たけなかまさはるブログ

Yahooブログから2019年8月に引っ越しました。

カテゴリ: 映画・小説

Star Wars, The Force Awakensの封切りを祝って、10年前の Revenge of the  Sithについての評論を再掲しておきます。当時、私はワシントンDC勤務、この評論はワシントンDC日本商工会の会報(月報)に掲載されたものです。

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2005年6月1日
「悲劇のループ:映画Star Wars, Revenge of the Sith」
【盛り返した完結編】
スターウォーズ・シリーズはエピソード1 “Phantom Menace”あたりから私には新鮮さが感じられなくなった。前回作のエピソード2“Attack of Clones”も見たが、あまり記憶にも残らないほどの薄い印象で終わった。だから今回の完結編エピソード3“Revenge
of the Sith”にも期待していなかった。しかし、さすがに完結編、前回2作とは異なり、見応えがあった。
 
ご存知の通り、このシリーズは“StarWars”として1977年に発表されのがエピソード4で、その後エピソード5“The Empire Strikes Back”、エピソード6“Return of the Jedi“と物語の年代順にストリーが展開。その後、前史に遡ってエピソード1,2,3と製作、発表された。 この「宇宙チャンバラ大活劇」の完結編“Revenge of the Sith”では、これまでの5回の物語を通して残されていた「最大の謎」が解き明かされる。すなわち、ルーク・スカイウォーカーの父でジェダイであったアナケン・スカイウォーカーは何故ダークサイド(闇の力)に転向し、ダスベーダとなって帝国とエンペラーに仕えるようになったのか? 
 
【悲劇の筋立て:アナケンはなぜダークサイドに転向したのか】
ジェダイのオビワンによって見出されたアナケンは成長し、武功を上げ、共和国のジェダイとして活躍していた。ジェダイというのは銀河共和国を守護する一種の超能力騎士階級のようなものである。ジェダイの中でも指導者クラスはマスターと呼ばれる。 ジェダイ・マスターは評議会のメンバーとなり、政治的・軍事的な権力を持ち、
“Senate”と呼ばれる共和国議会に忠誠を誓っている。 
 
アナケンとの恋に落ちたパドマは妊娠し、子供の出産を待つ幸せな夫婦となるはずだったが、アナケンは悪夢にうなされる。最愛の妻パドマが出産とともに死んでしまう悪夢が繰り返される。 アナケンはこれが予知夢であると理解し、不幸な未来をなんとしても回避しようと決意する。
 
共和国のチャンセラー(首相、議長?)はアナケンに目をかけ、アナケンはチャンセラーを信頼するようになる。ところがチャンセラーはシス(Sith Lord)だった。シスというのは固有名詞ではなく、集合名詞である。シスはジェダイと同様にフォースを操るが、彼らは憎悪の情念を基底にしたダークサイドの力を信奉している。当時、共和国はドロイド軍(ロボット兵団)の攻撃を受けていた。実はこれはチャンセラーの仕組んだ「やらせ戦争」であり、彼はドロイド軍の黒幕として共和国を攻撃させ、戦争状態を継続させることで、共和国での自己への権力の集中を維持していた。
 
チャンセラーはアナケンに「ダークサイドの力はジェダイの力よりも遥かに強力であり、その力を手にすれば、パドマの死の運命さえも回避することができる」とアナケンに味方につけとそそのかす。 
チャンセラーがシスであったことを知ったアナケンは一旦はジェダイ評議会の指導者にこれを伝え、ジェダイ・マスターらがシスの捕縛に向う。シスとの戦闘でジェダイ・マスターがシスにとどめを刺そうとした時に運命が暗転した。 シスが死ねば妻パドマの死の運命を回避できるダークサイドの力も失われてしまうことを畏れたアナケンは、衝動的に介入し、あろうことかジェダイ・マスターの殺害に加担してしまう。 これを契機にアナケンはダークサイドの力にとり付かれ、シスの手先に転落する。
 
アナケンを味方に引き込んだシスは、ついに共和国を帝政に移行させ、自分が皇帝として君臨するために障害となるジェダイ集団を抹殺するクーデターを開始する。アナケンはシスの指令でジェダイ聖殿の子供達(訓練を受けている次世代のジェダイ)も殺してしまう。この後、アネケンは自らの師であったオビワンと対決することになる。ヨーダも同時に、皇帝シスに戦いを挑む。
 
ダークサイドに転落し、ジェダイ殺害の手先となったアナケンの変貌に妻パドマは、悲嘆絶望する。パドマはオビワンによって救出されるが、深い絶望のあまり生きる気力を失った彼女は双子を産み落として死んでしまう。アナケンの予知夢は現実となったのだ。この双子が後のルーク・スカイウォーカーとレイア姫である。
 
【不条理な因果律:悲劇のループ】
映画を見てこのプロット(筋立て)に、「あれ、ちょっとおかしいじゃない?」と思ったら、あなたの論理感覚は正常である。妻のパドマが死ぬという未来予知がなければ、アナケンはシスのダークサイドへの誘いにのらなかったであろう。その結果、パドマの絶望と死も起こらなかった。従ってパドマの死の予知夢も起こらなかったはずだ。つまり因果関係が循環しているのである。不条理ではないか? 
 
ひとつの解釈としては、パドマの死の予知夢はシスがアナケンの心に仕掛けた罠だったと理解することもできるかもしれない。パドマが死ぬ悪夢にアナケンが悩まされていることを、シスは言われずに気がついていたからだ。アナケン自身の予知だったのか、それともシスのマインド・コントロールだったのかはともかく、予知夢は現実となった。
 
不幸な未来予知があり、それを回避する人間の選択が逆に予知された不幸な結末の原因となるというプロットは、実は古典的な悲劇のプロットである。「映画“Million Dollar
Baby”:生と死の淵のおける孤独な決断」でも引き合いに出したが、ギリシア古典悲劇の「オイディプス王の物語」を思い出して頂きたい。「今度生まれてくる自分の息子に殺されるであろう」という神託を受けた王は、生まれた子供(オイディプス)を捨てる。しかし子供は拾われて、自分の出生を知らぬままに育ち、旅の途中で偶然遭遇した王を父と知らずに殺害してしまう。 この物語を始めて読んだ時(高校生の時であるが)、「おかしいじゃないか?」と感じた。 未来予知の神託がなければ王は生まれた子供を捨てることもなく、子供が自分の出生を知らずに王を殺害することもなかった。従って神託も成り立たなかったはずである。「未来予知回避行動予知の自己実現」という通常の因果関係では有り得ない連鎖となっている。ジョージ・ルーカスはアナケンがダークサイドに転落し、ダスベーダとして悪の皇帝の手先になる筋立てに、古典的な悲劇のプロットを使用したのである。
 
映画MatrixReloadedでも、主人公ネオは最愛のトリニティーがビルから落ちて死ぬ夢に悩まされた。やはりこれは予知夢で、やがてMatrix内での現実(?)となる。しかしこの場合は、未来を予知した上での主人公ネオの回避行動が、予知された結果の原因とはなっていないので、通常の因果律は崩れていない。
 
通常の因果律では現在から未来へと原因と結果の連鎖が起こるのに、この種の悲劇のプロットでは、未来が現在の原因となり、同時に現在が未来の原因となるようなループ状に閉じられた形になっている。どうしてこうした転倒した構造が悲劇のプロットと受け入れられるのであろうか?
 
 
【予想の自己実現】
まず考えられることは、「悲劇を回避する選択が悲劇の原因となる」という筋立てが、悲劇を「逃れられない運命」として描くことで、運命に捕らわれた人間の絶望を強調する効果があるのだろう。古代ギリシア人は、その運命の契機となる未来予知を「神託」として描き、現代のSFは未来予知超能力として描いたのだ。 しかしこうした筋立て上の効果が、古今東西受容される理由は、人間の基本的な存在のあり方に根ざしているのかもしれない。
 
私達人間は、頭の中になんらかの「観念化された外界のモデル」を持っていて、このモデルをシュミレーションすることによって、これからを起こることを予想し、自分の行動を選択しようとする動物である。例えば、あるニュースに接して、大勢の市場参加者が株式を売り、その結果相場が下がると予想すれば、株式を売るという行動を選択する。同様の予想と選択を多くの市場参加者が行えば、「相場下落の予想」は自己実現的に相場の下落を結果する。上げ相場では逆の方向に同様のことが起こる。 

こうした予想の自己実現効果は相場現象に止まらない。社長が会社の将来に悲観的になれば、社員にも悲観的な予想が広がり、優秀な社員は会社を見限って他社に移り、結果として業績は益々悪化し、ついに会社は破綻するかもしれない。このような不幸の自己実現プロセスを私達は経験しているからこそ、因果関係がループ状に閉じた悲劇的運命の筋立てを受容するのではなかろうか。
 
【運命のループを断ち切る者:“Returnof the Jedi”の含意】
勿論、人間自身も含めた物理的存在としての外界は、主観的な意識からは独立した実体を持っている。従って「売るから下がる、下がるから売る」というループ状の因果律が産み出すトレンドはどこかで限界に達し、永遠には続かない。行過ぎた相場は反転する。 予想の自己実現のプロセスはやがて自己否定のプロセスに転じ、予想は裏切られ始める。
 
こうして、悲劇の運命にもループ状の因果律が壊れる時が来る。アナケンとパドマの残した双子、ルークとレイアは帝国皇帝とダスベーダにやがて戦いを挑む。
エピソード5“The Empire Strikes Back”で、ダスベーダはルークとの戦いの中で語る。
“I am your farther. This is your destiny. Join us.” ダスベーダは運命の繰り返しを説いているのである。これに対して No!と叫ぶルークはエピソード6“Return of the
Jedi”で運命の繰り返しを拒絶し、ダスベーダに決戦を挑む。 ルークとの戦いに敗れたダスベーダは、自分が捕らわれた運命の罠を断ち切る戦いを息子ルークがしているのだと悟る。再び立ち上がったダスベーダは、ルークにとどめを刺そうとしていた皇帝を倒して、自分も息を引き取る。
 
私は長いこと判らなかったが、今始めて判った。“Return of the Jedi”とは「ジェダイに成長したルーク・スカイウォーカーの反撃」のことであると同時に、死の間際にダークフォースの呪縛を絶ち、本来の心を取り戻したアナキン・スカイウォーカーのジェダイとしての復活のことだったのだ。
 
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クリント・イーストウッド監督の最新作「アメリカン・スナイパー(American Sniper)」を見た。全米で大ヒットとなり、この映画の含意を巡ってリベラルと保守の立場からいろいろ意見が噴出し、論議になっているそうだ。 
 
 http://wwws.warnerbros.co.jp/americansniper/ (映画のオフィシャルサイト)
 
私としては、 2006年の「Flags of Our Fathers(父達の星条旗)」「Letters from Iwo Jima(硫黄島からの手紙)」、さらに2009年の映画「Gran Torino」など近年の一連の作品を通じて、イーストウッド監督の思索、メッセージが、らせんを描くようにゆっくりと展開、発展しているように感じる。
 
映画は米国海軍のSEALS(特殊部隊)で狙撃手として2000年代のイラク戦線で活躍した人物、クリス・カイルの実話である。 クリス・カイルの実話については、NHKニュースなどでも報道されているので、以下では映画のラストまでネタバレで語る。それを知らずにまず映画を見たい方は、ご注意頂きたい。
 
映画グラントリノのメッセージをふり返る
 
2008年の「グラントリノ(Gran Torino)」については、映画に絡めて2009年に日経ビジネスオンラインで以下の論考を寄稿、掲載している。まずの映画のメッセージから振り返ろうか。私の論考を読まれていない方は、以下ご覧頂きたい。(↓)
 
引用:「ウォルト(主人公)が自分の心の深い傷、罪の意識を償い、誇りを回復したことは確かだ。同時に彼は過去の何かを捨て、未来に向けて何かを救い、何かを託したのだ。 何を?
 
ウォルトが投げ捨てたものは「力による恫喝」と「民族的な偏見」だと言えるだろう。振り返ってみれば自分の父母、あるいは祖父母も移民としてこの国に渡って来たのだ。街の床屋の「イタ公」も、建設現場監督の「アイリッシュ野郎」もそうだ。
 
彼は自分の人生を歩き始めたばかりのスーとタオにこの国アメリカで生きる勇気と希望を与えた。
 
『この国(アメリカ)は世界中からやって来た移民とその子孫に、ハードワークと独立心を代償に、自由と繁栄を与える土地だ。これまでもそうだった。そしてこれからも』
そういうセリフは映画の中では一切出てこないが、これは多くの現代アメリカ人の琴線に触れる信条だ・・・
***
 
多くのすぐれた物語がそうであるように、込められたメッセージはひとつではない。しかしこの映画から、ひとつだけ重要なメッセージを抽出すると、主人公ウォルトの悔恨とラストシーンを通じて描かれているのは、「怨嗟と暴力による報復は暴力の連鎖を生むだけだ。人はその連鎖を断ち切らなくてはならない」これだと思う。
 
このテーマ以外にも、この映画は今日のアメリカにおける移民と多民族社会の問題、製造業の空洞化の問題、社会におけるキリスト教の存在意義等、現代の米国社会を考える重要な要素が盛り込まれている。 そのため私は大学で担当している「アメリカ経済論」で2コマ使って、映画の鑑賞とレポートを課している。
 
この映画を題材にした講義で、学生諸君に私が一番感じとって欲しいテーマは、やはり「暴力は暴力の連鎖を生む」というこのメッセージだ。
 
しかし同時に私の脳裏には、ひとつの疑問が浮かび上がってくる。映画ではウォルトはタオとトスーを守るためにギャング達を撃ち殺すのではなく、ギャング達に自らを撃ち殺すように仕向けた。その結果、ウォルトは死ぬが、ギャング達は警察に逮捕され、長期の刑務所服役必至となった。
 
こうしてウォルトは、人を殺傷することなく大事な二人を守ることができた。 同時にそれはかつで朝鮮戦争で、ほとんど降伏しかけていた少年兵を逆上した自分が殺してしまったことへの自戒の含意もあったろう。
 
物語としては、非常に完結性が高くて素晴らしいラストだ。 ただし、このような結末がつけられる条件として、ひとつの法治国家の中で、法秩序を守る警察とその背後の国家が機能していることが大前提になっている。
 
グラントリノのメッセージの限界
 
それでは、国家権力が相対化する国際間での暴力、あるいは国家権力が正常に機能していない紛争地域ではどうなるのか? その条件下でも「暴力による報復、制圧は暴力の連鎖を生むだけだ」と言って非暴力主義で済ませていられるだろうか? 非暴力で暴力の連鎖を断つことはできるのだろうか?
 
そうした理想主義は、日本国憲法の前文の次の文章が代表しているものだ。
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した
 
その理想主義の理念的価値は評価するとしても、これで国民の生命・安全が守れないのが世界の現実だ。 北朝鮮による拉致事件、2013年のアリジェリアの化学プラントでの武装勢力による日本人を多数含む人質・殺害事件、最近のISによる日本人人質・殺害事件など, あげるまでもないだろう。
 
さらに遡れば、1979年のイラン革命の騒乱下、テヘラン空港から脱出できなくなった現地駐在の多数の日本人らを救出するために、当時は日本政府は法律の制約で自衛隊の飛行機すら飛ばすことができなかった。日本政府に代わってテヘラン空港に救出機を飛ばしてくれたのはトルコ政府だった。
 
当然、同時多発テロ9・11とその後のアフガンとイラクでの戦争、中東などでの内紛と難民の大規模な発生、テロリスト集団の跋扈など、イーストウッド監督も「グラン・トリノ」のメッセージでは完結できない世界の現実について考え続けたはずだ。
 
暴力が支配する世界の現実の中で・・・
 
映画アメリカン・スナイパーで、主人公クリスは米国のテキサスで生まれ育ち、ハンティングやロデオを楽しむごく普通の若者だった。 ところが、中東でのテロリストによる米国大使館爆破事件を契機に、「自分もこの国を守るために何かしなくては・・・」と思い立ち、海軍に志願し、厳しい訓練を経てSEALSの狙撃手となる。
 
9・11のテロの後、いよいよイラク戦線に派遣され、地域の制圧と抵抗武装勢力を残滅する任務につく。 スナイパーの基本任務は味方の兵が展開する地域で、高いビルの屋上などに陣取り、味方を攻撃しようとする敵兵を先んじて発見し、狙撃することだ。 クリスは160名以上の敵兵を殺し、仲間からはレジェンド(legend)と呼ばれ守護神のように頼りにされる。ヒーロー視されるが、気持は晴れない。 
 
クリスが経験したことは、現地にも自分らと同じように何かを守ろうと戦う住民がおり、子供の死に慟哭する親がおり、自分らとは異なるが神を信仰する人々いて、自分と同じように同僚の兵士を守ろうとする狙撃手が敵側にもいるという現実だ。その敵方の狙撃手に自分の親しい同僚も撃たれる。
 
4度目の赴任でついに敵方の狙撃手を発見、射殺し、命からがら生還するが、他の多くの派遣兵と同様に心理的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状を起こす。 それでも彼は軽度な方で、回復後は心理的、あるいは身体的な障害者となった他の帰還兵を慰安しながら、妻と子供たちとの平穏な家庭生活を取り戻す。
 
ところがある日、クリスは慰安のために同行したPTSDを病む帰還兵に、突然銃撃されて絶命してしまう。ラストシーンは、実際に故郷で行なわれたクリス・カイルの葬儀の実写映像で終わる。クリスの遺体を乗せた霊柩車が走る沿道には、彼の死を悼む大勢の住民が並ぶ・・・。
 
映画グラントリノには視聴者を感動させると同時にすっきりとさせる完結性があった。しかしアメリカン・スナイパーには、そうした完結性やすっきり感はない。
 
「人を殺すってことは、とんでもない地獄を経験するということなんだ」 これは、「グラントリノ」でもウォルトが語ることだし、「許されざる者」でも同じセリフが出てくる。  これはイーストウッド監督の一貫したメッセージであり、この映画でも貫かれている。 しかし暴力が支配する世界で、どうしたら人を殺さずに人を守れるのか? 「グラントリノ」にあった完結したメッセージはこの映画では成り立っていない。
 
4度目のイラク派遣でようやく発見した敵方狙撃手に向けてクリスが放った弾丸は、超スローモーションで長い軌跡を描き、敵方狙撃手を射抜いた。 しかしイーストウッド監督がこの映画を通じて放ったメッセージは、完結することのない問いのまま空を彷徨っているのだ。
 
むしろこの問いに私達が正面から向き合うことこそ、イーストウッド監督のメッセージだったのかもしれない。 「暴力による報復と制圧は暴力の連鎖を生む。しかし一国の法治が成り立たない状況では、どうしたらいいのか?」
 
映画グラントリノを見て、やはり私同様に「荒野の用心棒」以来のクリント・イーストウッド・ファンだった友人(女性)が、メールにこう書いていた。 
 
「若い頃は、ガンマン役やデカ役(ダーティハリー)で、悪い奴らをガンガン撃ち殺して格好いいとこ見せつけておきながら、晩年になって『君達、暴力は際限のない暴力の連鎖を生むだけだよ。どうすれば良いのか?わしが見せてやろう』と言わんばかりに、自分が死んで見せるなんて、格好が良過ぎてずるいわ!」(記憶による再現です。) 
 
その通りだ。暴力が支配する世界の現実は、格好の良い解決法も、腑に落ちるような完結性も拒否しているのだ。
 
どうしたらいい? 「イラクがテロリスト集団が跋扈、支配するような今の様な状態になったのも、そもそも米国のイラク戦争の結果であり、更に遡れば・・・」と米国批判を展開する筋もあり、私も別に米国の過去の中東政策を正当化する気は毛頭ない。 しかしそういうことを述べ立てて済ませるだけなら、ISが暴力と恐怖で支配地域を広げ、異教徒が奴隷化される現状に対しては全く無力、不毛でしかない。
 
もしかしたらイーストウッド監督は「その解答は、俺が棺桶に入るまでには間に合わないかもしれない。その場合は、その後の世界を託されたお前たち世代に任せるよ」と逃げ切る気でいるのかもしれない。
 
クリントじいさん、あんたやはり格好良過ぎて、ずるいよ・・・・
 
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 追記:IS問題について、中東・イスラム問題を専門とする池内恵氏(東大准教授)が良い指摘をしているので、引用しておきます。
「(日本では)問題は『一神教同士の争い』であるといった通俗・劇画的解釈を開陳する方々が澎湃と現れ、いくら否定しても不思議がるだけで理解してもらえない。大前提として、西欧の世俗主義と、神の啓示を上位とするイスラーム教の宗教的絶対主義がぶつかっている、という基本認識を日本の知識人が持っていない。」  雑誌「公研」2015年2月号より
 
最後の点は、日本の知識人一般というよりは、「左派系知識人」にその傾向が顕著であることを言い添えておきます。
 
追記:このフランスの政治学者の論考は、問題の難しさ、微妙さを語っていると思う。
引用:「ジハードとイスラムが無関係であるということ、暴力的な過激化が信仰でもたらされる真理や宗教的実践と無関係だとすることは、間違っているばかりか、政治的に非生産的である。  
 
テロ実行犯とムスリムを同一視することの間違いと危険は、まさにこの事実を否認することから生まれる。 宗教的な事象は、時代を問わずいつも過激派を生み、その暴力が同じ宗派の者、違う宗教を信じる者、不信心者に対して向けられてきたのだ。    
 
それゆえ、そのような事実を指摘することでテロリストとムスリムが同一視され、ムスリムや礼拝所への攻撃につながる危険があるかもしれないということにこそ、一層の注意が払われるべきなのだ。」 
http://synodos.jp/international/13010
 
追記(2月28日):町山智浩氏のこの映画に関する評を引用しておきます。正しいと思います。
引用:「だからね、この、要するに『これは戦争を賛美している映画だからよくない!』って言っている人も、『賛美してなにが悪いんだ!?』って言っている右側の人も、両方とも間違っているんですよ。まったく賛美していないんですよ。この映画。戦争を。」
 
「イーストウッドっていう人はね、右とか左とかね、いっつもね、両方からね、『自分たちの敵だ!』って言われてるんですけど。どっちでもない人でね、なかなか面白い人ですよ。」
 
「まあ彼のいちばん有名な映画で、『許されざる者』の中でイーストウッドが言う、いちばんいいセリフっていうのがいちばん重要なことで。彼はこう言うんですね。『人を殺すっていうのは地獄なんだよ』って言うんですよ。」 (同種のセリフは「グラントリノ」でもありましたね。竹中)
***

ディズニー映画「アナと雪の女王(Frozen)」子供たちと見てきた。家族で見るにはちょうどいい感じで楽しめる。
 
北欧の一部を思わせる小さな王国の王家の姉妹として生まれた姉のエルサと妹のアナ、エルサは生まれながらにして雪や氷を自在に生み出す魔法の力を持っていたが、ある日二人で遊んでいる際に誤って自分の魔法で妹のアナの生命を危うくしてしまう。 
 
アナは山に住む岩の精の長老の手で助かったが、姉のエルサはまだ幼く自分の魔法の力をコントロールできないので危険だ、ということになる。そこで王である父の厳命でエルサは自分の魔法を封じ、アナからも距離を置き、閉じこもった生活をする・・・・。
 
以下の映画の一部は、自分の魔法の力を隠し、封じながら育った若き女王エルサが、王国を離れひとりになって、自分の力を解き放つシーンだ(↓)。歌は"Let It Go"
(違法コピー動画も出回っているようだが、これはディズニーの公式サイトからのもの)
 
若い時はこのぐらいの傲慢さと勢いがあってもいいね。
でも最後(ラストシーン)には人の愛に目覚めようね(歌はAn Act of True Love)というのが映画のメッセージだ。わかりやすい(^_^;)
 
自分の秘めた力を解き放つ
もう少し想像の羽を伸ばして考えて見ようか・・・・。
この映画で登場する王女エルサの「魔法の力」は、一般化すると「自分が秘めている他の人にはない力」ということになる。
この要素は、アメリカの物語の中で繰り返し出てくる。例えば、コミックと映画X-MENも超能力を持った子供たちの多くが、普通の人と自分が違うことに悩みながら、その力に覚醒するプロセスが重要なメッセージになっている。
歌ではLADY GAGAのヒット曲、“Born This Way”は、文字通り「オリジナルな自分のままでいいんだよ」という自己解放に覚醒する歌詞だ。 
 
こうした物語要素や歌って・・・「他の人と異なることを恐れずに、自分の持っている力を解き放ちなさい」という価値観がアメリカ社会の基調にあるのだろうと思う。
 
芸能やビジネスでも、強烈な個性のスーパースターを次々と生みだすアメリカ社会の基調には、やはり「人と違うことを恐れるな」という価値観があるんだと思う。 
 
一方、日本のカルチャーは比較すると権威的、抑圧的な色彩が濃いのでは? まあ、そうだね。ただし日本には職人的な価値観、美意識として「極める」という志向があり、それが高いレベルの創作、創造の源泉になっているのだと思う。
 
自己制約からの脱却
何事も学んでスキルを身につければできるようになる・・・と昔は考えていたが、知識としてのスキルの習得と「できる」という実践感覚の間に、大きな溝がある。 「自分にはできるんだ」という一種の覚醒体験を経ないと、知識としてのスキルは実践的なものとして血肉化しない。
 
例えば、学校で何年も英語を勉強しても、実際に英語が使えない人が多いのは、この「できる」という感覚体験を経ていないからだね。どうしたらそれが得られるのか?英語圏で一定期間暮らしてみるのが一番だ。
 
ところが人間は育てられる過程で親や学校で実に様々な自己制約もインプットされる。
例えば、所得、教養、学歴、金融知識すら十分にある人でも、金融資産のほとんどは銀行預金と郵便貯金という方々は日本で多いだろ。
 
「相場物に手を出して儲けようなんて、真面目に働く人間のすることじゃない」
「金借りて投資するなんて、まともな本業のある人間のすることじゃない」
なぜか日本ではそういう自己制約にはまって生きている人達が圧倒的な多数派じゃないか。
 
私自身が40歳頃まではそういう自己制約に捕らわれていたから良くわかる。
業務は銀行のディーリング業務だったが、自分の資産はほとんど非リスク資産だった。
 
ただし、たまたま好奇心は強かったから、業者と遭遇して、ガツンと一発やってしまった中古マンション投資(1998年)が私にとっては大きな分水嶺だった。一度やってしまったら、世界の見方が変わって、急に世の中の「宝の山、黄金の波」が見えて来たような感じになった。 
 
ただし何でもやればいいわけじゃない。合理的な投資とはどういうことか、ということを考えていろいろ勉強を続けたから、今に至っているわけだ。 
 
現代において投資・資産形成について知識・スキルだけでなく、「できる」という実践感覚を身につけている人は、そうでない人に比べると、ちょっと誇張した言い方をすれば魔法の力を持っているようなものかもしれない。 
 
この力はやはり気をつけて使った方が良さそうだ。妬まれたりすることもあるし、少し前に「ウォールストリート」という魔法の王国が、熱に浮かれて暴走し、世界を凍らせてしまったばかりだからね。
やはり最後は愛に目覚めようか(^_^;)
 
追記:"Let It Go" 日本語の歌詞と松たか子の歌もいい。実にいい!
 
追記:May J  歌はやはりMay Jが上手い。
 
追記:25カ国version
 
追記:
 
追記:製作者らにとっても“Let It Go”は物語制作の転換点だった。
 
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takenakamasaharu/  Yahooニュース個人
↑New!YouTube(ダイビング動画)(^^)v
 
 
 
 
 
 
 

Peter O'Toole 逝く・・・・今朝のNHKBSの各国TVニュースでどこも報道している。
私にとっても懐かしい名優でした。

最も印象的な代表作は次の2つです。
Lawrence of Arabia

Man of La Mancha

いずれも「ヒーロー」と「悩める男」の2つの人格の相克が基調になっていますよね。
O'Tooleは他の映画でも、同じ基調のキャラを演じており、彼の「持ち味」だったと思います。
Man of La Manchaの主題歌
The Impossible Dream (←クリックで映画のシーンに飛びます)
 
この歌、「現実はどんなにボロボロでも、そのどん底で自己の尊厳に覚醒し、栄光への道を歩め」と鼓舞しているんですね。若い頃、なりたい自分のイメージと、それに手が届かない自分の現実の狭間で悩んでいた時代に、このミュージカルに鼓舞されました。私と同じ気持ちの人、他にも少なくないでしょ?
 
今でもこの歌は時々口ずさんでいます。
そうやって「今ある自分」に妥協せず、「違う自分」、「まだ手の届かない姿」をイメージしながら自分を鼓舞して来たから、今ある私が存在するんだと感じています。そしてそのプロセスはまだ終わっていません。死ぬまでいくで~
 
 
 

解けましたあ! 
↑ NHKBSドラマ「ハードナッツ」の数学ガール、くるみ(橋本愛ちゃん)のセリフ
 
いやあ・・・わかったんです。
エヴァンゲリオンと今年大ヒッのトマンガ&アニメ「進撃の巨人」が大受けになった共通点が・・・・。
 
エヴァの主人公、碇シンジ君、キャラは優柔不断でトラウマ(「父に捨てられた、愛されていないのでは・・・」)を抱え、悶々とするタイプ、「がんばらなきゃ」と思う時もあるのだが、ポジティブになりきれない自分自身に悩むタイプ
要するにシンジ君は現代の草食系男子の先駆者&象徴だね。
 
直属の上司は父、碇ゲンドウ、使命に殉教するタイプで、そのためなら冷酷に徹する。
 
一方、エヴァに登場する女性達は、それぞれのキャラは違うが、みな迷いがなくて強く、危機が迫ると躊躇なく戦闘モードに移行する。要するにビシ、バシとしている肉食系女子。
ミサト、レイ、アスカ、リツコ、この点でみな共通している。
 
エヴァの登場人物は以下サイト参照
 
進撃の巨人の主人公、エレンも優柔不断で決断仕切れない自分に悩んだり、後悔したりするシーンが繰り返し出てくる。 「ボクも戦うぞ~」と男を見せる時もあるのだが、戦闘スタンスが不安定で持続性に欠け、しかも最大の敵「女型(めがた)巨人」にボコボコにやられる。
 
直属の上司はリヴァイ兵長は、戦闘能力抜群で、任務のために手段を択ばない冷酷なキャラ
 
一方、登場する主要女子キャラは、やはり迷いのない強いタイプ。ミカサ、アニなどこの点で共通している。
進撃の巨人の登場人物は以下サイト参照
 
もう、わかりましたね。
これはいわゆる草食系男子と呼ばれるちょっと気の弱い、迷いの多い男子君から見た今日の社会イメージ、人間群像そのものなんだ。
 
同世代では、迷いもなくガシガシ勉強したり、スポーツしたり、就活したりする肉食系女子群の台頭に「およよよ」と圧倒されている。 社会に出ると、仕事のためには「なんでもするぞ!」という上司が怖く冷酷な存在に見える。
 
「ボクもがんばらなきゃ・・・」とは思うのだ、その気合がなかなか持続せずに、「なんで君たちはそんなに迷いもなくがんばれるの・・・?」と違和感を感じてしまう。世界ではガンガン戦いが続いているが、そもそもなんでこんなにしんどい戦いが起こっているのか、根本のところで、主人公も視聴者もわかっていない。
 
そうした草食系男子諸君がたっぷりと共感し、自己投影できる迷い多い男子キャラを主人公にしてエヴァも進撃の巨人も謎めいた物語を展開している。 これがこの2つの物語が現代の草食系男子層を中心に圧倒的な人気を博した要因ではないか・・・・・と思うのだ。
 
まあ、それでも、進撃の巨人の主人公、エレンは迷いながらも成長を遂げている感じがする。いつか女型の巨人を打ち負かし、人類解放に道を拓くのではないか・・・という感じでアニメは途中まで来ている。(私はマンガは読んでいない。アニメしか見ていません)
 
旧世代男としては、エレン君の成長に期待しましょうかね。
 
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takenakamasaharu/  Yahooニュース個人
 
 

NHKBS、日曜日夜のドラマ、「ハードナッツ、数学 ガールの恋する事件簿」(全8回、2回目終了)が面白くて見ている。 主演の女優はNHK朝ドラ「アマちゃん」でユイちゃん役を演じた橋本愛(役名:難波くるみ)だ。
 
第2回で出てきた数学ネタのひとつは以下の通り。
相手役の若い刑事、伴田が検診の結果、1万人に1人といわれる難病の検査で陽性と出て、再検査の必要を通知される。 検査の精度は99.9%、伴田は助からないと覚悟する。
 
クライマックスで爆弾魔の罠にはまって爆弾を仕掛けられ、動けなくなった伴田は「オレはどのみち死ぬ身だ。オレにかまわずにお前は逃げろ」とくるみに言う。
しかし、くるみは、「あれ~伴田さんが病気で死ぬ確率は・・・約1割でしかないですよ!」と言う。
 
「えっ!そうなの?なんで・・・・?検査の精度は99.9%なんでしょ」と視聴者に思わせて、その場でくるみが説明する。
 
「だって、検査の精度が99.9%ということは、10,000人のうち、0.1%、つまり10人は病気でなくても、検査で陽性と出てしまうということでしょ。でも実際に病気になるのは10,000人に1人だけ。だから~検査で陽性と出た伴田さんが本当に病気だという確率は、約1割でしかないんです!」(愛ちゃん、かわいいなあ・・・(^_^;))
*****
 
これは統計や認知心理学の一般書などで、人間が正しい確率的計算が苦手であることの事例としてよく紹介されるケースだ。 検査の精度が99.9%と言われると、検査で「陽性」と出ると「ほぼ確実に、99.9%の確率で病気だ」と思ってしまう。しかし実際には、検査の適否は検査の精度と当時に現象(ここでは病気、罹患比率)の度合いに依存している。
 
ドラマのこの場面で、一緒に見ていた家族に「今の愛ちゃんの説明、わかった?」と尋ねたら、中学2年生の息子は「わからない・・・」、一方 大学1年生(理系)の娘は「あったりまえのことでしょ」との反応、やはり統計の基礎で習っていないと瞬間的にはわからないよね。
 
以下解説
罹患(病気)比率:0.01%(10,000人に1人)
検査の精度:99.9%(0.1%は誤った結果が出る)
 
非罹患者(問題なし人)9,999人
①うち検査で陰性(病気でない)と出る人数:9989=(9999×0.999)  正しい検査結果
②うち検査で陽性(病気だ)と出る人数:9.999=(9999×0.001)     誤った検査結果
罹患者1人 
③うち検査で陽性(病気だ)と出る人数:0.999=(1×0.999)      正しい検査結果
④うち検査で陰性(病気でない)と出る人数:0.001=(1×0.001)   誤った検査結果
 
検査で陽性と出る②と③の合計は、10.998人
そのうち、本当の罹患者は③の0.999人だけだから、陽性と出た人数のうち、実際に罹患している人の比率(X)は0.999/10.998=0.0908、つまり9.08%となる。
これをドラマでは「約10%」と言ったわけだ。
 
さてこれを一般式にしてみようか。
罹患(病気)比率:a
検査の精度:b
とすると、X=ab/(1-(a+b)+2ab)となる。
 
式の組み立ては自分でやってみてください。 
さて、この一般式を使って検査精度が99.9%の場合に、実際の罹患比率(a)が100%から0.001%まで変化した時の「陽性と出た人数のうち、実際に罹患している人の比率(X)」の変化をグラフにしたのが以下の図だ(縦軸は対数メモリ)。 
 
罹患比率が1%を下回るあたりから、急速に「陽性と出た人数のうち、実際に罹患している人の比率(X)」が低下するのがわかる。 これはある意味で当然のことで、要するに非常に確率的に低い事象(ここでは病気)を発見するためには、その低い確率に見合って検査の精度が上昇しないと誤差が拡大する、つまり「陽性と出た人数のうち、実際に罹患している人の比率(X)」が急激に低下するということを意味している。
 
ありていに言えば、小さなミクロの現象を見るには顕微鏡で見ないとわからないと言っているのと本質的には同じことを言っていることになるね。
 
さて、以上のことの人間の認知能力上の含意だが・・・・本日はここまでにして、次回に回しましょう。
 
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映画「ドラゴン・タトゥーの女」を見て原作を読みたくなり、原作「ミレニアム」シリーズ(全3巻)読了した。
読み応えのある小説だ。面白かった。 
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これはスウェーデンのジャ-ナリスト、Sラーソンによる小説で、舞台もスウェーデンだ。日本人にとってはスウェーデンという国は、性的な放縦さと福祉国家(消費税率25%)のイメージであろう。小説では非合法移民を搾取、人身売買する犯罪組織、国家権力組織(公安組織の一部)の暴走、子供・女性に対する男性の暴力、性的な虐待など社会の闇の部分にスポットが当たる。
 
 
今回ハリウッドで映画化されたのは原作の第1巻だ。おそらく今後第2、第3巻も映画化されるのだろう。実は今回の映画化に先立ってスウェーデン映画として映画化されており、DVDを借りて見たが、そちらは私には面白くなかった。 好みの違いもあろうが、やはり映画はアメリカ仕立てが面白い。
 
一見わりと地味な展開の物語なんだが、一番の魅力はリスベット・サランデルという20歳代のヒロインのキャラだ。それにミカエルという40歳代の男性ジャーナリストがサブの主人公となって展開する。
だから、映画化して面白いかどうかは、まさにこの難しいヒロイン役を女優が上手く演じることができるかどうあにかかっている。
 
この点、ハリウッド版の女優、ルーニー・マーラは原作のキャラを見事に演じている(アカデミー賞にノミネートされた)。ジェームズボンド役だったダニエル・クレイグもまずまず。
 
ヒロイン、リスベットのキャラの何が魅力か? 彼女は母、娘(リスベット)とも父親の暴力、虐待を受けて育ち、それがトラウマになっている。母を守るために父に反抗し、もう少しのところで彼を焼き殺す。そのため精神病棟に入れられて権力と結託した医師から理不尽な拘束を受け、限られた人にしか心を開かない。しかし実は精神不安定でもなく、飛び抜けた集中力と行動力があり、ハッキング能力を磨いて天才的なハッカーとなる。
 
ひどく極端なキャラ設定なんだが、実はこれが多くの人の共感を引き起こす要素になっている。というのは、誰しもトラウマとまでは言わないにしても、子供の時分、学校の教師や親、その他の大人が子供の自分に対してとった理不尽な態度に怒り心頭に達した経験はあるだろう。
 
しかし子供だから、上手に抗議も反抗もできず、悔しい想いが記憶の底に沈んでいる。その悔しさの記憶は、時間を巻き戻してあの時に戻れるなら、「こう言ってやりたい」、「こうやってやりたい」という一種の復讐の情念にもなっている。
 
リスベットのキャラは、そうした誰の心の底にもあるような「悔しさと復讐の情念」を極端な形で先鋭化したものなんだ。しかもリスベットのトラウマは、当時の権力機構(公安の一部)が父親の背後にあったおかげで、個人的なものにとどまらず、最終的には権力組織の一部との対決に発展する。
 
その過程で、「国益、安全保障」名の下に不正を働き、それがばれそうになると組織保身のために手段を選ばない隠蔽工作に走る連中の醜さが描かれ、リスベットと彼女を助けるジャーナリスト・マイケルの闘いは、権力の陰謀を暴く一大事件に発展するというのが、2巻と3巻の展開だ。
 
1巻ではまだリスベットは「謎っぽい女」という以上の説明がなされないので、彼女のキャラで物語にぐいぐい引き込まれるのは実は第2巻からだ。 第3巻はリスベットの復習編という位置づけになる。
 
似たモチーフの小説では「岩窟王、モンテクリスト伯」を思い出す。無実の罪を着せられて孤島の牢獄に入れられるが、脱獄し、ひょんなことから巨額の大金を手にいれた主人公が自分を陥れた金持ちや権力者に復讐を果たす物語だ。う~ん、設定は違うが、モチーフは実にそっくりだと思う。
 
ところで、原作者のSラーソンは2004年に原稿を書き終えた直後に心筋梗塞で死んでしまった。まさか権力の闇を暴き過ぎたので暗殺されたわけではないと思うが・・・。
 
竹中正治HP

今日、映画GANTZの後半編「GANTZ Perfect Answer」を見て来た。
 
以前GANTZのアニメと映画(前半編)をこのブログでコメントした時に、ワシントン時代の若い友人(私より一世代若い、と言っても30歳代だが)が、わざわざEメールしてきて、「ブログを拝見したところ、竹中さんはまだ原作マンガは読んでいないと書いていましたが、GANTZは原作が凄い、いや凄すぎるんです。アニメも映画も原作の世界に全然及ばないと思います」と言っていた。
 
もちろん、原作マンガも読むつもりだったが、読みだせば間違いなく「はまる」予感があったので、ちょっと暇になってから、おそらく夏休みにでも読もうか、と思っていた。しかし、「凄すぎるんです」と言われると気になって抑えられなくなった。とうとうGWの後半から古本(Book Off)で買って読み始めた。
 
やはり、はまった・・・・(^_^;) 
一気に読んでしまうともったいないので、1冊ずつ買いながらまだ21巻までしか読んでないが。
しかし、バトル系マンガってのは、どうして男性に対してこう普遍的な吸引力があるんだろうね。
 
私は昔少年ジャンプで連載していた「北斗の拳」にはまって、30歳過ぎても「北斗の拳」が読みたくて、毎週少年ジャンプを買って読んでいた。ある日、駅のキオスクで少年ジャンプを買ってそのまま電車に乗って女房の実家に行った時のことだった。義理母が「まあ、竹中さんも少年ジャンプ読むの! うちに来る子たちも大好きよ、それ」と言われた。義理母は公文式の塾で小学生を教えていたので、「うちに来る子」とは小学生の生徒たちのことだが・・・・。
 
さすがに40歳越えてからは、週刊誌ではマンガは読まなくなった。だから、GANTZも映画が出るまでは知らなかった。
 
で、原作と比べて映画の出来栄えはどうか?二宮くんや松山ケンちゃん(小雪さんとの結婚おめでとう)の熱演にもかかわらず、やはり原作マンガの世界とは比較できない、と言っておこう。
ちなみに松山ケンちゃんの日本刀での乱戦シーンは、どうも映画「カムイ外伝」のイメージと重なってしまう。
原作マンガはまだ連載中だが、作者もここまで読者をひぱってしまうと、どういうエンディングにするのか、責任重大だねえ。つまらないエンディングにしたら、熱狂的なファンに襲われたりして・・・。
 
それではみなさん、原作マンガも読んでくだチい。

遅ればせながら映画GANTZ(パート1)を見た。昨日土曜日からその後半編が封切られている。それはまだ見ていない。http://gantz-movie.com/index.html
 
このブログの読者でもあるナドレックさんが前半編については、既にブログに書かれている。
 
マンガが原作だが、私はマンガは読んでいない。そのかわり、TVアニメ版については今年の春休みにDVDで借りて全部見た。けっこうはまった。 昔読んだカミュの小説と同種の不条理な雰囲気に、マンガ仕立てのバカバカしいようなパロディー調がミックスされた味が、おそらくこの奇妙なストーリーの魅力だろう。原作マンガを単行本で読み始めたら、間違いなくはまるだろう。4月-5月はちょいと忙しくて、全巻30冊にはまると危険なので、原作を読むのは夏休みまでお預けにしておこうか。
 
死んだ人間がコピーの形で復活し、バトルスーツを着て得体のしれない「異星人」との生死を賭けたバトルゲームを強いられる。その理由は全く明かされないまま、バトルだけが繰り返される。「異星人」の容姿やキャラ設定も奇妙というよりも、ふざけたような設定で、本格SFに出てくる「まじめな設定」からはかけなはれている。
 
映画で仏像群と戦うシーンが上野の国立博物館のロケであることにちょっと驚いた。なにしろ、仏様相手にドンパチやって、最後に仏像も、博物館の建物も、全部ぶっ壊してしまうという展開である。よくロケを許可したもんだ。 ああ、そうか、お寺だったらこんな不信心、不埒な物語には絶対に許可が下りない。博物館という信仰上は中立の組織だから許可されたのだろう。
 
私の関心を惹いたのは、主人公玄野(二宮和也くん)と加藤(松山ケンイチ)のキャラ設定だ。
人間にはハンター・タイプ(hunter)、ブリーダータイプ(breeder)の2種類がに分かれるとかねてから考えていた。ハンター・タイプは文字通り獲物を狩ることに喜びを感じるタイプで、行動面では運動的で、闘争的だ。同時に獲物を獲得してしまうと急速に関心が低下する飽きっぽさが特徴でもある。
 
ブリーダー・タイプは、生き物の飼育、保護に強い執着心を抱くタイプで、生き物を殺すのは大嫌いである。反対に、飼育している生き物がハグハグと元気にエサを食べている姿を見るだけで至福感につつまれる。
 
双方の類型は、人類の長い狩猟採集時代に進化・淘汰されて形成された行動特性だと考えている。自分がどちらの類型に属すかは、次のような想像をすると簡単に分かる。スキューバー・ダイビングで海に潜ったと想像して頂きたい。目の前に大小の魚の群れが泳いでいる。この魚たちを「もりで突いて獲物にしたい」と感じる人はハンター・タイプだ。 「この魚達に餌をやりたい」と感じるのはブリーダー・タイプである。 実は私自身は典型的なブリーダー・タイプである。
 
GANTZの玄野は典型的なハンター・タイプで、次第に獲物を狩るようなバトルに魅せられて、ハンター・タイプの属性に目覚めていく。反対に、幼い弟を守ることに強い執着心を抱き、異星人ですら殺すことに強い躊躇いを示す加藤は典型的なブリーダー・タイプである。ハンター・タイプの玄野がバトルの目的は関係なく、バトル自体に魅せられていく一方で、加藤は「命を守る」ことに強い執着を示す。「ブリーダー・タイプはバトルをしない」という意味ではない。ブリーダー・タイプは「何かを守る」ために闘う時に最大の力を発揮するタイプなのだ。実際、映画の設定では加藤は弟を虐待する父から弟を守るために父を殺し、少年院に服役した過去を背負っている。
 
もっともこのようなキャラの読み解きをしたからと言って、この物語の読み解きが深まるというわけじゃない。あくまでもパロディー調で、半分ふざけながら、奇妙奇天烈で、意味も目的も不明のバトルが延々と展開する、それがGANTZの世界である。「それではみなさン、見てくだチイ
 
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レビューを本当に書きたくなる映画に出会うことはそう多くない。
しかし映画「アレキサンドリア」(原題、AGORA)は久しぶりにビーンと来た作品だ。
 
この映画は2009年のスペイン映画(ただし日本公開は英語版)で、カンヌ映画祭で公開されたそうだ。スペインでは大反響だったそうだが、国際的な興行ネットワークでの動きは鈍かったという。だから日本ではようやく今年公開された。
 
映画の世界最大の興行市場はやはりアメリカだろうが、間違いなくアメリカでこの映画を大々的に上映しようとする興行筋はないだろう。なぜならキリスト教の反知性主義的な側面をえぐり出している歴史映画だからだ。
 
小説&映画「ダビンチ・コード」がアメリカでカトリックからごうごうたる非難を受けながらも興行的に成功したのは、ダビンチ・コードの批判がクリスチャンの半分、つまりカトリックの教義に向けられたものだからだろう。つまりアメリカでは主流のプロテスタントを敵に回していない。
 
ところが映画「AGORA」の矛先は4世紀頃に確立されるキリスト教会それ自体に向けられている。だから現代のキリスト教国家であるアメリカで大規模に興行しようとすれば、クリスチャンのブーイングを浴びてボイコットされただろう。
 
舞台は紀元4世紀末のエジプト、古代史上最大の図書館があったアレキサンドリアを舞台に実在したギリシア系の女性天文学者&数学者のヒパティアを主人公にしている。4世紀にローマの国教となったキリスト教が、それまでの迫害される立場から一転して、ギリシア、あるいはローマ以来の多神教、自然哲学を嘲笑、破壊する勢力に転換していく過程が描かれている。ユダヤ教徒との相克も登場する。
 
ローマの皇帝を頂点とする権力がキリスト教側についたことで、アレキサンドリアの有力者も次第にキリスト教に転向して行く。 主人公のヒパティアはそうした宗教的な転向には一切妥協せずに、天文・自然哲学に専心しているが、最後には魔女だという避難を浴びてキリスト教徒らによって惨殺されてしまう。
 
アレキサンドリア図書館の古代からの貴重な所蔵文献がキリスト教徒によって破壊、焼却される場面は、歴史の中で古今東西様々な権力、勢力によって繰り返されてきたこととは言え、人類史における反知性主義的な蛮行として心に突き刺さる。
 
ブログをご覧になる方の中にはもしかしたらクリスチャンもいるかもしれないから、念のために言っておくと、もちろん私はクリスチャンがみな反知性主義者だと言っているわけではない。私など足元にも及ばないような教養と知性の持ち主もおられる。キリスト教という巨大で、かつある程度多様な宗教の中に反知性主義的な要素があると言っているに過ぎない。同様の事情はイスラム教についても言えるだろう。
 
この物語で思い出すのは、辻邦生の歴史小説「背教者ユリアヌス」だ。やはり4世紀のローマ帝国の末期に、ギリシア・ローマ文化を守ろうとしながら、キリスト教に傾斜していく社会の流れに抗ったユリアヌス皇帝の物語だ。 もちろん「背教者」というのはキリスト教徒からの呼び方であり、ギリシア・ローマ文化の立場からは擁護者だった。
 
私が辻邦生のこの歴史小説を読んだのは、高校生か大学生の時だったが、ローマという日本人作家にとって異文化の古代歴史を背景に、これだけいきいきとした小説が書かれていることに感嘆した記憶がある。
 
アメリカのSF映画「コンタクト(CONTACT)」も思い出した。ジョディ・フォスターが演じる無神論者であることを公言する女性科学者がキリスト教的世論と鋭く対立する場面が印象的だった。ただし、こちらの映画は宗教的な情念に対してより妥協的に出来上がっていると思った。
 
ちなみに普通のアメリカ人に「あなたの宗教は?」と尋ねられた時に「no religion」とは言わない方が良い。それは彼らにとっては「私はエイリアンです」「私はゾンビです」と言っているようなものだ。
信心がなくても「I am a Buddhist」と言っておくのが良いだろう。実際、死んだらお寺の坊さん供養してもらうのだから、ウソではない。
 
4世紀のローマ帝国でキリスト教、とりわけキリスト教諸派の中でも後にカトリック教会として確立される派が優勢になった理由、背景については、私は塩野七生「ローマ人の物語、キリストの勝利」を読んで感銘を受けたことがある。塩野さんは、キリスト教が優勢になっていくプロセスをとても世俗的な事情(税制事情など)、旧い言い方をすれば唯物史観的な観点で描き切っているのだ。観念的な言い草でごまかさない、こういう醒めた視点、私は大好きだ。
 
ところで原題のAGORAというのはギリシャ語で「広場」を意味するそうだ。ポリスの広場で様々な議論を自由に闘わせることができる政治、文化環境を象徴する言葉としてタイトルになったのではないかなと思う。そういう意味では「知」と「自由」の喪失は、歴史の中で繰り返し同時に起こったと言えるだろう。
 
我らが大日本帝国でも、政治のAGORAから合理的、理性的な機能が失われつつようで心配だ。AGORAの崩壊の次に来るものが、戦前に見られたような日本版反知性主義の復活でないと良いのだが・・・。
 
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