たけなかまさはるブログ

Yahooブログから2019年8月に引っ越しました。

カテゴリ: サイエンス

この本はとても示唆的で面白かった。コメントしておこう。

社会はどう進化するのか?」(Completing the Darwinian Revolution by David Wilson

著者は米国の進化生物学者、ダーウィンの進化論の手法を社会科学分野にも発展的に適用することを唱えている。

 

そういうと歴史的な悪名が確定している19世紀後半に様々な形で流布した「社会進化論(Social Darwinism)」を想起する人がいるだろうが、その思想的な系譜とは全く異なる。

 

まず私達の社会は成員相互間の競争の原理と協調・協力の原理の双方が縦糸、横糸のように織り込まれて出来上がっている。競争原理だけでも、協力原理だけでもない。

 

共産主義的な思想は、市場を通じた競争原理を徹底的に排除しようとしたが、それでは軍事経済的な運営はできても、多様で高度な消費社会には適合できなかった。その対極として例えば米国のミルトン・フリードマンに代表されるような「市場(競争)原理的」な思想もある。

 

しかし、現実の私達はそんな極端に利己的に合理的なホモエコノミクスではなく、さりとて協力や公平さのみで動く完全な善人でもない。私達の現実では双方の衝動が拮抗し合っている。これはわりと常識的な認識だと思う。

 

この2つの拮抗する原理(競争と協力)が、ある時は競争の要素がより強く働き、また別の時は協力の要素がより強く働く、その基本的な仕組みをどう考えれば良いのか、私自身わからないでいた。

 

今年邦訳が発刊された「仏教経済学」(クレアブラウン著)を以前facebookで紹介した。私は推薦の言葉で次の様に書いた。「競争と自己利益の極大化を前提とする経済学から、共存共栄と自然万物との相互依存を基調にした経済学へのパラダイム転換の書だ。環境破壊と格差拡大の呪縛から私達を解き放つ鍵は、仏教的世界観の再評価にあった」(竹中正治 龍谷大学経済学部教授)

 

しかしながら、読まれた方は感じただろが、この書「仏教経済学」には社会成員が協調、協力し合うための仏教に触発された理念はかかれているが、それがどういう状況下でどのように働くのか、それが利己的な合理性による競争原理をどのような条件下で上回ることができるのか、その点のサイエンスになると、行動経済学による知見が多少散りばめられているだけで全然サイエンスになっていない。これが最大の弱点だった。

 

その欠落を埋める視点を本書は提示している。つまり私達の社会に利己心を抑制し、協力し合う行動特性や道徳・倫理がどのように進化してきたかを考えれば良いわけだ。そうした協力の倫理は自然的、また社会的な環境による淘汰圧の中で優位性を発揮したからこそ進化して来た。

 

ある人間の集団は複数の他集団との競争、競合関係の中で営まれてきたわけで、集団内部では利己的な競争原理が働いても、集団間の競争関係を生き延びるために利己性を抑制して自分の集団に貢献するという協力原理が進化して来た。例えば特定の神を信奉する宗教は、集団の成員を結束させ、利己的な衝動を抑制し、戒律を守り、集団へ貢献する情念を生み出す観念体系として発展したわけだ。

 

著者が提唱している進化論のロジックは、「マルチレベル選択説(multilevel selection theory)」と呼ばれるもので、私が理解した限りで大雑把に言うと、社会を構成する家族のような小数団から国家のような大集団まで各層の集団において、集団内の競争環境では成員の個体としての利己的な衝動と個体単位の淘汰が働くと当時に、グループ間の競争環境からは自分の所属集団に貢献する協力的衝動と淘汰が働くと考える。この方がホモエコノミクスの人間観よりずっと現実の私達の感覚に適合する。

 

こうした認識に基づいて、さらに著者らは協力関係が優位に働く集団の形態、あり方を具体的に分析、提示する実践活動もしている。

 

ただし協力関係が、より上位のレベルでの他のグループとの競争環境から生じるとすると、地球規模の問題に対する国家や民族を越えた地球人としての協力関係や意識は、「宇宙人の襲来」でもなければ生じないのだろうか?

 

この点は、そうでもないようだ。地球は「大海原を行くひとつの船」であると考えれば、地球環境の持続的な保全の必要から生じると淘汰圧が人類に働いていると言えるからだ。

 

ただし環境に適応するように淘汰圧が働いていることは、全ての種が適応に成功することを保証しているわけではない。適応に失敗して滅びる種も沢山あるわけだ・・・・。

他人に対してネガティブな感情を興奮させると、自分自身に対してもネガティブな感情が生じる。情動を支配する旧い(原始的)脳の部分は主語を理解できないからだ。
以下の精神科医、星野概念氏によるブログ、これはなかなか合点の説明だ。
 
http://modernfart.jp/2014/05/12286/
上記ブログに関連したNAVERの記事↓ (星野氏の説明の方が遥かに納得感が高い)

引用:「何らかの現象や言葉によって感覚の入力があると、扁桃体によって、その感覚が「快の情動」か「不快の情動」か判断される。それに基づいて反射的、本能的に情動行動が起こる。

情動行動までは原始的な脳による処理。この時点で主語の識別は出来ておらず、現象や言葉自体が危険なものであれば、自分のことで...
なくても本能的に「不快の情動」と判断する。

人間で最も発達している大脳新皮質は、行動を本能的なものにまかせず、その場を読んで情動行動を抑制し、合理的な行動を起こす。その場を読む、ということは、主語をはっきりさせるということでもある。これは反射的で本能的な情動行動に比べて、場を読むために、少し時間がかかる。

(SNSで)たまたまネガティブなつぶやきを連続して閲覧した場合、それに伴う不安定な情動は積み上げられていく可能性があります。そうすると、原因不明の不安感、イライラ感が膨らんでいくことになり、それに任せて、今度は衝動的な発信をする側になることもあります。そうなると、負の無限ループのような状態が発生する可能性もあります。」
***

そういうことは直感的にはわかっていた。だから私はfacebookでもブログでもネガティブなことはほとんど書きません。背後に恨みや妬みの心理があるな・・・と感じさせる投稿などは「非表示」にして消す。

反対に他人のポジティブな出来事、快挙に対しては「素晴らしい!」と思うようにしている。

そうすると主語を理解できない旧い脳が勝手に興奮してくれて、自分自身にも「素晴らしい」というポジティブな情動が生じるようだ。それが「自分だって素晴らしいことができるよ」という気持ちを起こすためのベースになるのだと思う。(^^)v
 
関連して以前書いた私のブログ、以下ご参考まで
「元気が出る電脳ネットワークのつくりかた」

前々回に話題にした確率的な判断の続きをしよう。
 
病気の検査で「陽性」と出た場合に実際に病気である確率(X)は次の式で示されることを話した。
罹患(病気)比率:a
検査の精度:b
とすると、X=ab/(1-(a+b)+2ab)となる。
 
ここでのポイントは、非常に確率的に低い事象(ここでは病気)を発見するためには、その低い確率に見合って検査の精度が上昇しないと誤差が拡大する、つまり「陽性と出た人数のうち、実際に罹患している人の比率(X)」が急激に低下するということを意味している。
 
この含意は大切だ。一般化して言うと、ある事象の判断の可否(ここでは病気発症の有無)は、判断の精度自体(b)とその事象の発生頻度(a)の双方に依存していることになる。

例えば数十年から数百年に1回か起こらないような稀な現象、大地震、大津波、大洪水などのような自然現象から、原発の大事故や市場での大きなバブル崩壊と金融危機のような人間活動による現象まで、仮にこうした事象の予測がある程度可能だと仮定しても、これらのような頻度的に稀なケースは極めて高い判断精度がないと実際に役立つような確率での予測、予知は不可能だということを意味する。

これを別の例で考えてみよう。エコノミストの景気予想能力についてはかなり懐疑的な議論がある。とりわけ景気の転換局面では判断が分かれ、大雑把に言って景気強気派と弱気派に半々程度にわかれる。言い換えると半分程度のエコノミストは判断を誤るわけだ。それでも仮に80%の精度で1年先の景気を正しく判断できるエコノミストがいたとしよう。
 
景気後退の兆候が少し出始め、先行きに関する見方が強気派と弱気派で分かれた局面で、1年先の事態が20回に1回の様な大景気後退になるかどうかを問うたとしてこのエコノミストは、「イエス」と答えたとしよう。このエコノミストの判断はどの程度信頼できるだろうか。
 
予想する対象は20年に1回の大景気後退であるから、頻度確率は5%だ。エコノミストの判断精度は80%だから、上記と同じ計算で彼の大不況予測が当る確率は17.4%に過ぎない。つまり6回中約5回は外れるのだ。
 
英国のエリザベス女王はリーマンショックの金融危機が起こった後で、「なぜ経済学者らはこのような事態を予見できなかったのですか?」と問うたというが、経済学の精度では何十年に一度というような稀な景気後退や金融危機を予見することは原理的に不可能なのですと女王様にお答えするのが正しかったのではなかろうか。
 
実際の予測には、さらにもうひとつの困難がある。 上記の計算は問題となる事象の頻度がわかっていることが前提となっているが、大地震や大不況のような稀な現象は、それが稀である故にサンプル数が少ない。そのためにその発生頻度を十分な確からしさで計測することができない場合がほとんどである。
 
病気の例にもどって言うと、数十万ケースのサンプル数があってはじめて、「この病気は10,000人にひとりである」と確からしさをもって言えるわけだ。サンプル数が100しかない場合には、たまたまその中に1名の罹患者が発見されたからと言って、病気の発生確率を1%ということはできない。
 
ヒックス粒子を発見する実験でも、極めて稀な現象の観測が行なわれたわけだが、実験は極めて高い精度が要求されたと同時に、実験は非常に多数の回数を繰り返すことで、検証を確かなものにするという手続きが厳密に行なわれたはずだ。
 
ところが経済現象では実験を繰り返すことはできないし、過去の類似の現象(例えば不況や金融危機)の観測回数も限られている。自然科学でも大地震や大津波のようなマクロ現象は実験することができない。 その結果、判断の正否の確率を特定するために必要な事象の発生頻度自体を特定することが困難であるという問題にぶちあたるわけだ。
 
だから、景気の先行き判断についても、景気の転換点をあまり遅れずに判断する程度のことは期待しても良いだろうが、景気後退や回復の兆候が出た時にそれが最終的に稀な大不況になるか、あるいは大好況になるかについて十分に信頼できる予想など不可能と思った方が良いだろう。
 
それにもかかわらず、「かつてない大不況になる」とか「大好況になる」とか超大胆な予想を述べる方がいれば、まあ、はったりに過ぎないと受けとめるのが妥当だろう。もちろん、10回はったりをかませば、1回ぐらいはあたるかもしれないし、10人はったりをかます人がいれば、1人ぐらいは当たる人もいるかもしれない。それもまた確率的に自然な結果ということだ。 
 
はったりの一例 ↓ (^_^;)
 
追記:
認知心理学の実験が示すところでは、人間は非常に稀な事象を過大評価したり、過少評価したりして、確率に応じた合理的な反応はできない。人間が直感的に概ね合理的な反応ができるのは、中程度の確率的事象だそうだ。参考図書としては例えば「ファスト&スロー」ダニエル・カーネマン著
 
なぜそうなのか? 以上のことからだいたいわかった気がする。人間の直感的な判断力(カーネマンの言うファスト思考)は長い進化の過程で自然淘汰で形成されてきた能力だ。日常を生き延びずに、稀な事態を生き延びる生き物はいない。 
 
人類が進化の過程で日常に遭遇してきた多くの事象頻度(天候の変化、食物の獲得や捕食動物の危険に関することなど)は中程度である(確率的に数パーセントから確実な100%まで)。そうした中程度の確率事象に対しては、「十中八、九こうなるだろう」という判断精度で、絶対ではないが確率的に安定的な判断ができる。進化の過程で身についた能力はそういうものだったのだろう。
 
反対に確率的に厳密な論理的分析的な思考方法(カーネマンのいうスロー思考)は、遡ってもせいぜい3000年~4000年、短く考えると過去100年程度の現代的な教育の産物でしかない。そして人間は多くの場合、現代でも通常は本能的にビルトインされている直感的なファスト思考で判断し、現代的な学習でしか習得できない集中力を必要とする分析的論理的思考は限定的にしか利用していないということなのだろう。 
 
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takenakamasaharu/  Yahooニュース個人
 
 
 

 

「人はお金だけでは動かない(Economics2.0)」(ノルベルト・ヘーリング/オラフ・シュトルベック著、NTT出版)を読んで懐かしい問題に出会った。
 
この著書自体は、行動経済学の成果とそれが示唆する新しい経済学の方向性を一般向けに解説したもので、大竹文雄教授が解説を寄せている。紹介されている研究事例は、他の行動経済学の一般書でも既に繰り返し紹介されているものと重複しているのだが、知らなかった事例もある。
 
それが第3章「労働市場の謎」で紹介されているマックス・ウエバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で提示した命題への歴史家による実証的な批判研究だ。
 
史的唯物論
この問題の文脈を語るためには、私の場合、まずKマルクスが経済学批判の序で展開した史的唯物論の命題に遡る必要がある。
 
引用:「人間は、その生活の社会的生産において、一定の、必然的な、かれらの意思から独立した諸関係を、つまりかれらの物質的生産諸力の一定の発生段階に対応する生産諸関係を、とりむすぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構を形づくっており、これが現実の土台となって、そのうえに、法律的、政治的上部構造がそびえたち、また、一定の社会的意識諸形態は、この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的、政治的、精神的生活諸過程一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するのである。
 
最近の学生諸君は読まないのだろうが、私の時代ではこの「経済学批判」のこの有名な序言を読んで知っているぐらいのことは、知的な学生の教養の一部だったんだ。イデオロギー的な体系は上部構造、「生産関係の総体」は下部構造と呼ばれ、「上部構造は下部構造によって規定される」とやや教条的に定式化された。
 
私を含む少なくない学生が、こういう人間の価値観に関するこうした唯物的な理解に共鳴した。偉そうな顔して「かくあるべきだ」と説いている先生の主張だって、所詮は物質的生産様式の中での自分のポジションによって規定されている事情、下世話にいうと広義の経済的な利害関係に規定されていて、それをもっともらしい理屈と修辞で正当化しているだけだ、という認識はラディカルな魅力を放っていた。
 
ウエーバーの命題
そうした思潮に対するひとつのアンチ・テーゼ、あるいは「修正」「補正」として受けとめられたのが、ウエーバーが「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」で述べた歴史観だった。
 
手短に言うとこういうことだ。資本主義的な生産過程が封建制のなかから生じて来た極めて初期の段階では、「資本主義的な精神」はどのように形成されたのだろうか?まだ下部構造の大半は封建制であるから、それに対する上部構造(意識、習慣、価値観、法体系)も封建制に対応するものだったはずだ。
そこでウエバーは「プロテスタンティズム特有の宗教観、倫理」に注目し、自分が神に選ばれていることをただひたすら信じて、勤勉に働き、富を蓄積するプロテスタンティズムの倫理が、資本主義的生産様式の揺籃期においては、その勃興に適合し、重要な働きをしたという仮説を提示した。
 
要するに、上部構造(プロテスタンティズムの倫理)が下部構造(資本主義的な生産様式)の変革、形成に重要な役割を果たす場合もあることをウエーバーは示したわけだ。
 
こういう思潮的な流れを経て、既に私が学生だった1970年代後半には、よほどゴリゴリに教条的なマルクス主義者でなければ、上部構造の下部構造に対する相対的な独立性や、上部から下部への「反作用」の可能性を認識する程度に柔軟な見方をしていたと思う。
 
ウエーバーの命題への批判
さて、ここでEconomics2.0(第3章)で紹介されている産業革命期のプロイセン地域を対象にした実証的歴史研究の話になる。ドイツとスコットランドの二人の研究者は、プロイセン統計局の旧いデータを丹念に調査し、その結果、当時プロテスタント教会が優勢な地区とカトリック教会が優勢な地区を比較して、その間に経済的な富裕さについて、つまり資本主義的な生産様式への適応度において、プロテスタント優位の事実があったを確認した。
 
ただし検証の結果、次の結論に達したそうだ。
識字能力を除くと、プロテスタンティズムが経済の成果に単独で影響を及ぼしたとは思われない。経済的な富裕度の違いが、プロテスタントは努力を惜しまず、経済的な成功を目指して励み、質素な生活で貯蓄に励み、労働の流儀が効率的であるといったプロテスタント特有の労働観、倫理観だけに根ざしている可能性はほとんどない。(p72)
 
二人の 研究者が注目したプロテスタントとカトリックの相違は、宗教的倫理観全般というある意味では捉えにくい違いよりも、両者の識字率の相違である。プロテスタントは、カトリックが重きを置く教会の権威から個人主義的な独立を果たした点が宗教改革の最も重要なポイントだった。それはひとりひとりが聖書を読むことで実現できる特徴だ。すなわちプロテスタントは聖書を読むために文字を習い、それが識字率の向上⇒労働、ビジネス上のカトリックに対する優位になったと言う。
 
一般書なので二人の研究者が行なった検証方法は具体的には本書には説明されていないが、これは仮説としてなかなか魅力的、有力なものだと思う。プロテスタントの倫理観全般というある意味で捉え難い要因に比べて、識字率という明確に特定できるシンプルな要因で、プロテスタントとカトリックの違いを説明できる点で有力だ。
 
そして人間社会における進歩(あるいは生物における進化)が、必然的で単線的なプロセスではなく、様々な偶発的な要因により左右されることを示唆している点でも、より現実に適合した仮説だと思う。
ただしこの研究は当時の経済的な富裕度の違いは「プロテスタントとカトリックの労働に関する倫理観の相違」だけでは説明できないと言っていると同時に「識字率相違だけで説明できる」と言っているわけではないので注意しようか。人の世の現実は複雑だ。
 
 
竹中正治HP
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本日10月31日の日本経済新聞「経済教室」での西垣通教授(東大)の論考は、示唆的で面白い。
集合的な知性が生じるか、生じるならなぜ生じるかを論じている。

引用: 「いまスタジオに100人の視聴者代表がいて、(1)4択問題の正解を知っている者が10人、(2)2つの選択肢に絞り込める者が25人、(3)3つの選択肢に絞り込める者が25人、(4)全然見当がつかない者が40人――の4グループに分けられるとしよう。このとき、アンケートをとると、正解を選ぶ者は平均で約41人と計算できる。

一方、誤った3選択肢については、選ぶ者はいずれも平均で20人弱にすぎないので、集団平均としてはほぼ間違いなく正解が選ばれる。つまり、正解が分かる者はたった1割、全然分からない者が4割に及ぶ素人集団でも、「集合知」としては見事に正解を答えてしまうのだ。(ただし) これはいわゆるランダム選択の仮定に基づいている」

***

最後の前提条件が大切だ。各自の選択は独立していて相互に影響を受けないという想定。しかし、これはむしろ現実には稀なケースだろう。

実際は人間は相互に影響し合う。特に資産価格の相場などについては、ケインズの美人投票の例が示すように多数派の選択がどれになるかを推測して、積極的にそれに追随しようとする。
そうすると、その選択が本当に妥当かどうかは二の次になる。こうして資産バブルやその崩壊が生じる。集団的愚性の実現だ。

また、西垣教授の例は、回答者の選択からは独立して客観的な正答がある場合にしか適用できないことも言い添えておこおうか。 ところが私達の直面する問題、特に経済問題には多数が選択して行動すると、とりあえずはその判断が自己実現してしまう構造になっている。つまり多数が景気は悪くなると予想して行動すると消費と投資は減少し、景気は悪くなる。つまり選択から独立した正答がない。
 
経済や政治的な問題でも集団への付和雷同はいつでも起こる。 「2チャンネル」とかたまに覗くと、集団的愚性の不毛でダークなエネルギーの噴出にぞっとすることも多い(-_-;)
 
集合的知性の実現の条件というのは、なかなか難しいね。
 
追記:
集合的知性については、弊著「なぜ人は市場に踊らされるのか?」日本経済新聞出版社、2010年の中で、「アリ・モデル」を例にして私も議論したことがある。ご関心ある方は以下どうぞご覧ください。
 
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昨年暮れに癌(食道)と診断され、療養していた先輩教授が無事に回復、復帰し、快気祝いの小宴を昨晩した。
 
私も55歳、年齢とともに癌リスクは高まる。せっかく資産形成に成功し、「さて悠々自適の老後を楽しむぞ」という矢先に「癌!手遅れ・・・」となったのではもともこうもない。癌リスクについて考えよう。
 
まずは信頼できる専門医のお話
中川恵一(東大医学部付属病院放射線科准教授)  「公研」2012年9月号から
「今はがんは不治の病ではありません。全体で6割、早期がんなら9割以上が完治します。」
だだし・・・・
「早期がんが症状ではわかりません。早期の肺がん、胃がん、肝臓がん、大腸がんも一切症状は出ません。つまり、がんによる症状が出た時は、少なくとも進行がん、場合によったら末期がんなのです。
ですから異変を感じてから病院に行くのではダメなんです。
症状がないうちに、1年に一回定期的に検診する。つまり、早期発見とは、がん検診の結果です。」
 
また喫煙が肺がんなどのリスクを高めることは常識だが、飲酒もがんリスクを高めることはあまり知られていないので、その点について、同教授のお話は以下の通り。
 
「私のような酒飲みは、放射線被ばく量(による発がんリスク)で換算すると、500から1000ミリシーベルトに相当します。タバコは2000ミリシーベルト以上です。タバコを吸いながら、原発事故の被曝が怖いなんていうのは、ちゃんちゃらおかしいということになります。」
 
ということだから、今後は喫煙している人を見たら、受動喫煙リスクにあなたは巻き込まれるわけですから、「放射能汚染物質をまき散らしているのと同じ!」という冷たく厳しい視線を向けることにしよう。
 
また飲酒によるがんリスクについては以下のサイトが詳しい。
引用:「WHO世界保健機関)の評価(2007年)では、飲酒は口腔・咽頭・喉頭・食道・肝臓・大腸と女性の乳房の癌の原因となります。また、アルコールそのものに発癌性があり、少量の飲酒で赤くなる体質の2型アルデヒド脱水素酵素の働きが弱い人では、アルコール代謝産物のアセトアルデヒドが食道癌の原因となるとも結論づけています。」
 
というわけで、がんリスクについて考え直し、大学の健康センターで専門医にアポをとってどこで、どういうがん検診を受ければ良いか、アドバイスを頂いた。
まず、年に一回行われている大学の健康診断ではがん検診項目は、ほとんどないことが分かった。
これは企業などでやっている定期健診でもほぼ同様のようだ。
つまり定期健診ではがんの早期発見はできない。
 
そこで今秋から紹介された以下のクリニックで、人間ドックの基本コース+各種がん検診(オプション)を行うことにして、さっそく予約を入れた。
 
こんなことをしているうちに、健康管理も資産形成も同じだと悟った。先を読み、信頼できる専門家の情報とアドバイスを得て、リスクに備える、ということだね。もちろんリスクを全部回避するのではない。酒のない生活なんて味気ないから、飲む(=リスクテイクによるリターン向上)、しかしリスク管理は怠らない(=定期的ながん検診)というわけだ。
 
みなさんもがんリスク考え、対処しよう!投資も健康管理も、バブル崩壊や病気に直面してから慌てるのが一番の失策だからね。
 
ちなみに、私が予約した検診メニューは以下の通り。左の基本コースに右側のがん検診オプションを、専門医のアドバイスでいくつか選んだ(全部する必要はない)。 
 
本日9月20日の日経新聞夕刊記事
 
 
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進化心理学者ニコラス・ハンフリーの「ソウルダスト(Soul Dust)意識という魅惑の幻想」を以前レビューを書いて紹介した。ハンフリーの「喪失と獲得(The Mind Made Flesh)」(紀伊国屋書店、2004年)も良いですよと知人が言うので、読んでみた。本書は独立に執筆された長短のある論考を編集したものなので、様々なテーマを扱っているが、実に面白い。
 
進化心理学とは
まず「進化心理学」に馴染みのない方のために補足しておくと、これは、人間はその数百万年から数十万年の歴史の中で支配的だった環境に適応するように進化してきたわけであり、人間の様々な選好や行動特性から意識の機能と存在まで、環境適応上の優位があったからこそ今の様にあるのだという視点で考える学問だ。同時にそうして形成されたあり方が、現代のテクノロジーが発達した環境では一部不適応になっているとも推測できる。
 
ひとことでいうと、「人間は宇宙時代に生きる石器時代の生き物だ」(p386)となる。
 
奇形の変容
私にとって最も関心を惹かれたのは第8章「奇形の変容」だ。論旨を紹介しよう。
生き物は多数の表現型特性(背の高さ、体重、羽の有無、色等など)の構成物であり、それによって環境の中で特定の生物学的な適応度を実現している。
 
ある高さの適応度からもっと高いレベルの適応度への移行(進化)はどのように実現されるだろうか?遺伝子のランダムな変化と環境による淘汰圧が漸進的な改良をもたらすというのでは、実は説明が困難だ。
 
というのは現状の適応度は局所的には最も高い位置にあるはずであり、もっと高い適応度への移行は、現在の局所的には最適の組み合わせを変更することで、適応度の低下という局面を乗り越える必要があるからだ。その際、適応度の低下が大き過ぎれば、その種はより高い適応度に辿りつく前に絶滅するだろう。 進化とは着実で漸進的改良というよりは、文字通り命がけの飛躍というイメージに近いのかもしれない。
 
こうしたより高い適応度に向けた変革にまつわる事情は、実は生命の進化過程だけでなく、我々も身近に経験していることだ。 スポーツ選手がパフォーマンスを上げるためにフォームの改善に挑戦する場合、その過程でパフォーマンスを落とすことは良くあることだ。
 
例えば、ゴルフスイングという身体の動かし方それ自体、複数の動きの微妙な組み合わせで構成されているわけだが、従来の馴れた組み合わせは局所的な最適化を実現している。その組み合わせを一度、解いてより高い適応度を実現する新たな組み合わせを試行錯誤する過程で、パフォーマンス(適応度)が落ちるわけだ。
 
人間は意識的にそうした再構成に挑戦するが、生物進化の過程では意識的な再構成という仕組みは働かない。その場合、変化を強いるのは突然変異による「喪失」であると著者は言う。つまりなんらかの変異の結果、それまでの局所的な最適化を実現していた表現型特性を失うことによって、適応度の局所的な高みから転落した生物が、進化的な試行錯誤の結果、より高い適応地点に辿りつける可能性を得る。
 
その例として、著者はサルの先祖から分岐した人類が体毛を失った例を上げている。体毛を失ったことで寒さへの防寒能力が低下したが、人類はどこかの時点で火を扱うことを習得し、防寒ばかりか、料理、獣からの防衛など様々な用途に火を使うことを発達させることで、有毛の祖先よりも高い適応度に到達したというシナリオである(仮説である)。
 
著者のよるとサルにはない人間の抽象概念を操る能力も、それはサルにはある「写真的記憶力」を人間が失った結果、その能力を補完する能力として発達したものであり、最終的には圧倒的に高い適応地点に人間を導いた能力だと言う。
 
脳の驚異的な適応力
さらに人間はそれまでの生き物にはなかった優位も実現した。「人間の脳は(遺伝的にプログラムされた肉体とはまったく異なって)個人の一生という時間のなかで驚くべき進歩を遂げることができるひとつの器官(唯一の器官かも?)なのである」(p180)
 
この点は脳の可塑性として比較的近年注目されている。別のレビューで紹介した「奇跡の脳」は、脳内出血で左脳の機能を損なわれた著者の脳が、生き残っている部分を再構成し、様々な機能を一歩一歩回復して行く物語だが、そのキーワードは脳の「可塑性」である。
 
視力を失った人の聴力が鋭くなることは昔から知られている。これは注意力が視力から聴力に移るだけではなく、それに見合って脳内の機能も再構成されている可能性がある。
 
facebookで紹介したが、NHKのロンドンオリンピックに向けた特集番組「ミラクル・ボディー」で体操の内村選手の飛び抜けた空間感覚を科学的に分析した過程で、ひとつの注目すべき脳内現象が紹介されていた。
 
内村選手は、子供時代から優れた体操選手のビデオを繰り返し見て、その動きを試み、イメージトレーニングと実際の動きの練習を果てしなく繰り返してきた。そうしたイメージトレーニングしている時の内村選手の脳の動きをMRI(磁気共鳴画像装置)で他の普通の選手の脳と比べると、活性化している部位に大きな相違が見つかった。 イメトレ中の内村の脳は運動機能をつかさどる運動野と呼ばれる部分が活性化している一方、普通の選手は視覚野が活性化していた。
 
つまり普通の選手は、イメトレ中に第3者の視点で運動を「見ている」のだが、内村の脳は運動している自分自身を感じていると推測される。これは内村の脳が、イメージと練習を繰り返すことで運動機能の点でより高い適応度に変容した結果だろう。
 
歴史を振り返ると、それまでの局所適応的な組み合わせを失ったことで大きな変革が起こり、それがより高い適応に、人、企業、ビジネス、社会を導く事例に満ちていると気がつくだろう。今の停滞気味な日本社会に求めらていることは、戦後の繁栄を築いた局所適応的な組み合わせの破壊的再構築なのだとも言えようか。
 
大学教授としての私の第2のキャリアの展開も、ある時点で銀行員としての適応(つまり出世)を捨てた、あるいは失ったところから始まっているとも言える。まことに塞翁が馬ですな(^^)v
 
竹中正治HP
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「奇跡の脳(My Stroke of Insight)」ジル・ボルト・テイラー、新潮文庫、2012年4月
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著者はアメリカの脳神経解剖学者だ。37歳の時に左脳内で血管が切れ、脳卒中となる。左脳の機能がマヒした状態から、手術を経て、回復に至るリハビリ物語でもある。以前、TV番組(NHK?)で著者のストーリーは見て知っていたが、本が出ていたことを知って読んだ。脳科学者が左脳マヒ状態を自ら経験し、自己観察するというある意味では希有な体験を語ったものだ。

左脳が機能マヒを起こしたことによって、著者は言語を失い、数字と文字を判読できなくなり、自分と世界の境界が分からなくなる。同時に自分は世界と一体だという不思議な涅槃感覚にひたる。それは右脳の感じる自己と世界だったと気づく。

左脳から血の塊を除去する手術を受け、死んだ左脳の回路を母に助けられながら、一歩一歩回復するリハビリの経過が語られている。「失ったこと、できないことを悲嘆するのではなく、ひとつひとつできるようになったことを喜ぶ」ことでリハビリのプロセスが、ポジティブな感覚でつづられている。

後半部では右脳と左脳の機能的なコントラストについてわかりやすく、文字通り著者の経験談として書かれている。右脳は感性的で今の瞬間のことに傾斜する。左脳は計画的、分析的で、過去から未来への時間感覚の中で行動を管理している。現代社会はある意味で左脳優先、左脳支配の環境だと言えるだろう。左脳は自分と他者を比較して妬んだり、卑屈になったりネガティブな感情の源泉にもなっているという。

結局、著者は右脳の価値に覚醒することで、左脳のネガティブな面の復活を抑制しながら、右脳と左脳のバランスをとることができるようになった。確かに現代社会は左脳の全力疾走を要求するようなストレスの多い社会だ。左脳の暴走を抑え、右脳スイッチを操ることができるようになれば、人生はより豊かになるというのが貴重なメッセージであろう。
 
竹中正治HP
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紀伊国屋書店、2012年4月(↑例によってアマゾンにレビュー書いています。よろしければ「参考になった」をクリックしてください)
 
著者はロンドン大学の名誉教授、元々は心理学が専攻だが、その知見は心理学から進化論、脳科学、哲学、宗教に及ぶ。なにしろ自己意識という超難題を解こうとするのだから、学際的なアプローチになる。著者の重層的な論理を数行で要約するのは困難だが、最も基本的な視点は進化論的なアプローチだろう。

自己意識というものは、我々がみな持っていると感じながら、直接他人の自己意識の存在を観察することができない(相手は心がない心理学的なゾンビで、人間らしく反応しているだけなのかもしれない)。 しかし、「我、感じる。ゆえに我、存在する」である。 自己意識も存在する以上は、自然環境の淘汰圧の中で生存上の有利性があったからこそ、進化して来た産物であるはずだとして読み解いていく。

しかし自己意識(この文脈では「現象的意識」と著者は呼んでいる)の特徴は、視力とか聴力、羽などのそれがなければできないことを可能にするような役割ではなく、「それがなければしようとは思わないことをするようにやる気をださせるもの」ではないかと言う(p94)。

もっと具体的に言うと、現象的意識には正真正銘の生物学的価値があるのであって、それは「(それがなかった場合よりも)付加された生存の喜びと、自分が生きている世界の新たな魅力と、自分自身の形而上学的な重要性という新規な感覚のおかげで、個体が自分の生存のために行う投資が、進化の歴史の中で劇的に増えた」ことにあると説く(p97)。

自己意識を持つ結果として人間は(自己意識を持つ以前よりももっと)死を恐れるようになったと理解できるならば、それは他のどんな動物の生物学的適応度よりも、人間の生物学的適応度の向上に貢献する」(p130)。

と同時に自己意識を形成するに至った人間は「生への強い執着」と「死の不可避性」という難問を背負うことにもなる。その難問へのひとつの解決法として魂の不滅性という宗教の中核的な信条が生み出されたと理解することで、宗教を求める人間の心理学的基礎も読み解いてしまう(12章「死を欺く」)。

自己意識の謎を取り扱う書籍は、これまで幾冊か読んだが、おそらくベストの一冊である。
 
竹中正治HP
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Incognito, The Secret Lives of the Brain 「意識は傍観者である」デイビッド・イーグルマン著、早川書房
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日本語のタイトル「意識は傍観者である」は、あまり適切ではない。読めばわかるが、人間の意識は自分自身を本当に理解しているわけではないが、傍観者以上の役割も果たしているからだ。
 
著者は大学で認知行動学研修室を主宰する神経科学者だ。原題のIncognitoはイタリア語で「匿名者」あるいは「匿名の」の意味。私が編集者なら「私の中の他人」とかの日本語タイトルにするだろう。

要するに私達の意識は多くの場合は自分自身の本当の動機を理解しているわけではなく、それは無意識のプロセスの結果であり、自分の中に正体不明の他人(匿名者)が存在しているようなものだという意味だ。

一番興味深かったのは第5章「脳はライバルからなるチーム」だ。脳は無数のサブルーチン(サブエージェント)が行動という出力チャンネルを求めて競争し合う議会のようなものだと例えられる。したがってある意味では葛藤こそが人間の脳の本質だということになる。

ただし大きく分けると(2大政党制のように)理性的意識的ネットワーク(認知的、体系的、明示的、分析的、内省的)と感情的ネットワーク(自動的、潜在的、発見的、直感的、全体的、反作用的、衝動的)に分かれ、葛藤、競合する。

現代社会では前者の方が評価される優位があるように思えるが、おそらく前者だけでは行動の決断力に欠ける結果になるのではなかろうか。合理的な判断も感情的な衝動をばねにしないとできない・・・そういうあざなえる縄のような関係にあるのではないかと思う(これは著者が明示的に語っていることではない)。

そうした脳の構造の中で意識にはどういう機能があるのか?仮説として意識はこうした葛藤し合う無数の無意識下のサブシステムを制御、そして制御を分配するために存在する。要するに意識は大会社のCEOのようなものだ。

意識は新しい環境で新しい行動パターンを組織しなければならない時に出番となり、機能する。環境への行動パターンの適応が進むにつれて、行動は自動化が進み、意識は直接関与しなくなる。これは私達が、運動でも知的な学習でも必ず繰り返すことだ。この無数のサブシステムを必要に応じて再編成する知的柔軟性こそが意識の役割であり、それがもたらす環境適応上の優位性こそが人類史において意識が進化してきた理由だと考えられる。

ふ~ん、なるほど。しかし同じ人類でも意識の機能度、つまりそれがもたらす知的柔軟性の個人差は大きいようだね。自分が慣れた環境の中で、周囲の人達と同じことだけを繰り返して済ませたいという生活をしている方々も多いからね。
 
竹中正治HP
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