安倍首相が行う戦後70年談話の参考となる「有識者懇談会の報告書」、全文読んだ。
正式名称は「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会(21世紀構想懇談会)による報告」である。
正式名称は「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会(21世紀構想懇談会)による報告」である。
例えば以下のような記述には、中韓や日本の左派が批判する「歴史修正主義」の要素は微塵も感じられない。
引用:「日本は、満州事変以後、大陸への侵略1を拡大し、第一次大戦後の民族自決、戦争違法化、民主化、経済的発展主義という流れから逸脱して、世界の大勢を見失い、無謀な戦争でアジアを中心とする諸国に多くの被害を与えた。
特に中国では広範な地域で多数の犠牲者を出すことになった。また、軍部は兵士を最小限度の補給も武器もなしに戦場に送り出したうえ、捕虜にとられることを許さず、死に至らしめたことも少なくなかった。
広島・長崎・東京大空襲ばかりではなく、日本全国の多数の都市が焼夷弾による空襲で焼け野原と化した。特に、沖縄は、全住民の3分の1が死亡するという凄惨な戦場となった。植民地についても、民族自決の大勢に逆行し、特に1930年代後半から、植民地支配が過酷化した。
1930年代以後の日本の政府、軍の指導者の責任は誠に重いと言わざるを得ない。」
アメリカの位置づけをめぐる二つの対立する世界観
私にとっては概ね違和感のない良くできた内容だが、安全保障関連法案に対する左派と政府の対立点は、たどって行くと結局「アメリカ」という国をどう位置付けるかで大きく分岐するのだと思う。この点、党としての見解が統一できずに、「憲法違反一点張り」で実質的な安全保障問題の議論ができない民主党は、ある意味で論外だろう。
SEALDsなどに参加している若者諸君も、以下の2つの世界観の対立の中で、自分がどちらにつくことを選ぶのか?そういう問題に行き着くことを熟考して欲しい。
懇談会報告書の見解:
「1960年代までに多くの植民地が独立を達成したことにより、世界中全ての国が平等の権利を持って国際社会に参加するシステムが生まれた。そして、新たな国際社会の繁栄の原動力となった諸原則が、平和、法の支配、自由民主主義、人権尊重、自由貿易体制、民族自決、途上国の経済発展への支援であった」
「1960年代までに多くの植民地が独立を達成したことにより、世界中全ての国が平等の権利を持って国際社会に参加するシステムが生まれた。そして、新たな国際社会の繁栄の原動力となった諸原則が、平和、法の支配、自由民主主義、人権尊重、自由貿易体制、民族自決、途上国の経済発展への支援であった」
上記の太字にしたポイントこそ、2度の世界大戦を経験した20世紀の教訓として継承すべきものと報告書は総括しており、その実現を主導してきたのは、アメリカとその同盟諸国である西欧並びに日本であると位置づけている。
一方、この見解と真逆の立場は、例えば日本共産党の綱領に記載された以下のようなものであろう。
引用:「アメリカが、アメリカ一国の利益を世界平和の利益と国際秩序の上に置き、国連をも無視して他国にたいする先制攻撃戦争を実行し、新しい植民地主義を持ち込もうとしていることは、重大である。
アメリカは、「世界の警察官」と自認することによって、アメリカ中心の国際秩序と世界支配をめざすその野望を正当化しようとしているが、それは、独占資本主義に特有の帝国主義的侵略性を、ソ連の解体によってアメリカが世界の唯一の超大国となった状況のもとで、むきだしに現わしたものにほかならない。
これらの政策と行動は、諸国民の独立と自由の原則とも、国連憲章の諸原則とも両立できない、あからさまな覇権主義、帝国主義の政策と行動である。 いま、アメリカ帝国主義は、世界の平和と安全、諸国民の主権と独立にとって最大の脅威となっている。」
私は戦後、アメリカがやって来たことが全部正しい、正義だなんて全く思っていない。アメリカはアメリカとして自国の国益と価値観の実現を追求して来ただけだ。ただし、例えばかつてのソ連、今のロシアや、戦後の中国が世界最大の大国、覇権国家になった世界を想像して頂きたい。あるいはアメリカではなく、ソ連が戦後の日本を占領した世界を想像して頂きたい。
そして自分がそうした世界に生きることを選ぶか、あるいは今の世界に生きることを選ぶか、それを考えれば、私にとって選択は後者(今の世界)しかありえない。そういう相対比較の問題として考えているわけだ。
日米同盟破棄は中国の戦略の上で踊るようなもの
中国ウオッチャーはみな同意するだろうが、今の中国の権力者は日米同盟を破棄させることができ、かつ米中が手を握れば、中国にとって日本などはどうにでもなる対象、赤子の手をひねるような存在になると判断し、それを戦略的に志向している。 現実の世界はパワーポリティクスだからね。日米同盟破棄を掲げるなんてのは、主観的にはそういうつもりはなくても、結局中国の思惑通りに踊ることになる。この点、間違いないと確信している。
自分が生まれる前に起こった過去の出来事に対してどうして謝罪ができるのか?
今回の報告書については中韓を含め日本の左派は村山談話にあった「おわび」や「謝罪」をすべきとの指摘がないと批判をしている。
例えば赤旗は次のように報じている。
引用:「『侵略』明記、『おわび』求めず」 「 報告書は、最大の焦点となる歴史認識について「先の大戦への痛切な反省」を明記。「植民地支配」や「侵略」という表現も記載する一方、戦後50年の村山富市首相談話(1995年)にある「おわび」の踏襲は求めませんでした」
日経新聞(8月7日)は中国の報道を以下のように報じている。
引用:「 【北京=共同】中国国営通信、新華社は2日、安倍晋三首相が今夏に発表する戦後70年談話について、先の大戦に関する「痛切な反省」を明記しても「おわび」の表明がなければ、戦後50年の村山富市首相談話と比べて「深刻な後退だ」とする記事を配信した。 記事は村山談話のキーワードが「植民地支配」「侵略」「おわび」だとし、安倍氏がこれらに言及するかどうかが注目点だとした。」
「謝罪」というのは直接か間接か選択する何かしらの自由が自分にあり、その結果に対する道義的な責任から生じることだ。 例えば全く行動の自由選択のない奴隷の立場ならば、道義的な責任も生じないので「謝罪」もあり得ない。
自分が生きている同時代のことで、自国のやった所業が他国に大いなる災いをもたらしたのであれば、たとえそれに自分が直接関与していなくても、国家としての「謝罪」の念を共有することはあり得るだろう。
しかし自分が生まれた前に起こった過去の出来事とは、自分自身には間接的にも直接的にも選択の自由が全くなかった出来事である。それに関して、どうして私を含めた戦後生まれの国民に道義的な責任や謝罪の必要性が生じるのか、論理的な説明を見聞したことが私はない。 「過去の教訓として過ちは繰り返さない」という意思の表明で十分だろう。 つまり戦後生まれの私たちのとって、問題の過去は、同時代の過去ではなく、歴史的な過去なのだ。
中韓や日本の左派が、それでも「謝罪が必要」と言うのであれば、それはどのようなロジックによるものだろうか? 自分が生まれる前のことであろうと、「国家としての連続性がある以上、戦後生まれの政府や有権者も謝罪すべきだ」と彼らは言っていることになる。つまり国家を擬人化して、その道義的な責任を追求しているわけだ。
この主張が前提とするロジックとはいかなるものだろうか?
戦中時代を描いたある再現ドラマを見ていて、はたと気が付いた。ドラマの中で「お国のために私たち国民ひとりひとりも滅私奉公しなくては」というセリフが出てきた。もちろん、これは今では国家主義的なロジックとして一部の極右の方々を除けば全く否定されているものだ。
ところが 「謝罪せよ」と主張している方々のロジックとは、まさにこの国家主義的なロジックと表裏、あるいはポジとネガの関係にあるのではなかろうか。すなわち「お国のせい(責任)なんだから、戦争の同時代の世代だろうと、戦後生まれの世代だろうと、日本国民とその政府である限り『謝罪』すべきだ」と主張していることになる。
日本の左派は右派の国家主義的なロジックを批判し続けてきたが、今に至るまで「謝罪せよ」という自らのロジックは、実は国家主義的なロジックの矛先を逆に向けただけで、同質のものだったのだ。
もちろん、国家を擬人化することには、一定範囲内での合理性もある。例えば、同様の擬人化には「法人」もある。 法人は契約の主体となり、その遵守の義務がある。国家は条約の主体となり、その遵守の義務がある。法人の契約や国家の条約は、締結後に生まれた経営者、あるいは国民・政府でも遵守しなくてはならない。
承知の通り、戦争賠償をめぐる日韓の条約は1965年の日韓基本条約であり、この条約で日本の韓国に対する経済協力が約束されると同時に、韓国の日本に対する一切の請求権の「完全かつ最終的な解決」が取り決められている。
また中国人民共和国との間では、条約よりは弱いがそれに準するものとして1972年の日中共同声明で、日本が台湾ではなく中華人民共和国政府を正当な「中国」として事実上認知すると同時に、「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄すること」が宣言されている。
これらの条約や共同声明は、国家を構成する国民が世代交代で変わっても、遵守すべき事柄であり、自国の政治情勢などの変化で一方的に破ることはあってはならないはずなのだが。
追記(8月11日):
橘玲 公式サイト で先日の私のブログなどよりもずっと整理されて包括的な議論が全3回にわたって展開されているのを発見しました。
基本的にはサンデル教授のコミュニタリアン的な考え方(「戦後生まれでも謝罪すべき」)と、自由主義的・リバタリアン的(道徳個人主義「戦後生まれは謝罪の必要なし」)を対比しながら、サンデル教授の議論を批判的に読み解いています。
これは秀逸な内容だ。結論としては、本件についても複数の立場があり、どれが決定的に正しいのかはわからないのだが、各立場の論点と強弱が鮮明になっています。
もちろん私のブログでの今回の主張は自由主義的・リバタリアン的(道徳的個人主義)な視点からのものです。
引用:「(道徳的個人主義を批判する)サンデル教授は、『法人としての国家(共同体)は先祖の罪に対して責任を負うべきだ』と述べているのだろうか。だがそうなるとこんどは、「道徳的個人主義」に対する教授の批判が破綻してしまう。道徳的個人主義者は個人としての責任は認めないかもしれないが、法人としての責任を積極的に支持することは十分にあり得るからだ」
この最後の部分が私の意見に一番近いです。すなわち戦後生まれの私たちは、戦争について謝罪する道義的な責任はないと考えますが、国家どうしとしてならば相応な範囲内で過去の責任を認め、賠償交渉にも対応し、その結果締結された条約や共同声明を遵守する義務がある。そして日本はそれを戦後やってきたはず、ということです。
ただしそれでも問題が残るという。
引用:「国家間の戦争の場合は、損害の規模が大きすぎて、個別のケースごとに賠償金額を算定したり、賠償すべきかどうかを決めることは明らかに非現実的だ。とはいえこのままでは永遠に紛争は解決できないので、便宜的に謝罪と賠償の対象を相手国(法人)とする方策(次善の策)が採用されることになる。これが平和条約だ。
いったん平和条約が締結されると、法人と法人のあいだの紛争は解決され、その後、追加の謝罪や賠償は要求できないとされる。過去の歴史的事象を取り上げていつでも好きなときに賠償請求できるのでは国家間の正常な関係は成り立たないから、両国の国益を最大化するためにもこれは合理的なルールだろう。
だが私の考えによれば、ここにはの(サンデルの)「正義論」におけるきわめて深刻な問題が横たわっている。仮に国家と国家が平和条約を締結したとしても、その合意に個人(一人ひとりの被害者)が従わなくてはならないとする道徳的な根拠を提示することができないからだ」
いったん平和条約が締結されると、法人と法人のあいだの紛争は解決され、その後、追加の謝罪や賠償は要求できないとされる。過去の歴史的事象を取り上げていつでも好きなときに賠償請求できるのでは国家間の正常な関係は成り立たないから、両国の国益を最大化するためにもこれは合理的なルールだろう。
だが私の考えによれば、ここにはの(サンデルの)「正義論」におけるきわめて深刻な問題が横たわっている。仮に国家と国家が平和条約を締結したとしても、その合意に個人(一人ひとりの被害者)が従わなくてはならないとする道徳的な根拠を提示することができないからだ」
最後の部分の指摘については、コミュニタリアンの立場から「生まれる前の過去の出来事にも責任がある」とするサンデル教授の正義論の問題を指摘しているわけです。 私としては、国家間の条約に個人が従わなくてはならない道徳的な根拠を示す必要が果たしてあるのか、国家間の条約は条約として国内法もそれとの整合性を求められるだけであり、道徳とは別事だということでよいのではないかと思います。
こうして見ると、共同体が共有している価値観や道徳を重視するサンデル教授のコミュニタリアンの思想は、それが強くなると左右双方の全体主義(あるいは国家主義)の考え方と親和性が高くなると思えてきました。もっともこの辺の思想状況に日本で最も詳しいと思われる井上達夫教授の近著よると、サンデルはコミュニタリアンの立場から、その後はリベラリズムに次第に接近しているそうです。それは実によかったね・・・と言っておきましょうか。
近著「稼ぐ経済学~黄金の波に乗る知の技法」(光文社)2013年5月20日
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