たけなかまさはるブログ

Yahooブログから2019年8月に引っ越しました。

2015年02月

クリント・イーストウッド監督の最新作「アメリカン・スナイパー(American Sniper)」を見た。全米で大ヒットとなり、この映画の含意を巡ってリベラルと保守の立場からいろいろ意見が噴出し、論議になっているそうだ。 
 
 http://wwws.warnerbros.co.jp/americansniper/ (映画のオフィシャルサイト)
 
私としては、 2006年の「Flags of Our Fathers(父達の星条旗)」「Letters from Iwo Jima(硫黄島からの手紙)」、さらに2009年の映画「Gran Torino」など近年の一連の作品を通じて、イーストウッド監督の思索、メッセージが、らせんを描くようにゆっくりと展開、発展しているように感じる。
 
映画は米国海軍のSEALS(特殊部隊)で狙撃手として2000年代のイラク戦線で活躍した人物、クリス・カイルの実話である。 クリス・カイルの実話については、NHKニュースなどでも報道されているので、以下では映画のラストまでネタバレで語る。それを知らずにまず映画を見たい方は、ご注意頂きたい。
 
映画グラントリノのメッセージをふり返る
 
2008年の「グラントリノ(Gran Torino)」については、映画に絡めて2009年に日経ビジネスオンラインで以下の論考を寄稿、掲載している。まずの映画のメッセージから振り返ろうか。私の論考を読まれていない方は、以下ご覧頂きたい。(↓)
 
引用:「ウォルト(主人公)が自分の心の深い傷、罪の意識を償い、誇りを回復したことは確かだ。同時に彼は過去の何かを捨て、未来に向けて何かを救い、何かを託したのだ。 何を?
 
ウォルトが投げ捨てたものは「力による恫喝」と「民族的な偏見」だと言えるだろう。振り返ってみれば自分の父母、あるいは祖父母も移民としてこの国に渡って来たのだ。街の床屋の「イタ公」も、建設現場監督の「アイリッシュ野郎」もそうだ。
 
彼は自分の人生を歩き始めたばかりのスーとタオにこの国アメリカで生きる勇気と希望を与えた。
 
『この国(アメリカ)は世界中からやって来た移民とその子孫に、ハードワークと独立心を代償に、自由と繁栄を与える土地だ。これまでもそうだった。そしてこれからも』
そういうセリフは映画の中では一切出てこないが、これは多くの現代アメリカ人の琴線に触れる信条だ・・・
***
 
多くのすぐれた物語がそうであるように、込められたメッセージはひとつではない。しかしこの映画から、ひとつだけ重要なメッセージを抽出すると、主人公ウォルトの悔恨とラストシーンを通じて描かれているのは、「怨嗟と暴力による報復は暴力の連鎖を生むだけだ。人はその連鎖を断ち切らなくてはならない」これだと思う。
 
このテーマ以外にも、この映画は今日のアメリカにおける移民と多民族社会の問題、製造業の空洞化の問題、社会におけるキリスト教の存在意義等、現代の米国社会を考える重要な要素が盛り込まれている。 そのため私は大学で担当している「アメリカ経済論」で2コマ使って、映画の鑑賞とレポートを課している。
 
この映画を題材にした講義で、学生諸君に私が一番感じとって欲しいテーマは、やはり「暴力は暴力の連鎖を生む」というこのメッセージだ。
 
しかし同時に私の脳裏には、ひとつの疑問が浮かび上がってくる。映画ではウォルトはタオとトスーを守るためにギャング達を撃ち殺すのではなく、ギャング達に自らを撃ち殺すように仕向けた。その結果、ウォルトは死ぬが、ギャング達は警察に逮捕され、長期の刑務所服役必至となった。
 
こうしてウォルトは、人を殺傷することなく大事な二人を守ることができた。 同時にそれはかつで朝鮮戦争で、ほとんど降伏しかけていた少年兵を逆上した自分が殺してしまったことへの自戒の含意もあったろう。
 
物語としては、非常に完結性が高くて素晴らしいラストだ。 ただし、このような結末がつけられる条件として、ひとつの法治国家の中で、法秩序を守る警察とその背後の国家が機能していることが大前提になっている。
 
グラントリノのメッセージの限界
 
それでは、国家権力が相対化する国際間での暴力、あるいは国家権力が正常に機能していない紛争地域ではどうなるのか? その条件下でも「暴力による報復、制圧は暴力の連鎖を生むだけだ」と言って非暴力主義で済ませていられるだろうか? 非暴力で暴力の連鎖を断つことはできるのだろうか?
 
そうした理想主義は、日本国憲法の前文の次の文章が代表しているものだ。
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した
 
その理想主義の理念的価値は評価するとしても、これで国民の生命・安全が守れないのが世界の現実だ。 北朝鮮による拉致事件、2013年のアリジェリアの化学プラントでの武装勢力による日本人を多数含む人質・殺害事件、最近のISによる日本人人質・殺害事件など, あげるまでもないだろう。
 
さらに遡れば、1979年のイラン革命の騒乱下、テヘラン空港から脱出できなくなった現地駐在の多数の日本人らを救出するために、当時は日本政府は法律の制約で自衛隊の飛行機すら飛ばすことができなかった。日本政府に代わってテヘラン空港に救出機を飛ばしてくれたのはトルコ政府だった。
 
当然、同時多発テロ9・11とその後のアフガンとイラクでの戦争、中東などでの内紛と難民の大規模な発生、テロリスト集団の跋扈など、イーストウッド監督も「グラン・トリノ」のメッセージでは完結できない世界の現実について考え続けたはずだ。
 
暴力が支配する世界の現実の中で・・・
 
映画アメリカン・スナイパーで、主人公クリスは米国のテキサスで生まれ育ち、ハンティングやロデオを楽しむごく普通の若者だった。 ところが、中東でのテロリストによる米国大使館爆破事件を契機に、「自分もこの国を守るために何かしなくては・・・」と思い立ち、海軍に志願し、厳しい訓練を経てSEALSの狙撃手となる。
 
9・11のテロの後、いよいよイラク戦線に派遣され、地域の制圧と抵抗武装勢力を残滅する任務につく。 スナイパーの基本任務は味方の兵が展開する地域で、高いビルの屋上などに陣取り、味方を攻撃しようとする敵兵を先んじて発見し、狙撃することだ。 クリスは160名以上の敵兵を殺し、仲間からはレジェンド(legend)と呼ばれ守護神のように頼りにされる。ヒーロー視されるが、気持は晴れない。 
 
クリスが経験したことは、現地にも自分らと同じように何かを守ろうと戦う住民がおり、子供の死に慟哭する親がおり、自分らとは異なるが神を信仰する人々いて、自分と同じように同僚の兵士を守ろうとする狙撃手が敵側にもいるという現実だ。その敵方の狙撃手に自分の親しい同僚も撃たれる。
 
4度目の赴任でついに敵方の狙撃手を発見、射殺し、命からがら生還するが、他の多くの派遣兵と同様に心理的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状を起こす。 それでも彼は軽度な方で、回復後は心理的、あるいは身体的な障害者となった他の帰還兵を慰安しながら、妻と子供たちとの平穏な家庭生活を取り戻す。
 
ところがある日、クリスは慰安のために同行したPTSDを病む帰還兵に、突然銃撃されて絶命してしまう。ラストシーンは、実際に故郷で行なわれたクリス・カイルの葬儀の実写映像で終わる。クリスの遺体を乗せた霊柩車が走る沿道には、彼の死を悼む大勢の住民が並ぶ・・・。
 
映画グラントリノには視聴者を感動させると同時にすっきりとさせる完結性があった。しかしアメリカン・スナイパーには、そうした完結性やすっきり感はない。
 
「人を殺すってことは、とんでもない地獄を経験するということなんだ」 これは、「グラントリノ」でもウォルトが語ることだし、「許されざる者」でも同じセリフが出てくる。  これはイーストウッド監督の一貫したメッセージであり、この映画でも貫かれている。 しかし暴力が支配する世界で、どうしたら人を殺さずに人を守れるのか? 「グラントリノ」にあった完結したメッセージはこの映画では成り立っていない。
 
4度目のイラク派遣でようやく発見した敵方狙撃手に向けてクリスが放った弾丸は、超スローモーションで長い軌跡を描き、敵方狙撃手を射抜いた。 しかしイーストウッド監督がこの映画を通じて放ったメッセージは、完結することのない問いのまま空を彷徨っているのだ。
 
むしろこの問いに私達が正面から向き合うことこそ、イーストウッド監督のメッセージだったのかもしれない。 「暴力による報復と制圧は暴力の連鎖を生む。しかし一国の法治が成り立たない状況では、どうしたらいいのか?」
 
映画グラントリノを見て、やはり私同様に「荒野の用心棒」以来のクリント・イーストウッド・ファンだった友人(女性)が、メールにこう書いていた。 
 
「若い頃は、ガンマン役やデカ役(ダーティハリー)で、悪い奴らをガンガン撃ち殺して格好いいとこ見せつけておきながら、晩年になって『君達、暴力は際限のない暴力の連鎖を生むだけだよ。どうすれば良いのか?わしが見せてやろう』と言わんばかりに、自分が死んで見せるなんて、格好が良過ぎてずるいわ!」(記憶による再現です。) 
 
その通りだ。暴力が支配する世界の現実は、格好の良い解決法も、腑に落ちるような完結性も拒否しているのだ。
 
どうしたらいい? 「イラクがテロリスト集団が跋扈、支配するような今の様な状態になったのも、そもそも米国のイラク戦争の結果であり、更に遡れば・・・」と米国批判を展開する筋もあり、私も別に米国の過去の中東政策を正当化する気は毛頭ない。 しかしそういうことを述べ立てて済ませるだけなら、ISが暴力と恐怖で支配地域を広げ、異教徒が奴隷化される現状に対しては全く無力、不毛でしかない。
 
もしかしたらイーストウッド監督は「その解答は、俺が棺桶に入るまでには間に合わないかもしれない。その場合は、その後の世界を託されたお前たち世代に任せるよ」と逃げ切る気でいるのかもしれない。
 
クリントじいさん、あんたやはり格好良過ぎて、ずるいよ・・・・
 
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 追記:IS問題について、中東・イスラム問題を専門とする池内恵氏(東大准教授)が良い指摘をしているので、引用しておきます。
「(日本では)問題は『一神教同士の争い』であるといった通俗・劇画的解釈を開陳する方々が澎湃と現れ、いくら否定しても不思議がるだけで理解してもらえない。大前提として、西欧の世俗主義と、神の啓示を上位とするイスラーム教の宗教的絶対主義がぶつかっている、という基本認識を日本の知識人が持っていない。」  雑誌「公研」2015年2月号より
 
最後の点は、日本の知識人一般というよりは、「左派系知識人」にその傾向が顕著であることを言い添えておきます。
 
追記:このフランスの政治学者の論考は、問題の難しさ、微妙さを語っていると思う。
引用:「ジハードとイスラムが無関係であるということ、暴力的な過激化が信仰でもたらされる真理や宗教的実践と無関係だとすることは、間違っているばかりか、政治的に非生産的である。  
 
テロ実行犯とムスリムを同一視することの間違いと危険は、まさにこの事実を否認することから生まれる。 宗教的な事象は、時代を問わずいつも過激派を生み、その暴力が同じ宗派の者、違う宗教を信じる者、不信心者に対して向けられてきたのだ。    
 
それゆえ、そのような事実を指摘することでテロリストとムスリムが同一視され、ムスリムや礼拝所への攻撃につながる危険があるかもしれないということにこそ、一層の注意が払われるべきなのだ。」 
http://synodos.jp/international/13010
 
追記(2月28日):町山智浩氏のこの映画に関する評を引用しておきます。正しいと思います。
引用:「だからね、この、要するに『これは戦争を賛美している映画だからよくない!』って言っている人も、『賛美してなにが悪いんだ!?』って言っている右側の人も、両方とも間違っているんですよ。まったく賛美していないんですよ。この映画。戦争を。」
 
「イーストウッドっていう人はね、右とか左とかね、いっつもね、両方からね、『自分たちの敵だ!』って言われてるんですけど。どっちでもない人でね、なかなか面白い人ですよ。」
 
「まあ彼のいちばん有名な映画で、『許されざる者』の中でイーストウッドが言う、いちばんいいセリフっていうのがいちばん重要なことで。彼はこう言うんですね。『人を殺すっていうのは地獄なんだよ』って言うんですよ。」 (同種のセリフは「グラントリノ」でもありましたね。竹中)
***

気づいていましたか?インフレタックスは既に始まっている。
2月16日にNHKがニュース番組の特集で放映した「戦後の預金封鎖から69周年」の番組が話題をよんでいる。facebookでは一足先にコメントしたことだが、ブログでも書いておこうか。
 
まずNHKの番組は以下のサイト↓
 
サイト引用:「(1946年2月16日の)預金封鎖後、物価上昇の動きは弱まりました。
しかし、それはあくまで一時的で、その後、インフレは収まるどころか、逆に加速していきました。
その結果、預金は封鎖された2年余りの間に価値が大きく毀損しました。
林さんは「何十年もかけて貯めてきたお金なのに、数か月分の生活費しか残らなかった。 戦時中、そして戦後も国民はさんざんな目に遭った」と憤りを隠しません。
 
「国債を買って戦線へ弾丸を送りましょう」
政府は戦時中、国民に国債の購入を促し、国債を大量に発行しました。
その結果、政府の債務残高=借金は急増し、終戦前の昭和19年度末には対国民総生産比204%にまで膨らみ、財政は危機的状況に瀕しました。

このため政府は、借金返済の原資を確保しようと国民が持つ預貯金のほか、田畑、山林、宅地、家屋、株式など幅広い資産に25%から最高90%の財産税(対象10万円超)を課税することを決めたのです。

ただ、財産税を課税するには対象となる国民の資産を詳細に把握する必要がありました。
つまり、預金封鎖には、財産税徴収の前提となる資産把握のねらいもあったのです。」
***
 
当時のインフレは年間500%と言われている。結局、預金封鎖で現金を引き出すことができない間に起こったハイパーインフレと財産税の実施で政府債務は事実上ほぼ解消した。その後1950年代、60年代の高度成長期は日本は均衡財政主義を維持し、赤字国債の原則的に基本的に行なわれなかった。赤字国債が復活するのは1970年代からだ。
 
さて上記の歴史の今日的な教訓はなんだろうか?
 
その1、「日本国債は国内貯蓄でファイナンスされているから大丈夫」とは言えない
今の日本の財政赤字、政府債務は膨大でも(グロス債務はGDPの約200%で戦後直後とほぼ同じ)、日本は対外純資産国(2013年末で320兆円)だから、将来の国債も国内貯蓄でファイナンスされていると言える。つまり日本の政府債務は国内の貸借(資産・負債)関係でしかない。対外純負債を負うギリシャやアルゼンチン、さらには米国の政府債務とは違って、だから大丈夫なんだという議論をする方々がいる。
 
対外純負債国の場合と今の日本の政府債務がその点で違うのは確かである。しかし大丈夫とは言えない。 戦争直後もGDP200%の政府債務は国内貯蓄でファイナスされていたわけだ。
その債務を返済しようとすると、必然的に国債を資産として保有していた全ての人からなんらかの徴税(「収奪」と言ってもいいかな)をするしかない。
 
戦争直後は、その徴税を資産課税と年間500%になったインフレタックス(債券価値の実質目減り)で一気にやったわけだ。 それ自体、社会的な危機を引き起こすようなショックであることに変わりはなかった。
 
もうちょっとゆっくり時間をかけて徴税するれば、パニックは起こらないのでは?
そうとは思わない。
 
国債を保有している人(機関)が、インフレにしろ、資産課税にしろ、その資産価値を「収奪」されるとわかれば、みな国債を手放そうとする。つまりパニック売りで暴落する。暴落で政府債務の実質価値が大きく減じる。政府は新規国債の発行も借り換えもサラ金のような高金利を払わないとできなくなり、財政破綻は誰の目にも明らかになる。つまりなにかしらの社会的な危機を引き起こすことに変わりはない。
 
「それは国債残高を減らそうとしたからで、無理に減らす必要はないのでは?」
私も現状は無理に減らす必要はないのかもしれないと思う。しかし今の問題は、年間30兆円以上も新規の赤字国債が発行され、債務残高が対GDP比でも増え続けていることだ。 これは将来世代へのポンジスキームであり、このまま増え続ければいずれ臨界点(singularity)を超える。
 
ポンジスキーム(日本語ではねずみ講)は、それが拡大している間は何の問題も生じることなく「上手くいっている」と感じることが特徴だ。そして持続不可能だとみなが気付いた時に自己実現的に破綻する。
 
したがって、まず最低限のこととして債務残高がこれ以上増加しないプライマリーバランスの均衡を実現しなくてはならない。つまり2014年で年間約30兆円の赤字を埋める必要がある。
 
やはり長期的な財政健全化は必至の課題であり、そのためには社会保障関係給付の削減と増税は避けられない。その痛みを和らげるのは経済成長戦略の出来栄え(効果)次第だ。
 
その2、インフレタックスは既に始まっている
その一方で、インフレタックスは既に始まっているということだ。例えば直近2014年12月の消費者物価指数は前年同月比で2.4%、その半分強は消費税の引き上げによる効果だ。一方、10年物国債利回りは0.4%程度、短期国債の利回りはほぼゼロ%。
 
消費税は消費にかかる税金だが、民間が保有する国債も将来の消費に充当するための貯蓄として国民が間接、直接の形態で保有している金融資産だ。
 
仮に既存の発行済み国債の平均利回りが0.2%とすると、0.2%-2.4%=-2.2%分、国債残高の購買力は消費者物価指数の上昇分だけ消えたわけです(実質価値の減少)。 その消えた実質価値の分、政府債務の実質価値は減少したわけになる。金融取引はゼロサムだから、実質債務価値の減少=債務者の実質利得になる。
 
こうして民間から政府に移転した実質価値は、国債発行残高が900兆円ならば、
900兆円×2.2%=約20兆円! 
わぁお~1年間で20兆円のインフレタックスだったんだ~(゜o゜)  
これこそ黒田緩兵衛殿の深慮遠謀だったのかもしれない?
 
利息のほとんどつかない銀行預金やタンス預金を持っている方々も同じだ。
今後消費者物価指数の上昇が目標の2%に到達しなくても、国債利回りはほとんどゼロに近いから、消費者物価指数がプラスである限り、現金、預金、国債の実質価値はその分目減りし続けるということだ。
 
大変だ~どうしたらいいの? 株買ったらいいの?マンション買ったらいいの?
いっそ、貯金なんかやめて使っちゃえばいいの?と、国民がそう動けばますます緩兵衛殿の思惑通り~(^。^)
 
高橋洋一氏がNHKの番組の「裏スポンサー」は財務省だったと言っている。
そうかもしれないね・・・
http://diamond.jp/articles/-/66872
 
追記(2月23日):英国の政府債務の歴史に関する池田信夫氏のコメント
 
追記(2月25日):本日に日経新聞「経済教室」でカーメン・ラインハート教授(ハーバード大)が、先進国における現下の実質マイナス金利を「金融抑圧による政府債務の実質削減策である」と位置付けて以下のように述べている。 私の上記ブログと基本的に同じ認識なのでメモしておこう。
 
引用:「過去150年間で「世界」の実質金利が持続的にマイナス、すなわち名目金利がインフレ率を下回った状態であったのは、2008年のグローバル金融危機後の現在のサイクルを含め、4回だけである(図参照、英米の政策金利を接続して作成)。こうしたマイナス金利は、国債保有者に「税」を課し、預金者から債務者への移転を促す。
 過去3回の持続的なマイナス実質金利の局面のうち2回までが、2度の世界大戦および戦時公債の大量発行によってもたらされている。第1次大戦当時のマイナス金利は、高インフレが重要な要因となった。第2次大戦終了後にも深刻なインフレ危機があり、とくに目立ったのは日本、イタリア、フランスであった。
 

毎度のトムソン・ロイター社のコラムです。本日夕刻掲載されました。
 
あらためてShiller PER(CAPE Ratio)について取り上げました。
下図ご参照ください。
 
冒頭部分引用:「リーマンショックで戦後最大の景気後退となった2009年以降、筆者は米国の実体経済の回復と株価動向について長期楽観のスタンスをとってきた。しかし、実体経済面で大きな問題がなくとも、大小の様々な波乱が起こり得るのが株式相場というものだ。
 
高値を更新し続けてきた米国株価については、1―2年前から「割高だ。バブルだ」「いや問題ない」などブル対ベアーの議論が展開されてきた。米国株式は変動性が大きいものの「バイ&ホールド」の長期保有が報われるので筆者自身は原則保有継続のスタンスだが、リーマンショック後のような割安感はすでになくなっている。
 
したがって、ポートフォリオに占める比率はある程度落とし、目立った反落(直近の高値から10%前後がめど)があれば買うスタンスが合理的だろうと思う。その理由を説明しよう・・・」
 
ただ、シラーPERのそうした限界性に配慮して使用するなら、長期的な投資判断の参考になると筆者は考えている。
 
図は戦後を1946年から1989年までと1990年から2015年1月までの時期に分けて、シラーPERと10年間のS&P500の実質投資リターン(消費者物価指数で調整、配当利回りを除いたキャピタル損益のみの実質年平均リターン)の相関を示した散布図だ(月次データ)。横軸がシラーPERの水準、縦軸がその時点でS&P500連動ファンドに投資した場合10年後に得られる実質年率リターンを示している。
 
16x9
赤で示した1990年以降の分布が青の1989年以前の分布より右にシフトしているのは、既述のシラーPERの上方シフトを示している。このように時代区分して使用した場合のシラーPERと実質投資リターンの相関度は非常に高い。シラーPERが高い時に投資すれば、10年後の投資リターンは低くなるという明瞭なマイナスの相関関係が見られる。
 
1946―89年については、決定係数(R2)が0.64であり、これは投資時点のシラーPERの水準次第で10年後の実質リターンの水準が64%決まってしまうことを意味する。1990年以降ではR2は0.87とさらに高く、投資時点のシラーPERの水準で実質リターンは87%決まってしまう・・・」
***
 
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takenakamasaharu/  Yahooニュース個人
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ふ~む、これは興味深い。
米国プリンスト高等研究所のマイケル・ウォルツァー教授の論考
 
「イスラム主義と左派」(Islamism and the left)

同教授は「左派(the left)」の立場であり、過激なムスリム集団、テロリストの台頭に左派が正面から向き合えていない状況を批判(自派批判)している。 
 
同教授の言うthe leftの範疇が語られていないが、おそらく米国流のリベラルから西欧的な社会民主主義までをカバーするのだろう(コミュニストまで含むかどうかは私はわからない)
 
全く同様の傾向は日本の左派にも顕著に見られる。 要するに日本人人質事件の救済を訴えるデモになるはずなのに、批判の矛先がISではなく、専ら安倍内閣に向かってしまう。
 
それに対して「今の問題の核心は安倍批判ではなく、テロとの戦いのはずだ。ISへの批判、糾弾で一致すべきではないのか?」と言うと、「言論封じだ、大政翼賛会だ」とあらぬ方向に行ってしまう(^_^;)
 
同教授の議論は冗長で、もっと整理してコンパクトにまとめてくださいよと感じるが、以下わかり易い部分を中心に引用しておこう。 赤字の(  )は私の注釈。
 
引用:
ここで注目すべきなのは、オンラインでもオフラインでも集合的な左派はもはや存在していないにせよ、左派のまとまりというのは明らかに存在していること、そして彼らの中に現代宗教の統治、イスラム原理主義の政治に懸念を示す者がいなかったことだ。(失望と自派批判)
 
「外へのジハード」は今日、とてつもなく強大になっていることは確かであり、多くのムスリム世界の無信心者や異教徒、世俗的な自由主義者、社民主義者、自由を求める女性にとっての脅威となっている。そして、その恐怖は極めて合理的なものだ。
 

そのような状況にあっても、イスラム過激派を公然と非難するというより、イスラムフォビア(イスラム恐怖症・忌避症)とみなされることをいかに回避すべきかに腐心する左派に出くわすことは多い。これは今日のムスリム世界と左派の関係に鑑みれば、不思議な立ち位置である。

 

私が言わんとするのは左派の学術誌やウェブサイトに、イスラム過激派の問題について正面から向き合おうとする試みが一切みられないということだ。(再び失望と自派批判)
 
(なぜイスラム過激派をストレートに批判することを左派は躊躇うのか?に対する説明、以下)
 
彼によればイスラム過激主義に対する分析と批評を妨げているのは、今日のイスラム主義者が「西洋」すなわち西洋人、厳密にいえばアメリカ人による「帝国主義」の敵対者であるから、という事実に求められる。
 
左派にいる反帝国主義者たちは、イスラム主義者同様、個別的な判断を下そうとしない。かくして、「敵の敵は味方」という状況が生まれる。
 
イスラム過激派の犯罪を糾弾することに躊躇する理由はまだ他にある。それは、西洋の犯罪を糾弾したいがために、批判を手控えようとしていることだ。すなわち、多くの左派が主張するように、過激派の源は宗教などにはなく、西洋の帝国主義とそれによる貧困と抑圧から生まれている、という考え方だ。
左派の中には、イスラム過激派が西洋の帝国主義の産物というより、帝国主義への対抗形式のひとつだと考える者もいる。この立場は、イスラム過激派がどのような人々を魅了しているにせよ、過激派は根本的に虐げられている人々のイデオロギー、すなわち左派政治の変わり種のひとつだとみなすものである。
 
(しかしイスラム過激主義へのストレートな批判から逃げてはいけないのだよ、なぜなら・・・という自派批判、以下)

イスラム過激派に対する左派の一連の反応――同一化、支持、同情、謝罪、寛容、そして忌避――は、左派の本来のイデオロギーを考えれば、とても奇妙なことである。「西洋」に対するジハーディストの抵抗は、いかなる反応よりも先に、まず左派に深刻な不安をもたらさなければならないはずだ。
 
ボコ・ハラムは「西洋式」の学校の襲撃から始めたし、他のイスラム組織も特に女学校への同様の襲撃を行っている。過激派は、「西洋」のものとして弾劾する価値である個人の自由、民主主義、男女の平等、そして宗教的多様性などを攻撃の対象としているのである。
左派の価値とは、重視されてきた「西洋」の価値(自由、民主主義)である。従って、これらの価値への抵抗は本来左派が対決しなければならないものなのだ。そして、今現在では、その最大の抵抗者はイスラム原理主義なのである。
 
(では左派はどうすべきかについて、以下)
 
  少なくとも左派は、特に異教徒やの異端者の大量虐殺を止めるための軍事行為を支持すべきだろう(支持しない者も多いだろうが)。
 
この戦いにおいては、私たちはまずイスラム過激派とイスラム教とを明確に区別することから始めなければならない。そうする資格を私たちが備えているかどうかは疑わしい。(あらら、弱気によろめく・・・(^_^;)
 
左派は今の「ポスト世俗時代」において、いかに世俗的国家を擁護できるのか、そして、ヒエラルキーと神権政治を是とする宗教から平等と民主主義をいかに擁護できるのか、その方途を考えなければならなくなっている。気を取りなおした。)
 
過激派が私たちの敵であると明言し、それに抵抗できるだけの理知的な運動を展開すること、つまり、自由と民主主義、平等、多様性を守っていくことが必要だ。(がんばれ、がんばれ)
 
(総括に入るよ、以下)
 
世俗主義的な左派は、ある種の宗教的な極端に対して適切な敵意を見せることもあるが、イスラム過激派への反応は鈍いままだ。なぜここまで反応が鈍いのかを、最後にもう一度考えてみよう。イスラムフォビア(イスラム恐怖症・忌避症)とされることに対する尋常でない恐怖心があるのというのが第一の理由だった。
左派の戦闘員が国際旅団を形成して戦場に赴くことなど期待できない。私の知人や隣人は入隊しようとしないだろうし、彼らの多くはイスラム過激派のもたらす危険も認識してないようだ。しかし、危険は現実のもので、世俗主義な左派は擁護者をも求めている。
 
そこで、私の出番である。戦闘員ではなく、一人の著述家として、イデオロギー戦争に参戦することで役に立つことができる。多くの国で賛同者を得ることになるだろうが、それでも決して十分ではない。左派の知識人による国際旅団が待たれている所以である。」
***
 
とうわけで、日本の左派の方々も、自由と民主主義、平和の敵であるイスラム過激主義を躊躇わずにストレートに糾弾・批判致しましょうね(^^)v  大好きな「安倍批判」はそれはそれ、別案件でやって頂いてかまいませんので、幸い日本は自由な国ですから。
 
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takenakamasaharu/  Yahooニュース個人
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ピケッティ教授の来日や、民主党が新たにまとめる経済対策(オカダノミクス?)として「安倍内閣は格差を拡大している」という批判を打ち出すとかで、所得格差問題が改めて注目されている。
私の専門分野ではないが、わかる範囲で基礎的なデータ、調査レポート類を紹介しながら、コメントしておこうか。
 
所得集中度の各国比較長期時系列データ
 
まず本日2月11日の日本経済新聞「経済教室」に掲載された森口千晶教授(一橋大学教授)の論考「格差を考える(上)」とデータについて。
 
引用:「成長と格差」の問題は経済学の重要なテーマだ。成長は貧富の差を生み出すのか。持続的な成長はやがて格差を縮小させるのか。富の蓄積は革新の推進力か。それとも富の偏在は逆に成長を阻むのか。研究上の困難は理論を検証するための長期的データがないことだった。
 
例えば、所得の不平等を示すジニ係数の算出に必要な大規模家計調査が始まったのは、先進国でも1960年代にすぎない。 そこに新風を吹き込んだのがトマ・ピケティ氏(パリ経済学校教授)である。
彼は理論家でありながら、税務統計と国民所得計算から所得占有率という格差の指標を推計する方法を編み出し、自らフランスの歴史統計を駆使して新たな事実を明らかにした。 
 
この方法は瞬く間に世界の研究者に広がり、現在では新興国を含む30カ国について同様の指標が推計されデータベースとして公開されている。同氏の革新的な手法によって富裕層に初めて分析の光が当たり「成長と格差」の研究は各国の長期統計を基礎とする実証研究へと大きく展開した。 
 
本稿では、筆者がカリフォルニア大学バークレー校のエマニュエル・サエズ教授とともに行ってきた日本の分析結果を最新の推計を含めて紹介し、わが国における格差の長期的な変遷を明らかにする。」
 
同教授らの分析結果のデータ(長期時系列の上位層の所得シェアデータなど)は他国のデータと一緒に以下のサイトで見ることができる。
The World Top Incomes Database
 
下図掲載図は、このデータベースで私が作成したグラフで、上段がトップ1%の所得シェアの日米仏の推移、下段は同じくトップ10%の推移である。
 
まず上段のトップ1%の推移を見ると、米国では80年代以降にトップ1%のシェアが急上昇しているが、日本とフランスでは、上昇はわずかであり、2000年代半ば以降はむしろ頭打ち(日本最新推計2010年)、あるいは下落している(仏最新推計2009年)。
 
こうしたデータを踏まえて、森口教授は次のように書いているわけだ。
 
引用:「日本の超富裕層のシェア90年代半ばから上昇に転じ2008年に戦後最高値を記録したが、それでも2.6%であり、リーマン・ショック後は低下傾向にある。 
 
これに対して米国では80年代からシェアが急伸し2012年には実に8.8%に達している。同年の日本での超富裕層の平均所得は約5500万円だが、米国ではその7倍の3億8000万円だ。キャピタルゲインを含めた系列もみておくと、日本では物価高騰期やバブル期には一時的に超富裕層のシェアが5%を超えていたが、12年時点のシェアは3.3%にとどまっている。
 
今後のデータで「アベノミクス」の影響を注視する必要はあるが、その他のデータも総合すると、日本の上位所得シェアは歴史的にも国際的にも依然として低い水準にあり、ピケティ氏が警告する「富裕層のさらなる富裕化」が起こっているようにはみえない
 
こうしたデータはもちろんピケッティ教授もよく承知していて、来日時の吉川洋教授(東大)との対談で次のように語っている。
引用:「私はどちらかと言えば、低所得層の方に注意を払っています。高所得層には正直、あまり関心がありません。重要なのは、富のうちどのくらいのシェアが、低所得層のものになるのかです。『21世紀の資本』でも、実は高所得層についてはとりたてて詳しく論じてはいません。」
ただし森口教授はふれていないが、トップ10%の所得シェアの推移をみると、事情はちょっと違って見える。それが下段の図だ。
やはり米国でトップ10%のシェアーが80年代以降に急上昇している一方、フランスでは横ばいに近い。日本は双方の中間で90年代から2000年代前半にかけてトップ10%のシェアが上昇し、2000年代半ばから横ばいになっている。
さて、以上から日本の所得格差拡大傾向は集中化の著しい米国と長期横這いのフランスの中間程度で進んでいると言っていいかと言うと、結論を出すのはまだ早い。
日本について2つの異なるデータ
というのは所得データを見る時は、当初所得か再配分後所得後データか、また世帯所得か等価所得かの違いに注意しなくてはならないからだ。どのデータであるかによって見える姿はとても違ってくる。
実際の生活は税金支払いや各種の給付を受けた後の再配分後所得に依存していることはいうまでもないだろう。 また同じ所得でも世帯の人数によって生活度合いは違ってくる。世帯の人数の違いを調整した所得を等価所得という。
従って、最終的な所得格差は再配分後の等価所得で測るのが妥当だ。
それについては2008年の弊書「ラーメン屋vs.マクドナルド」(新潮新書)を含めて何度か説明したことだが、3年毎に実施されている政府(厚生労働省)の「所得再配分調査」が報告している。
最新の同報告書は平成23年(2011年)のもので、それによると等価当初所得と等価再配分所得のジニ係数の推移は次の通りだ。
 
     等価当初所得  等価再配分所得
1999   0.4075      0.3326
2002    0.4194              0.3217
2005    0.4354               0.3225
2008    0.4539               0.3192
2011    0.4703               0.3162
ご覧の通り、等価当初所得でみるとジニ係数は上昇し格差拡大を示しているが、等価再配分所得で見るとジニ係数は若干ながら低下し、格差の縮小を示している。 大雑把に言うと、これは高齢化によって老齢年金や医療給付などを受ける人口比率が増えたことが主たる要因であると検証、分析されている。 
つまり人口に占める高齢者比率が増えると、多くは所得がないので、同世代間の格差は不変でも当初所得の格差は拡大する。 ただし高齢者は公的年金や医療給付の受け取り手なので、所得再配分後では格差は縮小する。
一方、よく格差拡大を示すデータとして引用される「相対的貧困率」についても「国民生活基礎調査」の一部として厚生労働省が発表している。これも等価可処分所得ベースで作成されているが、相対的貧困率は緩やかに上昇基調を辿っている。 以下示す相対的貧困率とは、等価可処分所得ベースで、その中央値以下の半分に満たない所得層の全世帯に占める比率を言う。
以下Ⅱ-7 貧困率の状況参照
    相対的貧困率
1991   13.5%
2012   16.1%
含意の異なる上記の2つの統計のうちどちらがより実態に近いのだろうか? まず相対的貧困率とジニ係数とでは、格差の測定方法自体が違うのだから、異なった含意が抽出されることはあり得る。また、同じくジニ係数で計測しても、所得再配分調査データと国民生活基礎調査データとでは、同じデータではないので差が出ることが指摘されている。
この分野の代表的な研究者である大竹文雄教授(大阪大学)の易しい解説が見つかったので、ちょっと古い2004年のものだが、以下に引用・紹介しておこう。
「所得格差の実態と課題」大竹文雄、2004年
引用:「日本の格差の拡大は所得上位層ではなく、下位層で発生(だから相対的貧困率に反映されている、竹中注)  アメリカでは所得上位層を中心に発生(特にトップ1%への集中、竹中注)    しかしジニ係数では両者の違いは識別できない」(9ページ)
冒頭の森口教授も「 その他のデータも総合すると、日本の上位所得シェアは歴史的にも国際的にも依然として低い水準にあり、ピケティ氏が警告する「富裕層のさらなる富裕化」が起こっているようにはみえないと結論しているわけだ。
従って、日本の問題は一つまみの超富裕層への所得の集中という米国型の問題ではなく、むしろ所得下位10~15%(?)程度の貧困の問題であるならば、民主党政権時のように「子供手当」とか広く薄くばらまくのではなく、本当に補助、救済すべき層を絞り込んだ対策が必要だと思う。
さらに限られた財政的な制約を考えると、同じ貧困層でも、①高齢者層、②現役層、③子供層の3つがあるわけだが、経済合理性に徹して言わせて頂くと、②現役層に対する職業再訓練や就労支援、③子供層に対する教育支援が優先になる。 ①の方々については憲法が生存権として規定する「健康で文化的な最低限度の生活」で我慢して頂くしかなかろうと思う。
追記修正2月13日:当初書いた2つのデータから異なる含意が抽出される原因に関する部分について、私の理解が不正確で混乱していたので、追記修正しました
追記(2月14日):「21世紀の資本論」の翻訳者、山形浩生さんにこのブログを誉められました。
(^_^;))
引用:「ちなみに、竹中正治は、自分でちゃんとデータを見て上と同じことを言っている。この人は消費税あげろ論者なのでぼくはちょっと白い目で見てはいるけれど、でもきちんとデータを見てその含意も読み取って、たいへん立派だ。他のデータもあわせて検討して、きわめて総合的に納得のいく話を述べている。ピケティをめぐって、こうしたきちんとした議論が出てくれば、日本の格差議論も本当に有意義なものとなるはず。」

サンフランシスコ連銀のブリーフィング・ペーパーが痛烈で面白い。
一般向けに書かれているので、エコノミストでなくてもわかる内容だと思う。
 
Persistent Overoptimism about Economic Growth
 
米国の金融政策を決定するFOMC、そのメンバーのGDP予想だが、2008年から09年にかけての戦後未曽有の不況への転換を予想できなかったばかりか、その後も予想値が現実値を上回る上方バイアスが続いた。なぜ?
 
複数の要因が指摘されているが、最後に指摘されている点がなかなか痛烈で面白い。
 
***
quote:"A final explanation for the pattern of SEP growth forecasts may be linked to a natural
human tendency to assume that recent trends will continue. Research shows that people tend
to use simple forecast rules that extrapolate from recent data (Williams 2013).
For example, one could forecast four-quarter growth over the coming year using only the most
recent observation of quarterly growth in the preceding year. The backward-looking nature of
this forecasting rule would help explain the failure to predict recessions."
***
 
合理的期待形成(rational expectation)仮説は、人間は利用可能な情報を全部利用してforward-lookingな予想(期待形成)を行なうことを前提にしているが、実際の人間行動はそうじゃないよ・・・ということは行動経済学の研究成果などで積み上げられてきたことだ。
 
予想のバイアスはいろいろあるが、実際には直近の経験(事実)に強く依存して将来を予想する、つまりbackward-lookingな傾向が指摘されている。
 
私も銀行での長いディーラー経験から、人間は直近のトレンドをそのまま近未来に単純に延長して予想するもんだ・・・と思ってきた。
 
上記の引用部分は、FOMCのGDP予想が直近の過去のGDP実績値と高い関係を持っていること(掲載の散布図)、つまりbackward-lookingな予想がなされていることを指摘している。
最後に言っていることがまた痛烈でいい(^。^)
 
***
quote:"Overall, the evidence raises doubts about the theory of “rational  expectations.”
This theory, which is the dominant paradigm in macroeconomics, assumes that peoples’forecasts
exhibit no systematic bias towards optimism or pessimism.
Allowing for departures from rational expectations in economic models would be a way to more
accurately capture features of real-world behavior (see Gelain et al. 2013).
***
 
このテーマについてもっと議論を深めたい方は、とりあえず以下の書をお薦め致します。
「合理的市場という神話」(The Myth of Rational Market)ジャスティン・フォックス、2010年
Max-Tでレビューを書いています。
 
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takenakamasaharu/  Yahooニュース個人
↑New!YouTube(ダイビング動画)(^^)v
 

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