たけなかまさはるブログ

Yahooブログから2019年8月に引っ越しました。

カテゴリ: その他

やらなくてはならないことがわかっているのに、なぜこうも先延ばしばかりして、自滅する学生諸君が多いのか・・・・を考えていたら、この本に出会った。ちょっと古い本だが、優れ本だ。
 
「グズのひとにはわけがある」(It's About Time! The 6 Styles of Procrastination and How to
Overcome Them) リンダ・サパディン、ジャック・マガイヤー、文芸春秋、1998年(文庫本は2002年) リンダ・サバディンはアメリカNYの臨床心理学者, Procrastinationとは「やるべきことを先送りする」症候群=グズと訳されている。
 
この本の各タイプの記述を読むと、「いるいる、あの人、この人、これだあ~」と次々に脳裏に浮かぶ。
グズ=「先延ばし症候群」には以下の6類型ある。
診断方法、処方箋も書かれている。
ただし治すためには自己変革を決意する意思が必要、薬はない、あたりまえだけどね。

1「でも、完璧にしたい」完全主義タイプ
2「でも、あんな面倒なことをするのは嫌だ」夢想家タイプ
3「でも、本当に大丈夫か不安でたまらない」心配性タイプ
4「でも、なぜ私がしなければならないんだ」反抗者タイプ
5「でも、ギリギリまでやる気になれない」危険好きタイプ
6「でも、ほかにもすることが多過ぎて」抱え込みタイプ
 
治すための要点は、action & priorityと理解した。逆にaction & priorityのしっかりしている人は、グズ症候群には陥らない。優先順位を付けて、一定の期間で実現可能な目標を設定し、そのために作業する。成功したら、自分を誉め、成功しなかったら反省して、目標や作業内容を修正する。それを繰り返すことができるようになれば、治る。 
 
「努力してみよう」あるいは「努力してみます」なんて意識の状態ではダメのうち、「するか、しないかのどちらかだ」と言う。その通りだ。
 
またグズ症候群に陥る多くの人は、少年・少女期の家庭環境の影響が大きいと分析されている。
 
そこでマザーテレサの言葉を思い出した。
「考えること(思考)は大切です。
思考は言葉になります。
言葉は行動になります。
行動は習慣になります。
習慣は性格になります。
性格はあなたの運命になります。」
 
逆に言えば、思考と意識を変えれば、性格と運命も変えられる。
実にシンプルで、同時に難しいんだけどね。
 
ところで本書の診断法によると私には「グズ症状」はない。
中学2年生頃からだろうか、期末試験でも宿題でも、予定されていること、起こり得ることへの準備を早め早めにしないと気がすまない、安心できない性格になった。今でも引き受けた原稿は締め切りの数日前には完成して提出してしまう。引き受けた講演の資料も数日前には完成している。
 
とりわけつまらない仕事はさっさと効率的に片付けて、本当にやりたいことの時間を確保しようとする性分=習慣が身についている。なぜそうなったか? わからん・・・しかしそのおかげで今の自分があることは間違いない。
 
竹中正治HP
http://masaharu-takenaka.jp/index.html (←ホームページ、リニューワルしました(^^)v)
最近facebookでの書き込みを活発化しております。本ブログのリピーターの方はfacebookでお友達リクエストをして頂ければ、つながります。
 

 

PhD!
このたび、京都大学にて経済学博士号の学位をいただけることになりました。
かなり嬉しい(^^)v(^o^)丿(*^。^*)

学位評価対象論文:「米国の対外不均衡の真実」晃洋書房より発刊、2012年2月
学位審査委員会主査:岩本武和教授(国際金融論)

銀行を退職し、大学に移ってから3年かけた作業が実を結びました。
ここに至るまでご助言、ご支援くださった先生方に御礼申し上げます。<(_ _)>
 
大学関係者の方々はご存じのことですが、博士号の取り方は2種類あります。 ひとつは大学院で修士課程、博士課程と進み、博士論文を書いて承認される方法で「課程博士」と呼ばれます。 
 
他ひとつは、「論文博士」と呼ばれる方法で、大学により多少異なりますが、京大の場合は学術的な評価対象になる著作を刊行し、それで大学に申請し、審査(含む口頭試問)を経て承認されるものです。 
大学は自分の母校である必要はありません。
 
私の場合は、学部を卒業して大学院に進まず、52歳まで銀行ビジネスの世界でやってきたので、博士課程はおろか、修士課程も経ていないので、もちろん後者の「論文博士」です。
 
論文博士の場合、事前に自分の著書の学位審査を引き受けてくださりそうな先生にお願いして、ご了承を頂く必要があります。審査作業はけっこう手間がかかりますから、どなたでも引き受けてくださるわけじゃありません。私は京大の岩本武和教授(国際金融論)にめぐり合えたことがラッキーでした。京大の方角に足を向けて寝れません。 
 
修士課程、あるいは博士課程を卒業したまま博士号論文を書いて申請せずに、博士号なしで大学教授をしている方々は、実は沢山おり、特に50歳代以上の年輩の方々には多いです。ただし現在の20歳代、30歳代では大学で教職に就くなら博士号は事実上必須です。 論文博士ならば年齢制限もありませんので、50歳過ぎてからでも挑戦できます。
 
しかし学術書というのは、まことに売れないね(^_^;)
「50歳過ぎてからの博士号の取り方」って本書いたら、売れるかな?
 
 
竹中正治HP
最近facebookでの書き込みを活発化しております。本ブログのリピーターの方はfacebookでお友達リクエストをして頂ければ、つながります。
 

今週の共感できる論考を2件掲載しておこう(facebookでは掲載済)
 
1.真の金融・投資立国を目指そう
日本で「金融・投資立国を目指せ」と主張すると、賛同する方も反対する方も、多くの場合「金融・投資立国=金融機関が収益をあげる」という様に反応するのだが、これが間違い。
目的は最終投資家の利益であり、最終投資家の合理的なリスクテイクが公平に報われるように市場を整備するのが基本。

 
「投資家の利益が第1なくして金融立国なし」 
安東泰志 ニューホライズンキャピタル 取締役社長兼会長
引用:「日本で投資信託を買えば、非常に高い販売手数料や信託報酬を取られたうえ、元本取り崩しによるものと利益配当をごちゃまぜにした、見せかけの「毎月分配の高配当」で、お客を釣るような販売までもが許されている。金融商品を売る金融機関の利益の方が、投資家より優先されているのだ。」
http://diamond.jp/articles/-/17937
 
2、大切なのは学び方を学ぶこと
現代では既成知識はどんどん陳腐化する。だから既成知識詰め込み式の学習(記憶学習)では変化に適応できない。大切なの「学び方」自体を学んでおくことだ。そうすれば、変化する環境の中で自分自身で発見や解答を得ながら、知識を蓄積して行くことができるだろう。

若い諸君、陳腐化おやじ(おばん)にならないために、心にとめてください。
 
「今は存在しない職業への準備」 山内祐平、東京大学大学院准教授
引用:「1つめの「思考の方法」とは、知的生産を担う労働者が行う高度な思考に必要な能力である。批判的思考や問題解決能力については従来から学校の教育目標に取り入れられてきたが、創造性や意志決定、自己学習能力やメタ認知などが、イノベーションに必要な技能として最近重要視されるようになっている。」
 
 
竹中正治HP
最近facebookでの書き込みを活発化しております。本ブログのリピーターの方はfacebookでお友達リクエストをして頂ければ、つながります。

今日の日本経済新聞聞に掲載されていた幼稚園から大学までの教育費の樹形図です(facebookで繋がっている方には今日の朝、流しました)

これから子供を産んで育てる若い世代に参考になるでしょう(私も娘が高3、息子中1ですから、まだ子育て過程ですが)。

進学塾や模擬試験などの費用はこれにさらに加わります。記事によると平均的に「高校受験で約60万円、大学受験で約100万円」だそうです。

今の学生諸君は、これを見て、教育費を出してくれる「親の有難さ」を感じてくださいね(^_^;) 
その分、しっかり勉強してや~。

ちなみに私は小学校から大学までの全部公立(区立、区立、都立、国立)で、樹形図のもっとも安上がりコースでした。税金取り戻したようなものです。
 
竹中正治HP
最近facebookでの書き込みを活発化しております。本ブログのリピーターの方はfacebookでお友達リクエストをして頂ければ、つながります。
 
 
イメージ 1

1月に東大地震研究所が首都圏直下型M7規模の地震の発生確率を「4年以内に70%」と発表して話題になった。 京大防災研究所は「5年以内に28%」とかなり異なる予想も出している。以下サイト
 
 
専門家の予想がこんなに相違するのは「要するに本当のところはわからん」ということだろうが、自分の人生で一回は必ず起こると覚悟している。 覚悟しているだけじゃなくて、リスクを点検し、できる備えはしておこうと腰を上げた。以下点検項目。
 
1、地震保険:
資産として保有している建物、マンションには全て地震保険を以前からかけている。損害の一部しか取り戻せないだろうが、資産が壊滅するよりはましだ。
 
2、地域分散:
空室リスクの低さを考えるとどうしても都心部のマンションという選択になるが、地域は一応分散している。 日本橋、池袋、新宿、中野、京都
次の大震災までに景気の回復が続いて、市況が良くなったら日本橋の物件は売ってしまおうか。
 
3、円安、株安:
昨年の3.11の後は円高だったが、次回首都圏直下型大震災の場合は、状況次第では円安もあろうか。日本株中心に急落するのはやむを得ない。できれば次の大地震までに景気の回復が続いて株式のポートフォリオを利食いで縮めることができるといいなあ。
 
4、自宅付近での火災、延焼リスク:
私が東京で済む地区(新宿区)は防災指定地域なので、木造住宅はかなり昔から建設不可であり、木造家屋は過去20年で次第になくなり、自宅周囲にはもはや1軒もない。 延焼リスクはミニマムなので、自分で火事を起こさなければ大丈夫だろう。
 
5、自宅倒壊リスク:
築1995年、鉄筋コンクリート3階建て、これならM7だって倒壊することはないと思っている。従って自宅にいる時に地震がおこったら下手に避難するよりも、自宅の屋上から周囲を見て、問題がなければ自宅に籠ることになろうか。
 
6、ライフラインの停止:
水、ガス、電気が最低数日は停止するリスクがある。水は生活用水として22リットル入りのポリタンク2つ買って、備蓄した。飲用水としてペットボトルも2ケース買った。風呂には入れなくなるが、数日は給水車が来なくてもしのげるだろう。 最低限の煮炊きができるように、ポータブルコンロと家庭用ガスボンベを備蓄した。 米は常時から在庫をキープしながら食っているので、まあ1週間はしのげるか。
 
7、家族の行方知れず:
高校2年生の娘は高校まで歩いても30分~40分の距離だから、歩いて帰宅できる。
 
春から中学生になる息子は渋谷の先の中学で、地下鉄通学だ。学校からだと2時間ほど明治通りを北上すれば帰宅できる。問題は地下鉄に乗っている時に地震にあった場合だ。「とにかく地上まで出て避難しろ」とは言ってあるが、どこの駅からの避難、帰宅になるかわからない。
「GPSで位置特定機能付きの携帯電話を持たせよう」と言ったのだが、女房が中学生には携帯電話はまだ早いとか言って合意に至らない。引き続き検討事項。
 
女房は東京の自宅をベースに比較的狭い活動圏だから大丈夫だろう。
 
私の場合は京都に居る時に関東が地震になれば問題ないが、頻繁に東京-京都を往復しているので新幹線に乗っている時に地震に合うと、無事に列車が停止しても、交通が復旧して東京か京都に帰宅できるまで静岡とか愛知で「避難民生活」を余儀なくされる可能性がある。
まあ、命が無事ならよしとしようか。
 
あと何か考え忘れていることはないだろうか???
みなさんも備えましょう。
 
 

佐々木俊尚の「『当事者』の時代」(光文社新書、2012年3月)を読んだ。
(↑例によってアマゾンにレビュー書いております。)
468ページという新書としては異例の厚さだが、引き込まれて一気に読んでしまった。
 
「『当事者』の時代」というタイトルに込められた著者の含意は読まないとわからない。ただし次の帯封の文章がそれを補っている。「いつから日本人の言論は、当事者性を失い、弱者や被害者の気持ちを勝手に代弁する「マイノリティー憑依」に陥ってしまったのか・・・」 
この帯封を読んだだけで、私は後頭部にぞわぞわっと電気が走り、後はもう一気に読み切った。
 
ひとことで言えばジャーナリストとして生きて来た著者の渾身の戦後メディア批判である。こんなにラディカルなメディア批判はこれまでお目にかかった記憶があまりない。同時にそれが日本の戦後思想史の一角に鋭く斬り込む内容となっている。 
 
著者の分野は異なるものの、「革新幻想の戦後史」(竹内洋、2011年)の内容と比較対照しながら読むと一段と味わいが深いだろう。
 
1章は著者が毎日新聞の記者だった時の経験をベースに、警察(政府)とメディアの関係を「記者会見共同体」という表の顔と「夜回り共同体」という裏の顔の表裏一体の二重構造として解き明かす。
 
その後、話はがらりと転回し、戦後の思想史となる。筆者の俯瞰するところによると、敗戦から1960年代前半頃までは論壇を含む国民一般の戦争体験に関する意識は濃厚な被害者意識だったと総括する。要するに無垢な国民は、軍部独裁の下で事実から目を塞がれ、無謀で悲惨な戦争に徴兵され、大空襲で焼かれ、そして2つの原爆を落とされた被害者だったという意識だ。
 
そうした思潮が60年代の小田実の「被害者=加害者論」を契機に転換し、日本人は中国人、朝鮮人、アジアに対して同時に加害者でもあったという視点が登場した。それが戦争問題に止まらず、社会的なマイノリティー弱者、被差別者の視点から捉えるマイノリティー視点へと広がった。
 
そのこと自体は視点の拡大として意味があるはずだったのだが、思わぬ思想的な副作用を生み、「薬物の過剰摂取のように、人々は被害者=加害者論を過剰に受け入れ、踏み越えてしまった」(p278)と言う。 
 
言うまでもなく、これは右派系論者から「自虐史観」と批判されるようになる左派系論者の歴史観や思潮に顕著に見られる傾向となったわけだが、著者の本論はメディアもそうした視点にどっぷり漬かってしまったことだ。
 
そこから、虐げられたマイノリティーに憑依することで絶対的な批判者の視点に立とうとする様々な論調が論壇でもメディアでも横溢するようになってしまったと説き、70年代の過激派セクトの変遷や一世を風靡した本田勝一の論調を読み解く。
 
特に次のような手法が日本のメディアに蔓延したと指摘する。 「弱者を描け。それによって今の日本の社会問題が逆照射されるんだ。」(p393) 物書きとしてはセンセーショナルな記事が欲しい。そこで「矛盾を指摘するためには、矛盾を拡大して見せなければならない。だからこそマイノリティー憑依し、それによって矛盾を大幅にフレームアップしてしまうことで、記事の正当性を高めてしまおうとする。」(p398)
 
さらにそうしたマイノリティー憑依の思考が、実は古代からの日本の神概念をルーツにしていると著者は説く(第5章「穢れ」からの退避)。ただしこの点は日本の神概念の特徴分析として興味深いが、本当に戦後のマイノリティー憑依と同根であるかどうか、かなり冒険的な仮説だと思う。
 
最後に、こうしたメディアの手法も90年代以降、日本経済、政治環境が、それまでの大きく変わることによってさすがに陳腐化し、廃れてきていると言う。 
 
それではどうしたら良いのか? 「インサイダーの共同体にからめとられるのではなく、そして幻想の弱者に憑依するのでもなく」当事者の立場で歩もう(p429)というのが、本書のタイトルの含意になるわけだ。
 
もっともマスメディアはあくまでも傍観者、観察者であり、当事者になれるはずがないという原理的な困難性を抱えていることも承知だ。ただし時代はマスメディアの終焉に向かい、インターネットにより誰でも情報を発信できるようになった故に、様々な当事者の情報発信という新しい時代環境が始まっているのではないか・・・・と締め括っている。
 
論点の全てに合点がいくわけではないが、著者の半生を総括した渾身のメディア・思潮批判だ。重く受け止めたい。
 

「偶然の科学(Everything Is Obvious)」(ダンカン・ワッツ)早川書房、2012年2月を読んだ。
(↑例によってアマゾンにレビュー載せました。「参考になった」クリックお願い致します。m(__)m)
 
著者はコロンビア大学の社会学の教授で、ネットワーク理論を専門にしている。
英語の原題に首をかしげる方もいるだろうが、これは偶然の連鎖で引き起こされたような結果でも、人間は後知恵で解釈する強い性向があるために、必然的な因果の結果だったと考えてしまう(つまりそうなるのは自明だったと思ってしまう)認知上のバイアスのことを意味している。
 
そしてこのような認知上のバイアスによって出来上がった「常識的な知恵」が、私達の日常の選択から政府の政策まで支配している結果、様々な不毛で非合理的な選択が繰り返されると説く。しかもこうしたバイアイは歴史学や経済学などの繰り返し実験することが困難、あるいは不可能な研究領域を対象にした学問の世界にも根強く見られると指摘する。
 
そうした視点から様々な問題が論じられているが、例えば社会学者が「ミクロ-マクロ問題」と呼ぶ視点はとても普遍的な問題を扱っている。これは例えば社会学や経済学の分野では、個人のミクロ的な選択から実社会のマクロ的な現象をどう導きだして理解できるかという問題であり、また原子から分子、分子からアミノ酸やたんぱく質、タンパク質から生命をどう説明できるかという問題だ。
 
筆者は、ミクロの階層からマクロの階層を直接的に説明するのは不可能であり、それは階層をひとつ上がる毎にミクロの層には還元し切れない「創発現象」が起こるからだと説く。こうした複雑系の厄介な問題は予測可能性という期待を打ち壊してしまう。(p73)
 
ところが人間はそれでも後知恵解釈で起こった出来事に対して偽りの因果連鎖を想定し、そうした偽りの因果連鎖やそれに基づく教訓が「常識」として横行すると論じる。
 
例えば、ミクロ経済学では方法論的個人主義の立場が支配的で、「代表的個人」「代表的企業」というものを想定することでモデルを構築する。そうやって作られる「経済学者の数理モデルは、経済の途方もないほどの複雑さを全く体現しようとしない」(p75)と批判する。 こうしたアプローチは複雑性を排除することで、「マクロ経済学のマクロたらしめている核心を無視している」 
 
方法論的個人主義の父とみなされている経済学者のシュンペーター自身が、代表的個人アプローチは欠陥があって誤解を招きかねないと酷評していると言う(p75)
 
この点は経済学分野からは反論があろうが、私はむしろ著者に共感してしまう。マクロ経済学のミクロ的な基礎を構築するというのが、例えばネオケインジアンのやってきたことであるが、私にはバブルの形成やその崩壊など重要な創発現象を(試みてはいるが)リアルに説明できていないと感じているからだ。
 
それに続いて紹介される「暴動モデル」も興味深い。これは個人が他人の選択に影響を受けるという前提で、100人の集団を想定し、ある人は他人の選択の影響を最も影響を受けやすく、ひとりが暴動を起こすと自分も暴動に参加する。次のひとは2人暴動を起こすと自分も暴動に参加する。最後の人は99人が暴動を起こすまで自分は参加しない、というように異なる影響度を設定する。
 
この場合は、ひとりが暴動すると連鎖が起こり、100人全員が暴動する。ところが、ひとりだけ暴動感染度を変えて、2人が暴動を起こすと暴動に参加するひとを除き、代わりに3人が暴動を起こすと暴動に参加する人に置き換えるとどうなるか(3人暴動で同調する人が2人になったわけだ)? 2人の暴動が起こっても、それで暴動に参加する人が抜けているので、暴動は2人どまりでおしまいになる。
 
この2つの集団構成の相違は、たった100分の1に過ぎないが、最初のひとりの暴動というインパクトに対して集団全体が暴動する結果と、2名しか暴動しないという全く極端に異なった結果がもたらされるわけだ。 
 
これは極めて単純化した例だが、プレーヤーが他のプレーヤーの行動の影響を受けるという条件を加えると、システム(集団)の変化は僅かな変化で著しく異なる結果に至る場合が生じ、要するに事実上予測不能になる、ということだ。標準的なミクロ経済モデルがプレーヤーの独立した意思決定を想定したがるわけも、良くわかるね。
 
暴動をバブルに置き換えると、経済的な含意は興味深い。同じような金融緩和の下でも、それが大バブルに至る場合と、そうでない場合の違いは実は極めてわずかであり、事実上予測も制御も不可能であるかもしれないのだ(断定を避けて「かもしれない」と言っておきたい)。
 
またエコノミストやアナリストは「こうなる確率は20%」とかよく語る。私自身もついそういう書き方はしている。しかしサイコロのように何度も同じ条件で繰り返される事象に対して、「特定の目がでる確率は6分の1だ」ということと、選挙結果や多くの経済現象のように同じ条件で繰り返されることがない、つまり一回限りの歴史的現象について、例えば「オバマ再選の確率は**%だ」「今年、景気の回復が持続する可能性は**%だ」ということは明らかに意味が違う。
 
後者の場合はどういう意味があるのだろうか?(p162) これは難しい問題だ。本当は確率など語れないのだが、そういう表現法をすると客観的な印象を与えるので使用されているだけだ、という言い方もできる。
 
ただし、多少弁護しておくと、エコノミストも全くの主観で**%とみな言っているわけじゃなく(そういう方も沢山いるが)、過去にAならばBという同種のパターンが繰り返し観測され、因果関係があると判断される場合に、その経験則に基づいて、「現状はAだからBになる、その確率は過去データに基づく限り**%」という判断は最低限許されるのではないかなと思う。そうでもないと、私達は将来起こり得る事態に対して全く何も語れない、わからない、手がかりもない、ということになるからね。
 
もっとも本当に重要な変化は過去の経験則や相関関係をひっくり返すような形で生じることがある。しかもバブルの時にも見た目上は同様の「過去にないような変化」が登場し、期待感が過剰に高まってしまうこともある。その違いを事前に見抜く一般ルールはとりあえず、見出せそうにない。以上は著者ではなく私のコメントだ。
 
最後に本書の本論からはちょっと脱線するが、伝説的なファンド・マネジャー、ビル・ミラーについて逸話が書かれているので記録のために抜き書きしておこう(p249)。
 
かれの投資ファンド、Value TrustはS&P500を15年連続で上回るパフォーマンスを上げ、同様のことを成し遂げた例は他にないそうだ。 ところが連勝記録の途絶えた2006年から2008年の3年間はボコボコのやられとなり、その結果、ミラーの実績は過去10年間の平均はS&P500のそれを下回る水準まで落ち込んだそうだ。 さてミラーは天才だったのか、それとも10万匹サルの中の運の超良かった一匹に過ぎないのか?
 
本書と関連した最近の書籍としては以下の2点をあげておく。
 
 
 
 

たわいのないことですが、アマゾンでベスト1000レビュアーにランクインしました(facebookの皆様には昨日ご連絡しました)。以下のサイトで過去68冊の本に対するレビューをご覧になれます。
 
もちろん読んだ本のうち、レビューを書くのは一部です。レビューを書くのは比較的新しい本で、①強く興味をひかれた場合、②「なんてたわけたことを主張しているんだ」と腹がたった場合、③友人から頼まれた場合などです。 ①が一番多いですね。
 
白黒はっきりしてる私の場合は、星5つ(とても良かった)、星4つ(わりと良かった)、星1つ(とんでもねえ!)の3つに分布します。 凡庸な評価の場合は書きませんから。
 
最初はランクインすることなんか考えていなかったのですが、2000番台に入ったあたりから、「ベスト1000」を目指す気持ちができて、それからは書くたびにじりじりとランクがあがることが楽しみになってしまいました。
 
そういう意味で、直近レビューを書いた「快感回路」の著者が書いていることは人間の本質をよく表現していると思います。
 
「私達人間は、本能から離れた全く任意の目標の達成に向けて快感回路を変化させ、その快感によって自らを動機づけることができるのだ(p11)」 
 
アマゾンにレビューを書くと言う今私がやっている行動自体、何の報酬もなしに「自分で動機づけ」しちゃっているわけですからね(^_^;)。自分を何に向けて動機づけするかで、人の人生は大きく違ってくるということですね。習慣は第2の天性です。
 
またアマゾンのビジネス戦略に上手にのせられているという言い方もできるでしょうか。ユーザーをリピーターにさせる(病みつきにさせる)ビジネスモデルを作れれば、自ずと商売は成功するということでしょう。まあ、それはかまわない。書くことで記憶に鮮明に残り、自分の知的な蓄積になるんだから。
 
また、過去のレビューをふり返って、本のレビューを書くと言うことは、その本の内容を紹介することであると同時に、レビュアー自身の思索傾向、価値観を表明、確認することでもあると感じましたね。
 
 
 

快感回路(The Compas of Pleasure)」(Daivid J Linden、河出書房新社、2012年1月)は、かなり面白かった。(↑例によってアマゾンにレビュー書いています。よろしければ「参考になった」クリックしてください。)
 
筆者は米国ジョンズ・ホプキンス大学の神経科学者だ。人間の「快感」という感覚は脳内のどういう変化によって生じているのかを一般人にも分かりやすく説明しながら、脳科学の最先端の研究成果を紹介している。
 
以前紹介した「複雑で単純な世界」もそうだったが、サイエンス・ライターではなく、その分野の一流の研究者が、わかりやすく一般向けに書いてくれる本というものは有り難い。
 
サイエンス・ライターもぴんきりだが、俗流なレベルのものも多いからね。もっとも科学的な知見を一般向けに分かりやすく書くと言うのは、専門研究とはまた違った能力と努力が要求されるもので、誰でもできるわけじゃない。
 
私が面白いと引きつけられたのは、行動経済学などで紹介されている行動心理学的な実験で明らかになってきているヒューリスティックなバイアスの根本原因は、やはり人間の脳の仕組みに根ざしているわけで、脳科学がそれを解き明かしつつあるようだからだ。
 
脳には解剖学的にも生化学的にも明確に定義される「快感回路」(報酬系)があり、この回路が興奮する時に私達は「快感」を感じている。この脳の一群の領域は、内側前脳快感回路と呼ばれているそうだ。その中で最も重要な部分は腹側被蓋野(VTA)と呼ばれている。
 
脳の当該部分が「興奮する」というのは、シナプス小胞に蓄えれらていた神経伝達物質ドーパミンの放出が促進されることだ。
 
人間に特徴的なことは、この回路は固定的ではなく、経験(学習)を通じて持続的な変化を起こす。従って、記憶と快感は密接に結びついている。そして、著者の大きな感心は様々な依存症に向けられるのだが、依存症もこの脳内回路の持続的な変化として生じると言う。
 
「私達人間は、本能から離れた全く任意の目標の達成に向けて快感回路を変化させ、その快感によって自らを動機づけることができるのだ(p11)」 この一文は、人間の本質(少なくともその一面)に関する著者の洞察を要約している。 言い換えれば「習慣とは第2の天性である」ということわざは、脳の構造に根ざした真実であるということだろう。
 
ヒューリスティックなバイアスが脳内部の生化学的な変化として、検証されているという点について紹介すると、例えば脳はある種の不確実性やリスクに快感を感じるようにできているそうだ(p153)。そして進んでリスクをとろうとする神経系は進化上適応的だったという仮説が紹介されている。狩猟に特化したオスの方が、採集するメスよりもリスクをとることに適していた可能性があり、ギャンブル依存症が女性よりも男性にずっと多いことと一致する。 
 
そうだね、社会・文化的要因ももちろん排除しないが、有名な(あるいは悪名高い)投機家は男性ばかりだね。女性では思いつかない。
 
そしてサルの実験によると、サルはエサなどの生存上直接的な有用性のある報酬だけでなく、抽象的な情報そのものからも快感を得ることが確認されているという。従って人間もそうだろう。「抽象的な心的構成概念が快感回路を働かせられるようになっている(p192)」 
そりゃ、よくわかるよ。 お気に入りの野球チームが勝って狂喜するファンとか、私達の日常でありふれたことだからね。
 
そこからさらに発展すると「観念」は依存性薬物と類似した働きもすると指摘する。これは重要な指摘だ。宗教でもイデオロギーでも自分が帰依している観念に対する執着が、時に非合理的なレベルまで嵩じることも、よくあることだ。
 
「経験により脳内の快感回路を長期的に変化させる能力のおかげで、人間は様々なものを自由に報酬と感じることができ、抽象的観念さえも快いものにできる。人間の行動や文化の多くはこの現象に依存している。しかし残念なことに、その同じプロセスが快感を依存症へと変化させてしまうのである。(p195)」 
 
著者は依存症を「快感のダークサイド」と呼んでいる。 ジェダイのフォースと、シスのダークサイドのパワーは表と裏、ポジとネガのように一体不可分の関係にあるということだ。
映画マトリックスでも、ネオとスミスの関係がポジとネガの関係にあることが強く示唆されていたことを思い出すね。 このモチーフは神話や伝説でも、繰り返し登場するものだが、実は人間の脳の構造・働き方に根ざしたものだったんだ・・・というようにも解釈できる。
 

「新幹線とリニア 半世紀の挑戦」(村串栄一、光文社、2012年1月)を読んだ。
(↑例によってアマゾンにレビュー書きました。よろしかったらアマゾンのサイトで「参考になった」をクリックしてください) 
 
「事故になれば大騒ぎ、何事もなければ報道されず」がこの世(マスコミ)の常だ。

東日本大震災の津波でメルトンダウンを起こした福島原発事故が、日本の高いと思われてきた技術力への不信にまで発展するのも、まあやむを得ない面もある。しかし未曾有の大震災にもかかわらず、最高時速300キロを超える東北新幹線が、脱線もなく、ひとりの死傷者も出さずに済んだことは、実は驚くべき事実ではなかろうか。

本書がスポットを当てるのは、そうした「無事であたりまえ」を実現するために費やされてきた技術陣をはじめとするJRの裏方の努力だ。

海岸に設置された地震の初期微動を感知する地震計からの信号が「5秒早く」列車を自動的に止める仕組み、1964年の新幹線開業前夜から「いかに時速200キロ以上を出すかよりも、非常時にどうやって安全に止めるか」を議論、研究し続け、今では車両は時速420キロでも出せるが、安定的に出せるのは時速360キロまでという技術力を過信しない姿勢などが紹介されている。

「世界一速い高速鉄道を実現する」ことに面子をかけ、多数の死傷者を出す衝突事故を起こした某国との違いが対比される。

大規模な津波を想定せずにメルトダウンを起こしてしまった福島原発と東京電力、一方で「無事」を実現した新幹線システム、その分岐を生み出したのは何だろうか?ハード、ソフトの狭義の「技術力」を超えた「思想」「思考法」にあるのかもしれないと、本書は感じさせる。

次の夢の実現は2027年を目標にしたリニアである(第5章)。リニア技術についてはドイツは先行していたが、事故を起こし、ドイツ国内でのリニア建設計画は放棄されてしまったという。
ぜひ日本で安全で超高速のリニアを実現して欲しい。

竹中正治HP

↑このページのトップヘ