たけなかまさはるブログ

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「人はお金だけでは動かない(Economics2.0)」(ノルベルト・ヘーリング/オラフ・シュトルベック著、NTT出版)を読んで懐かしい問題に出会った。
 
この著書自体は、行動経済学の成果とそれが示唆する新しい経済学の方向性を一般向けに解説したもので、大竹文雄教授が解説を寄せている。紹介されている研究事例は、他の行動経済学の一般書でも既に繰り返し紹介されているものと重複しているのだが、知らなかった事例もある。
 
それが第3章「労働市場の謎」で紹介されているマックス・ウエバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で提示した命題への歴史家による実証的な批判研究だ。
 
史的唯物論
この問題の文脈を語るためには、私の場合、まずKマルクスが経済学批判の序で展開した史的唯物論の命題に遡る必要がある。
 
引用:「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。
 
最近の学生諸君は読まないのだろうが、私の時代ではこの「経済学批判」のこの有名な序言を読んで知っているぐらいのことは、知的な学生の教養の一部だったんだ。イデオロギー的な体系は上部構造、「生産関係の総体」は下部構造と呼ばれ、「上部構造は下部構造によって規定される」とやや教条的に定式化された。
 
私を含む少なくない学生が、こういう人間の価値観に関するこうした唯物的な理解に共鳴した。偉そうな顔して「かくあるべきだ」と説いている先生の主張だって、所詮は物質的生産様式の中での自分のポジションによって規定されている事情、下世話にいうと広義の経済的な利害関係に規定されていて、それをもっともらしい理屈と修辞で正当化しているだけだ、という認識はラディカルな魅力を放っていた。
 
ウエーバーの命題
そうした思潮に対するひとつのアンチ・テーゼ、あるいは「修正」「補正」として受けとめられたのが、ウエーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で述べた歴史観だった。
 
手短に言うとこういうことだ。資本主義的な生産過程が封建制のなかから生じて来た極めて初期の段階では、「資本主義的な精神」はどのように形成されたのだろうか?まだ下部構造の大半は封建制であるから、それに対する上部構造(意識、習慣、価値観、法体系)も封建制に対応するものだったはずだ。
そこでウエバーは「プロテスタンティズム特有の宗教観、倫理」に注目し、自分が神に選ばれていることをただひたすら信じて、勤勉に働き、富を蓄積するプロテスタンティズムの倫理が、資本主義的生産様式の揺籃期においては、その勃興に適合し、重要な働きをしたという仮説を提示した。
 
要するに、上部構造(プロテスタンティズムの倫理)が下部構造(資本主義的な生産様式)の変革、形成に重要な役割を果たす場合もあることをウエーバーは示したわけだ。
 
こういう思潮的な流れを経て、既に私が学生だった1970年代後半には、よほどゴリゴリに教条的なマルクス主義者でなければ、上部構造の下部構造に対する相対的な独立性や、上部から下部への「反作用」の可能性を認識する程度に柔軟な見方をしていたと思う。
 
ウエーバーの命題への批判
さて、ここでEconomics2.0(第3章)で紹介されている産業革命期のプロイセン地域を対象にした実証的歴史研究の話になる。ドイツとスコットランドの二人の研究者は、プロイセン統計局の旧いデータを丹念に調査し、その結果、当時プロテスタント教会が優勢な地区とカトリック教会が優勢な地区を比較して、その間に経済的な富裕さについて、つまり資本主義的な生産様式への適応度において、プロテスタント優位の事実があったを確認した。
 
ただし検証の結果、次の結論に達したそうだ。
識字能力を除くと、プロテスタンティズムが経済の成果に単独で影響を及ぼしたとは思われない。経済的な富裕度の違いが、プロテスタントは努力を惜しまず、経済的な成功を目指して励み、質素な生活で貯蓄に励み、労働の流儀が効率的であるといったプロテスタント特有の労働観、倫理観だけに根ざしている可能性はほとんどない。(p72)
 
二人の 研究者が注目したプロテスタントとカトリックの相違は、宗教的倫理観全般というある意味では捉えにくい違いよりも、両者の識字率の相違である。プロテスタントは、カトリックが重きを置く教会の権威から個人主義的な独立を果たした点が宗教改革の最も重要なポイントだった。それはひとりひとりが聖書を読むことで実現できる特徴だ。すなわちプロテスタントは聖書を読むために文字を習い、それが識字率の向上⇒労働、ビジネス上のカトリックに対する優位になったと言う。
 
一般書なので二人の研究者が行なった検証方法は具体的には本書には説明されていないが、これは仮説としてなかなか魅力的、有力なものだと思う。プロテスタントの倫理観全般というある意味で捉え難い要因に比べて、識字率という明確に特定できるシンプルな要因で、プロテスタントとカトリックの違いを説明できる点で有力だ。
 
そして人間社会における進歩(あるいは生物における進化)が、必然的で単線的なプロセスではなく、様々な偶発的な要因により左右されることを示唆している点でも、より現実に適合した仮説だと思う。
ただしこの研究は当時の経済的な富裕度の違いは「プロテスタントとカトリックの労働に関する倫理観の相違」だけでは説明できないと言っていると同時に「識字率相違だけで説明できる」と言っているわけではないので注意しようか。人の世の現実は複雑だ。
 
 
竹中正治HP
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西田文郎という方が雑誌プレジデントの論考、「かもの法則」(以下サイト)で良いことを言っている。心理学的にはある意味で常識的なことだろうが、こういう実践家に言われると深く納得できる。
 
ちょいと引用しよう。
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 「リストラされるかも」「給料が減るかも」……不況の中、そんな不吉な予感が頭をかすめる、という人も多いのではないでしょうか。
 こうした否定的な「かも」に囚われると、人はどんどん悲観的になってしまいます。そして、自分の仕事がうまくいかないことを、自分以外の誰かや環境のせいにしてしまう。「小泉改革のせいだ」「無能な上司のせいだ」などと責任を転嫁して、自分を守ろうとするのです。

 その一方で、「こういうときこそ、自分が活躍できるチャンスかも」と、悪条件を肯定的に捉えようとする人もいます。
 そういう人は、「ダメかも」「うまくいかないかも」ではなく、「成功するかも」「できるかも」という肯定的な「かも」によって自分をコントロールして、幸せをつかむ。 要するに、「かも」の違いで未来は変わるということ。それを私は、「かもの法則」と名付けています。
 人間は、自分の将来について「肯定的な錯覚をしている人」「否定的な錯覚をしている人」に二分されます。肯定的な錯覚をする人は、言うまでもなく、肯定的な「かも」で発想するタイプです。
 
長年にわたって、経営者やビジネスマンの能力開発に携わってきた経験から言うと、一代で上場企業をつくったような成功者は、ほぼ例外なく肯定的な錯覚をしています。 常識的に考えれば無理だと思うようなことも、「俺ならできる」と思い込んで、本当に実現してしまう。失敗を失敗と思わない。
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全くその通りだ。自分自身の経験を振り返っても、上手く行った時には「いけそう!」「上手くいくかも!」とポジティブ・カモに駆られて、あるいは引かれて活動している。
そういう時は少々失敗しても、これでダメだとは感じない。「次回はうまくいくかも」という気持ちで心に張りがある。
ポジティブ・カモにスイッチできるか、ネガティブ・カモに心を支配されるか、これで成功不成功の8割は決まったようなものかもしれない。
どうせこの世は不確実なのだから、成功も失敗も確かなことはない。ならばいつも「うまくいけるかも」とポジティブ・カモでやり続けよう。坂本龍馬も超巨大なポジティブ・カモで走り続けた人物だったということだな。

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