たけなかまさはるブログ

Yahooブログから2019年8月に引っ越しました。

カテゴリ: 歴史

facebookで友達つながりのある上念司さんが、「虎ノ門TV」とかで私のマンション価格・賃料図表を引用・紹介しながら、「不動産価格の下落の始まりが近づいているぞ~竹中正治さんの予想は良くあたるぞ~」と「大予言」をしたことから、facebookでお友達申請が少し増えたようだ。

「虎ノ門TV」あるいは「虎ノ門ニュース」なるものについては、私は全然知らない。同TVのサイトを見るとなにやら凄い右派系の識者が並んでいるような感じもするが、私の単なる気のせいかもしれない。

図表の解説については(私の過去の複数の著作の中で繰り返し語ってきたことだが)、番組の短い時間の中では十分な内容ではなかったようなので、ブログで改めて解説しておこう。

Price Rent Ratio

図表1が、一般財団法人不動産研究所の「不動研住宅価格指数」として公表されている東京の中古マンション価格指数(赤線、以下「マンション価格指数」)、並びにアットホーム株式会社が公表しているマンション賃料インデックス(東京)(緑線、以下「賃料指数」)に基づいたグラフである。 またブルー線はマンション価格指数を賃料指数で割ったPRR(Price Rent Ratio)である。これは株価収益率(PER=株価/一株当たり利益)に相当するものだ。

資産のファンダメンタルな価値とは、それを所有することで得られる将来にわたる純所得(株式なら配当、住宅など不動産なら賃料)の現在価値の合計である。ところが株価の将来にわたる配当は実に不確実で、予想の信頼度は低い。

ところが住宅の賃料は企業利益に比べると実に安定しており、その長期的な平均伸び率は日本でも米国でも物価上昇率に近い。 なぜ安定しているかと言うと、住宅賃料は家計所得から払われ、家計所得の変動は企業利益の変動よりもはるかに安定的だからだ。

一方、住宅価格の変動は賃料よりもずっと変動する。つまり賃料キャッシュフローから計算されるファンダメンタルな価値から大幅に過大評価にもなるし、過小評価にもなる。 なぜ価格の変動性が大きいかと言うと、その購入がローンで払われる場合が多いからだろう。 月々の家計所得から払われる賃料は大きく変動し難いが、価格はローンであがなわれる場合が多いので、価格が大きく上昇してもローンを増やすことで買ってしまう購入者が多いからだ。つまり金融レバレッジの伸縮に強く依存して変動するのだ。

そこで価格を賃料で割ったPRRを計算し、その長期的な平均値からの乖離を見れば、マンション価格の割高・割安が見抜けるという仕掛けである。このことに気が付いたのは米国勤務時代に2006年頃、米国の住宅価格はもうバブルじゃないかと調査レポートなどを読んでいた際に、住宅価格指数(代表的にはS&P/Case/Shiller Index)を賃料指数で割った図表を見た時である。 

まとめると、
ブーム、あるいはバブルの時:PRRは長期的な平均値から上方に乖離する。
不況、あるいはバブル崩壊時:PRRは長期的な平均値から下方に乖離する。

というわけで、PRRが下方乖離した時が買い時、上方乖離した時は売り時を教えてくれるシグナルとなる。 私がマンション投資を始めたのは1998年であるが、この図表の作成、継続的なモニターを始めた2007年以降は、ほぼこのPRRの波に従ってマンションの売買を行ってきた。

つまり2007年は売り、09年は買い、2012年は再び買い、2015-17年は売りである。現在はローンの返済を終えた中核ポジションとしての複数のマンションを残して後は売り、キャッシュ残高を膨らませて次の買い時(不況)を待っている状態だ。

図表1は時々更新して私のホームページで公開している。

ただしPRRは割高・割安のシグナルにはなるが、価格がいつ下落や上昇に転じるかは分からない。この点は誤解のない様にお願いしたい。

在庫件数/成約件数比率
マンション価格の上昇、下落を一歩早く知るような仕掛けは可能だろうか? そのひとつは図表2である。これは上記のマンション価格指数と、レインズタワーが公表している中古マンション(東京)の在庫件数と月次成約件数で作ったグラフだ。 

見て分かる通り、マンション価格指数の前年同月比の変化は、在庫件数を月次の成約件数で割った比率(12か月移動平均値)(図表上逆メモリ)と高い負の相関関係がある。つまり在庫件数/成約件数が上がり始めると価格は下がり始めるということだ。

現在の状況は、在庫件数/成約件数比率がじわじわと上がる(逆メモリ)状況下、2013年以降前年比でプラスだった価格指数の伸びがゼロ%近傍に下がってきている状況だ。

マンション価格に対する株価の先行性
マンション価格の先行きに関するもうひとつの手掛かりは、価格指数の時系列分析から得られる。手短に言うと、上記のマンション価格指数の前年同期比の変化は、①賃料指数、②株価指数(日経平均)、③長期金利(10年物国債利回り)の各前年比の変化の3つの変数で回帰分析すると、有意な結果が得られる(説明度を示す決定係数R2=0.49 期間2002-18)。

この回帰分析から得られるポイントは、株価(日経平均)はマンション価格指数の変化(前年同期比)に対して約6か月の先行性があることだ。 つまり株価がど~んと上がれば(下がれば)、約6か月遅れて東京の中古マンション価格は上がりますよ(下がりますよ)ということだ。

景気動向
要するにマンションの買いは次の不況時まで待ちなさいということで、次の不況はいつか?ということに尽きる。大雑把な予想だが、私は次の米国の景気後退は2020年±1年に始まると予想しており、日本もそれに連れて景気後退となるだろう。 慌てる必要はない。それまで気長に待てば良いのだ。

逆にもし借金パンパンでマンション・アパート投資をしている方の場合は、それまでに売っておかないと痛い思いをする可能性が高いですよということでもある。



図表2
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ユヴァル・ノア・ハライの「ホモ・デウス(Homo Deus)」を読んで考えるところがあったので、ノートしておこう。

著者は前著「サピエンス」でも同様だったが、宗教についても進化論的なアプローチをしている。すなわち、「神」という観念がそれを抱いた人間集団に生存競争上の強い優位性をもたらしたので人類全体に広く普及したと考えるわけだ。

この点はホモデウスでは主に上巻で語られる。人間には客観的現実と主観的現実、そして第3に共同主観的レベルでの現実があり、神も国家もこの第3のレベルの想像上の秩序であると整理する。それは想像上の(創作された)秩序であるが、多くの人間によって共有されることで現実的な力を発揮するわけだ。そして例えば特定の神を信じることで人間は強力かつ大集団的な力を行使できるようになり、他の人間の群れに対して生存上の優位性を実現した。

この点はそれほどオリジナルな考えではなく、原理主義的な宗教者にとってはともかく、無心論的な立場からは違和感がない。例えば、経済的な諸関係から成る下部構造に対応して、諸観念から成る上部構造が形成されると説いたマルクスの唯物史観とも共通する考え方だろう。

著者のもっともラディカル(根源的)で挑戦的な視点は、この見方を近現代の自由主義的な思想にも徹底的に適用することだ。それは下巻の第7章「人間至上主義(Humanism)革命」と第8「研究室の時限爆弾」で語られる。

近代の人間至上主義革命によって、「神」への信仰は「人間性」への信仰に換わった。人々は「神の声」に耳を傾けることを止め、自分の感覚と情動と思考に注意を注ぎ、それに従うことが大切とされるようになった。自由主義的人間観の誕生である。

この人間至上主義革命によって人間観は一変したと同時に、自然現象の解明は実証主義的な科学に委ねられることになり、急速な科学テクノロジーの発達が起こり、人間至上主義を信奉する人々、集団、社会は伝統的な宗教を信奉するそれらに対して圧倒的な優位を得たわけである。

さらに著者によると、この人間至上主義は、その後に自由主義、社会主義(共産主義?)、進化論的(優生学的な?)な人間至上主義の3派に分裂した。そして21世紀の今日に支配的な思潮として生き残ったのは自由主義的な人間至上主義だ。

ところが、自由主義的な人間至上主義の根底にある人間の自由意思とは、かつての「霊的な魂」と同様に想像上の産物だと、近年の脳科学の研究成果に基づいて、著者は説く。

引用:「自由意思は私達人間が創作したさまざまな想像上の物語の中にだけ存在している」(p105)
「『自由意思』とは自分の欲望に即して振る舞うことを意味するのなら、たしかに人間には自由意思がある。そして、それはチンパンジーも犬もオウムも同じだ。」(p106)
「肝心の問題は・・・・そもそも欲望を選ぶことができるかどうか、だ。」

「特定の願望が自分の中に湧き上がってくるのを感じるのは、それが脳内の生化学的なプロセスによって生み出された感情だからだ。そのプロセスは決定論的かもしれないし、ランダムかもしれないが、自由ではない。」(p106)

この後、著者は近年の脳科学の研究成果に基づいて、私達が自分の選択を意識する前に、その選択に対応する脳内の生化学的な反応が起こっていることをあげる。

この点に関する私の読んだ他参考文献、例えば


また「単一の自己」という概念も、自由主義の神話に過ぎないことを左脳、右脳の分離の手術を行った被験者に見られる異なった2つの「自己」の存在として語る。

要するに自己には「経験する自己」と意識的に「物語る自己」の2つが異なるものと存在しており、物語る自己(解釈者)は自分が行った選択に「まことしやかな物語(解釈)」を提供する存在に過ぎない。

もちろん2つの自己は密接に絡み合っている。

引用:「物語る自己は、重要な原材料として私たちの経験を使って物語を創造する。するとそうした物語が、経験する自己が実際に何を感じるかを決める。(例えば空腹も)物語る自己によって空腹の原因として挙げられる意味次第で、実際の経験も違ってくるのだ。」(p123)
「とはいえ、私たちのほとんどは、自分を物語る自己と同一視する。」(p124)

要するに自由意思、その主体としての単一のアイデンティティがあるという認識も、それは自由主義宗教の信仰に過ぎないと著者は述べている。 中世の人間が神を信じていたことと自由意思の信仰は、人間の創作、共同主観と言う点で本質的に変わることがないということになる。

これはかなりラディカルな主張であり、それでも「他の誰でもない唯一の私自身という自己意識感覚」を持っている私達には、なかなか直感的に受け入れられない認識だろう。

著者が認めるように、人間の自己意識の謎は現代の脳科学でも未解明の問題であり、今後の科学調査の展開次第でこの点に関する見解は修正される可能性も大いにあるので断定はできないが、私は著者の見解は、とりあえずあり得そうな仮説として概ね受け入れるのが論理的だろうと思う。

振り返って考えると、例えばフロイトまで遡る意識と無意識の古典的な概念だって、意識が自分自身のプロセスの一部しか認識していないことを語っているわけで、そう考えれば「意識の全能性」などそもそも信用されていない。

私が強調したい点は、著者の次の論理が示唆する含意だ。つまり人間は「神」にしろ「自由意思」にしろ、自分の物語を創作するということだ。そして創作された物語はその人間の判断、選択、すなわち人間の在り様に対して現実的な力となる。

自分には欲望と行動を選択する自由意思があるという創作を信奉することで、それを信じる人間にその行動に対する責任感と自分の達成したい目標に向かって選択と行動を繰り返す生き様を可能にする。自由意思と言う信仰にはそれだけの価値がある。それで十分ではなかろうか。 

また別様には例えば「人間は阿弥陀仏によって無条件に救われている」など仏教の異なる各種の信仰も創作であるが、その信仰があるとないとでは、人の生き様は変わって来るだろう。人間は自分自身に対してどのような信仰を持つかによって、自分の生き様を変える相対的自由度を持っているのだということではなかろうか。

ただし、どのような信仰を創作し、それを信奉するかも、人間の自由意思ではなく、必然と偶然が織りなすプロセスの結果であり、人間の意識はそれを受動的に反映しているだけかもしれないということはできる。

すなわち、人間の意識というものは無意識下で進行する必然と偶然の生化学的なプロセスを受動的に反映するだけの完全に受動的な現象か、あるいはそれに規定されながらも相対的な自由度、意識の在り様が生化学的なプロセスに影響を与えるという逆のベクトルも持ち得るのか、という問題に帰着するように思える。

そしてこの点についても(詳細は省略するが)、意識から生化学的なプロセスに影響を与えることが可能であることを示唆、証明する多数の実証、経験があるということだ。

著者自身も最後の部分で、「新しいテクノ教」と「データ教」の台頭、その可能性を語りながら、それらの潮流が人類を大過に導かないために「3つの重要な問い」を読者が考え続けること、自著がそうした読者の意識的な努力を引き起こすことに期待を語っている。

それは正に人間の意識的な努力、思考が、何を創作し、信仰するかという作業を通じて、社会の変化に影響を与える相対的な力(自由度)を持っていることを意味するだろう。

以上

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先日このブログで歴史学者、秦郁彦氏の「慰安婦と戦場の性」(新潮選書、1999年)をタイトルだけ紹介したが、ようやく同書を読み始めた。
 
440ページと分厚いが、わかりやすく、文献、資料の引用も実に丁寧で包括的だ。この本を読んでいれば、慰安婦問題に関する隣国政治家の妄言にも、日本の左翼運動家の扇動にも惑わされることもないだろう。
ちなみに秦氏の学歴、経歴は以下のwikiを参照、歴史学者として一流のアカデミズムの学歴、実績を有する方だ。
 
まだ前半の章を読んでいる段階だが、言論プラットフォーム、アゴラによくまとまっている書評を見つけたので、以下に紹介しておこう。 評者は石井孝明氏
 
引用(一部省略):本では軍と占領地の治安を担当した憲兵(軍警察部門)の詳細な記述が残されている。日本人が朝鮮から女性を狩り集めたという嘘の証言をした吉田清治が、それを嘘と認めた電話インタビューも掲載されている。

韓国の人々は「数十万人の朝鮮人女性が軍と警察によって拉致、もしくは挺身隊の名目で連れ去られ、戦地に連行され、売春婦にさせられた」と思い込んでいるらしい。日本でこの問題を90年代から騒ぐ人も、このような情報を吹聴した。
ところがこの本によれば、事実はまったく違う。
 
・太平洋戦争中、1万人から2万人の人が慰安婦として働いた。約半数が日本人で、2割程度が朝鮮人だった。
 
・慰安婦は二等兵(最下級の兵)の給料が月10円程度(戦地の加俸なし)のところ、月300円程度の収入があった例もある。
 
・軍や政府が、強制的に女性を集めた証拠はない。業者を前線近くで治安上保護し、また性病を避けるため衛生管理などをした例はある。
 
・女性が騙された例は多くあった。当時はいわゆる前借金を渡され返済するという形で事実上の人身売買が行われた。最初は親など肉親が娘を売る例が多いものの、女性に他の仕事がないために、そこから抜けられなくなることが多かった。
 
・女性が学校や職場などの単位でグループをつくり、工場などで強制的に働かされる女子挺身隊という制度があった。内地では半強制的に行われたが、朝鮮では大規模に実施されなかった。これと慰安婦との混同がある。

喜んで売春を仕事にする女性はほとんどいないだろう。しかも、それが騙されて行われた場合は大変気の毒だ。しかし一世紀近く経って、今の日本、そして私たちの世代が事実と異なる問題で責任を引き受ける必要はまったくない。

秦氏は、一部の活動家の事実に反した主張が、朝日新聞などの報道、そして左派系の政治勢力によって問題が拡大し、問題がこじれたことを中立的な視点で検証する。そして次のようにまとめた。

「(慰安婦問題は)少なくとも正義・人道を基調とする単純な動機から発したものではないようだ。おらくは内外の反体制運動体がかかえていた政治的課題にからむ、複合した思惑の産物であっただろう。それを誰よりも敏感に感じ取っていたのは、一人も名乗りをあげなかった日本人の元慰安婦たちだったと思われる。

だが一度火のついた政治キャンペーンを消火するほど、至難なことはない。煽られたマスコミやNGOは熱に浮かれたように興奮した。その熱気に押されて、日本政府は謝罪と反省を乱発した。」
***
 
ちなみに、私も対談や寄稿をしている雑誌「公研」の今年9月号で、秦氏の「歴史認識と歴史戦争、河野談話以後の日本とアジア」と題した講演録が掲載されている。その一部を引用しておこう。
 
引用:「慰安婦は、数から言えば日本人が一番多いのです。しかし日本のマスコミは、日本人の慰安婦には興味がないのですよ。私はまだ慰安所や慰安婦の実態がわからない頃に、新聞社の人に『あなた方は支局網があるのだから、探せばすぐに日本人の慰安婦がみつかる。そうすれば、いろいろなことがわかるはずだ』と言いました。しかし、『日本人ですかあ・・・・』という感じで新聞記者は全く興味や関心を示さなかった。  
 
結局、日本人の元慰安婦で名乗り出た人は一人もいませんでした。考えてみるとヘンな話なんですよ。日本人慰安婦は、一切論議の対象になっていない。」
***
 
なぜ社民党の元党首や朝日新聞などは、韓国まで元慰安婦を求めて出向いているのに、足元の日本の元慰安婦については関心も調査もしてこなかったんだろうか? もし左派の倫理観が本当に普遍的な人権尊重の立場に立脚するのであれば、自国の元慰安婦問題こそ一番に関心を向け、調査するのが自然だろう。
 
これは私の推測で、秦氏も同様の示唆をしているが、様々なケースがあったにせよ、慰安婦の実態は、隣国と日本の左翼の方々が喧伝した「性奴隷」という表現とはかなり乖離したものだったからだろう。これは秦氏の著作のなかで明らかにされている。
 
隣国では奇妙なナショナリズムの激高でエキセントリックに日本政府を弾劾し、賠償を求める元慰安婦の「発見」に一部マスコミは成功し、それを政府批判の政治的な材料に使うことができたわけだ。 ところが日本ではそうした元慰安婦に遭遇できず、政治的な攻撃の材料に使えない。政治的な攻撃に使えないどころか、自らが広めた「性奴隷」という表記とはかなり違う慰安婦の実態が明らかになってしまう。従って関心も向けなかった。そういうことではなかろうか。
 
また、慰安婦制度を有さず、その代わりに日本人、中国人、朝鮮人の見境なく侵攻地でレイプの限りを尽くしたソ連軍の問題は追及されるべきだし、日本の慰安婦の実態はドイツや英米軍の有様とも比較して論じられるべきだろう(秦氏の著作は第5章「諸外国に見る戦場の性」でそれやっている)。ところが日本の朝日新聞など左派メディアはそうした当然のことをほとんでやらず、関心も向けてこなかった。これも上記の事情を想定すれば、納得できることだ。
 
最後に蛇足だが、秦氏の講演録が掲載されている雑誌「公研」9月号、偶然ながら私も「予測の限界と適応戦略」と題したショートエッセイを掲載している。 同誌同号の掲載お隣の論者は、佐々木毅(東大名誉教授)と上田隆之氏(資源エネルギー庁長官)、アラララ、随分と立派な方々と並んでしまった(^_^;)
http://www.koken-seminar.jp/new.htm (←公研のサイト)
 
追記:ワシントンDC 古森さんの論考
 
 
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塩野七生の 「朝日新聞の“告白”を越えて」文芸春秋
 
朝日叩きの特集でにぎわっている週刊新潮も文春も私は読まないのだが、文芸春秋に塩野七生さんが「朝日新聞の“告白”を越えて」と題した論考を寄せているので、これは買って読んでみた。
 
さすがに塩野さんの切れ味はいい。以下印象的な部分を引用しておこう。
 
引用:「それでも朝日は、『女性たちが本人の意に反して慰安婦にされる強制性があった』とする線はゆずらず・・・・だが、私は、考え込んでしまった。
元慰安婦たちの聴き取り調査を行なったということだが、当事者本人の証言といえども頭から信じることはできないという人間性の現実を、調査しそれを基にして記事を書いた人は考えなかったのであろうか、と。
 
人間には、恥ずかしいことをしたとか悪いことをしたとか感じた場合には、しばしば、強制されたのでやむをえずやった、と言い張る性向がある。しかも、それをくり返して口にしているうちに、自分でも信じ切ってしまうようになるのだ。
 
だからこそ厳たる証拠が必要なのだが・・・・「裏付け調査などを行なわなかった」では済まないのである。 対象に寄り添う暖かい感情を持つと同時に、一方では、離れた視点に立つクールさも合わせ持っていないと、言論では生きていく資格はない。」
 
さらに当時オランダの植民地だったインドネシアでの慰安婦問題について、政府と朝日新聞に対して有意義な具体的調査提案をしているが、省略するので、ご関心のある方は、同誌を読んで頂きたい。
 
「朝日の正義はなぜいつも軽薄なのか」 
同誌は続けて平川祐弘東京大学名誉教授の「朝日の正義はなぜいつも軽薄なのか」を掲載している。これも興味深かったので、一部引用しておこう。
 
引用:「私も当時(1950年代前半まで)論壇主流と同じ考えに染まっていた。社会主義の資本主義に対する優位を信じていた・・・・
私が朝日・岩波系知識人の世界認識からはっきり離れたのは、1956年ハンガリアでソ連支配に対する暴動が起きても、彼らが社会主義賛美を止めなかったからである。
 
親ソ派の大内兵衛(東大教授)は『ハンガリアはあまり着実に進歩している国ではない。あるいはデモクラシーが発達している国ではない。元来は百姓国ですからね。ハンガリアの民衆の判断自体は自分の小さい立場というものにとらわれて、ハンガリアの政治的な地位を理解していなかったと考えていい』(「世界」1957年4月号)とソ連軍の介入を公然と正当化した。」
 
「私見では、戦前の一国ナショナリズムのあらわれである日本の絶対不敗の信念と、戦後の日本の『諸国民の公正と信義に信頼する』するという絶対平和の信仰とは、1つのコインの表裏で、ともに幼稚な発想に変わりはない。世界の中の日本の位置と実力を見つめようとしないからである。」
 
「徹底した実証主義で知られる近現代史家の秦郁彦は『朝日新聞』の報道で吉田の存在を知り、怪しいと直感して出版社に電話すると『あれは小説ですよ』と返事をした。済州島の土地の人も否定した。吉田本人も週刊誌記者に問いつめられてそのことを認め 『事実を隠し、自分の主張を混ぜて書くのは新聞だってやっていることじゃないか』と開き直った。 
 
虚言癖の人の証言が大新聞によって世界的に報道され、吉田の本は韓国語、英語に翻訳され、国連報告書にも採用され、日本は性奴隷の国という汚名をかぶせられた。その経緯は秦郁彦『慰安婦と戦場の性』(新潮選書)に詳しい。」
 
「韓国でもかなりの人は慰安婦が自国の業者によって斡旋されたことは知っていた。それを他国の軍によって強制的に連行されたといい、吉田清治が職業的詐話師であると薄々わかった後も、その発言を引用し、慰安婦の数を多く増やして述べれば述べるほど純粋な愛国韓国人とみなされると信じるのは、憎日主義的愛国主義がもたらした倒錯症状である。」
***
 
というわけで、早速、秦郁彦氏の著作を注文した。
さらにこの論考に続いて、「『慰安婦検証記事』朝日OBはこう読んだ」と題して3名の元主筆、元編集委員、販売事業会社の元社長が、それそれの思いを述べている。
 
日本の戦後左派の思想潮流をふり返る
問題は上記の平川氏が述べているように、日本の戦後左派の思想潮流を見直すところまで広がるのが自然だと思う。その点では近年読んだ本で私自身アマゾンでレビューも書いた以下の2書を紹介しておきたい。Max-Tの名前で書いているのが私のレビューである。
 
当事者の時代」佐々木俊尚、光文社新書、2012年
私のレビューからの引用:「(著者は)敗戦から1960年代前半頃までは論壇を含む国民一般の戦争体験に関する意識は濃厚な被害者意識だったと総括する。要するに無垢な国民は、軍部独裁の下で事実から目を塞がれ、無謀で悲惨な戦争に徴兵され、大空襲で焼かれ、そして2つの原爆を落とされた被害者だったという意識だ。

そうした思潮が60年代の小田実の「被害者=加害者論」を契機に転換し、日本人は中国人、朝鮮人、アジアに対して同時に加害者でもあったという視点が登場した。それが戦争問題に止まらず、社会的なマイノリティー弱者、被差別者の視点から捉えるマイノリティー視点へと広がった。

そのこと自体は視点の拡大として意味があるはずだったのだが、思わぬ思想的な副作用を生み、「薬物の過剰摂取のように、人々は被害者=加害者論を過剰に受け入れ、踏み越えてしまった」(p278)と言う。 

言うまでもなく、これは右派系論者から「自虐史観」と批判されるようになる左派系論者の歴史観や思潮に顕著に見られる傾向となったわけだが、著者の本論はメディアもそうした視点にどっぷり漬かってしまったことだ。

そこから、虐げられたマイノリティーに憑依することで絶対的な批判者の視点に立とうとする様々な論調が論壇でもメディアでも横溢するようになってしまった・・・・(←正に朝日新聞が代表する流れですね)

特に次のような手法が日本のメディアに蔓延したと指摘する。 「弱者を描け。それによって今の日本の社会問題が逆照射されるんだ。」(p393) 物書きとしてはセンセーショナルな記事が欲しい。そこで「矛盾を指摘するためには、矛盾を拡大して見せなければならない。だからこそマイノリティー憑依し、それによって矛盾を大幅にフレームアップしてしまうことで、記事の正当性を高めてしまおうとする。」(p398)
***
この著作は2012年の出版だが、今回の慰安婦記事問題での朝日新聞に代表される左派的思考法の歪みの本質にスポットを当てたものとなっていると思う。
 
もう一冊は「革新幻想の戦後史」竹内洋、中央公論新社、2011年
やはり私自身のレビューから引用しておこう。
引用:「類稀な戦後思想史だ。戦後の論壇、アカデミズム、教育界を覆ってきた左翼思想的なバイアスを論考の対象にしているのだが、著者自身の思索・思想の遍歴と重ね合わせながら展開している点に惹かれる。

著者は1942年生まれ、京大を卒業して一時ビジネスに就職したが、大学に戻り、社会学を専門にした教授になった。 人生も終盤に差し掛かった著者が自身の思想的な遍歴を総括する意味も込めて書かれている。

著者自身が学生時代には、当時の大学、知識人(あるいはその予備軍としての大学生)の思想的雰囲気を反映して、左翼的な思潮に染まるが、やがて懐疑、再考→「革新幻想から覚醒」のプロセスを歩む。

私は著者より一世代若いので大学生時代は1975-79年であり、既に時代は左翼的思潮の後退、衰退期に入っていたが、私自身は左派的な思潮に染まったほとんど最後のグループだったと思う。既存の大人社会をそのまますんなりと肯定的に受け入れることができない若者の常として(常だよね?)、既存の体制をラディカルに批判する体系としては、マルクス主義を軸にしたものしか同時なかったので、自然と傾倒したのだ。だから私はマルクス経済学を中心に左派の文献をかなりマジに勉強した。

そのため著者自身の思想的な遍歴は、私自身にも共通する部分があるので、共感著しい。著者が学生時代に読んだ代表的な文献も私自身の読書経験と重なる部分が多い・・・・
***
 
「慰安婦問題検証記事」に端を発した議論、これまで溜まっていたものが吹き上げてくるような勢いがあり、まだまだ続くというか、上記の塩野氏や平川氏が指摘、提起するような調査と国際的な情報発信が展開して欲しい。
 
そういう意味では、今回の発端となった朝日新聞の「慰安婦検証記事」は、問題の封を切ったという位置づけができる。 もちろん、その後の怒涛のような展開は、木村社長が意図していたこととは正反対であろうがね。
 
 

8月のこの時期になると、原爆、終戦(敗戦)のテーマがTVなどメディアで特集などされますね。まあ、一種の国民的なトラウマなのだから、ある意味で当然だけど、世間に流布する議論のあり方にいまいちしっくりとこないものを感じてきました。 
 
そのしっくりとこないものが何のなのか? それ考えて書いた2010年8月(日経ビジネスオンラインの論考です)。再掲で恐縮ですが、ご覧になってない方も多いと思うので、それに自分ではかなり気に入っている論考のひとつなので、そのまま掲載させて頂きました。
 
掲載当時は、共感くださるコメントと当時にネトウヨ系の「何言ってやがるんだ!」風のコメントが殺到して、けっこう火を噴いた感じがあります(^_^;)
***
「なぜもっと早く降伏できなかったのか」を議論しよう
原爆記念日に考えた日本的二分法の危うさ
2010年8月17日(火)  竹中 正治  日経ビジネスオンライン
 8月6日の広島平和記念式典にルース駐日大使が米国の代表として初めて出席したことが話題になった。広島に原爆を投下したB29爆撃機エノラ・ゲイの機長ポール・ティベッツ氏(故人)の息子さんはテレビ・インタビューで、広島の式典への米国代表の参加について、「参加すべきではなかったと思う」と不快感を示したという。
 
 もっとも原爆投下についてルース大使が謝罪を述べたわけではない。これに対して、日本の被爆者やその遺族・家族らは強い不満を感じているようだ。一方、米国では「参加したこと自体が『無言の謝罪』になるので許せない」という批判が起こっている。ポール機長の息子さんは、同じテレビのインタビューで「原爆投下が戦争終結を早め、多数の人々の命を救ったとして、『当然、正しいことをした』と話したという。
 
 「原爆投下がなければ、降伏しない日本は本土決戦となり、日米ともに原爆による死者数をはるかに上回る数の死者が出たはずだ。それを避けるために原爆投下はやむを得なかった」
 こういう意見は米国ではむしろ今に至るまで支配的だ。(ちなみに広島の原爆死者数は1945年時点で9万~14万人、累計で約22万人、長崎は累計で約15万人だという)
 
サンデル教授の「正義」を当てはめてみると…
 この議論に改めて接して、私の脳裏に浮上した1冊の本がある。最近NHKで講義が放映されて日本でも大評判となった米ハーバード大学マイケル・サンデル教授の「正義(JUSTICE What's the right thing to do?)」だ。倫理・哲学分野としては異例の超ベストセラーになった。
 
 お読みになった方もいるだろうが、「暴走する路面電車」の例が「正しいこととは何か」を考えるケーススタディーとして第1章に登場する。あなたは路面電車の運転手だが、ブレーキが壊れて電車は暴走している。正面方向には線路で工事をしている人が5人いて、電車の暴走に気がついていない。このままなら5人が轢かれて死ぬ。ところが右に線路の待避線があり、そちらでも線路で人が働いているが1人だけだ。
 
 さてあなたはどうする? 何もせずにまっすぐ暴走して5人を死なせるか、あるいは右の待避線にハンドルを切って1人の死を選ぶか?  私も大学の学生諸君に実際に問うてみたが、大多数の学生は右にハンドルを切って1人死なすを選択する。やむを得ざる場合は最小限の不幸で済ませるのが正しいという選択だ。
 
 そこで、サンデル先生は、ケース2を提示する。  あなたは、その路面電車の線路を見下ろす橋の上に立っており、傍らにはとても太った男が立っている。あなたが彼を橋から突き落とせば、彼の巨体が電車の行く手を阻んで線路上の5人を救えるとする。しかし彼は死ぬ(あなたが飛び降りたのでは小柄過ぎて電車は止められない)。
 
 あなたは何もしないで5人の死を見るべきか、あるいは彼を突き落として、1人の死を選ぶべきか。この場合、既存の法律などは関係ないとして、正しい選択はどちらか。5人の死か、1人の死かという選択はケース1と変わらない。しかし、ケース1と違って1人の死を選択すべきだという人は一転、極めて少数となる。
 
 「最初の事例では正しいと見えた原理(5人を救うために1人を犠牲にする)が、2つめの事例では間違っているように見えるのはなぜだろうか?」とサンデル先生は問う。
 
あれが日本だったら、どのような選択をしたか?
 要するに私たちの社会には「できるだけ多くの命を救うべし」という原則と、「どのような状況であっても無実の人を殺すのは間違いだ」という異なった原則があり、いずれも捨てられない。ところが2つの原則が対立し、私たちが道徳的に板挟みになることがあるという厄介な事実が、提示されているわけだ。
 
 5人を救うために1人の犠牲を正当化する思想は、「最大多数の最大幸福」を原理とする功利主義の系譜であり、それが原理主義的に極端になると個人の自由も人権も結果的に否定される。サンデル先生はそこまで書いていないが、共産主義への「歴史の進歩」のために労働者階級による独裁を唱えた20世紀の共産主義は、ある意味で功利主義の思想的伝統を継承したと言えよう。
 
 その対極が、個人の自由を至上とする米国のリバタリアニズムであろうか。米国のリバタリアニズムは特異な思潮傾向で、保守派に属しながらも、その個人主義的な自由原則の徹底の故に一切の対外的な軍事的関与に反対する。リバタリアニズムを自覚的な信条とする人々は対イラク戦争にも反対だった。
 
 アメリカ人の原爆投下を合理化する議論は、「5人の命を救うために1人の命を犠牲にして何が悪いか」と主張していることになる。日本人の私たちが米国の原爆投下の論理を肯定できないのは、この場合、犠牲になって死んだのが日本人ばかりだからだろう。仮に原爆投下で死ぬ人間の半分がアメリカ人だったら、たとえ本土決戦の場合の数分の1の死者数で済んだとしても、米国政府は原爆投下には踏み切れなかったのではないか。そう考えると、やはり米国の意見は正当化のための傲慢な屁理屈に過ぎないと日本人は思う。
 
 しかし、さらに一歩踏み込んで、もし日本が原爆の開発に成功し、それを米国本土に投下する手段があったとしたらどうだろうか。 日本は間違いなくやっただろう。
 
 実際、日本は風船爆弾という気球爆弾を大量に生産し、無差別攻撃の目的で米国本土に向けて飛ばしている。ただし、ほとんど攻撃成果を上げることはなかっただけだ。
 
 もっとも、この時期の国際情勢はかなり複雑で、日本は本土決戦の準備をする一方で既に降伏交渉を模索しており、原爆投下がなくても降伏は時間の問題だったとも言われる。しかし、問題は「時間」だったのだ。米国の原爆投下はソ連の対日参戦(8月9日)という動きに対して、ソ連の対日占領を防ぐ目的で日本の降伏を促すためだったという解釈もある。もし原爆の投下がなく、日本の降伏が長引いていた場合は、ソ連軍はカラフトのみならず北海道、東北の一部に進駐していたかもしれない。その場合は、戦後の日本はドイツと同じような分裂国家になっていた可能性がある。
 
 歴史解釈はともかく、本稿では倫理の議論に限定しよう。
 
なぜ出ない?「もっと早く降伏すべきだった」論
 私が不思議に思うのは、毎年8月になると被爆問題が議論される中で、「なぜ当時の日本政府はもっと早く敗戦、降伏の決断をしなかったのだ。そうすれば、沖縄の惨劇も広島、長崎の被爆も避けられたではないか」という方向に日本での議論が向かわないことだ。
 
 「戦争したこと自体が間違いだった」として当時の日本の軍国主義を非難することは、戦後ならばたやすいし、そういう議論は繰り返されてきた。私もあの戦争は、戦争したこと自体が間違いだったと思う。しかし、間違いを犯すことは国でも個人でもあり得る。間違いだったと思った時点で、それを撤回できれば被害は少なくできる。
 
 もちろん、戦争遂行者(権力者)は無条件降伏となれば処罰は必至だから、容易には降伏などしない。それでも、それができなかった故に国民の命と財産の莫大な損耗に輪をかけたことを訴える、あるいは問題にする声があっても良さそうなのだが、なぜか日本の議論にはそれが欠けている。
 
 原爆は是か非か、戦争は是か非か、軍事力は是か非か──。白か黒かの二分法の論理だけに議論が支配されている。興味深いことに、旧日本軍では戦争の展開までも、勝利か玉砕かの二分法に支配され、「投降」という選択肢が最初から否定されていた。「撤退」という言葉すら否定されて「転進」と言われた。これはけっこう根の深い問題かもしれない。次にこれを考えてみよう。
 
戦闘を凄惨化した投降否定の日本軍律
 2007年のクリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙(Letters From Iwojima)」は「父親たちの星条旗(Flags of Our Fathers)」との異色の姉妹編だ。「星条旗」は父島で星条旗を掲げたことでヒーローとして祭り上げられてゆく米国兵士らの心の屈折と悲劇を描いている。一方、「硫黄島」は終始日本人兵士の目線でその苦悩が描かれている。
 
 この2つの映画を見ると、旧日本軍と米軍の対照的なカルチャーの違いを感じずにはいられない。米軍は様々な逸脱があっても、原則的には可能な限り兵隊を生きて祖国に帰還させることを前提に作戦を進める。負けとなれば撤退し、戦闘不能になれば降伏、投降することは恥ではない。
 
 一方、日本軍は最初から滅私奉公主義で、命を捨てることが前提とされている。出兵する兵士に「無事に生きて戻って来ておくれ」という家族の本音を人前で語ることさえタブーだった。日本軍の軍律では、銃弾が尽きて戦闘不能になっても降伏は厳禁であり、投降すれば非国民扱いとなる。だから万策尽きると、日本軍は「自決」するか「玉砕」するしかない。
 
 栗林中将は「安易な玉砕」すら禁じた。その結果、硫黄島に配置された約2万余の日本兵は、戦闘開始から約1カ月で組織的な戦闘が終わった後も、投降せずに地下壕にこもり続けた。
 
 その結果、小さな島であるにもかかわらず、米軍は制圧するのに長い時間を要した。日本兵が潜んでいると思われる地下壕に海水を注ぎ、ガソリンを流し込んで火をつけ、まるでネズミ駆除のような凄惨な「掃討作戦」が行われたのだ。
 
 映画の中で栗林中将は「本土への米軍の侵攻を1日でも遅らせるために最後の1人まで戦うべし」と訓示する。
 
 2006年8月にNHKが制作、放映した硫黄島の戦闘に関するドキュメンタリー番組によると、硫黄島での日本軍の予想以上の抵抗で当初の想定を大幅に超える2万8000人もの死傷者を出した米軍は1つの教訓を引き出したと言う。
 
 それは日本が降伏しない場合に予想される本土上陸戦において、アメリカ兵の人的な損耗を最小限にするために、日本本土への徹底的な空襲を行い、事前に日本の攻撃力、戦意を最大限に削ぐことだった。こうして徹底的な大空襲や2発の原爆の投下につながった。戦争が生み出す運命はまことに容赦がなく皮肉で、無慈悲だ。
 
映画「大脱走」に見る捕虜になるのを恥じない文化
 こうした旧日本軍と対照的な米軍のカルチャーが描かれた映画が「大脱走(The Great Escape)」(1963年)だ。スティーブ・マックイーンを始め、当時あるいはその後のハリウッドの代表的なスターとして活躍した俳優たちが勢揃いしたこの映画、アメリカ人の間では「大好きな戦争映画」の代表作として金字塔的な存在である。
 
 欧州戦線でのドイツとの戦いで捕虜となったアメリカ兵を含む連合軍兵士たちが集められたドイツの捕虜収容所で、彼らは「捕虜収容所から脱走し、敵地で後方を撹乱してやろう。成功すれば、敵地を脱し、祖国に帰還できる」と空前の規模の大脱走を企てる。米国の陸軍情報部の秘密組織MIS-Xからの極秘支援があったことも今では知られている。
 
 映画で描かれるのは、死ぬ前に降伏し、捕虜となっても脱走することで抵抗し、最後まで生きて祖国に帰ることを諦めない執着と楽観主義だ。とりわけこの映画の最人気はスティーブ・マックイーンが演じるキャラクターで、彼は収容所から脱走しては捕縛され、それでも脱走、捕縛、独房、再脱走を繰り返すダイハード・ガイだ。捕縛されることは悔しいが恥とは思わない。 「だって、生きてさえいれば、また脱走することができるだろう」
 
投降否定の背後にある「討ち死に精神」
 旧日本軍の「降伏否定」や兵士の損耗を顧みない体質を生み出した原因は、いくつか考えられる。第1は当然ながら当時の日米の国家観と政体の相違だろう。米国の個人主義を基本にした民主制政体に比較して、当時の日本は天皇という君主あっての国家であり、国民は君主に尽くす臣民である。危機存亡の時となれば臣民の命は消耗品でしかなくなった。
 
 第2の要因は旧日本軍の物理的な劣勢であろう。とりわけ、戦争の後半からは軍事的な劣勢のために、多くの兵士を帰還できる見込みのない戦闘に駆り立て、そうした作戦を正当化するために、命を投げ捨てる滅私奉公がますます美化された。劣勢にある集団ほどメンバーに自己犠牲を求め、それを正当化・美化するイデオロギーを喧伝するものだ。今日ではイスラム過激派の自爆テロにそうした例を見る。
 
 第3の要因は日本に根強い一種の観念論的精神主義である。このルーツは旧日本軍以前の時代にまでさかのぼるようだ。それを象徴する場面をNHK大河ドラマ「龍馬伝」の中で見た。土佐藩の武市半平太は勤皇党を組織し、尊王攘夷を掲げる。武市が勝海舟や龍馬と議論になる場面があった。
 
 勝が欧米列強の軍事、経済、科学技術の面での優位を説き、今の日本に攘夷を行う力はないと説く。これに対して武市はこう主張する。
「異国がどんなに大きかろうと、どんなに強かろうと、そんなことは関係ない。神州日本の地が異人によって汚されている。だから死を賭して討ち払うだけだ!」
 
 この種の発想法からは「間違っていたから修正する。負けたら降伏する」という選択肢は出てこない。失敗した時は討ち死にするだけだ。
 
 アメリカ文化を特徴付ける1つの要素がプラグマティズムだとすると、武市に見るのは現実的合理的な判断を否定する観念論的精神主義であろう。これは藩全体が攘夷に傾斜した長州藩の行動にも表れている。司馬遼太郎は「竜馬がゆく」の中で語っている(第4巻60ページ)。
 
「幕末における長州藩の暴走というものは、一藩発狂したかと思われるほどのもので(中略)……当時の長州藩は、本気で文明世界と決戦しうると考えていた。……(中略)この暴走は偶然の理由で拾いものの成功をしたが、『これでいける』という無知な自信をその後の日本人の子孫に与えた。特に長州藩がその基礎をつくった陸軍軍閥にその考え方が、濃厚に遺伝した」
 
「攘夷」という思考停止は「平和主義」という思考停止に?
 私はこの3番目の文化的要因を強調しておきたい。というのは、この性向は今でも私たちの心の奥底に巣くっている気がしてならないからだ。
 
 以前本欄の「危機感駆動型ニッポンの危機!?(続編)」(2008年3月21日)で日本人を「危機感駆動型」と類型化し、危機感を強調する体質と、その一方で危機管理は杜撰さである傾向がどのような構図で並存しているのかを論じ、次のように述べた。
 
「様々な致命的な事故は、失敗と上手くつき合うことができなかったことが原因で起こる。要するに失敗の発生を前提とし、小規模の失敗が生じた時にはそれが大規模な失敗に発展しないようなフィードバックを働かす、あるいは起こった失敗の諸事例から失敗の要因と法則性を抽出して未然に防止する仕組みを整える、こうした運営、学習に日本型の組織、教育は弱いのではなかろうか」
 
「旧日本軍は作戦の立案から遂行まで全ての面にわたって、失敗した場合の代替策を用意せず、成功も失敗も合理的に分析して教訓を抽出することのない組織だった。合理的で柔軟な戦略形成が不在だから、特に戦争の後半戦では兵力において勝る米軍に対して、本土防衛の危機感をあおり、あるいは『精神力では勝っているから勝機はある』などという陳腐な鼓舞を繰り返し、玉砕していったわけである。東条英機の『人間たまには清水の舞台から目をつぶってとび降りることも必要だ』という情緒に支配されて開始された戦争は、危機感をあおりながら、危機管理のない戦争として展開していったわけだ」
 
 幕末の攘夷思想も、旧軍国主義体制も崩壊したものの、観念論的な精神主義は今でも私たちの心の底に形を変えて巣くっている気がしてならない。というのは、排外主義的なイデオロギーは姿を潜めているものの、世界における戦争と他国の軍備の存在を前提に、日本の安全保障政策を現実的に理性的に議論する風潮も論壇も育っていないからだ。
 
 攘夷という排外主義的な思考停止は、平和主義という別の思考停止にとって代わられただけではなかろうか。
 
 その結果、少数の犠牲か、多数の犠牲か、その二者択一を迫られると日本政府はほとんど判断麻痺に陥る。そうした空白の結果、将来再び日本が安全保障上の危機に直面した時、新たな武市半平太や長州藩が登場しても不思議はないと危惧するのは私だけだろうか。
***
 
 

今年は丸山眞男の生誕100周年ということで、本日の日経新聞にも大石格編集委員がコラムを書いている。 私も学生時代から丸山眞男の主要な著作は読んでいる。
 
最初に読んだのは、大学1年生の時(1975年)、教養学部の近代西洋史のゼミを受講希望する時に、「受講希望生は次の2冊の本を読んでレポートを提出すること」として指定された本のひとつが「現代政治の思想と行動」だった。もう一冊はフロムの「自由からの逃走」だ。 いずれも読んでおいて良かったと後々までふり返る本になった。
 
「現代政治の思想と行動」の冒頭の論文「超国家主義の論理と心理」でガッンと一発くらい、線を引きながら噛りつくように読みとおした。 右派(保守)も左派(マルクス主義系)もザックザックと切り裂いていく快刀乱麻のごとき超然とした論理展開に魅せられた。
 
確かに戦後のある時期まで(1960年代までかな?)、丸山の批判と論理に対してどう対峙するのか左派・右派双方の多数の論者が思想的な格闘をした時代があったのだ。 しかし私の大学生時代である1975年~79年には既に「脱イデオロギー」の潮流が進み、「君は丸山眞男の言っていることにどう対峙するのか?!」なんていう熱い議論は失せていた。
 
ところが、たまたま研究会の活動でお世話になった東大文学部の丸山昇教授(中国文学)が、その著作の中で幾度も丸山眞男の議論を引用し、鋭い問題提起や論理を展開していたので、私の中では丸山眞男の著作からのメッセージは大きくなっていった。
 
ちなみに丸山昇教授はハードコアな左派(マルキシスト)だが、丸山眞男を高く評価し、その左派批判を正面から受け止め、それを創造的に乗り越えることこそが、左派の思想と運動を「本物」にしていくと考えられていたと当時の私は受けとめた。
 
学生時代の私の理解力では、丸山の思想は個人の独立と自由意思をベースにした近代西洋の自由主義思想の代表に思えたのだが、同時に日本の伝統的な文化的雰囲気からまるで乖離したその思想の立脚点を丸山がどうやって得たのかわからなかった。
 
逆に言うと、それは丸山の天皇制や日本社会への批判を「上から目線」「西欧的な価値観からの批判」であるという論調、反発が出て来たわけでもある。
 
その後「忠誠と反逆」読んで、丸山の批判方法が単なる近代西洋的な価値観による外在的な批判ではないことは、私にとって明確になった。 というのは、この著作で丸山は、「滅私奉公」など戦前の軍国主義のイデオロギー要素にも利用された武士道思想と言う前近代の思想体系を分析するのだが、その奥に彼が見出したのは「反逆」という権威主義とは対極的なものへ転換する思想要素だったからだ。
 
主君のために滅私奉公する思想を徹底的に追求した場合、もし藩主が致命的に間違った判断をしようとした際に、本当に忠誠な家来はどうすべきか・・・・わが身の保身を捨てて主君を諌めるべきであろう、諌めても聞き入れない場合は・・・謀反すらあり得ようという論理の道筋で、伝統的な権威主義の中からその反対物、すなわち主体的な「個」の存在への契機を見出そうとしている、と私には思えた。
 
この論法は実に魅力的だ。人や世の中を変革する力とは、正にこういう論脈でできているのではないかと思う。私も自分自身の書きもので、そういう論理の展開を使う。例えば以下の映画評論だ。
 
今年、苅部直氏(東大教授、専門は日本政治思想史)の「丸山眞男~リベラリストの肖像~」(岩波新書、2006年)を読んで、この点で「超国家主義」に代表される丸山の批判が「上から目線だ」というような情緒的な反発をなぜ引き起こすのか、それでも丸山がどうしてそうした書き方を続けたのか、わかった気がした。 以下引用しておこう。
 
『超国家主義』論文をはじめとする、丸山の日本社会批判が、あたかも自分が西洋人になったかのような態度で、東洋の遅れた島国を見下す教説のように、しばしば受けとめられたのも、無理はなかった。・・・その『天皇制』批判が、苛烈な内面の劇の産物であり、深い自己批判でもあったことを告白するのは、元号が平成にかわった後の文章、『昭和天皇をめぐるきれぎれの回想』(1989年)においてである。・・・・
丸山は、日本人によく見られる『何かというと腹を割』ったり、『肝胆相照』らしたりする『ストリップ趣味』を、生涯拒否し続けた。それは、情緒による「ずるずるべったり」な一体感から精神を引き離すべきだという提言を、自身にもあてはめた自己規律であったが、同時にまた、その日本社会批判の出発点にあるものを、読者に見えなくさせた。」 (p146)
 
「腹を割った情緒の共有」 まことに日本人はこれが好きだ。これがないと日本では意見や利害が対立する状況ではなかなか理性的な議論が成り立たない。丸山が指摘したそうした状況は、当時も今も日本社会の中に根強い。これもまた丸山眞男が批判、指摘した幾多の課題のひとつに過ぎないが、他のほとんどの課題同様、今でも克服すべきものとして残っているものだろう。
 
参照:「ラーメン屋vs.マクドナルド」第3章ディベートするアメリカ人vs.ブログする日本人、情緒の共有を求める日本人」
 
 
 

本日3月10日は東京空襲から69年めだから、弊著「なぜ人は市場に踊らされるのか」(2010年、日本経済新聞出版社)の終章にかいた岸恵子の空襲体験談を以下に引用しておこうか。
 
「生死を分けた女優岸恵子の空襲体験
 戦後の大女優、岸恵子の半生をとり上げたドキュメンタリー番組をテレビで見たことがある。若い世代はあまり知らないだろうが、1952年に放映されたNHKの連続ラジオドラマ「君の名前は」が当時の大ヒット番組となった(筆者にとっても生まれる前のことである)。そのラジオドラマの映画版が1953年~54年にかけて3部作で作られ、やはり大ヒットした。映画版のヒロインを演じた女優が岸恵子である。
 
 このテレビ番組の中で岸恵子は横浜の大空襲(19455月)の体験談を語った。それがとても印象深く私の記憶に残っている。記憶を頼りに再現するので、多少不正確かもしれないが、次のような内容だ。
 
 空襲警報のサイレンが鳴り、避難する時のことだ。焼夷弾が雨のように降り注ぎ、町はたちまち火の海となった。当時12歳だった彼女は、母の言いつけでぬれた布団をかぶって家を飛び出した「子供達はみな防空壕へ!」という町内の大人達の誘導で防空壕に向かった。
 
 ところが来てみると、それは崖に横穴を掘っただけの穴蔵だった。穴の壁は掘ったままの土壁で、コンクリートで固められてさえいない。薄暗い穴の中を覗くと、防空頭巾をかぶった子供達が大人達に付き添われて、不安そうな眼をしてこちらを見ている。
 
「こんな穴の中に閉じこもったら、かえって死ぬ!」と直感した彼女は、制止する大人を振り切って近くの公園へと逃げた。広い場所なら火の手から逃れられると感じたのかもしれない。結局、彼女は生き延びたが、土壁の防空壕は空襲の衝撃で崩れ落ち、中にいた大半の人々は死んだと言う。 岸恵子は語った。「この経験を契機に子供心ながら私は思ったんです。大人や世間がなんと言おうと、それを鵜呑みにして従うようなことはもう一切しないと。」
 
 映画「君の名は」の大ヒットで一躍人気トップの女優となった彼女は、1956年に日仏合作映画「忘れえぬ慕情」に主演する。その時のフランス人監督イブシャンピと親しくなる。そして翌年57年にはイブシャンピに求婚され、フランスに渡り、結婚する。
 
 当時の岸恵子は日仏合作映画で主演したと言っても、フランスではほとんど無名だったはずだ。フランス語だって「フランスに渡ってから苦労して勉強した」と語っているので達者だったわけではないだろう。この時も、「せっかくの日本での大女優の地位を捨てて、フランスに渡るのか」と周囲から反対されたり、惜しまれたりしたそうだ。やがてシャンピとの間に娘を生み、離婚し、女優を続けながら娘を育て上げた。こうした岸恵子の波乱万丈の人生の原点に、大空襲を生き延びた体験があるような気がする。
 
バブルを生む強欲と同調性
~中略~
 
「みなさん、そうされていますよ」という呪縛
 国民特有の行動パターンを類型化した次のような小話をご存知の方は多いだろう。豪華客船タイタニック号が氷山に衝突し、救命ボートでの脱出が始まった。船員達は救命ボートに殺到する乗客に対して「子供とご婦人を優先します。男性方は子供とご婦人に譲ってください」と誘導しなければならない。さて、パニックになっている乗客らに何と言えば、もっとも効果的に誘導することができるだろうか、という想定だ。
この小話では各国民別に次のように言うのが一番効果的だということになっている。
ドイツ人に対して:「法律(あるいは規則)でそのように決められております。」
アメリカ人に対して:「そうすればあなたは英雄(ヒーロー)になれますよ。」
イタリア人に対して:「そうすればあなたは女性にもてますよ。」
日本人に対して:「みなさん、そうされています。」
 
どうやら私達日本人がバブルを起こしてしまう時は、個人レベルの強欲よりも、「みなさん、そうされていますよ」という同調性を求める呪縛に注意する必要があるようだ。「この不動産融資は無謀じゃないか」と思っても、「そのぐらいの無理は、みなさん(他の金融機関は)やっていますよ」という勢いに乗ってしまったのである。「年間所得の10倍の価格での住宅購入は無謀じゃないか」と思っても、「それが国土の狭い日本の住宅市況なんですから仕方がありませんよ。みなさん借入れを増やして買っていますよ」という流れに押し流されてしまったのである。
 
1990年代のバブル崩壊以降の日本はバブルには無縁になったと感じている方もいるかもしれないが、そうでもない。2000年代には「超低金利の円で金融資産を持っていても増えないからだめだ。高金利通貨で運用すれば有利だ」と喧伝されて外貨投資が増えた。この高金利通貨投資ブームでも「みなさん、やっていますよ」式の行動パターンが顕著で、為替相場の円安バブルを引き起こした。それが崩壊したのが2007年夏、あるいは08年夏以降の急激な円高である。
 
冒頭に取り上げた岸恵子の空襲体験が異彩を放つのは、「みなさん、そうしていますよ」の呪縛から彼女が解き放たれた体験だからだ。そして自分の命を拾った。
 
私は前著(「今こそ知りたい資産運用のセオリー」光文社200812月)の最後で次のように述べた。「世間が『米国金融危機』『米国凋落』『世界株式崩壊』と騒いでいる今こそ(200810月)、株式やREIT投資の千載一遇のチャンスだという黄金の波を見ることができるかどうか、そう思った時に投資する余力があるかどうか、これが長期の資産形成で成功と失敗を分かつポイントとなるのだ。」  投資をテーマに語っているが、私が本当に問いたいのは、儲かるか損するかの問題ではない。それは結果に過ぎない。世界の見方、自分の生き方の問題なのだ。
 
金融危機を予防、回避するための制度と政策の不断の改革は必要だ。しかし、それでも資産価格のバブルと崩壊の歴史は終わらない。そう覚悟しよう。私の眼には既に2010年代の次のバブルの膨張と危機の予兆が世界の新興市場で起こり始めているように見える。しかし、それは必ずしも不安や悲観の材料ではない。「みなさん、そうされていますよ」の呪縛を解いてしまえば別の世界の姿が見えてくるはずだ。バブルと危機を繰り返す市場経済とは、波乱と挑戦に富んだなんとわくわくする世界だろうか。」
 
 
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takenakamasaharu/  Yahooニュース個人

ひさしぶりに書評を書きたいと思った本、ただ今読了。
Liaquat Ahamed、吉田利子訳、筑摩書房、2013年
 
著者はケンブリッジとハーバード大学で経済学の学位を取得、世銀の投資部門を経て、投資会社や保険会社で投資の実務にたずさわって来た投資マネジャーであり、現在はブルッキングズ研究所の理事だ。
経済学の学位を持ったエコノミスト、投資実務のマネジャー、そして本書は歴史家としての実績ということなる。 まことに米国の投資業界にはすごい知性がいるもんだねと舌を巻く。
 
第1次世界大戦勃発前後(1914年)から始まって、20年代~30年代を中心に第2次世界大戦までの国際金融・経済史、上下合計600ページ余の大著だが、まるで映画を見ているように叙述が展開し、ずんずんと読み進める。 翻訳もこなれているお陰だろう。膨大な資料を下地に書かれていることは間違いないが、一流のジャーナリストの叙述のような描写力には感嘆した。
 
第1次世界大戦の結果生じたドイツの膨大な対外賠償債務が、国家間債務の履行不能と危機の連鎖を引き起こし、最後は世界恐慌に転じて行く過程を描いている。そこで著者が発見したことは、現代の通貨・金融危機との驚くほどの類似性だ。
 
E・H・カーは「歴史とは何か」(岩波新書)の中で、歴史学とは歴史家と歴史的な事実の「対話」だと説いたが、著者のしたことは正にそういうことだろう。
 
もちろん歴史は全く同じことを繰り返すわけではない。音楽に例えると、基調は同じでも様々に時代固有の状況による変調が生じる。 当時と現代の最大の相違は、当時の官僚、政治家、知識人の多くが「金本位制」に呪縛されていたことだ。 
 
現代的な視点でふり返ると、当時の歴史は金本位制の呪縛による悲劇であると同時に、その呪縛から解き放たれるまでの文字通り血にまみれた過程だったと言える。
 
各章面白いが、私が一番気に入ったのは第5部、第21章「千鳥足の金本位制」だ。米国がルーズベルト大統領という異風のリーダーシップの下で金本位制を離脱し、大恐慌から回復過程に入る時期の叙述である。 以下のその部分を要約、引用しよう。
***
 
1933年、ローズベルトが大統領になると直ちに行なったのは預金取り付け騒ぎでパニック状態になっていた銀行全ての閉鎖だった。 既に預金取り付けパニックで、信用収縮と実体経済(生産と消費、設備投資)の収縮が相乗的に深刻化する大恐慌に陥っていた。
 
銀行閉鎖(バンクホリデー)の間に「緊急銀行法」を用意し、FRBに金(ゴールド)ではなく銀行資産を担保に資金を供給すること、政府にはFRBに銀行を救済支援することを命じる権限を付与した。さらにFRBが銀行制度救済のために損失を出しても政府はその責任を問わないと約束した。
 
そしてローズベルトは有名な「炉辺談話」で国民にやさしく語りかけた。「わたしが保証します。お金はマットレスの下に隠しておくよりも、銀行に預ける方が安全です。みなさんが銀行にお金を預ける。銀行はそのお金を貸出し、投資や生産のために活用されるのです」(下㌻237)
 
そして銀行閉鎖が解かれた最初の朝、全国の銀行の前に預金者の長い列ができた。しかし今度は預金を引き出すためにではなく、預金を預け入れる人々の列だった。
 
「バンクホリデーと救済策、ローズベルトの談話があいまって -どれが一番効果があったのかは定かではなかったが- 大衆的な心理に劇的な変化が起こっていた。・・・一夜で国の気分は一変した。・・・10日間閉鎖されていたNY証券取引所が再開されるとダウは15%跳ね上がった。一日の上げ幅としては歴史上最大だった」(下㌻237)
 
「これまたフーヴァーにとっては呑み難い丸薬だった。彼が毛嫌いするローズベルトが導入した銀行救済策は、もともとフーヴァーが提案していた原則をもとに、フーヴァー自身の部下によって立案されたもので、それがたった1週間で信頼を回復させたのだ。気の毒な老いたフーヴァーが3年も大恐慌と闘ってきても、どうしても信頼回復に至らなかったのに」(下㌻238)
 
この叙述で想起せざるを得ないことがある。今年の春頃、「アベノミクス」で株価が急騰、円高も急速に修正され、先行きに明るい兆しが見え始めた局面で、国会では民主党の幹部級代議士が安倍首相に対して「あなたのやっていることは民主党政権がやってきたことを踏襲しているだけだ」と批判したことがあった。 安倍首相は「・・・・結果が伴うか、伴わないか、それが全てじゃないでしょうか」と応じていた。まことに結果が全てだね。
 
そしてローズベルトは金本位制の放棄とドルの大幅切り下げを決断するのだが、この時は政策顧問らから一斉に反対を受ける。
「この経済の専門家たちの集団に対峙したのはひとりだけだった-大統領その人である。専門用語を並べられて反対されても全く怖気をふるわなかった。顧問のひとりにそれは不可能だと言われると『くだらん』と切り捨てた。・・・ローズベルトのシンプルな見方によれば、大恐慌に物価下落がつきまとってきたのだから、物価が再び上昇に転じた時にしか、経済は回復しないはずだった。
顧問たちはそれは因果関係が逆だと辛抱強く説明しようとした。」(下㌻240)
 
著者は経済では原因と結果の関係は、多くの場合相互依存的、循環的であり、原因が結果となり、結果が原因となるとここで語っているが、私もその通りだと思う。
そしてローズベルトは経済学の専門用語でそれを語ることはできなかったが、そうした循環的な関係の逆転、すなわち「デフレ・プロセスの逆転に鍵があることを直感的に理解していたので、大恐慌の解決は物価を上昇させることだと主張し続けた」(下㌻241)
 
「ホワイトハウスのレッドルームに経済顧問を呼び集めた。そこで、にやにやしながら顧問たちと向き合ったローズベルトはあっさりと言った。『めでたい話がある。われわれは金本位制から離脱する』 
50%を上限としてドルの金利平価を引き下げ、金の裏付けなしに30億ドルの紙幣を発行する権限を大統領に与えた農業調整法トマス修正条項を示して、この施策を実行することにした、と大統領は述べたのである。」 (下㌻244)
そのとたん部屋は大騒ぎになった。喧々諤々の大騒ぎの後にダグラス(経済顧問のひとり)は「これで西欧文明も終わりだろうな」と宣言したそうだ。
 
ところがローズベルトの決断から数日後にはドルの下落とともに株価が15%も上昇し、銀行救済計画で始まった国民心理の劇的な変化は第2段階に入った。
それから3カ月で卸売物価は45%上昇し、株価は倍になった。物価が上昇して、借入金の実質コストは急落し、自動車販売台数は倍増、工業総生産高は50%上昇した。
 
というわけで、私達日本人は、この叙述に過去1年間の変化を重ね合わせずにはいられないだろう。
もちろん今日の日本は金本位制の束縛は無縁である。しかし、日銀が国債を毎月7兆円も購入してベースマネーを2年間で倍増し、消費者物価指数2%を目指すと黒田総裁が決断した時に、アンチリフレ派のエコノミストらが示した反応(例えば、「それでは日銀の国債引き受け同じだ」など)に、ローズベルト大統領の金本位制離脱宣言に政策顧問らが示した強い拒否反応を重ね合わせてしまわずにはいられない。
 
やはり歴史に学ぶ価値は、大きいですねえ。
 
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毎年8月6日から15日は、原爆と戦争の番組がTVでいっぱいになりますが、
私は毎年、微妙だけど根の深い違和感を感じてきました。

それを3年前に論考にして日経ビジネスオンラインに投稿したのが以下のものです。
コメント殺到しました。こういうの「炎上」というの?(^_^;)
今でも考えは変わりません。...

ちょっと長いですが、ご参考まで・・・・<(_ _)>
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20100811/215770/?P=1

一部引用:「私が不思議に思うのは、毎年8月になると被爆問題が議論される中で、「なぜ当時の日本政府はもっと早く敗戦、降伏の決断をしなかったのだ。そうすれば、沖縄の惨劇も広島、長崎の被爆も避けられたではないか」という方向に日本での議論が向かわないことだ。

 「戦争したこと自体が間違いだった」として当時の日本の軍国主義を非難することは、戦後ならばたやすいし、そういう議論は繰り返されてきた。私もあの戦争は、戦争したこと自体が間違いだったと思う。しかし、間違いを犯すことは国でも個人でもあり得る。間違いだったと思った時点で、それを撤回できれば被害は少なくできる。

 もちろん、戦争遂行者(権力者)は無条件降伏となれば処罰は必至だから、容易には降伏などしない。それでも、それができなかった故に国民の命と財産の莫大な損耗に輪をかけたことを訴える、あるいは問題にする声があっても良さそうなのだが、なぜか日本の議論にはそれが欠けている。

 原爆は是か非か、戦争は是か非か、軍事力は是か非か──。白か黒かの二分法の論理だけに議論が支配されている。興味深いことに、旧日本軍では戦争の展開までも、勝利か玉砕かの二分法に支配され、「投降」という選択肢が最初から否定されていた。「撤退」という言葉すら否定されて「転進」と言われた。これはけっこう根の深い問題かもしれない。次にこれを考えてみよう・・・・
 
論考後半の結論部分引用:「幕末の攘夷思想も、旧軍国主義体制も崩壊したものの、観念論的な精神主義は今でも私たちの心の底に形を変えて巣くっている気がしてならない。というのは、排外主義的なイデオロギーは姿を潜めているものの、世界における戦争と他国の軍備の存在を前提に、日本の安全保障政策を現実的に理性的に議論する風潮も論壇も育っていないからだ。
攘夷という排外主義的な思考停止は、平和主義という別の思考停止にとって代わられただけではなかろうか。」

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新著「稼ぐ経済学~黄金の波に乗る知の技法」(光文社)2013年5月20日発売中
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竹内洋「革新幻想の戦後史」(中央公論社、2011年10月)は、類稀な戦後思想史だ。
(例によって↑アマゾンにレビュー(一番最新のレビューです)を書きました。よろしければ「参考になった」をクリックしてください。)
 
戦後の論壇、アカデミズム、教育界を覆ってきた左翼思想的なバイアスを批判的な視点で論考の対象にしているのだが、著者自身の思索・思想の遍歴と重ね合わせながら展開している点に惹かれる。
 
著者は1942年生まれ、京大を卒業して一時ビジネスに就職したが、大学に戻り、社会学を専門にした教授になった。 人生も終盤に差し掛かった著者が自身の思想的な遍歴を総括する意味も込めて書かれている。
 
著者自身が学生時代には、当時の大学、知識人(あるいはその予備軍としての大学生)の思想的雰囲気を反映して、左翼的な思潮に染まるが、やがて懐疑、再考→「革新幻想から覚醒」のプロセスを歩む。
 
私は著者より一世代若いので大学生時代は1975-79年であり、既に時代は左翼的思潮の後退、衰退期に入っていたが、私自身は左派的な思潮に染まったほとんど最後のグループだったと思う。既存の大人社会をそのまますんなりと肯定的に受け入れることができない若者の常として(常だよね?)、既存の体制をラディカルに批判する体系としては、マルクス主義を軸にしたものしか同時なかったので、自然と傾倒したのだ。
 
だから私はマルクス経済学を中心に左派の文献をかなりマジに勉強した。また、社会主義的な左派ではないが、リベラル派としての丸山真男などの主要な著書はほとんど読んでいる。その時代の勉強は今でも下地に活きていると感じているが、そのまま受け入れているわけでもない。
 
そのため著者自身の思想的な遍歴は、私自身にも共通する部分があるので、共感著しい。著者が学生時代に読んだ代表的な文献も私自身の読書経験と重なる部分が多い。
 
1章は佐渡島での北兄弟(兄、北一輝)の話からやや冗長にスタートするが、丸山眞男の敗戦後の日本の知識人を支配した「悔恨共同体」情念の指摘に対して、もうひとつの「無念共同体」の情念があったことを語るあたりから一気に面白くなる。
 
そして1960年代の高度成長を経て、70年代以降は「花(理念)より団子(実益)」の情念に移行していくことで、悔恨共同体も無念共同体も風化し、理念なき方便が蔓延る戦後日本の曖昧さに至るという総括は、とても納得できる。
 
社会主義が現実としても理念としても崩壊した今日、昔の左翼は環境問題やフェミニズム、教育などのの領域に雌伏していたが、近年は所得格差批判などで少し息を吹き返している感もある。
そうした最近の事情も念頭に、戦後の左翼思潮(「進歩派」まで含む広義の左翼思潮)を批判的に再考する有益な一冊だ。
 

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