「GDPの限界」という議論はこれまで繰り返しなされてきた。私が大学生だった1970年代後半、朝日新聞が「くたばれGDP」という特集をやったことがある。1960年に自民党池田内閣が打ち出した所得倍増政策が文字通り成功し、戦後日本は「奇跡の復興」と高度成長を経て60年代後半には世界第2位のGDP大国になっていた。ところが「公害、貧困、住宅など様々な社会・経済問題は解決していないではないか」というわけだ。
もっともGDPが大きくなればこれらの社会・経済問題が自動的に解決されるなどということは、経済学者も政治家も語っていたわけではない。所詮GDPは1年間に一国内で生産される経済的な付加価値の総額を示しているだけだ。ただし一人当たりのGDPが大きく経済的に豊かな国ほど、そうした問題の解決に投入できる経済的な資源も多くなると言える。そういう意味で当時の朝日新聞の論調は的外れだった。
その後も似たような論調は時折頭をもたげ、近年では「幸福度指数」なるものを巡る議論がひとしきりあった。「一人当たりGDPではブータンは途上国でも『幸せの国』だ」などという奇妙な言説がまことしやかに流れた。「幸福」とは客観的で観測可能な条件に依存する面はあるものの、究極的には個人の価値観と主観の問題であり、マクロ的に計測、集計できるものではない。そうである以上「マクロ的な幸福」を政策目標にするのは愚かしい限りだ。
それでは今日のGDPは適切に経済的な付加価値を計測できているだろうか?技術革新と産業構造の変貌の結果、実はこの点で大きな問題が生じている。MITスローンスクールのエリック・ブリニュルフソン&アンドリュー・マカフィー著の「セカンド・マシン・エイジ
(The Second Machine Age)」(2015年、日経BP社)は第8章「GDPの限界」でこの問題を論じている。
パソコンやスマホでインターネットを通じて様々な情報にアクセスできることは、わずか20年間で世界的に一般化し、今やそうしたアクセスなしでは私達の仕事も生活も成り立たなくなっている。しかもその情報の多くが直接的な対価なし、無料で利用されている。「値段がゼロだということは、公式の統計にはまず表れないということである。無料のモノやサービスも経済に価値を加えているが、GDPは1ドルも加えない・・・だが、無料であっても無価値でないことははっきりしている。」(184㌻)
「公式統計によると、今日のGDPに情報産業が占める割合はたった4%だ・・・4%と言う比率は、1980年代後半からまったく変わってない。」(186㌻)しかし私達がPCやスマホを利用する時間は著しく増えているし、それによって得られる情報量は桁違いに増えている。これは明らかにおかしい。今日の経済で生み出されている多くの情報サービスの価値がGDPからすっぽり抜け落ちていると言わざるを得ない、というわけだ。
経済活動の新たな状況に対応できる新しい計測方法が求められているわけだが、その回答を私達はまだ知らない。1000年後に歴史学者は20世紀と21世紀の境目を「旧機械時代から新機械時代(The SecondMachine Age)への画期」として位置付けることになるのかもしれない。
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本件は(公益財団法人)国際通貨研究所のホームページ、メルマガ11月号に掲載された論考です。
近著「稼ぐ経済学~黄金の波に乗る知の技法」(光文社)2013年5月20日