たけなかまさはるブログ

Yahooブログから2019年8月に引っ越しました。

カテゴリ: その他

著者の本を読むのはこれが3冊めだ。
これまでに読んだのは「生物と無生物のあいだ」「動的平衡」。
 
 
著者のメッセージに従って読む限り、著者が追究しているテーマで一番挑戦的な部分は、遺伝子の突然変異と自然淘汰による適応的な変異の蓄積として進化を説明するダーウイン以来の進化論に関して、それを肯定しながらも、それでは足りない部分を感じ、生命を生命たらしめている第3の仕組みを解明しようとしていることだろう。

遺伝子の突然変異と自然淘汰は、ゆっくりと漸進的に蓄積される変化をもたらすが、それでは例えば「カンブリア爆発」のような急速かつ爆発的な多様な種の進化を説明できないと言う(p52)。またチンパンジーと人間の遺伝子の差異は2%だが、この2%の違いでは人とチンパンジーの相違を説明できないと筆者は言う(p207)。

その視点から本書では「エピジェネティックス」というフロンティア的な研究分野を紹介している。「遺伝子の外側で起きている」ことが実は個体発生上、種の重要な相違を生み出しているという学説だ。遺伝子の構造と当時に、遺伝子のスイッチがオン・オフされるタイミングの相違で実際に形成される形態の大きな違いが生まれる。そして遺伝子活性化のタイミングを制御する仕組みが、親から子に受け継がれる点に注目するのがエピジェネティックスの視点だと言う。

その仕組みはまだ解明の糸口段階にあるようだが、卵細胞に含まれている遺伝子以外の物質(マターナルRNA)やDNAの糸を規則正しく巻き上げるタンパク質などが係っていることがわかってきていると言う(p214)。
また大腸菌がプラスミッドというDNAの小片を他の大腸菌に渡すことで、環境適応的な変異を急速に遂げることなども、実に興味深い(p146)。

私は生物学も進化論も専門ではないが、リチャード・ドーキンスの著作やSJグールドの著作などを楽しんできた。福岡伸一氏も、語りの巧みさと、話題の豊富さ、発想力の奔放さで、彼らに並ぶ書き手だと思う。
 
竹中正治HP

先週のワシントンDC出張の飛行機の中で「木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか」(増田俊也、新潮社、2011年9月)を読んだ。上下2段、700ページに及ぶ大著だが、読み出したら止まらない感じで一気に読んでしまった。
 
自分が意識せずに身につけてしまっている既成概念、既成イメージを洗い流してくれる本は、時々しか出会えないが、どの分野の本でも吸い込まれる。自分もそういうものを書きたいと思っている。この本もそうした貴重な1冊だ。
 
力道山を王者・ヒーローにしたプロレス伝説、明治以降の「近代柔道」に関する講道館と嘉納治五郎伝説、そういうものは武術や格闘技に特段の知識がない私の脳裏にもいつのまにか既成のイメージをしっかりと植え付けてしまっていた。そのことを、この本を読んで分かった。目から鱗が落ち、頭の中の既成イメージは木端微塵にリセットされた。実に爽快!
 
木村政彦、その超人的な強さの故に「木村の前に木村なし、木村の後に木村なし」といわれ、昭和が生み出した希有な柔道格闘家、その名を初めて知った。なぜか? その後のプロレス界からも、柔道界からも、この超人格闘家の存在は冷遇されたからだ。
 
一般の日本人の記憶から木村政彦の名が消えた一方、その後世界最強と言われるようになったグレイシー柔術と一族の間では木村は伝説的な存在として語り継がれた。なぜか?木村がグレイシー柔術の祖エリオと戦い、一方的に完勝し、しかもその人格的な魅力でエリオに強い影響を残しているからだ。そういうことを全部、はじめてこの本で知った。
 
またすっかり「スポーツ化」してしまった現代の柔道とは違う、万能格闘技志向の柔道が1950年前後まで存在していたこと、戦前まで講道館とは別派の柔道が2つあり、しのぎを削り合っていたことなどなど、日本の武術史に関する私のイメージがいかに歪められたものだったかを思い知らせてくれる事実を提供している。武術史に特段詳しくない他の読者にとっても同様であろう。
 
本書のクライマックス、木村と力道山のプロレス試合に関して言えば、力道山は木村に(プロレスの常識に従って)、引き分けるシナリオをのませ、念書まで書かせておきながら、自分も同様の念書を書く約束をはぐらかして書かなかった。そして試合では突如シナリオを裏切って、脳天に本気の打撃を加え、木村をマットに沈めてしまった。そして力道山無敵神話が始まった。
 
木村は(ショウビジネス)としてのプロレス(必然的にシナリオあり)を力道山とすべきではなかった。力道山は受けなかったかもしれないが、真剣試合の場合に限ってやるべきだったと感じた。そこに「負ける時は死ぬ時だ」と生きて来た男の人生最大の不覚があったと思った。
 
わずか数十年前のことであるにもかかわらず、「歴史とはたまたま勝ち残った者が作った虚構」であることを思い知らされずにはいられない。一般の記憶から埋もれかけた歴史を、莫大な労力と資料、取材を積み重ねて私達の眼の前に提示してくれた著者に深く敬意を払いたい。
 
ちなみに北京オリンピック100キロ級金メダリストで柔道から格闘技に転向した石井慧は、木村の持っていた万能格闘技としての柔道志向を継承していると位置付けられている。 
 
1951年のエリオ・グレイシーとの試合は以下に動画が開示されている。この動画(にこにこ動画)は日本の記録にはなく、グレイシー一族が保存していたものが提供されたそうだ。
 
 

腸を鍛えてやせる、健康になる」(丁宗鉄、主婦の友社、2011年)を読んだ。
とてもわかり易く書いてあるので、あっという間に読める。もとより私は医学は素人だから、内容の医学的な是非はわからないが、説明は論理的であり、自分の経験に照らしても納得できる。
 
著者の丁先生は、漢方を含む東洋医学に通じた日本薬科大学の教授、著書のメッセージを思いっ切り凝縮すると以下の通り。
 
「現代人の食生活は、やわらかい、甘い(糖質)、冷たいものに傾斜し過ぎており、そのため腸の機能が劣化してしまっている人々が多い。腸は実は免疫機能の基でもあり、腸機能の劣化が様々な心身の不健康症状(未病)や病気の原因になる。逆に腸を鍛える食生活をすれば、あなたの健康、身体管理能力はぐんと向上する」ということだ。
 
象徴的に言うと、ランチや間食にコカコーラ(糖分の多い清涼飲料水)をぐびぐび飲んで、ポテトチップ(糖質)をばりばりとほうばるようなことをしていれば腸機能が衰弱して、寿命を縮めるということだ。直感的には「健康に悪そう」と感じていたことだが(私は間食はほとんどしない)、具体的な症例に基づいて「なぜ悪いか」が説明されるので、深く納得できる。
 
冒頭で説明される「虚証」「実証」という体質の類型分けもわかり易い。もちろん東洋医学的な経験知であり、どちらの類型かによって、身体に良いこと、悪いことは違ってくる。江戸時代の貝原益軒の「養生訓」も紹介される。東洋医学的な経験知と西洋医学的な分析的な説明が、上手に組み合わされて展開するので納得してしまう。
 
私自身はエコノミストなので、データや図表で読者を納得させたいと思うのだが、そうした議論に馴れていない読者は難しく感じるようだ。う~ん、この丁先生のわかり易い説明法は、ちょっと真似したいな。 次作本でやってみようと思う。
 
 
 
 

8月の初旬に家族で京都の渓谷「保津川下り」を楽しんだ。手漕ぎの船に15名ほどのり込んで、船頭さんが3人で交代で漕ぎながら、舵を取り、渓流をくだる人気イベントだ。
 
乗船した時に、「なんでライフジャケットの着用を指示しないんだろう?」と思った。というのは、アジアなどの海外で経験したマングローブ・クルーズとか同様のツーリスト用のイベントは、どこでもライフジャケットの着用が気味だったからだ。
 
「船が転覆したら、泳ぎが苦手な人と体力の弱い老人と子供は高い確率で死ぬな・・・」と思いながらも、渓谷の景観を楽しんで来た。
 
今回の死者2名、行方不明3名の事故を起こした「天竜川下り」も、私が京都で経験した保津川下りと、ほぼそっくりのイベントである。「1万回に1回は船が転覆する確率がある」という想定が働いていれば、ライフジャケットの着用は必須だったはず。
 
ライフジャケットは着心地の良いものではないから、お客がちょっと嫌がるかもしれない。しかし万一の事故が起こった場合の観光事業への打撃を考えれば、業者の立場としてもライフジャケットの着用を指示することが合理的必然というものだろう。
 
ユーザー(お客)は「安全は業者が100%確保してくれているはず」と思い、業者は「転覆なんて事故は万に1回も
起こさない」と妙な思い込みをしてしまう。その結果、生まれるのは「安全と水はただ」(「日本人とユダヤ人」イザヤベンダサン、1971年)と思い込む日本社会における、安全神話の崩壊だろうか。
 
あれっ、これって原発事故の構図と同じ・・・・。
そうだな、しかも日本人の投資リスク嫌いの性向とも関わりがありそうだな。安全を求めるうちに、危険確率の存在自体を否定してしまう性分。そして事故や暴落が起こると「絶対安全でないと許せない!」と感情的に拒否する性分だね。
 
 

「その者、青き衣をまといて金色の野に降り立つべし」
 
 
イメージ 1
 
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facebook友人がこのフレーズを引用していました。感嘆したので、そのまま真似掲載させていただきました。
解説はヤボになりますから、しません。ツイッターなどでも流れていますね。
 
竹中正治HP
 
 

凄い試合だった。感動した。涙出た。
なでしこジャパン、強い、タフ、冷静、誇りに思う。
 
 
追記:
この了戒率美子という人のなでしこジャパン勝因分析は良くできていると思う(以下)。
女の気持は女の方が良く分かると言うことかな。
 
竹中正治HP

日曜日の昨晩、夕刻に映画「パイレーツ・オブ・カリビアン、 命の泉(Pirates of the Caribbean,  The
Fountain of Youth)を見た。第1作めから数えてパート4であるが、新シリーズの第1作めでもあるようだ。http://www.disney.co.jp/pirates/home.html
 
世界のどこかにあるという「命の泉」、その泉の水を2つの聖なる杯に注ぎ、片方の杯に人魚の涙を1滴加えて、それぞれを二人の人間が飲むと、人魚の涙の入っていない水を飲んだ人は絶命し、その人の生涯の命ぶんだけ、涙を加えた水を飲んだ人の寿命が延びるという・・・・。
 
ん・・・逆だったけな? そうそう、主人公のジャック・スパローもどっちがどっちだか混乱し・・・というとろこで、まだ見ていない人のために、ネタは明かさないでおこう。
 
で、映画を見て帰ってきたら、夜9時からのNHKスペシャルで「あなたの寿命は伸ばせる~発見!長寿遺伝子~」という番組をやっていた。http://www.nhk.or.jp/special/onair/110612.html
吸いつけられるように見た。
 
偶然にしちゃあ、あまりにもでき過ぎているじゃないか。映画で「命の泉」の後に「発見、長寿遺伝子」だなんて。
 
NHKのこの番組、ご覧になった方は少なくないだろう。えっ、見ていない!そりゃ人生最大の不覚かもしれないよ。
老化を抑制し、若々しさを保ちながら、30%も寿命を伸ばせる鍵を人類の科学は手に入れる寸前のところまできているのだからね。
 
いや、既にその手法は解明されている。カロリーを30%ほど抑えた食事を続けるだけで、長寿遺伝子
Sirtuinが働きだし、細胞内のミトコンドリアを活性化し、ミトコンドリアが老化すると生じる活性酸素を抑制してくれる。この活性酸素が老化現象に強く作用していることは先刻ご承知だ。
 
Sirtuin遺伝子は、それ以外にも血液中の免疫細胞が血管内に沈着して生じる血管の老化を防ぐなど、合計100種類もの生命の老化現象を抑制する働きをするそうだ。
 
ねずみの臨床実験では、カロリーを30%落とした食事を続けたネズミは、そうでない飽食・満腹ネズミよりも30%以上も寿命を延ばしたそうだ。
 
このSirtuin遺伝子は生物が飢餓を生き抜くため過程で、淘汰されながら進化してきたと推測されている。つまり飢餓状態を生き抜くために、エネルギー効率を高め、老廃物の蓄積を回避するなどの機能を進化させてきた。だから、カロリー30%減というダイエット・モード(つまり軽度の飢餓)が持続するとスイッチオンで働き始めるというわけ。
 
「老化せずに長生きしたいけど、ダイエットはつら過ぎる」という方のためには、レスベラトールという成分がSirtuin遺伝子を活性化させることまで分かっている。レスベラトールを含むサプリメントが市販されている。ただし現行のサプリメントの効能はまだ十分に検証されていないそうだ。医薬品業界はより確実にSirtuin遺伝子を働かせるレスベラトール薬剤の開発に傾注しているということだから、近い将来にはダイエットしなくても確実に長寿が実現する可能性が高まっている。
 
「すでに少子高齢化なのに、ますますじいさん、ばあさんが増えると言うことか。年金も医療も財政破綻するぞ」そうだね。でも、元気なじいさん、ばあさんが増えるのだから、年金支給年齢はもっと引き上げて、60、65歳で引退せずに、70、75歳まで働けばいいだけ、とも言える(税金も払ってね)。
 
私は肥満でもメタボでもないが、ワシントン駐在時代にダイエットで体重を71キロから3キロ減らしたことがある。日本に戻って来て、食事が美味いので71キロに戻ってしまったが、今回の番組を見て、また3キロ減を目標にダイエットすることにした。 
 
やはり若さの持続は人間の強い願望ですからねえ。
 
 
 
竹中正治ホームページ

「宗教を生み出す本能」(ジェームズ・D・ワトソン)これもGWに読んだ中で、かなり面白かった。
 
宗教についてかなり盛り沢山の内容だが、本書の一貫した主張は宗教が持つ社会的な機能の進化である。すなわち、人間社会ではグループの成員が利己心を抑制して、共通した価値観、道徳を有し、結束することで利害的に敵対するグループに対する攻撃力と防御力を高め、その社会(グループ)全体の生存が有利になる。その機能(道徳的直感・本能)の形成を宗教が担って来たと主張する。その観点から、宗教的衝動が平和的・道徳的側面と戦争・残虐の側面の双方を持つことも解き明かす。

こうして形成されてきた人間の宗教行動は後天的・文化的な要素のみでなく、淘汰の結果として遺伝的基盤にも根差したものとなっていると説く。ただしそれは現時点では仮説であって、十分に検証できたものではないとも認めている。

人間に遺伝子レベルに根差す「道徳的直感」があるかどうか、あるとすればそれはどのようなものであるかは、かなり議論を呼ぶテーマだろう。現代の言語学では言語は全くの後天的・文化的な学習の産物とは言えず、言語構造としての文法には「メタ文法」とでも言うべき基本構造があり、それは人間の遺伝子的なレベルの特性に根ざしているという議論が有力だそうで、宗教の核にある「道徳的直感」も同様だと言う。

人間は道徳的な判断の理由を求められると、理屈をつけて説明するが、実はそれは無意識下に根ざしている道徳的直感を意識が正当化しているだけだ。実際に道徳判断は突きつめると合理的な説明は不能だと論じる。

そこで登場するのが、マイケル・サンデル先生のベストセラー「正義」で登場した「暴走する路面電車」の事例だ。「正義」を読んだとき、このたとえ話はサンデル先生のオリジナルかと思ったが、そうではなかった(「正義」ではその点は本文には書かれていないが、引用文献として掲載されていた)。サンデル先生はこの事例を功利主義的思想とそれに対する批判の構図を説明する材料に使っている、と私には読める。

しかし「暴走する路面電車」の事例は道徳哲学者フィリッパ・フットの考案で、道徳的な推論では合理的に説明できない道徳的直感を人間が持っていることを考察したものだった。このような道徳直感に関して心理学者のマーク・ハウザーは、「接触原則」「意図原則」「行動原則」の3つに整理する。その内容については本書を読んで頂きたい。

経済活動を含む人間の社会を、利己的で合理的な諸個人の選択の結果として説明するアプローチは、その最たる経済学の分野でも破綻が見えている。アダム・スミスが「諸国民の富」と合わせて残した著書は「道徳感情論」であり、人間の道徳的な基盤を考察するものだったことも近年再評価の対象となった。そういう点も含めて考えると、仮説的ではあるが、本書はとても知的に刺激的な内容だ。

ユダヤ教、キリスト教の起源、形成過程に関する章も興味深い。「イエス・キリスト」となった人物が現代に蘇って、あるいは5世紀に蘇ったという仮定でも同様だが、その時代に唱えられている「キリスト教」に接すれば「これは私の宗教ではない」と言うことは、まず間違いないと思う。

パキスタンに潜伏していたビンラディンが米国の特殊部隊の急襲で殺害された。
米国にとっては2001年9.11から10年目に復讐を果たしたことになる。
このニュースに沸くアメリカ市民の姿も報道されている。私は基本的に今回のことを歓迎しているが、微妙な屈折も心に生じる。
2005年3月米国ワシントンDCに駐在していた時に書いた論考を思い出したのでここに最後の部分を掲載しておこう。
***
【イスラムの「ランボー」達とビンラディン】
シルベスタ・スタローン主演の米国映画ランボー・シリーズの第1作は1982年の“First Blood”である。優秀な特殊部隊として訓練を受けたベトナム帰還兵のランボーは、帰国後の米国世間の冷たい視線に悩み、社会に適合できずに放浪する。ある田舎町でも「胡散臭いよそ者」扱いを受け、ささいな行き違いが雪だるま式に膨れ上がって、彼は町の警察と銃で武装した住民から「狩り立てられる」はめに陥る。自衛のためにランボーは卓越した戦闘能力で反撃を始める。ランボーの反撃で多数の死傷者を出す大騒ぎに発展してしまうのが映画の粗筋である。
 
映画ランボー・シリーズを見た方なら皆感じると思うが、シリーズの第2作、第3作は第1作とは全く異なる映画に変質してしまった。第2作はベトナム戦争後のベトナムを舞台にベトナムを非難する政治的なプロパガンダになってしまった。3作はソ連占領下のアフガンを舞台に反ソ闘争を賛美するプロパガンダ映画にすぎない。
 
1980年代のアフガンで米国の反ソ・ゲリラ戦士の育成プログラムが、多くの「イスラムのランボー」を生み出したことは皮肉と言うべきか、悲劇と言うべきか。ソ連の撤退後、米国にとって政治的な利用価値を失い、放置されたイスラムのランボー達は、母国の権力からも厄介者扱いを受け、帰国の自由さえままならず、アメリカのランボーと同様に悩む。「俺達の戦いと同胞の死は、一体何のためだったのか? 俺達の戦いは無意味だったのか?」 その時、かつては米国の協力者だったビンラディンが彼らの戦いに新たな意味付けを行った。それは恐るべき意味付けであったが、砂漠の砂が水を吸い込むように、イスラムのランボー達の乾いた心が、ビンラディンの言葉を吸収したのだろう。  無論、私は彼らのテロリズムに一片のシンパシーも感じていない。彼らの生起を理解することと、シンパシーを感じることは別のことである。
 
米国の治世者がイスラムのランボー達を生み出した歴史的な過程を国民の前で総括し、米国の有権者がそれを自覚的な認識、教訓にする時が、果たしていつ到来するであろうか? それには中東地域が民主化されるのと同じくらい困難で長い時間を要するように私には思える。
                              以上
掲載サイトは以下2005年3月の論考(時系列順掲載)

親しい友人(女性)がiRobot社の自動掃除機ルンバ(Roomba)を買って使ったところ、「これは優れモノです!」「掃除のサブのつもりで買ったが、今やメイン」「吸引力も問題なし」とオリガミ付きの評価だった。そこで女房の誕生日祝いに「買いましょうか?」と誘ったところ、「では買って」となり、東京の我が家にルンバが導入された。
 
早速使い始めた。やはりこれは優れものだ。四角い隅や、壁と床の隙間なども、「鞭毛」のような細いはけでほこりをかき出して吸い込む。数畳の部屋は20~30分できれいになる。畳の部屋も絨毯の上も大丈夫。吸引したごみを捨てるのもお手軽。
 
ちなみに福島原発で高濃度の放射能で汚染されているエリアで今利用されているのも、iRobot社製のロボットである。
 
日本でも原発放射能事故に備えて事故対応のロボット開発プロジェクトがあったそうだが、「原発は絶対安全ななだから、そんなものいらん」という姿勢が強くて、実用化の日の目を見ぬままお蔵入りしたそうだ。まことに技術を伸ばすのも、殺すのも人間だね。
 
日本は保有台数で世界1の産業用ロボット先進国だから、家庭用ロボットの開発、普及で世界をリードしても良いのじゃないかと思うが、アイボーなどを開発したソニーはロボット部門に見切りをつけて数年前に事業売却してしまった。2足歩行ロボットでホンダのアシモは世界的にも有名だが、家庭用ロボットに二足歩行が必要とは言えない。
 
もっと機能特化して、お安い値段で便利なロボット家電製品を開発・供給してほしい。
ルンバ、正直言ってこれが日本メーカーの開発でないことが私は残念に感じる。
どうも最近の日本の家電メーカー、柔軟かつイノベーティブな開発能力・意欲がしぼんでいるのじゃない?
液晶、ビデオカメラ、デジカメ、カーナビなど次々と新商品を開発して世界に送り出した勢いを蘇らせてほしい。
メーカーの方々、がんばってください~。
 

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