この本はとても示唆的で面白かった。コメントしておこう。
「社会はどう進化するのか?」(Completing the Darwinian
Revolution by David Wilson)
著者は米国の進化生物学者、ダーウィンの進化論の手法を社会科学分野にも発展的に適用することを唱えている。
そういうと歴史的な悪名が確定している19世紀後半に様々な形で流布した「社会進化論(Social Darwinism)」を想起する人がいるだろうが、その思想的な系譜とは全く異なる。
まず私達の社会は成員相互間の競争の原理と協調・協力の原理の双方が縦糸、横糸のように織り込まれて出来上がっている。競争原理だけでも、協力原理だけでもない。
共産主義的な思想は、市場を通じた競争原理を徹底的に排除しようとしたが、それでは軍事経済的な運営はできても、多様で高度な消費社会には適合できなかった。その対極として例えば米国のミルトン・フリードマンに代表されるような「市場(競争)原理的」な思想もある。
しかし、現実の私達はそんな極端に利己的に合理的なホモエコノミクスではなく、さりとて協力や公平さのみで動く完全な善人でもない。私達の現実では双方の衝動が拮抗し合っている。これはわりと常識的な認識だと思う。
この2つの拮抗する原理(競争と協力)が、ある時は競争の要素がより強く働き、また別の時は協力の要素がより強く働く、その基本的な仕組みをどう考えれば良いのか、私自身わからないでいた。
今年邦訳が発刊された「仏教経済学」(クレアブラウン著)を以前facebookで紹介した。私は推薦の言葉で次の様に書いた。「競争と自己利益の極大化を前提とする経済学から、共存共栄と自然万物との相互依存を基調にした経済学へのパラダイム転換の書だ。環境破壊と格差拡大の呪縛から私達を解き放つ鍵は、仏教的世界観の再評価にあった」(竹中正治 龍谷大学経済学部教授)
しかしながら、読まれた方は感じただろが、この書「仏教経済学」には社会成員が協調、協力し合うための仏教に触発された理念はかかれているが、それがどういう状況下でどのように働くのか、それが利己的な合理性による競争原理をどのような条件下で上回ることができるのか、その点のサイエンスになると、行動経済学による知見が多少散りばめられているだけで全然サイエンスになっていない。これが最大の弱点だった。
その欠落を埋める視点を本書は提示している。つまり私達の社会に利己心を抑制し、協力し合う行動特性や道徳・倫理がどのように進化してきたかを考えれば良いわけだ。そうした協力の倫理は自然的、また社会的な環境による淘汰圧の中で優位性を発揮したからこそ進化して来た。
ある人間の集団は複数の他集団との競争、競合関係の中で営まれてきたわけで、集団内部では利己的な競争原理が働いても、集団間の競争関係を生き延びるために利己性を抑制して自分の集団に貢献するという協力原理が進化して来た。例えば特定の神を信奉する宗教は、集団の成員を結束させ、利己的な衝動を抑制し、戒律を守り、集団へ貢献する情念を生み出す観念体系として発展したわけだ。
著者が提唱している進化論のロジックは、「マルチレベル選択説(multilevel
selection theory)」と呼ばれるもので、私が理解した限りで大雑把に言うと、社会を構成する家族のような小数団から国家のような大集団まで各層の集団において、集団内の競争環境では成員の個体としての利己的な衝動と個体単位の淘汰が働くと当時に、グループ間の競争環境からは自分の所属集団に貢献する協力的衝動と淘汰が働くと考える。この方がホモエコノミクスの人間観よりずっと現実の私達の感覚に適合する。
こうした認識に基づいて、さらに著者らは協力関係が優位に働く集団の形態、あり方を具体的に分析、提示する実践活動もしている。
ただし協力関係が、より上位のレベルでの他のグループとの競争環境から生じるとすると、地球規模の問題に対する国家や民族を越えた地球人としての協力関係や意識は、「宇宙人の襲来」でもなければ生じないのだろうか?
この点は、そうでもないようだ。地球は「大海原を行くひとつの船」であると考えれば、地球環境の持続的な保全の必要から生じると淘汰圧が人類に働いていると言えるからだ。
ただし環境に適応するように淘汰圧が働いていることは、全ての種が適応に成功することを保証しているわけではない。適応に失敗して滅びる種も沢山あるわけだ・・・・。