしている。

例えば赤旗は次のように報じている。
引用:「『侵略』明記、『おわび』求めず」 「 報告書は、最大の焦点となる歴史認識について「先の大戦への痛切な反省」を明記。「植民地支配」や「侵略」という表現も記載する一方、戦後50年の村山富市首相談話(1995年)にある「おわび」の踏襲は求めませんでした」

日経新聞(8月7日)は中国の報道を以下のように報じている。
引用:「 【北京=共同】中国国営通信、新華社は2日、安倍晋三首相が今夏に発表する戦後70年談話について、先の大戦に関する「痛切な反省」を明記しても「おわび」の表明がなければ、戦後50年の村山富市首相談話と比べて「深刻な後退だ」とする記事を配信した。 記事は村山談話のキーワードが「植民地支配」「侵略」「おわび」だとし、安倍氏がこれらに言及するかどうかが注目点だとした。」

「謝罪」というのは直接か間接か選択する何かしらの自由が自分にあり、その結果に対する道義的な責任から生じることだ。 例えば全く行動の自由選択のない奴隷の立場ならば、道義的な責任も生じないので「謝罪」もあり得ない。

自分が生きている同時代のことで、自国のやった所業が他国に大いなる災いをもたらしたのであれば、たとえそれに自分が直接関与していなくても、国家としての「謝罪」の念を共有することはあり得るだろう。

しかし自分が生まれた前に起こった過去の出来事とは、自分自身には間接的にも直接的にも選択の自由が全くなかった出来事である。それに関して、どうして私を含めた戦後生まれの国民に道義的な責任や謝罪の必要性が生じるのか、論理的な説明を見聞したことが私はない。 「過去の教訓として過ちは繰り返さない」という意思の表明で十分だろう。 つまり戦後生まれの私たちのとって、問題の過去は、同時代の過去ではなく、歴史的な過去なのだ。

中韓や日本の左派が、それでも「謝罪が必要」と言うのであれば、それはどのようなロジックによるものだろうか? 自分が生まれる前のことであろうと、「国家としての連続性がある以上、戦後生まれの政府や有権者も謝罪すべきだ」と彼らは言っていることになる。つまり国家を擬人化して、その道義的な責任を追求しているわけだ。

この主張が前提とするロジックとはいかなるものだろうか?
戦中時代を描いたある再現ドラマを見ていて、はたと気が付いた。ドラマの中で「お国のために私たち国民ひとりひとりも滅私奉公しなくては」というセリフが出てきた。もちろん、これは今では国家主義的なロジックとして一部の極右の方々を除けば全く否定されているものだ。

ところが 「謝罪せよ」と主張している方々のロジックとは、まさにこの国家主義的なロジックと表裏、あるいはポジとネガの関係にあるのではなかろうか。すなわち「お国のせい(責任)なんだから、戦争の同時代の世代だろうと、戦後生まれの世代だろうと、日本国民とその政府である限り『謝罪』すべきだ」と主張していることになる。

日本の左派は右派の国家主義的なロジックを批判し続けてきたが、今に至るまで「謝罪せよ」という自らのロジックは、実は国家主義的なロジックの矛先を逆に向けただけで、同質のものだったのだ。

もちろん、国家を擬人化することには、一定範囲内での合理性もある。例えば、同様の擬人化には「法人」もある。 法人は契約の主体となり、その遵守の義務がある。国家は条約の主体となり、その遵守の義務がある。法人の契約や国家の条約は、締結後に生まれた経営者、あるいは国民・政府でも遵守しなくてはならない。

承知の通り、戦争賠償をめぐる日韓の条約は1965年の日韓基本条約であり、この条約で日本の韓国に対する経済協力が約束されると同時に、韓国の日本に対する一切の請求権の「完全かつ最終的な解決」が取り決められている。

また中国人民共和国との間では、条約よりは弱いがそれに準するものとして1972年の日中共同声明で、日本が台湾ではなく中華人民共和国政府を正当な「中国」として事実上認知すると同時に、「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄すること」が宣言されている。

これらの条約や共同声明は、国家を構成する国民が世代交代で変わっても、遵守すべき事柄であり、自国の政治情勢などの変化で一方的に破ることはあってはならないはずなのだが。

追記(8月11日): 
橘玲 公式サイト で先日の私のブログなどよりもずっと整理されて包括的な議論が全3回にわたって展開されているのを発見しました。
基本的にはサンデル教授のコミュニタリアン的な考え方(「戦後生まれでも謝罪すべき」)と、自由主義的・リバタリアン的(道徳個人主義「戦後生まれは謝罪の必要なし」)を対比しながら、サンデル教授の議論を批判的に読み解いています。

これは秀逸な内容だ。結論としては、本件についても複数の立場があり、どれが決定的に正しいのかはわからないのだが、各立場の論点と強弱が鮮明になっています。
もちろん私のブログでの今回の主張は自由主義的・リバタリアン的(道徳的個人主義)な視点からのものです。

引用:「(道徳的個人主義を批判する)サンデル教授は、『法人としての国家(共同体)は先祖の罪に対して責任を負うべきだ』と述べているのだろうか。だがそうなるとこんどは、「道徳的個人主義」に対する教授の批判が破綻してしまう。道徳的個人主義者は個人としての責任は認めないかもしれないが、法人としての責任を積極的に支持することは十分にあり得るからだ」 

この最後の部分が私の意見に一番近いです。すなわち戦後生まれの私たちは、戦争について謝罪する道義的な責任はないと考えますが、国家どうしとしてならば相応な範囲内で過去の責任を認め、賠償交渉にも対応し、その結果締結された条約や共同声明を遵守する義務がある。そして日本はそれを戦後やってきたはず、ということです。

ただしそれでも問題が残るという。

引用:「国家間の戦争の場合は、損害の規模が大きすぎて、個別のケースごとに賠償金額を算定したり、賠償すべきかどうかを決めることは明らかに非現実的だ。とはいえこのままでは永遠に紛争は解決できないので、便宜的に謝罪と賠償の対象を相手国(法人)とする方策(次善の策)が採用されることになる。これが平和条約だ。

いったん平和条約が締結されると、法人と法人のあいだの紛争は解決され、その後、追加の謝罪や賠償は要求できないとされる。過去の歴史的事象を取り上げていつでも好きなときに賠償
請求できるのでは国家間の正常な関係は成り立たないから、両国の国益を最大化するためにもこれは合理的なルールだろう。

だが私の考えによれば、ここにはの(サンデルの)「正義論」におけるきわめて深刻な問題が横たわっている。仮に国家と国家が平和条約を締結したとしても、その合意に個人(一人ひとりの被害者)が従わなくてはならないとする道徳的な根拠を提示することができないからだ」  

 最後の部分の指摘については、コミュニタリアンの立場から「生まれる前の過去の出来事にも責任がある」とするサンデル教授の正義論の問題を指摘しているわけです。 私としては、国家間の条約に個人が従わなくてはならない道徳的な根拠を示す必要が果たしてあるのか、国家間の条約は条約として国内法もそれとの整合性を求められるだけであり、道徳とは別事だということでよいのではないかと思います。

こうして見ると、共同体が共有している価値観や道徳を重視するサンデル教授のコミュニタリアンの思想は、それが強くなると左右双方の全体主義(あるいは国家主義)の考え方と親和性が高くなると思えてきました。もっともこの辺の思想状況に日本で最も詳しいと思われる井上達夫教授の近著よると、サンデルはコミュニタリアンの立場から、その後はリベラリズムに次第に接近しているそうです。それは実によかったね・・・と言っておきましょうか。

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