今年9月に邦訳が発刊されたばかりの「MMT」(著:L. Randall Wray)読了
この著作に書かれていること対象にする限り、MMTは思っていたほど「トンデモ」ではない。むしろオールドケインジアン(ネオケイジアンではなく)の流れを汲む既知の枠組みに過ぎない。
自国通貨建て債務なら政府は全くの制約なしにいくらでも発行して良いとMMTが主張しているように世間では受け止められている節があるが、著者レイの主張は「政府支出を制約する正当な理由」として5点を指摘している(p356、表現は私が簡潔化している)。
① 過度なインフレを引き起こさない範囲であること
② 過度な自国通貨下落を引き起こさない範囲であること
③ 民間との間で経済資源の競合が起こさない範囲であること
④ 民間経済主体のインセンチブを歪めない範囲であること
⑤ 政府のプロジェクトを管理、評価する手段を確保すること
これらが順守されるなら、金融政策で政策金利をゼロまで引き下げても完全雇用が達成されない(失業率が自然失業率より高い)ような現代の不況の場合には、財政政策で有効需要を創出すべきと主張するケインジアン(old and new)の政策主張とほとんど変わらない。
ただそのようにMMTが受け止められずに、あたかも異端的に過激な(革命的な?)主張をしているかのように受け止められているのは、彼らがまるで反体制運動に身を投じている過激派のように、あえて異端的な言い方を振り回しているからかもしれない(この点は巻末の解説で松尾匡教授も指摘している)。
たしかに今の米国の経済学界の主流(新古典派、並びに合理的期待形成論を信奉しているネオケイジアン)からは乖離しており、極少数派としてやっているうちに彼らの気分がやや「カルト化」してしまったのかもしれない。
例えば、第1章「マクロ会計の基礎」では、政府、家計、民間企業、海外の4部門の資金収支がトータルでゼロになる原理が説かれている。これは先進国ならどこでも中央銀行が作成している資金循環表の原理に過ぎず、政府赤字(資金不足)には国内民間部門か海外部門の黒字(資金余剰)が見合っている(バランスしている)というマクロ経済学の基礎知識に過ぎない。
ところがレイ氏によると、これは「MMT派や、ワイン・ゴッドリーの部門収支アプローチを使ったレヴィ経済研究所の研究者を除いて、ほとんど理解されていない」(p97)であり、まるで主流派によって封印された「真実に至るための秘儀」であるかのように語られていることには、失笑を禁じ得ない。
さらに言うと、政府支出が制約されるべき上記の5条件についても、例えば「過度なインフレ」に関する感覚がMMTとその他のエコノミストの間では大きく乖離している可能性がある。というのはレイ氏が次のように語っているからだ。「年率40%未満のインフレ率から経済への重大な悪影響を見出すことは困難である」(p445)。
これを文字通り受け止めると、仮にMMT派に経済政策を任せた場合、年率20%~30%というインフレになっても「大丈夫、問題ない」と言われてしまうことになる。むしろMMT派の論理自体よりも、この感覚の乖離の方が重大かもしれない。
MMT派の政策的主張として重要な論争点は、第8章の「就業保証プログラム」の現実性だろう。要するに不況下では働く意欲のある失業労働者には政府が最低賃金で雇用を提供するプログラムを運営し、何かしらの政府サービスなどを担わせるというアイデアだ。
あくまでも最低賃金だから、景気が回復してくれば最低賃金以上の賃金で民間部門がこの労働力プールから労働力を吸収していく。したがってその限りでは民間と競合せずに、不況下での雇用と有効需要を補完するプログラムになるはずだというものだ。まあ、本当に機能するかどうか、現実的に機能させるためにはどのような細目設計が必要か、議論検討する価値はあると思う。
最後に、政府債務はそれ以外の民間の貯蓄でバランスするとしても、それがGDP比率で200%、300%という巨大なものになった時に、将来世代への負の遺産にならないのか?あるいはフローでバランスしていても、与件が替わった時に巨額の債権債務関係が崩れるようなような潜在リスクはないのか?
これらの言う点については、この著書では明示的に語られていない。これは無視できない欠損だと思うが、この点については私ももう少し考えを煮詰めてから何か書きたい。
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