久しぶりに経済・金融以外のネタで書いておこうか。

紆余曲折を経ながらも、長いこと勉強して来た人間のひとりとして、広い意味での認知的な能力、つまり知識とそれを総合して理解、洞察する能力を高めることに憧れ、それを追求してきた。しかしながら、同時に人間がそれぞれに幸福に生きる上で、それとは別のある種の基礎的な「非認知的な能力」が欠かせないと次第に強く感じるようになった。 これを説明してみよう。

最近読んだ本に「自分の『うつ』を治した精神科医の方法」(宮島賢也、河出書房新書、2010年)がある。 著者は防衛医大を卒業した後いろいろ迷った末、精神科の医師になるのだが、自分自身が鬱病になってしまう。それを克服して、医院長として活躍する現役の精神科の医師だ。

鬱病になる原因は、経済的、あるいは人間関係上のストレス、過労などいろいろだが、同じような状況にあっても鬱病になる人とならない人がいる。その違いは何か?と問う。

引用:「うつになると人と、ならない人、どこに違いがあるのでしょうか。その最大の違いは、考え方にあります。うつになる人は、『うつになるような考え方』をしています。うつにならない人は、『うつにならないような考え方』をしています。」(p74)

その「うつになるような考え方」とは、①自分を責める傾向(自責の念、自己否定、自己嫌悪、自己肯定感の欠乏)、②誰かから強制されて身についた目標への「頑張り過ぎ」(逆にいうと自分が本当にしたいことへの鈍さ)と指摘する。

著者は「考え方」という簡単な言葉で表現しているが、私なりの理解で言うと、世界と自分の関係のあり方に対する一種の確信ということだろう。自分が望まないこと、悪いことが起こった場合でも、人間の感じ方、考え方は様々だ。 ①「自分が悪い、自分のせいだ」これが自罰型、②「偶然だ」(能天気型)、③「他人(あるいは環境、政策、制度)が悪い」他罰型などが主要な傾向だろうか。

どんな出来事でも、①自分の行為(選択)、②自分では左右できない事情、③他人の意図(選択)などの複合的な要因による結果だが、その客観的な要因分析は多くの場合に困難で、人間はその人特有の傾向(考え方)に従って反応していることになる。

鬱病になりやすい人とは、要するに誰かから(多くの場合、無意識のうちに)刷り込まれた他律的な目標(こだわり、執着)に対して頑張り過ぎ、うまくいかないと自分を責め、疲弊して無力感に捕らわれ、そうした自分に更に自責の念を感じて、自分自身を追い詰めてしまう。そういうことだろうか。

それではそうした状況からどうやって脱出するか。鬱病の薬についても、それで目立って症状が改善する場合も、そうでない場合もあるようだが、やはり薬だけでは足りないようだ。 著者は、やはり「考え方」を変える必要があるという。つまり自分と周囲(世界)の関わり合いに関する鬱特有の「確信」から抜け出して、別のもっと建設的な確信を構築する必要があるという。

抜け出し方にはその人固有の様々なあり方があるのだろう。著者はナチュラル・ハイジーンとという米国で開発された食事療法を実行することで、自分自身の鬱の治療に成功した。おそらくその食事療法自体が、著者の物理的な体質に適しており、なんらかの健康効果があったのだろう。ただし私が理解する限り、それは鬱治療の本質ではない。

ここでもうひとつ別の臨床心理士のエッセイを引用しよう。
ひとことで言うと、トラウマになるような心的な傷害を受けた後、漫然と時間が経過するだけでは傷は癒えないと言っている。ではショックを乗り越えるタフな精神のためには何が必要かと言うと次の様に語っている。

引用:「生まれつき強い精神力を持っている人はいない。だが、精神力を強化できる能力は、誰にでもある。体力と同様に、強化するための練習方法もある。

現実的に考え、感情をコントロールし、生産的な行動を心がけることが、困難を乗り越え、回復することに向けてのカギとなる。強くなれば、あらゆるストレス要因に対しての抵抗力も高まる。

回復力を高めるためには、計画的な練習が必要だ。そして、努力する価値はある。精神力を高めることは、心の傷を癒すあなたの能力を高めることになるのだ(Thinking realistically, regulating
your emotions, and behaving productively is the key to bouncing back from
adversity.)

私の言葉で言うと、具体的な実現可能な目標を自分に設定し、それを達成するステップを毎日一歩一歩と継続することだ。「めんどうくさいから、やめちゃおうかな」というような怠慢な感情を自制して、自分を目標に向けて導く。そのプロセス自身が、「私は私をコントロールできる」という現実感覚、つまり自信を回復させてくれる。そういうことではなかろうか。

だからこの精神的なタフネスに向けた訓練、治療は別に特殊な食事療法である必然性はないのだ。単なる計画的なダイエットだって、筋トレだって、目標を設定した勉強だって良いのだ。 目標が実現可能であり、時間のかかる大きな目標は、そのステップとなる小さなより実現し易い目標に小分けにされ、一歩一歩実現できるように設定されることが大事であろう。

何に記載されていたか忘れたが、鬱病になりやすい人は、目標設定はあっても、その目標が漠然とし過ぎている傾向があることが心理学の実証調査で明らかになったと語られていた。漠然とした目標は、達成度が計測できない。その結果、どこまでやっても達成感が得られず、逆に無力感に捕らわれやすくなると言う。従って、目標が小刻みにステップを踏んだ具体的なものである必要がある。

逆に言うと、日々自分自身の職業などにおいて、そうした目標設定と努力を継続している人は、多忙でストレスがかかっても鬱には成り難いし、少々意図せざる失敗があっても、大きく挫折して「心が折れる」ということは起き難いだろう。

おそらく鬱病に悩む人達には「考え方の問題」と言われることに抵抗感を感じる人も少なくないだろう。そう言われると「自分の考え方が悪いってことか」と感じて、さらに自責の念に駆られ、あるいは逆に反発して自分を変えることから遠ざかってしまうかもしれない。実際、アマゾンのこの書のレビューを見ると鬱経験者と思われる人などから、かなり反発をかっている。

しかし人間、いきいきと生きること、つまり生きることを楽しむことができるかどうかは、まさに世界と自分の係りについてどのような確信を持つかにかかっているのだ。卑下することもなく、尊大になることもなく、自分は自分と世界の関係を一歩一歩変える力を持っているのだという現実的な感覚、その過程で生じる自己肯定感こそ、幸福のベースではなかろうか。「不幸な確信(考え方)」を「幸福な確信(考え方)」に切り替えることは、人間にとって最も難しい課題であると同時に、人生の極意なのだろう。

そしてさらに思索を広げると、実はこの確信の変更、切り替えこれこそが、宗教が人間社会で果たして来た肯定的な側面の本質ではないかとも思うのだが、それはまたの機会にしようか。それでは最後に私の好きな言葉を引用しておこう。

思考に気をつけなさい、それはいつか言葉になるから。
言葉に気をつけなさい、それはいつか行動になるから。
行動に気をつけなさい、それはいつか習慣になるから。
習慣に気をつけなさい、それはいつか性格になるから。
性格に気をつけなさい、それはいつか運命になるから。
Be careful of your thoughts, for your thoughts become your words;
Be careful of your words, for your words become your deeds;
Be careful of your deeds, for your deeds become your habits;
Be careful of your habits; for your habits become your character;
Be careful of your character, for your character becomes your destiny.