GW中に読んだ一冊
「資本主義はどこへ向かうのか」(西部忠、2011年)は、かなり面白かった。しかしやや竜頭蛇尾
 
「資本とは商品や貨幣の形式をとりながら価値の無限の自己増殖を目的とする運動体である」と規定する著者は、この点でマルクス経済学の系譜に身を置いている。グローバリゼーションとは、市場経済がほぼ全地球の経済圏をカバーするという外延的な発展を遂げると同時に、市場原理が内包的な深化を遂げ、共同体的な諸価値や文化が限りなく分解され、労働力も商品化され、最後の共同体である家庭労働も機会費用の概念に従って貨幣換算され、私達を「投資家」という「個」へ還元していく過程だと言う。

この点では、資本の運動が「鉄鎖以外に失うもののない労働者階級」を生み出したというマルクスの認識から離れ、いくばくかの個人資産を保有するようになった現代先進国の労働者階級の意識が「投資家(資本家)化」する傾向が指摘されているわけだ。
 
マルクスが語った「労働者階級の窮乏化」は起こらず、「資本主義経済は自らの根本的な存立条件である労働力商品化のルールそのものを変容させてしまうことで、その長期的停滞の傾向を逆転させ、自己賦活する強靭な生命力を発揮する」と語る点では、古典的なマルクス経済学徒から、かなり離れる。 「資本主義とは・・・・資本という複製子がその乗り物である人間を操りながら、自己の複製子を変容させるような高度な適応能力を意味するもの」ここではリチャード・ドーキンスの「利己的遺伝子」とその文化応用版「ミーム」の概念が使われている。

著者は単純はアンチ・グローバリゼーションの立場を否定する。市場システムの拡大に対する反対運動は産業革命の時から続いていたが(職人階層による機械打ち壊しのラダイット運動などを念頭においているのだろう)、それが解体される側の反作用的な防衛運動にとどまる限り、資本の運動を停止することはできないかったし、今後もできないだろうと語る。

「そればかりか、資本への反動的な拒絶が国家への集約されて遂行されるならば、それは自由の抑圧や異質な人種、・宗教・思想の暴力的な排除など、資本がもたらす以上の惨禍を生み出すに違いない」と続ける。この点では20世紀のファシズムや旧社会主義経済を念頭に置いているのだろう。

また「市場か、計画(国家)か」「自由か、規制か」という2分法的な思考様式も、閉塞しかもたらさない。「市場原理主義」と「集権的計画主義」の双方が解決への道にならないということは、その両極端の直線上には解決の道がないという意味で、両原理の折衷としての「社会民主主義的なアプローチ」も解決にならない。
そうしたこと全てを人類は20世紀の試行錯誤の歴史を通じて学んだはずだ、と一気に20世紀をまるごと総括してしまう。 そして市場か計画かの2分法を止揚する道は「貨幣の新たな制度設計の可能性」の中にあると転じる。

このように大変に挑戦的な議論が展開するのだが、解決編としての地域通貨の議論は抽象的であり、それが諸問題を包括的に解決するアプローチになり得るのか、納得感は得られない。例えば、著者が主張する利息を禁止し、地域コミュニティーのメンバーが自由に発行する地域通貨は「参加者の過剰発行によるモラル・ハザードが起こる可能性がある」と自ら指摘しておきながら、その問題を回避する具体策は提示されない。私にはそのやり方では過剰発行は可能性の問題ではなく、必然に思える。

価値の無限増殖を目的とするグローバルな資本に対して、利子を否定した地域通貨が十分に対抗できるほど定着できるのか、それができるのであれば世の中は既に雨後のタケノコのように地域通貨が自生していても良さそうだが、現実はそうではない。 私の目には、地域通貨がグローバル資本への対抗になり得るようには思えないが、デフレ・不況への効果は期待できそうだと思う。