たけなかまさはるブログ

Yahooブログから2019年8月に引っ越しました。

2011年04月

今週号のThe Economistsが“What's wrong with America's economy?” 
並びに“Why ever fewer low-skilled American men have jobs"の2つの記事で低スキル労働者の失業が構造的(慢性的)になっている問題を指摘している。 
日本も次第にその傾向が出てきているようなので、とりあげておこう。
 
“Strong productivity growth has been achieved partly through the elimination of many mid-
skilled jobs. America had employment problems long before the recession, particularly
for lesser-skilled men. These were caused not only by sweeping changes from
technology and globalisation, which affect all countries, but also by America’s habit of
locking up large numbers of young black men, which drastically diminishes their future
employment prospects. America has a smaller fraction of prime-age men in work and in the labour force than any other G7 economy. Some 25% of men aged 25-54 with no college degree, 35% of high-school dropouts and almost 70% of black high-school dropouts are not
working”
 
要するに低学歴、低スキルの労働者層を中心に職を得られない状態が恒常化している。そのことの基本的な原因はITを中心にしたテクノロジーの進歩と、経済のグローバル化が進む一方で、要求されるスキル水準を満たせない労働者をアメリカの教育、社会が大量に生み出してしまっているためだと書き手は判断している。 もちろんカレッジ卒(大学卒)なら大丈夫というわけではない。大学卒=高スキルという保証はないからだ。
 
記事はあまり詳細に語っていないが、ITを中心にしたテクノロジーの進歩は、相対的に低スキルのホワイトカラーの仕事を大きく減少させていることが複数の研究で明らかになっている。グローバル化は、製造業だけでなく、一部のサービス業も様々な形で海外にシフトしていくことを念頭において書いているのだろう。
 
もちろんだからと言ってマクロ的に雇用そのものが減少する必然性はないのだが、先進国でビジネスサイドが雇用の条件として要求するスキルの水準と供給される労働者のスキルの水準の間にミスマッチが生じていると書き手は理解しているようだ。
ミドルクラス労働者の2極化が進んでいる状況とも関係している。
 
この点で日本はまだ総じて雇用が守られている方ではある。以下の図表は同記事のものであり、25-54歳の男性の就業率である。色がうまく出ないので分かりにくいが、一番上96%前後の水準にあるのが日本、一番したの90%割れそうな黒い実線が米国だ。しかし下げトレンドにあるのは同じ。
 
どうしたら良いのか? 先進国とし経済的に豊かな水準を維持したければ、労働者全体のスキルを技術進歩に見合った水準に引き上げていくしかない、というのが記事の主張。もちろん、容易なことではない。
  老世代は見捨てて、世の中をイノベートする若い世代が続々と登場してくれるのが一番良いのだが・・・その点ではGoogleやface bookなど新機軸で世界を席巻するビジネスモデルを創出するアメリカにはまだ望みがある。日本はどうかな?
 
追記
NY Timesに関連したこういう記事も出ていると友人がコメントしてくれました。
For U.S. Workers, Global Capitalism Fails to Deliver
関連してこういう論文も(以下)。
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遅ればせながら映画GANTZ(パート1)を見た。昨日土曜日からその後半編が封切られている。それはまだ見ていない。http://gantz-movie.com/index.html
 
このブログの読者でもあるナドレックさんが前半編については、既にブログに書かれている。
 
マンガが原作だが、私はマンガは読んでいない。そのかわり、TVアニメ版については今年の春休みにDVDで借りて全部見た。けっこうはまった。 昔読んだカミュの小説と同種の不条理な雰囲気に、マンガ仕立てのバカバカしいようなパロディー調がミックスされた味が、おそらくこの奇妙なストーリーの魅力だろう。原作マンガを単行本で読み始めたら、間違いなくはまるだろう。4月-5月はちょいと忙しくて、全巻30冊にはまると危険なので、原作を読むのは夏休みまでお預けにしておこうか。
 
死んだ人間がコピーの形で復活し、バトルスーツを着て得体のしれない「異星人」との生死を賭けたバトルゲームを強いられる。その理由は全く明かされないまま、バトルだけが繰り返される。「異星人」の容姿やキャラ設定も奇妙というよりも、ふざけたような設定で、本格SFに出てくる「まじめな設定」からはかけなはれている。
 
映画で仏像群と戦うシーンが上野の国立博物館のロケであることにちょっと驚いた。なにしろ、仏様相手にドンパチやって、最後に仏像も、博物館の建物も、全部ぶっ壊してしまうという展開である。よくロケを許可したもんだ。 ああ、そうか、お寺だったらこんな不信心、不埒な物語には絶対に許可が下りない。博物館という信仰上は中立の組織だから許可されたのだろう。
 
私の関心を惹いたのは、主人公玄野(二宮和也くん)と加藤(松山ケンイチ)のキャラ設定だ。
人間にはハンター・タイプ(hunter)、ブリーダータイプ(breeder)の2種類がに分かれるとかねてから考えていた。ハンター・タイプは文字通り獲物を狩ることに喜びを感じるタイプで、行動面では運動的で、闘争的だ。同時に獲物を獲得してしまうと急速に関心が低下する飽きっぽさが特徴でもある。
 
ブリーダー・タイプは、生き物の飼育、保護に強い執着心を抱くタイプで、生き物を殺すのは大嫌いである。反対に、飼育している生き物がハグハグと元気にエサを食べている姿を見るだけで至福感につつまれる。
 
双方の類型は、人類の長い狩猟採集時代に進化・淘汰されて形成された行動特性だと考えている。自分がどちらの類型に属すかは、次のような想像をすると簡単に分かる。スキューバー・ダイビングで海に潜ったと想像して頂きたい。目の前に大小の魚の群れが泳いでいる。この魚たちを「もりで突いて獲物にしたい」と感じる人はハンター・タイプだ。 「この魚達に餌をやりたい」と感じるのはブリーダー・タイプである。 実は私自身は典型的なブリーダー・タイプである。
 
GANTZの玄野は典型的なハンター・タイプで、次第に獲物を狩るようなバトルに魅せられて、ハンター・タイプの属性に目覚めていく。反対に、幼い弟を守ることに強い執着心を抱き、異星人ですら殺すことに強い躊躇いを示す加藤は典型的なブリーダー・タイプである。ハンター・タイプの玄野がバトルの目的は関係なく、バトル自体に魅せられていく一方で、加藤は「命を守る」ことに強い執着を示す。「ブリーダー・タイプはバトルをしない」という意味ではない。ブリーダー・タイプは「何かを守る」ために闘う時に最大の力を発揮するタイプなのだ。実際、映画の設定では加藤は弟を虐待する父から弟を守るために父を殺し、少年院に服役した過去を背負っている。
 
もっともこのようなキャラの読み解きをしたからと言って、この物語の読み解きが深まるというわけじゃない。あくまでもパロディー調で、半分ふざけながら、奇妙奇天烈で、意味も目的も不明のバトルが延々と展開する、それがGANTZの世界である。「それではみなさン、見てくだチイ
 
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WSJが4月20日付記事でヘッジファンドの純資産額の総額が、リーマンショック前のピークを更新して2兆ドルを超えたと報じている。
Global hedge-fund assets surpassed the $2 trillion mark for the first time ever,
Hedge Fund Research Inc. said Tuesday, marking a rebound for the industry from market losses and customer flight during the financial crisis.
Total industry assets rose to $2.02 trillion, up $102 billion in the first quarter. That total exceeded the precrisis record of $1.93 trillion set in the second quarter of 2008, the research firm said.
 
危機前の本だが、ヘッジファンド業界の内幕を書いた「ヘッジファンドの懲りない人たち
(Hedgehogging)」(バートン・ビッグス)は面白い。私はヘッジファンドと業務で直接関わったことはないが、元外為ディーラーでNYにも若い時にいたので、トレーディングや投資業界の雰囲気は肌感覚でわかるつもりだ。
 
2007-08年の危機では、ひとつまみの儲けた投資家を除けばヘッジファンド業界も手痛い打撃を被ったのに、もう過去のピークを規模で上回ると言うのは、まさに「懲りない面々」というべきか、たくましいと言うべきか、無限の強欲というべきか・・・。
 
大きなショックがあると過去のピークを超えることができなくなる日本の投資・金融市場となんと違うことだろうか。もちろん低インフレとは言えインフレの経済(名目の拡張が続く)とデフレ基調の経済の違いでもある。
 
資本というものは「無限の価値の増殖を自己目的とした運動体である」と学生時代にマルクス経済学の講義やテキストで習ったことを思い出す。現代においてこの原理を最も先鋭に代表するのがヘッジファンドであろう。
 
従って反資本主義的な立場からは、こうした資本の無限増殖原理は敵視される。自然と文化を破壊する原理だと批判の対象となる。私もその感覚は分からないわけじゃない。
「自然環境や周囲の人々と調和して生きようよ」という感覚や価値観に共感を感じると同時に、しかし心の奥にどうも「それだけでは物足りない!」と叫ぶもうひとつの自分を感じる。
 
人間には周囲の環境と調和的を志向する感覚と同時に、「もっと速く、もっと高く、もっと強く、もっと豊富に」という無限に直線的な拡張を志向するもうひとつの対立する感覚が内在しているのではなかろうか。そうでなければ、テクノロジーや経済はここまで発展して来なかっただろう。
 
原発事故は「テクノロジーと物質的な豊かさのみを追求してきた高エネルギー社会への警告だ」という主張に最近頻繁に接するが、「はいそうですね、みんなで低エネルギー・低消費・低欲望の安定経済社会に転換しましょう」という気持ちには、私はなれない。
「そういうことやっていると近未来に地球環境の崩壊とともに人類は滅ぶ」 そうかもしれない、ちがうかもしれない・・・。
「等差数列的にしか食糧生産が増えない一方で、人口は等比数列的に増えようとする」このマルサス的制約を打破したものは、やはりテクノロジーの発展だ。マルサス的制約を受け入れて、人口調整して生きる安定社会、それが理想だという気持ちにはなれないんだよね。

親しい友人(女性)がiRobot社の自動掃除機ルンバ(Roomba)を買って使ったところ、「これは優れモノです!」「掃除のサブのつもりで買ったが、今やメイン」「吸引力も問題なし」とオリガミ付きの評価だった。そこで女房の誕生日祝いに「買いましょうか?」と誘ったところ、「では買って」となり、東京の我が家にルンバが導入された。
 
早速使い始めた。やはりこれは優れものだ。四角い隅や、壁と床の隙間なども、「鞭毛」のような細いはけでほこりをかき出して吸い込む。数畳の部屋は20~30分できれいになる。畳の部屋も絨毯の上も大丈夫。吸引したごみを捨てるのもお手軽。
 
ちなみに福島原発で高濃度の放射能で汚染されているエリアで今利用されているのも、iRobot社製のロボットである。
 
日本でも原発放射能事故に備えて事故対応のロボット開発プロジェクトがあったそうだが、「原発は絶対安全ななだから、そんなものいらん」という姿勢が強くて、実用化の日の目を見ぬままお蔵入りしたそうだ。まことに技術を伸ばすのも、殺すのも人間だね。
 
日本は保有台数で世界1の産業用ロボット先進国だから、家庭用ロボットの開発、普及で世界をリードしても良いのじゃないかと思うが、アイボーなどを開発したソニーはロボット部門に見切りをつけて数年前に事業売却してしまった。2足歩行ロボットでホンダのアシモは世界的にも有名だが、家庭用ロボットに二足歩行が必要とは言えない。
 
もっと機能特化して、お安い値段で便利なロボット家電製品を開発・供給してほしい。
ルンバ、正直言ってこれが日本メーカーの開発でないことが私は残念に感じる。
どうも最近の日本の家電メーカー、柔軟かつイノベーティブな開発能力・意欲がしぼんでいるのじゃない?
液晶、ビデオカメラ、デジカメ、カーナビなど次々と新商品を開発して世界に送り出した勢いを蘇らせてほしい。
メーカーの方々、がんばってください~。
 

4月9日に開催された吉林大学(経済学部)での国際シンポジウムが中国メディアで紹介されていました。
 
写真で一番最初の画像で掲載されているのは一橋大学経済学部研究家の小川先生、日本人研究者の団長格です。
合計10数名の日本と中国の研究者が発表していますが、全ては掲載されていません。
私の発表は関心を惹いたのでしょうか、李晓先生(吉林大学での本件の筆頭)をトップに3番目に引用されていますね。
「竹中正治:
  美国是全世界资金流动的中心,只要不是美国对通胀风险的管理失败而引发美元大幅贬值,美元的地位就不会轻易被撼动
 原日本国际货币研究所经济调查部部长、日本龙谷大学经济学部教授竹中正治也表示,在全球金融危机之后,有人担心美国资金流动发生了巨大的变化,但并没有出现美元的暴跌,因为美国收回的资金与从美国撤出的资金进行了抵消,随后又回到危机之前的水平。这说明,美国是全世界资金流动的中心,只要不是美国对通胀风险的管理失败而引发美元大幅贬值,美元的地位就不会轻易被撼动。」
 
中国語をきちんと読めないので、正確に引用されているのか分かりませんが、感じとしては誤解されていないようです。
 
ところで発表者のおひとり中国銀行のエコノミストさんのしゃべり方が、経済・金融問題の講演というよりも、まるで政治演説、それも思いっきり肩に力を入れてしゃべるアジ演説調なので、驚きました。(@_@)
聞いてて疲れる(中国語だから分かりませんが)。しゃべる方もエネルギー超多消費型のしゃべりだから疲れるだろうに・・・。
 
北京から参加している日銀の駐在員の方に、「なんか場違いな調子で変ですよね~?」とささやいたら、「いやいや、こういう調子は中国ではむしろ一般的で、むしろ今回のシンポでは他の中国の先生方が例外的に我々にとって普通の喋り方ですね」と言われました。
 
へ~、革命時代や文化大革命の政治闘争時代の調子がそのまま定着してしまったんじゃないかと私には思えてなりません。
 
 
 

日本に限らず世界は原発推進派と反対派に分かれて、ほとんでイデオロギー闘争と呼べるような対決議論を展開してきたから、今回の福島原発の事故のようなことが起こると一気に反対派は原発否定のキャンペーンを強める。「原発の技術自体が不完全で不安定なものだ」という主張が全面に出てくる。
 
この点で今週号(4月19日)の週刊エコノミストで橘川武郎教授(一橋大学大学院商学研究科)が冷静な指摘をしている。以下引用
 
「(福島第1原発と)同様に東日本大震災に伴う大津波に直面しながら、東北電力女川原子力発電所は基本的に安全停止し、一時的には地元住民の避難場所にまでなった。(中略) 福島第1原発と女川原発の命運を分けたのは、津波対策の違いであったと思われる。 女川原発では(中略)津波への強い危機感を持ち続けて来た。それが、平均潮位より14.8メートル高い位置に建設した女川原発と最大5.7メートルの津波を想定した対策しか施さなかった福島第1原発の違いとなって表れ、両者の命運を分けた。」
 
原発の原子炉と構造物はM9の超巨大地震にも耐えたと言う点も評価すべきだろう。
問題は技術ではなく、技術を使う人間、組織にあると言える。
 
ちなみに女川原発の位置は以下の全国原発マップを見て頂きたい。
また、静岡の浜岡原発(中部電力)は、東海、東南海沖地震で津波が想定されるが、どのような対策になっているのだろうか?
 原発マップ
 

金曜日から2泊3日で中国、吉林省長春にある吉林大学主催の国際金融シンポジウムに招かれて参加して来た。吉林大学は中国でハイランクの巨大大学で、日中双方の研究者と吉林大学の学生さん参加によるシンポジウムだった。 私の発表内容はホームページに貼っておいたので、関心のある方はご覧頂きたい(以下サイト)。
 
中国の東北部だから日本で言うと北海道的な位置。空港から市内のホテルまで道路はかなり整備されている。ただ道路の周辺にゴミやがれきが多いのが気になった。がれきは開発工事が繰り返されているためだろうが、スーパーで使うプラスティック・バッグの成れの果てみたいなゴミが、道路の左右の植え込みに延々とからまっているのがいただけない。
 
ホテルの料理は野菜も新鮮で美味しかった。しかし部屋にバスタブがない。シャワーだけ。しかもなぜか私の部屋のシャワーは十分に熱いお湯が出ず、ぬるいお湯でちょっとふるえた。世界的にみると、ふんだんにきれいな水、お湯を使えると言うのはやはり先進国だけの環境なんだな。
 
食べ物で唯一私が食べられなかったのは、カイコのさなぎの揚げ物。最初はセミのから揚げかなと思ったが、カイコのさなぎだと言う。じゃばら状のさなぎの表皮がそのままで、私はハシをつけることができない。クリスピーな表面をかむと口の中でグチャっと昆虫のはらわたが広がる感じをイメージしただけで、無為無理、絶対食えない。ところが食べた別の先生に聞いたら中までカリカリしていたそうだ。それでも食べる気はしない。
 
シンポジウムが終わってからの宴会ディナーの席では大学の「党委書記」の陳教授という方が参加された。この方が一番偉いそうで、宴席の一番偉い方を筆頭に貴州マオタイ酒で乾杯(カンペイ)を繰り返すのが、中国流の歓待だ。
 
アルコール度50%のマオタイ酒だけで乾杯を続けるのは私にはしんどいので、途中からビールに切り替えたが、なぜか中国ではビールは常温に近い温度で出される。食事の時に冷たい飲み物は身体に良くないという考えだからだろうか。確かにきんきんに冷えたビールを好むのは日本人とアメリカ人の傾向かもしれない。欧州でもわりと常温に近い温度でビールが飲まれることが多い。
 
ホテルでPCをインターネットにつなげると、やはりGoogleは画面は出るが動かない。Yahooは普通に使えたが、このYahooブログにはアクセスができない。facebookもアクセスできなかった。ちょっとおそるおそるYahooで「天安門事件」と入れて検索したら、ウキベディアの該当ページなどはちゃんと出て来た。
 
私の会った学生諸君は、みなまじめそうできびきびしていた。私は中国語はできないので、日本語と英語で対応するが、あまり上手ではなくても英語で一生懸命質問しようとする学生さんもいる。こちらは意味を理解するのに苦労しますがね。
 
こういう姿勢、日本の学生諸君にはあまりない。日本人は英語が要求される場で自ら発言するのは英語ができる人だけだ。できない人は黙っている。下手な英語で恥かきたくないという気持ちが強いからだろう。でも英語は若いうちに恥かきまくりながら勉強しておくのが一番だと思う。恥をかき捨てることができるのは若さの特権じゃあなかろうか。
 
 

福島原発事故は深刻であるが、放射能漏れに関する報道はいたずらに不安を拡散し、過剰反応を引き起こしていると感じている人は私だけではなかろう。狂牛病(BSE)の時にも同じ過剰反応があった。しかも政府の情報供給はそれに対応できず、不安と過剰反応のみが広がった。
 
その点で今日のダイヤモンド・オンラインに掲載された以下の記事は冷静かつ啓蒙的な良い記事だ。
 
以下一部引用
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政府内に放射線に詳しい専門家がいないため、かえって混乱を招くだけの結果になっている。国民が理解できるような方法でデータを噛み砕いて伝えることができていないのだ。
たとえば、(日本政府は)現在、飲料水では放射性ヨウ素が1リットルあたり300ベクレルを超えると好ましくないというメッセージを国民に伝えている(乳児の規制値は100ベクレル)。しかし、この数値は何も目の前のコップに入った水を飲むと危険だということを示しているのではない。
20杯飲んでも大丈夫なはずだ。その値以上の飲料水を5リットルほど毎日1年間飲み続けたら、ガンになる確率が1万分の1上がる可能性がわずかにある、ということだ。そういう説明を、自信を持ってできる人間が政府内にいないことが問題なのだ。
 
そもそも海には以前から放射性物質が含まれている。1994年まで海底での核実験が行われていたし、原子力潜水艦や核弾頭なども海底に沈んでいるからだ。海水の放射能汚染は何も新しいことではない。 むしろ今後の問題は、人々が怖れるあまり近海の魚が売れなくなり、経済的な打撃を受けることだろう。だが、それは無知に基づいた反応以外の何ものでもない。政府は、専門家による委員会を組織し、そうした説明を国民に向けて行うべきだろう。今からでも決して遅くない。
 
(チェルノブイリ事故の影響で)6000件の甲状腺ガンが報告されているが、これは子どもたちが放射性物質に汚染されたミルクを飲み続けていたからだ。周辺は農村地域で、当時は食糧の流通システムも発達しておらず、住民たちは地元農村で採れたものを口にしていた。こうしたことに加えて、(放射性物質が甲状腺に害を与えるのを防ぐ)ヨウ素剤も十分に行き渡らなかった。つまり、原発事故直後に本来取られるべき措置のすべてが取られなかったのだ。
これに対して、福島原発事故では、日本政府の説明下手という問題はあるが、放射能汚染リスクへの対処はきちんと行われていると私は考えている。
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枝野さんは一生懸命やっていると思うが、やはり専門家ではない限界がある。放射能のリスクについてかみ砕いて説明できるこういう先生を節目節目の発表の席に同席させて、伝えて頂ければずいぶんと違うと思うのだが・・・。
また、「放射能汚染不安」で価格が暴落したり、値がつかない野菜や魚、これが株式などの金融資産なら絶好の買い場だから今買って将来売りぬけることもできるが、生鮮食料品ではそのような投資機会には結びつかないのが、残念だ。
 

本日の日経ビジネスオンラインの小峰隆夫教授の論考、私も同意する点が多い。
 
ちょっと引用しておこう。
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「私は、震災前に、日本の政治的意思決定システムは機能不全に陥っており、これが経済にとっても最大のリスク要因になると考えていた。これを再び機能させるためには、政策決定に際して与野党が政策面で歩み寄り、特に長期的な課題に対しては、超党派の合意で対応していくような慣行を形成していくことが必要だと考えていた。
 しかし、それは言うは易く行うは難し。よほどの国家的な危機にならなければ、超党派合意などは期待できないだろうと考えていた。ところが、まさに最大級の国家的危機になったのだ。 3・11ショックの後、私は、これで超党派合意の先例ができるだろうと考えた。」
 
「ところがこのシナリオがなかなか実現しない。これほど明瞭な戦略をどうして民主党は採用しないのか? 新聞を読むと依然としてマニフェストへのこだわりがあるということらしいが、これほどの危機が起きたのだから、マニフェストの前提はとうに吹き飛んでいる。なぜまだマニフェストにこだわるのか? あまりにも不思議な出来事に、私は考えていると気持ちが悪くなりそうであった。」
 
「私が期待した超党派合意は今のところ成立していない。財政赤字特例法案のめども立っていない。しかし、最近になって遅まきながらようやく与野党の対立ムードが薄れ、力を合わせて難局を乗り切ろうという動きが出てきたようだ。大連立の形成という話も現実味を帯びてきた。」
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最後は難局に立ち向かう超党派合意に希望をつなぐ結論です。
しかし本日付の日経新聞は次のようにも報じている。
「与野党内で5日、民主、自民両党の大連立構想を巡って賛否が交錯した。政府・民主党からは秋波を送る姿勢が相次いだが、自民党では慎重論も多い。10、24両日投開票の統一地方選を控えているためだ。大連立構想が埋没と結びつきかねないと警戒する公明党は一定の距離を置く。各党の思惑が複雑に絡み合う展開だ。」
 
やれやれ、日本の政治の質が問われます。でも本当に問われているのは政治家を選出する選挙制度(一票の農村部、都市部の格差)の問題とわれわれ選挙民の質でしょう。

レビューを本当に書きたくなる映画に出会うことはそう多くない。
しかし映画「アレキサンドリア」(原題、AGORA)は久しぶりにビーンと来た作品だ。
 
この映画は2009年のスペイン映画(ただし日本公開は英語版)で、カンヌ映画祭で公開されたそうだ。スペインでは大反響だったそうだが、国際的な興行ネットワークでの動きは鈍かったという。だから日本ではようやく今年公開された。
 
映画の世界最大の興行市場はやはりアメリカだろうが、間違いなくアメリカでこの映画を大々的に上映しようとする興行筋はないだろう。なぜならキリスト教の反知性主義的な側面をえぐり出している歴史映画だからだ。
 
小説&映画「ダビンチ・コード」がアメリカでカトリックからごうごうたる非難を受けながらも興行的に成功したのは、ダビンチ・コードの批判がクリスチャンの半分、つまりカトリックの教義に向けられたものだからだろう。つまりアメリカでは主流のプロテスタントを敵に回していない。
 
ところが映画「AGORA」の矛先は4世紀頃に確立されるキリスト教会それ自体に向けられている。だから現代のキリスト教国家であるアメリカで大規模に興行しようとすれば、クリスチャンのブーイングを浴びてボイコットされただろう。
 
舞台は紀元4世紀末のエジプト、古代史上最大の図書館があったアレキサンドリアを舞台に実在したギリシア系の女性天文学者&数学者のヒパティアを主人公にしている。4世紀にローマの国教となったキリスト教が、それまでの迫害される立場から一転して、ギリシア、あるいはローマ以来の多神教、自然哲学を嘲笑、破壊する勢力に転換していく過程が描かれている。ユダヤ教徒との相克も登場する。
 
ローマの皇帝を頂点とする権力がキリスト教側についたことで、アレキサンドリアの有力者も次第にキリスト教に転向して行く。 主人公のヒパティアはそうした宗教的な転向には一切妥協せずに、天文・自然哲学に専心しているが、最後には魔女だという避難を浴びてキリスト教徒らによって惨殺されてしまう。
 
アレキサンドリア図書館の古代からの貴重な所蔵文献がキリスト教徒によって破壊、焼却される場面は、歴史の中で古今東西様々な権力、勢力によって繰り返されてきたこととは言え、人類史における反知性主義的な蛮行として心に突き刺さる。
 
ブログをご覧になる方の中にはもしかしたらクリスチャンもいるかもしれないから、念のために言っておくと、もちろん私はクリスチャンがみな反知性主義者だと言っているわけではない。私など足元にも及ばないような教養と知性の持ち主もおられる。キリスト教という巨大で、かつある程度多様な宗教の中に反知性主義的な要素があると言っているに過ぎない。同様の事情はイスラム教についても言えるだろう。
 
この物語で思い出すのは、辻邦生の歴史小説「背教者ユリアヌス」だ。やはり4世紀のローマ帝国の末期に、ギリシア・ローマ文化を守ろうとしながら、キリスト教に傾斜していく社会の流れに抗ったユリアヌス皇帝の物語だ。 もちろん「背教者」というのはキリスト教徒からの呼び方であり、ギリシア・ローマ文化の立場からは擁護者だった。
 
私が辻邦生のこの歴史小説を読んだのは、高校生か大学生の時だったが、ローマという日本人作家にとって異文化の古代歴史を背景に、これだけいきいきとした小説が書かれていることに感嘆した記憶がある。
 
アメリカのSF映画「コンタクト(CONTACT)」も思い出した。ジョディ・フォスターが演じる無神論者であることを公言する女性科学者がキリスト教的世論と鋭く対立する場面が印象的だった。ただし、こちらの映画は宗教的な情念に対してより妥協的に出来上がっていると思った。
 
ちなみに普通のアメリカ人に「あなたの宗教は?」と尋ねられた時に「no religion」とは言わない方が良い。それは彼らにとっては「私はエイリアンです」「私はゾンビです」と言っているようなものだ。
信心がなくても「I am a Buddhist」と言っておくのが良いだろう。実際、死んだらお寺の坊さん供養してもらうのだから、ウソではない。
 
4世紀のローマ帝国でキリスト教、とりわけキリスト教諸派の中でも後にカトリック教会として確立される派が優勢になった理由、背景については、私は塩野七生「ローマ人の物語、キリストの勝利」を読んで感銘を受けたことがある。塩野さんは、キリスト教が優勢になっていくプロセスをとても世俗的な事情(税制事情など)、旧い言い方をすれば唯物史観的な観点で描き切っているのだ。観念的な言い草でごまかさない、こういう醒めた視点、私は大好きだ。
 
ところで原題のAGORAというのはギリシャ語で「広場」を意味するそうだ。ポリスの広場で様々な議論を自由に闘わせることができる政治、文化環境を象徴する言葉としてタイトルになったのではないかなと思う。そういう意味では「知」と「自由」の喪失は、歴史の中で繰り返し同時に起こったと言えるだろう。
 
我らが大日本帝国でも、政治のAGORAから合理的、理性的な機能が失われつつようで心配だ。AGORAの崩壊の次に来るものが、戦前に見られたような日本版反知性主義の復活でないと良いのだが・・・。
 
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