ユヴァル・ノア・ハライの「ホモ・デウス(Homo Deus)」を読んで考えるところがあったので、ノートしておこう。
著者は前著「サピエンス」でも同様だったが、宗教についても進化論的なアプローチをしている。すなわち、「神」という観念がそれを抱いた人間集団に生存競争上の強い優位性をもたらしたので人類全体に広く普及したと考えるわけだ。
この点はホモデウスでは主に上巻で語られる。人間には客観的現実と主観的現実、そして第3に共同主観的レベルでの現実があり、神も国家もこの第3のレベルの想像上の秩序であると整理する。それは想像上の(創作された)秩序であるが、多くの人間によって共有されることで現実的な力を発揮するわけだ。そして例えば特定の神を信じることで人間は強力かつ大集団的な力を行使できるようになり、他の人間の群れに対して生存上の優位性を実現した。
この点はそれほどオリジナルな考えではなく、原理主義的な宗教者にとってはともかく、無心論的な立場からは違和感がない。例えば、経済的な諸関係から成る下部構造に対応して、諸観念から成る上部構造が形成されると説いたマルクスの唯物史観とも共通する考え方だろう。
著者のもっともラディカル(根源的)で挑戦的な視点は、この見方を近現代の自由主義的な思想にも徹底的に適用することだ。それは下巻の第7章「人間至上主義(Humanism)革命」と第8「研究室の時限爆弾」で語られる。
近代の人間至上主義革命によって、「神」への信仰は「人間性」への信仰に換わった。人々は「神の声」に耳を傾けることを止め、自分の感覚と情動と思考に注意を注ぎ、それに従うことが大切とされるようになった。自由主義的人間観の誕生である。
この人間至上主義革命によって人間観は一変したと同時に、自然現象の解明は実証主義的な科学に委ねられることになり、急速な科学テクノロジーの発達が起こり、人間至上主義を信奉する人々、集団、社会は伝統的な宗教を信奉するそれらに対して圧倒的な優位を得たわけである。
さらに著者によると、この人間至上主義は、その後に自由主義、社会主義(共産主義?)、進化論的(優生学的な?)な人間至上主義の3派に分裂した。そして21世紀の今日に支配的な思潮として生き残ったのは自由主義的な人間至上主義だ。
ところが、自由主義的な人間至上主義の根底にある人間の自由意思とは、かつての「霊的な魂」と同様に想像上の産物だと、近年の脳科学の研究成果に基づいて、著者は説く。
引用:「自由意思は私達人間が創作したさまざまな想像上の物語の中にだけ存在している」(p105)
「『自由意思』とは自分の欲望に即して振る舞うことを意味するのなら、たしかに人間には自由意思がある。そして、それはチンパンジーも犬もオウムも同じだ。」(p106)
「肝心の問題は・・・・そもそも欲望を選ぶことができるかどうか、だ。」
「特定の願望が自分の中に湧き上がってくるのを感じるのは、それが脳内の生化学的なプロセスによって生み出された感情だからだ。そのプロセスは決定論的かもしれないし、ランダムかもしれないが、自由ではない。」(p106)
この後、著者は近年の脳科学の研究成果に基づいて、私達が自分の選択を意識する前に、その選択に対応する脳内の生化学的な反応が起こっていることをあげる。
この点に関する私の読んだ他参考文献、例えば
また「単一の自己」という概念も、自由主義の神話に過ぎないことを左脳、右脳の分離の手術を行った被験者に見られる異なった2つの「自己」の存在として語る。
要するに自己には「経験する自己」と意識的に「物語る自己」の2つが異なるものと存在しており、物語る自己(解釈者)は自分が行った選択に「まことしやかな物語(解釈)」を提供する存在に過ぎない。
もちろん2つの自己は密接に絡み合っている。
引用:「物語る自己は、重要な原材料として私たちの経験を使って物語を創造する。するとそうした物語が、経験する自己が実際に何を感じるかを決める。(例えば空腹も)物語る自己によって空腹の原因として挙げられる意味次第で、実際の経験も違ってくるのだ。」(p123)
「とはいえ、私たちのほとんどは、自分を物語る自己と同一視する。」(p124)
要するに自由意思、その主体としての単一のアイデンティティがあるという認識も、それは自由主義宗教の信仰に過ぎないと著者は述べている。 中世の人間が神を信じていたことと自由意思の信仰は、人間の創作、共同主観と言う点で本質的に変わることがないということになる。
これはかなりラディカルな主張であり、それでも「他の誰でもない唯一の私自身という自己意識感覚」を持っている私達には、なかなか直感的に受け入れられない認識だろう。
著者が認めるように、人間の自己意識の謎は現代の脳科学でも未解明の問題であり、今後の科学調査の展開次第でこの点に関する見解は修正される可能性も大いにあるので断定はできないが、私は著者の見解は、とりあえずあり得そうな仮説として概ね受け入れるのが論理的だろうと思う。
振り返って考えると、例えばフロイトまで遡る意識と無意識の古典的な概念だって、意識が自分自身のプロセスの一部しか認識していないことを語っているわけで、そう考えれば「意識の全能性」などそもそも信用されていない。
私が強調したい点は、著者の次の論理が示唆する含意だ。つまり人間は「神」にしろ「自由意思」にしろ、自分の物語を創作するということだ。そして創作された物語はその人間の判断、選択、すなわち人間の在り様に対して現実的な力となる。
自分には欲望と行動を選択する自由意思があるという創作を信奉することで、それを信じる人間にその行動に対する責任感と自分の達成したい目標に向かって選択と行動を繰り返す生き様を可能にする。自由意思と言う信仰にはそれだけの価値がある。それで十分ではなかろうか。
また別様には例えば「人間は阿弥陀仏によって無条件に救われている」など仏教の異なる各種の信仰も創作であるが、その信仰があるとないとでは、人の生き様は変わって来るだろう。人間は自分自身に対してどのような信仰を持つかによって、自分の生き様を変える相対的自由度を持っているのだということではなかろうか。
ただし、どのような信仰を創作し、それを信奉するかも、人間の自由意思ではなく、必然と偶然が織りなすプロセスの結果であり、人間の意識はそれを受動的に反映しているだけかもしれないということはできる。
すなわち、人間の意識というものは無意識下で進行する必然と偶然の生化学的なプロセスを受動的に反映するだけの完全に受動的な現象か、あるいはそれに規定されながらも相対的な自由度、意識の在り様が生化学的なプロセスに影響を与えるという逆のベクトルも持ち得るのか、という問題に帰着するように思える。
そしてこの点についても(詳細は省略するが)、意識から生化学的なプロセスに影響を与えることが可能であることを示唆、証明する多数の実証、経験があるということだ。
著者自身も最後の部分で、「新しいテクノ教」と「データ教」の台頭、その可能性を語りながら、それらの潮流が人類を大過に導かないために「3つの重要な問い」を読者が考え続けること、自著がそうした読者の意識的な努力を引き起こすことに期待を語っている。
それは正に人間の意識的な努力、思考が、何を創作し、信仰するかという作業を通じて、社会の変化に影響を与える相対的な力(自由度)を持っていることを意味するだろう。
以上