たけなかまさはるブログ

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タイラーコーエン著の「大格差(Average Is Over)」(NTT出版2014年)を読んだ。
主たる内容は、情報技術革命、とりわけ人工知能の急速な発達が所得格差の一層の拡大をもたらすという技術革新による経済格差論だ。
 
つまり従来のホワイトカラー・ミドルクラスの仕事を機械が代替する傾向が今後ますます進む。その結果、これまでのミドルクラスは、低賃金の現場労働者と高付加価値の知的創造的労働者に2極化していく。
人工知能の急速な発達で、医師や法律家、エコノミストなどの業務領域もコンベンショナルな業務から次第に人工知能に代替されていく。
そうした技術環境の中で、優位に立ち高所得を享受できるのは、人工知能の機能をフルに活用しながらそれと協業できる業務クラスの人材である、という内容だ。
 
これは近年では目新しい説ではない。最近読んだ同分野の関連書籍としては、
 「機械との競争(Race Against The Machine)」 (日経BP社、2013年)などがある。
 
むしろ私の目を引いたのは最終章である第12章の「新しい社会契約」だ。経済格差が一層広がると、その果てに社会はどのような社会になるのか? 格差の拡大に怒った大衆の反逆が頻繁に起こり、政治的な激変が起こり得るのか、あるいは別のコースとなるのか、この部分の見解だ。
 
コーエンの見解は米国の保守派の見方をある程度代表するものであり、例えばリベラル派の中でもかなり極端な(少なくとも米国の政治的な位置では)レフトウィングを代表するPクルーグマンの見解と鋭く対立する。この点が興味深いので、以下まとめておこう。
 
「格差はつくられた」 クルーグマン
この点に関するPクルーグマンの主張は「格差はつくられた(The Conscience of a Liberal)」 (早川書房、2008年)にまとめられている。
 
クルーグマンにとって米国の現代政治史上の最大の謎は、共和党がその富裕層とビッグビジネス優先の政策にもかかわらず、大衆的な支持を、しかも富裕でもなんでもない層の支持まで獲得、維持することに成功してきたことだ。この問題に対する同氏の直近の見解が本書にまとめられている。
 
まず技術革新やグローバリゼーションと経済格差の関係について、従来は同氏も技術革新&グローバリゼーション⇒所得格差拡大という因果関係をある程度受け入れていたが、逆ではないかと考えるに至ったという。 つまり共和党がより先鋭に保守化した結果生じた「党派主義という政治的な変化こそが経済的な不平等と格差の大きな要因なのではないか」(P10)
 
その結果実現した政策が、例えば80年代のレーガン政権や2000年代のブッシュ政権による富裕層優遇の大減税や所得税の累進税率のフラット化(あるいは逆転)である。
 
そして共和党がその富裕層とビッグビジネス優先の政策にもかかわらず、米国の大衆的支持、富裕でもない草の根保守層の支持を維持してこられた理由を以下のようにまとめる。
 
戦後1970年頃までは経済的な成長と格差の縮小、あるいはすくなくとも成長の比較的平等な分配が実現したが、1980年代はレーガン政権の下で、所得格差の拡大が急速に進み始めた時期だ。ところが同時に、この時期は保守派ムーブメントが大いに強まった時期でもある。
 
「『保守派ムーブメント』は、一般大衆の感情にアピールする2つのことを見出し、広い大衆支持基盤を掘り起こすことに成功したのである。その2つとは白人の黒人解放運動に対する反発と、共産主義に対する被害妄想であった。」(P82)
 
要するに共和党は、この2つの大衆的な情念を巧みに利用するのとにより、その反大衆的な経済政策から大衆有権者の目をそらすことに成功したのだという。
 
この主張は、同書の9章でさらに詳述されるのであるが、私は十分に合点がいかず、ずっと考え続けていた問題だ。 たとえば、黒人の公民権運動が勃興した1960年代には、人種差別的な感覚からそれに反発する白人層が、低所得者層にも広がった。 
 
民主党は公民権運動を支持するリベラルな立場をとった。南部の諸州は伝統的には民主党の支持基盤が強い地域だったが、これを機に南部の中・低所得層の白人(従来の民主党の支持層)が、公民権運動に寛容ではない共和党の支持に転換するという政治的に大きな変化が生じた。これは米国政治史の常識だ。
 
しかし私は思うのだが、その変化のインパクトは60年代がピークであり、70年代まで影響が持続したとしても、80年代以降の今日まで保守派の政治的な武器として強い効果を発揮していると考えるのは、かなり無理がある。なにしろ、今や黒人が大統領になった時代なのである。
 
もうひとつの「共産主義に対する被害妄想」については、80年代にはレーガン大統領がソ連を「悪の帝国」と呼び、「ソ連を圧倒する軍事力を築く」という扇動が大衆にもある程度の効果を持ったと考えられる。しかしソ連は91年には崩壊し、米国を脅かす超大国ではなくなってしまった。
 
にもかかわらず、2010年代の今日まで共和党が大衆的な支持基盤を維持している。その理由はクルーグマンの説では上手く説明できないだろう。
 
クルーグマンの志向するリベラルは、ミドルクラス社会への回帰である。(P239) その観点から経済格差の拡大、ミドルクラスの解体・2極化は、自由な米国社会の優位点である「機会の平等」も損ない、民主主義的な政体の基盤すら掘り崩す危機への道だとして警鐘を鳴らす。この点は、私も共感できる。
 
「経済格差の拡大は怒れる大衆の反逆ではなく、むしろ社会の保守化を進める」 コーエン
コーエンは上記著書で、クルーグマンとは真逆の社会変化をイメージしている。
まず、上述した技術革新の波は、おそらく人口の10~15%の人々にますます経済的な豊かさをもたらし、それ以外の人々の所得は頭打ち、あるいは減少するかもしれないという。(P275) つまり2極化は1%対99%ではなく、15%対85%だという。
 
経済的格差の結果、低所得者層は住宅コストの安い地域へ移動する。米国はもともと所得階層による地域の住み分けが、日本よりもずっと進んでいる社会だが、そうした住み分けがますます進むということになる。
 
「所得の2極化が進み、多くの高齢者と貧困層が家賃の安い土地に住むようになる未来。そういう時代に、政治はどのようなものになるか?」
「アメリカ社会が抗議活動に引き裂かれ、ことによると政治的暴力が吹き荒れると予測する論者も多い。 しかし私の見方は違う・・・・アメリカ社会はもっと保守的になると、私は予想している。政治的に保守的になり、変化を好まなくなるのだ。」(P300)
 
保守化の理由の第1は、米国でも進む高齢化だ。革命や抗議運動は血気盛んな若い世代がやることであり、高齢者層は中・低所得層も変化を好まない保守的な傾向が強いからだ。
 
第2の理由は、人間の格差に対する感覚は、同じ地域や職場の同僚など自分に極めて身近な存在と自分を比較することから生じるものであり、そもそも中位・下位所得の大衆はスーパーリッチな階層や高学歴インテリの富裕層と自分を比較して不満を募らせるようなことはないのだという。
 
社会不安の度合いを数値で評価すると、犯罪率がひとつの指標になるが、米国の犯罪率は過去数十年間にわたり低下してきた。格差が拡大したからと言って、米国のように絶対水準が豊かな国では社会秩序が悪化、不安定化するとは限らないことを歴史が語っている。(P302)
 
実際、戦後米国でデモと暴動の嵐が吹き荒れたのは、60年代から70年代であり、リベラル派が所得格差が縮小した、あるいは経済成長の成果が比較的平等に分配された時代ではないかという。
 
「左派の論者(あきらかにクルーグマンらをイメージしている)は、格差に手を打たなければ、人々が力で問題を解決しようとするだろうと主張する。 ・・・・この種の主張をする人たちは、そうした暴力の影を利用してみずからの主張に力をもたせよとしている」(P303)
 
「アメリカでいま保守主義の力が最も強いのは、所得水準と教育水準が最も低く、ブルーカラー労働者の割合が最も多く、経済状況が最も厳しい地域だ。」
「一方、最もリベラルなのは、高所得の専門職が多い都市部や都市郊外の住宅地だ。」(P305)
 
「低所得層は2つのグループに分かれる。一方は、極端な保守主義を信奉する人たち、もう一方は、民主党穏健派が支持する社会福祉制度を頼りにする人たちだ」(P306)
 
以上、対極的な見解を紹介した。
私自身はこの問題をどう考えるかというと、健全なミドルクラスを分解させてはならないというクルーグマンの信条には惹かれる。一方、上述の通り、クルーグマンの説明には無理を感じており、経済格差がもたらす社会・政治的な変化の事実認識の点ではコーエンの見解の方が説得力があると思う。
 
この問題、日本について考えるとどうなのか?長くなったので、それはまたの機会に。
 
追記:
コーエンの著作の最後に若田部昌澄教授(早稲田大学政治経済学術院)が解説を寄せて、以下のように語っている。「仮にコンピュータ化と機会の勃興の加速化という診断を認め、かつ政治システム改革を前提としなくても、もう少し政策には改善の余地があるかもしれない」(P338)
 
このコメントは経済成長率と格差問題の双方に関しているようであるが、この指摘の通り、技術革新による格差の拡大がたとえ必然的な傾向あろうとも、税制や社会保障給付のあり方を調整すれば、たとえグローバル化の時代とは言え、一国内で経済的な格差の拡大を抑制することは政策技術的には可能であろう。
 
「21世紀の資本主義」のピケッティ氏は所得再分配のための「グローバルな累進課税制度」という到底実現不可能な政策を提起しているが、富裕層の税率が少々高いからと言って、海外に移籍してしまう富裕層は極々少数に過ぎない。むしろ問題はどの程度の格差抑制が望ましいのか、そのためのコストを社会各層がどのように負担するのか、その点の国民的合意を形成することが難しいことであろう。
  
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

8月のこの時期になると、原爆、終戦(敗戦)のテーマがTVなどメディアで特集などされますね。まあ、一種の国民的なトラウマなのだから、ある意味で当然だけど、世間に流布する議論のあり方にいまいちしっくりとこないものを感じてきました。 
 
そのしっくりとこないものが何のなのか? それ考えて書いた2010年8月(日経ビジネスオンラインの論考です)。再掲で恐縮ですが、ご覧になってない方も多いと思うので、それに自分ではかなり気に入っている論考のひとつなので、そのまま掲載させて頂きました。
 
掲載当時は、共感くださるコメントと当時にネトウヨ系の「何言ってやがるんだ!」風のコメントが殺到して、けっこう火を噴いた感じがあります(^_^;)
***
「なぜもっと早く降伏できなかったのか」を議論しよう
原爆記念日に考えた日本的二分法の危うさ
2010年8月17日(火)  竹中 正治  日経ビジネスオンライン
 8月6日の広島平和記念式典にルース駐日大使が米国の代表として初めて出席したことが話題になった。広島に原爆を投下したB29爆撃機エノラ・ゲイの機長ポール・ティベッツ氏(故人)の息子さんはテレビ・インタビューで、広島の式典への米国代表の参加について、「参加すべきではなかったと思う」と不快感を示したという。
 
 もっとも原爆投下についてルース大使が謝罪を述べたわけではない。これに対して、日本の被爆者やその遺族・家族らは強い不満を感じているようだ。一方、米国では「参加したこと自体が『無言の謝罪』になるので許せない」という批判が起こっている。ポール機長の息子さんは、同じテレビのインタビューで「原爆投下が戦争終結を早め、多数の人々の命を救ったとして、『当然、正しいことをした』と話したという。
 
 「原爆投下がなければ、降伏しない日本は本土決戦となり、日米ともに原爆による死者数をはるかに上回る数の死者が出たはずだ。それを避けるために原爆投下はやむを得なかった」
 こういう意見は米国ではむしろ今に至るまで支配的だ。(ちなみに広島の原爆死者数は1945年時点で9万~14万人、累計で約22万人、長崎は累計で約15万人だという)
 
サンデル教授の「正義」を当てはめてみると…
 この議論に改めて接して、私の脳裏に浮上した1冊の本がある。最近NHKで講義が放映されて日本でも大評判となった米ハーバード大学マイケル・サンデル教授の「正義(JUSTICE What's the right thing to do?)」だ。倫理・哲学分野としては異例の超ベストセラーになった。
 
 お読みになった方もいるだろうが、「暴走する路面電車」の例が「正しいこととは何か」を考えるケーススタディーとして第1章に登場する。あなたは路面電車の運転手だが、ブレーキが壊れて電車は暴走している。正面方向には線路で工事をしている人が5人いて、電車の暴走に気がついていない。このままなら5人が轢かれて死ぬ。ところが右に線路の待避線があり、そちらでも線路で人が働いているが1人だけだ。
 
 さてあなたはどうする? 何もせずにまっすぐ暴走して5人を死なせるか、あるいは右の待避線にハンドルを切って1人の死を選ぶか?  私も大学の学生諸君に実際に問うてみたが、大多数の学生は右にハンドルを切って1人死なすを選択する。やむを得ざる場合は最小限の不幸で済ませるのが正しいという選択だ。
 
 そこで、サンデル先生は、ケース2を提示する。  あなたは、その路面電車の線路を見下ろす橋の上に立っており、傍らにはとても太った男が立っている。あなたが彼を橋から突き落とせば、彼の巨体が電車の行く手を阻んで線路上の5人を救えるとする。しかし彼は死ぬ(あなたが飛び降りたのでは小柄過ぎて電車は止められない)。
 
 あなたは何もしないで5人の死を見るべきか、あるいは彼を突き落として、1人の死を選ぶべきか。この場合、既存の法律などは関係ないとして、正しい選択はどちらか。5人の死か、1人の死かという選択はケース1と変わらない。しかし、ケース1と違って1人の死を選択すべきだという人は一転、極めて少数となる。
 
 「最初の事例では正しいと見えた原理(5人を救うために1人を犠牲にする)が、2つめの事例では間違っているように見えるのはなぜだろうか?」とサンデル先生は問う。
 
あれが日本だったら、どのような選択をしたか?
 要するに私たちの社会には「できるだけ多くの命を救うべし」という原則と、「どのような状況であっても無実の人を殺すのは間違いだ」という異なった原則があり、いずれも捨てられない。ところが2つの原則が対立し、私たちが道徳的に板挟みになることがあるという厄介な事実が、提示されているわけだ。
 
 5人を救うために1人の犠牲を正当化する思想は、「最大多数の最大幸福」を原理とする功利主義の系譜であり、それが原理主義的に極端になると個人の自由も人権も結果的に否定される。サンデル先生はそこまで書いていないが、共産主義への「歴史の進歩」のために労働者階級による独裁を唱えた20世紀の共産主義は、ある意味で功利主義の思想的伝統を継承したと言えよう。
 
 その対極が、個人の自由を至上とする米国のリバタリアニズムであろうか。米国のリバタリアニズムは特異な思潮傾向で、保守派に属しながらも、その個人主義的な自由原則の徹底の故に一切の対外的な軍事的関与に反対する。リバタリアニズムを自覚的な信条とする人々は対イラク戦争にも反対だった。
 
 アメリカ人の原爆投下を合理化する議論は、「5人の命を救うために1人の命を犠牲にして何が悪いか」と主張していることになる。日本人の私たちが米国の原爆投下の論理を肯定できないのは、この場合、犠牲になって死んだのが日本人ばかりだからだろう。仮に原爆投下で死ぬ人間の半分がアメリカ人だったら、たとえ本土決戦の場合の数分の1の死者数で済んだとしても、米国政府は原爆投下には踏み切れなかったのではないか。そう考えると、やはり米国の意見は正当化のための傲慢な屁理屈に過ぎないと日本人は思う。
 
 しかし、さらに一歩踏み込んで、もし日本が原爆の開発に成功し、それを米国本土に投下する手段があったとしたらどうだろうか。 日本は間違いなくやっただろう。
 
 実際、日本は風船爆弾という気球爆弾を大量に生産し、無差別攻撃の目的で米国本土に向けて飛ばしている。ただし、ほとんど攻撃成果を上げることはなかっただけだ。
 
 もっとも、この時期の国際情勢はかなり複雑で、日本は本土決戦の準備をする一方で既に降伏交渉を模索しており、原爆投下がなくても降伏は時間の問題だったとも言われる。しかし、問題は「時間」だったのだ。米国の原爆投下はソ連の対日参戦(8月9日)という動きに対して、ソ連の対日占領を防ぐ目的で日本の降伏を促すためだったという解釈もある。もし原爆の投下がなく、日本の降伏が長引いていた場合は、ソ連軍はカラフトのみならず北海道、東北の一部に進駐していたかもしれない。その場合は、戦後の日本はドイツと同じような分裂国家になっていた可能性がある。
 
 歴史解釈はともかく、本稿では倫理の議論に限定しよう。
 
なぜ出ない?「もっと早く降伏すべきだった」論
 私が不思議に思うのは、毎年8月になると被爆問題が議論される中で、「なぜ当時の日本政府はもっと早く敗戦、降伏の決断をしなかったのだ。そうすれば、沖縄の惨劇も広島、長崎の被爆も避けられたではないか」という方向に日本での議論が向かわないことだ。
 
 「戦争したこと自体が間違いだった」として当時の日本の軍国主義を非難することは、戦後ならばたやすいし、そういう議論は繰り返されてきた。私もあの戦争は、戦争したこと自体が間違いだったと思う。しかし、間違いを犯すことは国でも個人でもあり得る。間違いだったと思った時点で、それを撤回できれば被害は少なくできる。
 
 もちろん、戦争遂行者(権力者)は無条件降伏となれば処罰は必至だから、容易には降伏などしない。それでも、それができなかった故に国民の命と財産の莫大な損耗に輪をかけたことを訴える、あるいは問題にする声があっても良さそうなのだが、なぜか日本の議論にはそれが欠けている。
 
 原爆は是か非か、戦争は是か非か、軍事力は是か非か──。白か黒かの二分法の論理だけに議論が支配されている。興味深いことに、旧日本軍では戦争の展開までも、勝利か玉砕かの二分法に支配され、「投降」という選択肢が最初から否定されていた。「撤退」という言葉すら否定されて「転進」と言われた。これはけっこう根の深い問題かもしれない。次にこれを考えてみよう。
 
戦闘を凄惨化した投降否定の日本軍律
 2007年のクリント・イーストウッド監督の映画「硫黄島からの手紙(Letters From Iwojima)」は「父親たちの星条旗(Flags of Our Fathers)」との異色の姉妹編だ。「星条旗」は父島で星条旗を掲げたことでヒーローとして祭り上げられてゆく米国兵士らの心の屈折と悲劇を描いている。一方、「硫黄島」は終始日本人兵士の目線でその苦悩が描かれている。
 
 この2つの映画を見ると、旧日本軍と米軍の対照的なカルチャーの違いを感じずにはいられない。米軍は様々な逸脱があっても、原則的には可能な限り兵隊を生きて祖国に帰還させることを前提に作戦を進める。負けとなれば撤退し、戦闘不能になれば降伏、投降することは恥ではない。
 
 一方、日本軍は最初から滅私奉公主義で、命を捨てることが前提とされている。出兵する兵士に「無事に生きて戻って来ておくれ」という家族の本音を人前で語ることさえタブーだった。日本軍の軍律では、銃弾が尽きて戦闘不能になっても降伏は厳禁であり、投降すれば非国民扱いとなる。だから万策尽きると、日本軍は「自決」するか「玉砕」するしかない。
 
 栗林中将は「安易な玉砕」すら禁じた。その結果、硫黄島に配置された約2万余の日本兵は、戦闘開始から約1カ月で組織的な戦闘が終わった後も、投降せずに地下壕にこもり続けた。
 
 その結果、小さな島であるにもかかわらず、米軍は制圧するのに長い時間を要した。日本兵が潜んでいると思われる地下壕に海水を注ぎ、ガソリンを流し込んで火をつけ、まるでネズミ駆除のような凄惨な「掃討作戦」が行われたのだ。
 
 映画の中で栗林中将は「本土への米軍の侵攻を1日でも遅らせるために最後の1人まで戦うべし」と訓示する。
 
 2006年8月にNHKが制作、放映した硫黄島の戦闘に関するドキュメンタリー番組によると、硫黄島での日本軍の予想以上の抵抗で当初の想定を大幅に超える2万8000人もの死傷者を出した米軍は1つの教訓を引き出したと言う。
 
 それは日本が降伏しない場合に予想される本土上陸戦において、アメリカ兵の人的な損耗を最小限にするために、日本本土への徹底的な空襲を行い、事前に日本の攻撃力、戦意を最大限に削ぐことだった。こうして徹底的な大空襲や2発の原爆の投下につながった。戦争が生み出す運命はまことに容赦がなく皮肉で、無慈悲だ。
 
映画「大脱走」に見る捕虜になるのを恥じない文化
 こうした旧日本軍と対照的な米軍のカルチャーが描かれた映画が「大脱走(The Great Escape)」(1963年)だ。スティーブ・マックイーンを始め、当時あるいはその後のハリウッドの代表的なスターとして活躍した俳優たちが勢揃いしたこの映画、アメリカ人の間では「大好きな戦争映画」の代表作として金字塔的な存在である。
 
 欧州戦線でのドイツとの戦いで捕虜となったアメリカ兵を含む連合軍兵士たちが集められたドイツの捕虜収容所で、彼らは「捕虜収容所から脱走し、敵地で後方を撹乱してやろう。成功すれば、敵地を脱し、祖国に帰還できる」と空前の規模の大脱走を企てる。米国の陸軍情報部の秘密組織MIS-Xからの極秘支援があったことも今では知られている。
 
 映画で描かれるのは、死ぬ前に降伏し、捕虜となっても脱走することで抵抗し、最後まで生きて祖国に帰ることを諦めない執着と楽観主義だ。とりわけこの映画の最人気はスティーブ・マックイーンが演じるキャラクターで、彼は収容所から脱走しては捕縛され、それでも脱走、捕縛、独房、再脱走を繰り返すダイハード・ガイだ。捕縛されることは悔しいが恥とは思わない。 「だって、生きてさえいれば、また脱走することができるだろう」
 
投降否定の背後にある「討ち死に精神」
 旧日本軍の「降伏否定」や兵士の損耗を顧みない体質を生み出した原因は、いくつか考えられる。第1は当然ながら当時の日米の国家観と政体の相違だろう。米国の個人主義を基本にした民主制政体に比較して、当時の日本は天皇という君主あっての国家であり、国民は君主に尽くす臣民である。危機存亡の時となれば臣民の命は消耗品でしかなくなった。
 
 第2の要因は旧日本軍の物理的な劣勢であろう。とりわけ、戦争の後半からは軍事的な劣勢のために、多くの兵士を帰還できる見込みのない戦闘に駆り立て、そうした作戦を正当化するために、命を投げ捨てる滅私奉公がますます美化された。劣勢にある集団ほどメンバーに自己犠牲を求め、それを正当化・美化するイデオロギーを喧伝するものだ。今日ではイスラム過激派の自爆テロにそうした例を見る。
 
 第3の要因は日本に根強い一種の観念論的精神主義である。このルーツは旧日本軍以前の時代にまでさかのぼるようだ。それを象徴する場面をNHK大河ドラマ「龍馬伝」の中で見た。土佐藩の武市半平太は勤皇党を組織し、尊王攘夷を掲げる。武市が勝海舟や龍馬と議論になる場面があった。
 
 勝が欧米列強の軍事、経済、科学技術の面での優位を説き、今の日本に攘夷を行う力はないと説く。これに対して武市はこう主張する。
「異国がどんなに大きかろうと、どんなに強かろうと、そんなことは関係ない。神州日本の地が異人によって汚されている。だから死を賭して討ち払うだけだ!」
 
 この種の発想法からは「間違っていたから修正する。負けたら降伏する」という選択肢は出てこない。失敗した時は討ち死にするだけだ。
 
 アメリカ文化を特徴付ける1つの要素がプラグマティズムだとすると、武市に見るのは現実的合理的な判断を否定する観念論的精神主義であろう。これは藩全体が攘夷に傾斜した長州藩の行動にも表れている。司馬遼太郎は「竜馬がゆく」の中で語っている(第4巻60ページ)。
 
「幕末における長州藩の暴走というものは、一藩発狂したかと思われるほどのもので(中略)……当時の長州藩は、本気で文明世界と決戦しうると考えていた。……(中略)この暴走は偶然の理由で拾いものの成功をしたが、『これでいける』という無知な自信をその後の日本人の子孫に与えた。特に長州藩がその基礎をつくった陸軍軍閥にその考え方が、濃厚に遺伝した」
 
「攘夷」という思考停止は「平和主義」という思考停止に?
 私はこの3番目の文化的要因を強調しておきたい。というのは、この性向は今でも私たちの心の奥底に巣くっている気がしてならないからだ。
 
 以前本欄の「危機感駆動型ニッポンの危機!?(続編)」(2008年3月21日)で日本人を「危機感駆動型」と類型化し、危機感を強調する体質と、その一方で危機管理は杜撰さである傾向がどのような構図で並存しているのかを論じ、次のように述べた。
 
「様々な致命的な事故は、失敗と上手くつき合うことができなかったことが原因で起こる。要するに失敗の発生を前提とし、小規模の失敗が生じた時にはそれが大規模な失敗に発展しないようなフィードバックを働かす、あるいは起こった失敗の諸事例から失敗の要因と法則性を抽出して未然に防止する仕組みを整える、こうした運営、学習に日本型の組織、教育は弱いのではなかろうか」
 
「旧日本軍は作戦の立案から遂行まで全ての面にわたって、失敗した場合の代替策を用意せず、成功も失敗も合理的に分析して教訓を抽出することのない組織だった。合理的で柔軟な戦略形成が不在だから、特に戦争の後半戦では兵力において勝る米軍に対して、本土防衛の危機感をあおり、あるいは『精神力では勝っているから勝機はある』などという陳腐な鼓舞を繰り返し、玉砕していったわけである。東条英機の『人間たまには清水の舞台から目をつぶってとび降りることも必要だ』という情緒に支配されて開始された戦争は、危機感をあおりながら、危機管理のない戦争として展開していったわけだ」
 
 幕末の攘夷思想も、旧軍国主義体制も崩壊したものの、観念論的な精神主義は今でも私たちの心の底に形を変えて巣くっている気がしてならない。というのは、排外主義的なイデオロギーは姿を潜めているものの、世界における戦争と他国の軍備の存在を前提に、日本の安全保障政策を現実的に理性的に議論する風潮も論壇も育っていないからだ。
 
 攘夷という排外主義的な思考停止は、平和主義という別の思考停止にとって代わられただけではなかろうか。
 
 その結果、少数の犠牲か、多数の犠牲か、その二者択一を迫られると日本政府はほとんど判断麻痺に陥る。そうした空白の結果、将来再び日本が安全保障上の危機に直面した時、新たな武市半平太や長州藩が登場しても不思議はないと危惧するのは私だけだろうか。
***
 
 

毎年8月6日から15日は、原爆と戦争の番組がTVでいっぱいになりますが、
私は毎年、微妙だけど根の深い違和感を感じてきました。

それを3年前に論考にして日経ビジネスオンラインに投稿したのが以下のものです。
コメント殺到しました。こういうの「炎上」というの?(^_^;)
今でも考えは変わりません。...

ちょっと長いですが、ご参考まで・・・・<(_ _)>
http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20100811/215770/?P=1

一部引用:「私が不思議に思うのは、毎年8月になると被爆問題が議論される中で、「なぜ当時の日本政府はもっと早く敗戦、降伏の決断をしなかったのだ。そうすれば、沖縄の惨劇も広島、長崎の被爆も避けられたではないか」という方向に日本での議論が向かわないことだ。

 「戦争したこと自体が間違いだった」として当時の日本の軍国主義を非難することは、戦後ならばたやすいし、そういう議論は繰り返されてきた。私もあの戦争は、戦争したこと自体が間違いだったと思う。しかし、間違いを犯すことは国でも個人でもあり得る。間違いだったと思った時点で、それを撤回できれば被害は少なくできる。

 もちろん、戦争遂行者(権力者)は無条件降伏となれば処罰は必至だから、容易には降伏などしない。それでも、それができなかった故に国民の命と財産の莫大な損耗に輪をかけたことを訴える、あるいは問題にする声があっても良さそうなのだが、なぜか日本の議論にはそれが欠けている。

 原爆は是か非か、戦争は是か非か、軍事力は是か非か──。白か黒かの二分法の論理だけに議論が支配されている。興味深いことに、旧日本軍では戦争の展開までも、勝利か玉砕かの二分法に支配され、「投降」という選択肢が最初から否定されていた。「撤退」という言葉すら否定されて「転進」と言われた。これはけっこう根の深い問題かもしれない。次にこれを考えてみよう・・・・
 
論考後半の結論部分引用:「幕末の攘夷思想も、旧軍国主義体制も崩壊したものの、観念論的な精神主義は今でも私たちの心の底に形を変えて巣くっている気がしてならない。というのは、排外主義的なイデオロギーは姿を潜めているものの、世界における戦争と他国の軍備の存在を前提に、日本の安全保障政策を現実的に理性的に議論する風潮も論壇も育っていないからだ。
攘夷という排外主義的な思考停止は、平和主義という別の思考停止にとって代わられただけではなかろうか。」

*****
新著「稼ぐ経済学~黄金の波に乗る知の技法」(光文社)2013年5月20日発売中
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takenakamasaharu/  Yahooニュース個人

共著で一冊出版致します。発売は1月12日の予定です。
 
PHP研究所、1月12日発売予定
 
以下は出版社による本書の概要説明:
中国、アメリカ、朝鮮半島、インド・パキスタン、イラン……。「政権交代の2012年」の前年、各国で発生する内部闘争が国際政治を大きく動かし、アジアに“大津波”が発生する危険が高まる!
中国の内部情報に詳しい清水美和氏(東京新聞論説主幹)、各国のインテリジェンス活動に精通したジャーナリスト・春名幹男氏、米国経済・為替分析に定評のあるエコノミスト・竹中正治氏、サイバー・セキュリティの専門家・名和利男氏など、当代一流の情報分析のプロ8人が集まり、「ワールドアナリシス・グループ」を結成。
新聞やテレビでは報道されない、プロが独自に集めた最新の現地情報が満載。さらに、そこからの見通された驚愕のシナリオは、大変刺激的だ。 世界各国に事業展開を図る日本企業、さらにはビジネスマンが、リスク管理のために押さえておくべき見方が盛り込まれた、価値のある一冊。
 
補足:
共著者の中で一番シニアな方は、春名幹男氏で代表的なご著書には「秘密のファイル、CIAの対日工作(上下)」があり、私も以前読んで勉強しました。元共同通信で米国政治、国際政治情勢をご専門にされてきた先生です。
 
私は米国経済の章を担当しています。本書の編集方針として、リスク要因に焦点を絞って書くということでしたので、米国経済の抱えるリスク要因にスポットを当てています。ただし、それらのリスク要因が実際に顕現化して、2011年に米国経済の回復が失速、あるいは長期低迷に陥る可能性は、主観的な確率としては「25%、あるいはそれ以下」と明記しておりますので、誤解のされないようにお受けとめください。私の米国経済にかんするメインシナリオは2009年半ばから「回復過程の持続」でずっと変わっていません。
私と欧州経済の章を担当した西村陽造さん以外は、国際政治情勢に詳しい執筆陣ですので、北朝鮮問題や中国を巡る国際政治情勢の変化などについてご関心のある方に、特にお薦めできます。
 
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