たけなかまさはるブログ

Yahooブログから2019年8月に引っ越しました。

2018年09月

ユヴァル・ノア・ハライの「ホモ・デウス(Homo Deus)」を読んで考えるところがあったので、ノートしておこう。

著者は前著「サピエンス」でも同様だったが、宗教についても進化論的なアプローチをしている。すなわち、「神」という観念がそれを抱いた人間集団に生存競争上の強い優位性をもたらしたので人類全体に広く普及したと考えるわけだ。

この点はホモデウスでは主に上巻で語られる。人間には客観的現実と主観的現実、そして第3に共同主観的レベルでの現実があり、神も国家もこの第3のレベルの想像上の秩序であると整理する。それは想像上の(創作された)秩序であるが、多くの人間によって共有されることで現実的な力を発揮するわけだ。そして例えば特定の神を信じることで人間は強力かつ大集団的な力を行使できるようになり、他の人間の群れに対して生存上の優位性を実現した。

この点はそれほどオリジナルな考えではなく、原理主義的な宗教者にとってはともかく、無心論的な立場からは違和感がない。例えば、経済的な諸関係から成る下部構造に対応して、諸観念から成る上部構造が形成されると説いたマルクスの唯物史観とも共通する考え方だろう。

著者のもっともラディカル(根源的)で挑戦的な視点は、この見方を近現代の自由主義的な思想にも徹底的に適用することだ。それは下巻の第7章「人間至上主義(Humanism)革命」と第8「研究室の時限爆弾」で語られる。

近代の人間至上主義革命によって、「神」への信仰は「人間性」への信仰に換わった。人々は「神の声」に耳を傾けることを止め、自分の感覚と情動と思考に注意を注ぎ、それに従うことが大切とされるようになった。自由主義的人間観の誕生である。

この人間至上主義革命によって人間観は一変したと同時に、自然現象の解明は実証主義的な科学に委ねられることになり、急速な科学テクノロジーの発達が起こり、人間至上主義を信奉する人々、集団、社会は伝統的な宗教を信奉するそれらに対して圧倒的な優位を得たわけである。

さらに著者によると、この人間至上主義は、その後に自由主義、社会主義(共産主義?)、進化論的(優生学的な?)な人間至上主義の3派に分裂した。そして21世紀の今日に支配的な思潮として生き残ったのは自由主義的な人間至上主義だ。

ところが、自由主義的な人間至上主義の根底にある人間の自由意思とは、かつての「霊的な魂」と同様に想像上の産物だと、近年の脳科学の研究成果に基づいて、著者は説く。

引用:「自由意思は私達人間が創作したさまざまな想像上の物語の中にだけ存在している」(p105)
「『自由意思』とは自分の欲望に即して振る舞うことを意味するのなら、たしかに人間には自由意思がある。そして、それはチンパンジーも犬もオウムも同じだ。」(p106)
「肝心の問題は・・・・そもそも欲望を選ぶことができるかどうか、だ。」

「特定の願望が自分の中に湧き上がってくるのを感じるのは、それが脳内の生化学的なプロセスによって生み出された感情だからだ。そのプロセスは決定論的かもしれないし、ランダムかもしれないが、自由ではない。」(p106)

この後、著者は近年の脳科学の研究成果に基づいて、私達が自分の選択を意識する前に、その選択に対応する脳内の生化学的な反応が起こっていることをあげる。

この点に関する私の読んだ他参考文献、例えば


また「単一の自己」という概念も、自由主義の神話に過ぎないことを左脳、右脳の分離の手術を行った被験者に見られる異なった2つの「自己」の存在として語る。

要するに自己には「経験する自己」と意識的に「物語る自己」の2つが異なるものと存在しており、物語る自己(解釈者)は自分が行った選択に「まことしやかな物語(解釈)」を提供する存在に過ぎない。

もちろん2つの自己は密接に絡み合っている。

引用:「物語る自己は、重要な原材料として私たちの経験を使って物語を創造する。するとそうした物語が、経験する自己が実際に何を感じるかを決める。(例えば空腹も)物語る自己によって空腹の原因として挙げられる意味次第で、実際の経験も違ってくるのだ。」(p123)
「とはいえ、私たちのほとんどは、自分を物語る自己と同一視する。」(p124)

要するに自由意思、その主体としての単一のアイデンティティがあるという認識も、それは自由主義宗教の信仰に過ぎないと著者は述べている。 中世の人間が神を信じていたことと自由意思の信仰は、人間の創作、共同主観と言う点で本質的に変わることがないということになる。

これはかなりラディカルな主張であり、それでも「他の誰でもない唯一の私自身という自己意識感覚」を持っている私達には、なかなか直感的に受け入れられない認識だろう。

著者が認めるように、人間の自己意識の謎は現代の脳科学でも未解明の問題であり、今後の科学調査の展開次第でこの点に関する見解は修正される可能性も大いにあるので断定はできないが、私は著者の見解は、とりあえずあり得そうな仮説として概ね受け入れるのが論理的だろうと思う。

振り返って考えると、例えばフロイトまで遡る意識と無意識の古典的な概念だって、意識が自分自身のプロセスの一部しか認識していないことを語っているわけで、そう考えれば「意識の全能性」などそもそも信用されていない。

私が強調したい点は、著者の次の論理が示唆する含意だ。つまり人間は「神」にしろ「自由意思」にしろ、自分の物語を創作するということだ。そして創作された物語はその人間の判断、選択、すなわち人間の在り様に対して現実的な力となる。

自分には欲望と行動を選択する自由意思があるという創作を信奉することで、それを信じる人間にその行動に対する責任感と自分の達成したい目標に向かって選択と行動を繰り返す生き様を可能にする。自由意思と言う信仰にはそれだけの価値がある。それで十分ではなかろうか。 

また別様には例えば「人間は阿弥陀仏によって無条件に救われている」など仏教の異なる各種の信仰も創作であるが、その信仰があるとないとでは、人の生き様は変わって来るだろう。人間は自分自身に対してどのような信仰を持つかによって、自分の生き様を変える相対的自由度を持っているのだということではなかろうか。

ただし、どのような信仰を創作し、それを信奉するかも、人間の自由意思ではなく、必然と偶然が織りなすプロセスの結果であり、人間の意識はそれを受動的に反映しているだけかもしれないということはできる。

すなわち、人間の意識というものは無意識下で進行する必然と偶然の生化学的なプロセスを受動的に反映するだけの完全に受動的な現象か、あるいはそれに規定されながらも相対的な自由度、意識の在り様が生化学的なプロセスに影響を与えるという逆のベクトルも持ち得るのか、という問題に帰着するように思える。

そしてこの点についても(詳細は省略するが)、意識から生化学的なプロセスに影響を与えることが可能であることを示唆、証明する多数の実証、経験があるということだ。

著者自身も最後の部分で、「新しいテクノ教」と「データ教」の台頭、その可能性を語りながら、それらの潮流が人類を大過に導かないために「3つの重要な問い」を読者が考え続けること、自著がそうした読者の意識的な努力を引き起こすことに期待を語っている。

それは正に人間の意識的な努力、思考が、何を創作し、信仰するかという作業を通じて、社会の変化に影響を与える相対的な力(自由度)を持っていることを意味するだろう。

以上

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現代ビジネスへの寄稿、掲載されました。


冒頭部分引用:「2013年以降、企業利益は過去最高の更新を続け、雇用数は増加し、失業率は2%台まで下がった。これ以上はないほどの好結果だ。ところが、消費者物価指数で前年比2%という物価目標は大幅に未達で、残念ながら今の金融政策は半分空回り状態だ(図表1参照)。
何が問題なのか、どういう選択肢があるのか、整理してみよう・・・」

 

Why is the center-left receding worldwide?
The Japan Timesに初寄稿しました。以下URL

以下に日本語版を掲載しておきます。


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なぜ中道左派は世界的に退潮しているのか 


世界的な中道左派政党の退潮


 日本では中道左派と目された民主党政権から自民党と公明党の連立による安倍内閣に換わって6年目となった。その間、旧民主党は党勢を立て直すどころか分裂し、左派の中核的なメンバーは現在、立憲民主党に集結しているが、支持率は自民党の2割前後の水準で低迷している。


 米国では今年11月の中間選挙で民主党が下院の過半数を取る可能性が高いと言われているが、ポリティカル・コレクトネスをことごとく破りながら当選した共和党トランプ大統領の再選を阻止できるほどの大統領候補を見いだせていない。 欧州各国でも中道左派としての社会民主勢力は退潮が目立ち、党勢を拡大しているのは極右勢力だ。 


その一方で、日米欧とも所得格差の拡大が指摘されている。所得格差を縮小するための所得再分配政策は、もともと左派が重視するものだった。それならば、中道左派にもっと政治的な支持が集まりそうである。ところが事態は反対で、中道左派が退潮しているのはなぜだろうか。もちろん各国各党固有の事情があるのだが、個別事情の違いを越えた共通の政治経済的な背景があるように思える。この問題に対する筆者の説明を提示しよう。 


エレファント・カーブが表す世界経済の構造変化


 第1は「エレファント・カーブ(象の鼻)」と呼ばれる世界経済の構造変化だ。これは代表的には米国のエコノミスト、ブランコ・ミラノビッチが提唱した世界の所得分布の変化である。経済のグローバル化が進んだ90年代以降、新興国の富裕層、中間層の所得の増加が急速に進んだ。その一方、先進国では富裕層が所得と資産を伸ばしたが、中間層以下の所得は停滞した。


これを家計の所得水準を横軸、同所得伸び率を縦軸にしたグラフに表すと、象を横から見た姿に見える。つまり最も所得水準の高い右端の持ち上がった象の鼻先は先進国の富裕層が大半を占め、下がった鼻の付け根は先進国の中間層以下、そして盛り上がった頭部は新興国の所得上位層という形になる。


こうした状況下、先進国の中間層を中心に、中国をはじめ新興国経済の台頭や移民労働者の増加に脅威を感じる人々が増えた。それがナショナリズムと重なり、移民への敵視や対外的な保護主義の声が高まっている。これがいわゆるポピュリズムの動きである。


ところが伝統的な中道左派は、民族、人種、宗教、性別の違いで人が差別されることを否定し、多様性に対して寛容なリベラルな精神を尊重して来たので、そうした移民に対する排外主義的な動きと相性が悪い。その傾向が典型的に現れているのが米国だ。


もっとも全ての国の左派が移民に寛容というほど現実の構図は単純ではなく、欧州では左派が厄介な移民・難民問題に沈黙している場合も少なくないようだ。それでも国内の不満層の支持は、安全保障や経済面での対外的な脅威論の台頭を背景に、中道左派政党よりも右の政党に傾斜している様に見える。 


現実社会のリベラル化


 中道左派退潮の第2の事情は、戦後の世界を振り返ると、先進国を中心に民族、人種、宗教、性別などで差別することを否定するリベラルな価値観が、法制度や社会の慣行として広がってきたことだ。その結果、実に皮肉なことに「リベラルである」というだけでは、先鋭的でも挑戦的でもなくなってしまった。


かつて社会に非リベラルな法制や慣行がはびこっていた時代には、既存の大人社会にそのまま順応することを潔しとしない若者層にとって、左派のリベラルな主張は抗議するための理論的な武器となった。ところが現実社会のリベラル化が進むにつれて、皮肉にも左派の主張は若者層を惹き付ける力を弱めてしまったのではなかろうか。


しかもマルクス主義の流れを汲む西側諸国の最左派は、ソ連崩壊と中国の国家資本主義経済化によってほとんど解体した。1970年代頃までは日本や西欧にあった「資本主義対社会主義」の体制選択という包括的なビジョンを左派は喪失してしまった。すなわち中道左派は、社会主義・共産主義という最左派の極を失うと同時に、現実社会のリベラル化で右への対抗軸もぼやけてしまったのだ。 


政治的な不安定性の高まり


 もっとも極右やポピュリズムが台頭する今日の状況は中道右派にとっても脅威である。日本では無党派層が圧倒的に増加し、米国では共和党の本流からは完全に異質なトランプ大統領が登場し、共和党中道派に動揺と反発が起こった。英国ではまさかのEU離脱が国民投票で多数を占めた。先進国の諸政党は左右ともに政治的な新しい軸を求めて混沌の時代に突入していると言えるだろう。


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