佐々木俊尚の「『当事者』の時代」(光文社新書、2012年3月)を読んだ。
(↑例によってアマゾンにレビュー書いております。)
468ページという新書としては異例の厚さだが、引き込まれて一気に読んでしまった。
「『当事者』の時代」というタイトルに込められた著者の含意は読まないとわからない。ただし次の帯封の文章がそれを補っている。「いつから日本人の言論は、当事者性を失い、弱者や被害者の気持ちを勝手に代弁する「マイノリティー憑依」に陥ってしまったのか・・・」
この帯封を読んだだけで、私は後頭部にぞわぞわっと電気が走り、後はもう一気に読み切った。
ひとことで言えばジャーナリストとして生きて来た著者の渾身の戦後メディア批判である。こんなにラディカルなメディア批判はこれまでお目にかかった記憶があまりない。同時にそれが日本の戦後思想史の一角に鋭く斬り込む内容となっている。
著者の分野は異なるものの、「革新幻想の戦後史」(竹内洋、2011年)の内容と比較対照しながら読むと一段と味わいが深いだろう。
1章は著者が毎日新聞の記者だった時の経験をベースに、警察(政府)とメディアの関係を「記者会見共同体」という表の顔と「夜回り共同体」という裏の顔の表裏一体の二重構造として解き明かす。
その後、話はがらりと転回し、戦後の思想史となる。筆者の俯瞰するところによると、敗戦から1960年代前半頃までは論壇を含む国民一般の戦争体験に関する意識は濃厚な被害者意識だったと総括する。要するに無垢な国民は、軍部独裁の下で事実から目を塞がれ、無謀で悲惨な戦争に徴兵され、大空襲で焼かれ、そして2つの原爆を落とされた被害者だったという意識だ。
そうした思潮が60年代の小田実の「被害者=加害者論」を契機に転換し、日本人は中国人、朝鮮人、アジアに対して同時に加害者でもあったという視点が登場した。それが戦争問題に止まらず、社会的なマイノリティー弱者、被差別者の視点から捉えるマイノリティー視点へと広がった。
そのこと自体は視点の拡大として意味があるはずだったのだが、思わぬ思想的な副作用を生み、「薬物の過剰摂取のように、人々は被害者=加害者論を過剰に受け入れ、踏み越えてしまった」(p278)と言う。
言うまでもなく、これは右派系論者から「自虐史観」と批判されるようになる左派系論者の歴史観や思潮に顕著に見られる傾向となったわけだが、著者の本論はメディアもそうした視点にどっぷり漬かってしまったことだ。
そこから、虐げられたマイノリティーに憑依することで絶対的な批判者の視点に立とうとする様々な論調が論壇でもメディアでも横溢するようになってしまったと説き、70年代の過激派セクトの変遷や一世を風靡した本田勝一の論調を読み解く。
特に次のような手法が日本のメディアに蔓延したと指摘する。 「弱者を描け。それによって今の日本の社会問題が逆照射されるんだ。」(p393) 物書きとしてはセンセーショナルな記事が欲しい。そこで「矛盾を指摘するためには、矛盾を拡大して見せなければならない。だからこそマイノリティー憑依し、それによって矛盾を大幅にフレームアップしてしまうことで、記事の正当性を高めてしまおうとする。」(p398)
さらにそうしたマイノリティー憑依の思考が、実は古代からの日本の神概念をルーツにしていると著者は説く(第5章「穢れ」からの退避)。ただしこの点は日本の神概念の特徴分析として興味深いが、本当に戦後のマイノリティー憑依と同根であるかどうか、かなり冒険的な仮説だと思う。
最後に、こうしたメディアの手法も90年代以降、日本経済、政治環境が、それまでの大きく変わることによってさすがに陳腐化し、廃れてきていると言う。
それではどうしたら良いのか? 「インサイダーの共同体にからめとられるのではなく、そして幻想の弱者に憑依するのでもなく」当事者の立場で歩もう(p429)というのが、本書のタイトルの含意になるわけだ。
もっともマスメディアはあくまでも傍観者、観察者であり、当事者になれるはずがないという原理的な困難性を抱えていることも承知だ。ただし時代はマスメディアの終焉に向かい、インターネットにより誰でも情報を発信できるようになった故に、様々な当事者の情報発信という新しい時代環境が始まっているのではないか・・・・と締め括っている。
論点の全てに合点がいくわけではないが、著者の半生を総括した渾身のメディア・思潮批判だ。重く受け止めたい。
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