タイラーコーエン著の「大格差(Average Is Over)」(NTT出版2014年)を読んだ。
主たる内容は、情報技術革命、とりわけ人工知能の急速な発達が所得格差の一層の拡大をもたらすという技術革新による経済格差論だ。
つまり従来のホワイトカラー・ミドルクラスの仕事を機械が代替する傾向が今後ますます進む。その結果、これまでのミドルクラスは、低賃金の現場労働者と高付加価値の知的創造的労働者に2極化していく。
人工知能の急速な発達で、医師や法律家、エコノミストなどの業務領域もコンベンショナルな業務から次第に人工知能に代替されていく。
そうした技術環境の中で、優位に立ち高所得を享受できるのは、人工知能の機能をフルに活用しながらそれと協業できる業務クラスの人材である、という内容だ。
これは近年では目新しい説ではない。最近読んだ同分野の関連書籍としては、
「機械との競争(Race Against The Machine)」 (日経BP社、2013年)などがある。
むしろ私の目を引いたのは最終章である第12章の「新しい社会契約」だ。経済格差が一層広がると、その果てに社会はどのような社会になるのか? 格差の拡大に怒った大衆の反逆が頻繁に起こり、政治的な激変が起こり得るのか、あるいは別のコースとなるのか、この部分の見解だ。
コーエンの見解は米国の保守派の見方をある程度代表するものであり、例えばリベラル派の中でもかなり極端な(少なくとも米国の政治的な位置では)レフトウィングを代表するPクルーグマンの見解と鋭く対立する。この点が興味深いので、以下まとめておこう。
「格差はつくられた」 クルーグマン
この点に関するPクルーグマンの主張は「格差はつくられた(The Conscience of a Liberal)」 (早川書房、2008年)にまとめられている。
クルーグマンにとって米国の現代政治史上の最大の謎は、共和党がその富裕層とビッグビジネス優先の政策にもかかわらず、大衆的な支持を、しかも富裕でもなんでもない層の支持まで獲得、維持することに成功してきたことだ。この問題に対する同氏の直近の見解が本書にまとめられている。
まず技術革新やグローバリゼーションと経済格差の関係について、従来は同氏も技術革新&グローバリゼーション⇒所得格差拡大という因果関係をある程度受け入れていたが、逆ではないかと考えるに至ったという。 つまり共和党がより先鋭に保守化した結果生じた「党派主義という政治的な変化こそが経済的な不平等と格差の大きな要因なのではないか」(P10)
その結果実現した政策が、例えば80年代のレーガン政権や2000年代のブッシュ政権による富裕層優遇の大減税や所得税の累進税率のフラット化(あるいは逆転)である。
そして共和党がその富裕層とビッグビジネス優先の政策にもかかわらず、米国の大衆的支持、富裕でもない草の根保守層の支持を維持してこられた理由を以下のようにまとめる。
戦後1970年頃までは経済的な成長と格差の縮小、あるいはすくなくとも成長の比較的平等な分配が実現したが、1980年代はレーガン政権の下で、所得格差の拡大が急速に進み始めた時期だ。ところが同時に、この時期は保守派ムーブメントが大いに強まった時期でもある。
「『保守派ムーブメント』は、一般大衆の感情にアピールする2つのことを見出し、広い大衆支持基盤を掘り起こすことに成功したのである。その2つとは白人の黒人解放運動に対する反発と、共産主義に対する被害妄想であった。」(P82)
要するに共和党は、この2つの大衆的な情念を巧みに利用するのとにより、その反大衆的な経済政策から大衆有権者の目をそらすことに成功したのだという。
この主張は、同書の9章でさらに詳述されるのであるが、私は十分に合点がいかず、ずっと考え続けていた問題だ。 たとえば、黒人の公民権運動が勃興した1960年代には、人種差別的な感覚からそれに反発する白人層が、低所得者層にも広がった。
民主党は公民権運動を支持するリベラルな立場をとった。南部の諸州は伝統的には民主党の支持基盤が強い地域だったが、これを機に南部の中・低所得層の白人(従来の民主党の支持層)が、公民権運動に寛容ではない共和党の支持に転換するという政治的に大きな変化が生じた。これは米国政治史の常識だ。
しかし私は思うのだが、その変化のインパクトは60年代がピークであり、70年代まで影響が持続したとしても、80年代以降の今日まで保守派の政治的な武器として強い効果を発揮していると考えるのは、かなり無理がある。なにしろ、今や黒人が大統領になった時代なのである。
もうひとつの「共産主義に対する被害妄想」については、80年代にはレーガン大統領がソ連を「悪の帝国」と呼び、「ソ連を圧倒する軍事力を築く」という扇動が大衆にもある程度の効果を持ったと考えられる。しかしソ連は91年には崩壊し、米国を脅かす超大国ではなくなってしまった。
にもかかわらず、2010年代の今日まで共和党が大衆的な支持基盤を維持している。その理由はクルーグマンの説では上手く説明できないだろう。
クルーグマンの志向するリベラルは、ミドルクラス社会への回帰である。(P239) その観点から経済格差の拡大、ミドルクラスの解体・2極化は、自由な米国社会の優位点である「機会の平等」も損ない、民主主義的な政体の基盤すら掘り崩す危機への道だとして警鐘を鳴らす。この点は、私も共感できる。
「経済格差の拡大は怒れる大衆の反逆ではなく、むしろ社会の保守化を進める」 コーエン
コーエンは上記著書で、クルーグマンとは真逆の社会変化をイメージしている。
まず、上述した技術革新の波は、おそらく人口の10~15%の人々にますます経済的な豊かさをもたらし、それ以外の人々の所得は頭打ち、あるいは減少するかもしれないという。(P275) つまり2極化は1%対99%ではなく、15%対85%だという。
経済的格差の結果、低所得者層は住宅コストの安い地域へ移動する。米国はもともと所得階層による地域の住み分けが、日本よりもずっと進んでいる社会だが、そうした住み分けがますます進むということになる。
「所得の2極化が進み、多くの高齢者と貧困層が家賃の安い土地に住むようになる未来。そういう時代に、政治はどのようなものになるか?」
「アメリカ社会が抗議活動に引き裂かれ、ことによると政治的暴力が吹き荒れると予測する論者も多い。 しかし私の見方は違う・・・・アメリカ社会はもっと保守的になると、私は予想している。政治的に保守的になり、変化を好まなくなるのだ。」(P300)
保守化の理由の第1は、米国でも進む高齢化だ。革命や抗議運動は血気盛んな若い世代がやることであり、高齢者層は中・低所得層も変化を好まない保守的な傾向が強いからだ。
第2の理由は、人間の格差に対する感覚は、同じ地域や職場の同僚など自分に極めて身近な存在と自分を比較することから生じるものであり、そもそも中位・下位所得の大衆はスーパーリッチな階層や高学歴インテリの富裕層と自分を比較して不満を募らせるようなことはないのだという。
社会不安の度合いを数値で評価すると、犯罪率がひとつの指標になるが、米国の犯罪率は過去数十年間にわたり低下してきた。格差が拡大したからと言って、米国のように絶対水準が豊かな国では社会秩序が悪化、不安定化するとは限らないことを歴史が語っている。(P302)
実際、戦後米国でデモと暴動の嵐が吹き荒れたのは、60年代から70年代であり、リベラル派が所得格差が縮小した、あるいは経済成長の成果が比較的平等に分配された時代ではないかという。
「左派の論者(あきらかにクルーグマンらをイメージしている)は、格差に手を打たなければ、人々が力で問題を解決しようとするだろうと主張する。 ・・・・この種の主張をする人たちは、そうした暴力の影を利用してみずからの主張に力をもたせよとしている」(P303)
「アメリカでいま保守主義の力が最も強いのは、所得水準と教育水準が最も低く、ブルーカラー労働者の割合が最も多く、経済状況が最も厳しい地域だ。」
「一方、最もリベラルなのは、高所得の専門職が多い都市部や都市郊外の住宅地だ。」(P305)
「低所得層は2つのグループに分かれる。一方は、極端な保守主義を信奉する人たち、もう一方は、民主党穏健派が支持する社会福祉制度を頼りにする人たちだ」(P306)
以上、対極的な見解を紹介した。
私自身はこの問題をどう考えるかというと、健全なミドルクラスを分解させてはならないというクルーグマンの信条には惹かれる。一方、上述の通り、クルーグマンの説明には無理を感じており、経済格差がもたらす社会・政治的な変化の事実認識の点ではコーエンの見解の方が説得力があると思う。
この問題、日本について考えるとどうなのか?長くなったので、それはまたの機会に。
追記:
コーエンの著作の最後に若田部昌澄教授(早稲田大学政治経済学術院)が解説を寄せて、以下のように語っている。「仮にコンピュータ化と機会の勃興の加速化という診断を認め、かつ政治システム改革を前提としなくても、もう少し政策には改善の余地があるかもしれない」(P338)
このコメントは経済成長率と格差問題の双方に関しているようであるが、この指摘の通り、技術革新による格差の拡大がたとえ必然的な傾向あろうとも、税制や社会保障給付のあり方を調整すれば、たとえグローバル化の時代とは言え、一国内で経済的な格差の拡大を抑制することは政策技術的には可能であろう。
「21世紀の資本主義」のピケッティ氏は所得再分配のための「グローバルな累進課税制度」という到底実現不可能な政策を提起しているが、富裕層の税率が少々高いからと言って、海外に移籍してしまう富裕層は極々少数に過ぎない。むしろ問題はどの程度の格差抑制が望ましいのか、そのためのコストを社会各層がどのように負担するのか、その点の国民的合意を形成することが難しいことであろう。