たけなかまさはるブログ

Yahooブログから2019年8月に引っ越しました。

タグ:その他映画

今日、映画GANTZの後半編「GANTZ Perfect Answer」を見て来た。
 
以前GANTZのアニメと映画(前半編)をこのブログでコメントした時に、ワシントン時代の若い友人(私より一世代若い、と言っても30歳代だが)が、わざわざEメールしてきて、「ブログを拝見したところ、竹中さんはまだ原作マンガは読んでいないと書いていましたが、GANTZは原作が凄い、いや凄すぎるんです。アニメも映画も原作の世界に全然及ばないと思います」と言っていた。
 
もちろん、原作マンガも読むつもりだったが、読みだせば間違いなく「はまる」予感があったので、ちょっと暇になってから、おそらく夏休みにでも読もうか、と思っていた。しかし、「凄すぎるんです」と言われると気になって抑えられなくなった。とうとうGWの後半から古本(Book Off)で買って読み始めた。
 
やはり、はまった・・・・(^_^;) 
一気に読んでしまうともったいないので、1冊ずつ買いながらまだ21巻までしか読んでないが。
しかし、バトル系マンガってのは、どうして男性に対してこう普遍的な吸引力があるんだろうね。
 
私は昔少年ジャンプで連載していた「北斗の拳」にはまって、30歳過ぎても「北斗の拳」が読みたくて、毎週少年ジャンプを買って読んでいた。ある日、駅のキオスクで少年ジャンプを買ってそのまま電車に乗って女房の実家に行った時のことだった。義理母が「まあ、竹中さんも少年ジャンプ読むの! うちに来る子たちも大好きよ、それ」と言われた。義理母は公文式の塾で小学生を教えていたので、「うちに来る子」とは小学生の生徒たちのことだが・・・・。
 
さすがに40歳越えてからは、週刊誌ではマンガは読まなくなった。だから、GANTZも映画が出るまでは知らなかった。
 
で、原作と比べて映画の出来栄えはどうか?二宮くんや松山ケンちゃん(小雪さんとの結婚おめでとう)の熱演にもかかわらず、やはり原作マンガの世界とは比較できない、と言っておこう。
ちなみに松山ケンちゃんの日本刀での乱戦シーンは、どうも映画「カムイ外伝」のイメージと重なってしまう。
原作マンガはまだ連載中だが、作者もここまで読者をひぱってしまうと、どういうエンディングにするのか、責任重大だねえ。つまらないエンディングにしたら、熱狂的なファンに襲われたりして・・・。
 
それではみなさん、原作マンガも読んでくだチい。

遅ればせながら映画GANTZ(パート1)を見た。昨日土曜日からその後半編が封切られている。それはまだ見ていない。http://gantz-movie.com/index.html
 
このブログの読者でもあるナドレックさんが前半編については、既にブログに書かれている。
 
マンガが原作だが、私はマンガは読んでいない。そのかわり、TVアニメ版については今年の春休みにDVDで借りて全部見た。けっこうはまった。 昔読んだカミュの小説と同種の不条理な雰囲気に、マンガ仕立てのバカバカしいようなパロディー調がミックスされた味が、おそらくこの奇妙なストーリーの魅力だろう。原作マンガを単行本で読み始めたら、間違いなくはまるだろう。4月-5月はちょいと忙しくて、全巻30冊にはまると危険なので、原作を読むのは夏休みまでお預けにしておこうか。
 
死んだ人間がコピーの形で復活し、バトルスーツを着て得体のしれない「異星人」との生死を賭けたバトルゲームを強いられる。その理由は全く明かされないまま、バトルだけが繰り返される。「異星人」の容姿やキャラ設定も奇妙というよりも、ふざけたような設定で、本格SFに出てくる「まじめな設定」からはかけなはれている。
 
映画で仏像群と戦うシーンが上野の国立博物館のロケであることにちょっと驚いた。なにしろ、仏様相手にドンパチやって、最後に仏像も、博物館の建物も、全部ぶっ壊してしまうという展開である。よくロケを許可したもんだ。 ああ、そうか、お寺だったらこんな不信心、不埒な物語には絶対に許可が下りない。博物館という信仰上は中立の組織だから許可されたのだろう。
 
私の関心を惹いたのは、主人公玄野(二宮和也くん)と加藤(松山ケンイチ)のキャラ設定だ。
人間にはハンター・タイプ(hunter)、ブリーダータイプ(breeder)の2種類がに分かれるとかねてから考えていた。ハンター・タイプは文字通り獲物を狩ることに喜びを感じるタイプで、行動面では運動的で、闘争的だ。同時に獲物を獲得してしまうと急速に関心が低下する飽きっぽさが特徴でもある。
 
ブリーダー・タイプは、生き物の飼育、保護に強い執着心を抱くタイプで、生き物を殺すのは大嫌いである。反対に、飼育している生き物がハグハグと元気にエサを食べている姿を見るだけで至福感につつまれる。
 
双方の類型は、人類の長い狩猟採集時代に進化・淘汰されて形成された行動特性だと考えている。自分がどちらの類型に属すかは、次のような想像をすると簡単に分かる。スキューバー・ダイビングで海に潜ったと想像して頂きたい。目の前に大小の魚の群れが泳いでいる。この魚たちを「もりで突いて獲物にしたい」と感じる人はハンター・タイプだ。 「この魚達に餌をやりたい」と感じるのはブリーダー・タイプである。 実は私自身は典型的なブリーダー・タイプである。
 
GANTZの玄野は典型的なハンター・タイプで、次第に獲物を狩るようなバトルに魅せられて、ハンター・タイプの属性に目覚めていく。反対に、幼い弟を守ることに強い執着心を抱き、異星人ですら殺すことに強い躊躇いを示す加藤は典型的なブリーダー・タイプである。ハンター・タイプの玄野がバトルの目的は関係なく、バトル自体に魅せられていく一方で、加藤は「命を守る」ことに強い執着を示す。「ブリーダー・タイプはバトルをしない」という意味ではない。ブリーダー・タイプは「何かを守る」ために闘う時に最大の力を発揮するタイプなのだ。実際、映画の設定では加藤は弟を虐待する父から弟を守るために父を殺し、少年院に服役した過去を背負っている。
 
もっともこのようなキャラの読み解きをしたからと言って、この物語の読み解きが深まるというわけじゃない。あくまでもパロディー調で、半分ふざけながら、奇妙奇天烈で、意味も目的も不明のバトルが延々と展開する、それがGANTZの世界である。「それではみなさン、見てくだチイ
 
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レビューを本当に書きたくなる映画に出会うことはそう多くない。
しかし映画「アレキサンドリア」(原題、AGORA)は久しぶりにビーンと来た作品だ。
 
この映画は2009年のスペイン映画(ただし日本公開は英語版)で、カンヌ映画祭で公開されたそうだ。スペインでは大反響だったそうだが、国際的な興行ネットワークでの動きは鈍かったという。だから日本ではようやく今年公開された。
 
映画の世界最大の興行市場はやはりアメリカだろうが、間違いなくアメリカでこの映画を大々的に上映しようとする興行筋はないだろう。なぜならキリスト教の反知性主義的な側面をえぐり出している歴史映画だからだ。
 
小説&映画「ダビンチ・コード」がアメリカでカトリックからごうごうたる非難を受けながらも興行的に成功したのは、ダビンチ・コードの批判がクリスチャンの半分、つまりカトリックの教義に向けられたものだからだろう。つまりアメリカでは主流のプロテスタントを敵に回していない。
 
ところが映画「AGORA」の矛先は4世紀頃に確立されるキリスト教会それ自体に向けられている。だから現代のキリスト教国家であるアメリカで大規模に興行しようとすれば、クリスチャンのブーイングを浴びてボイコットされただろう。
 
舞台は紀元4世紀末のエジプト、古代史上最大の図書館があったアレキサンドリアを舞台に実在したギリシア系の女性天文学者&数学者のヒパティアを主人公にしている。4世紀にローマの国教となったキリスト教が、それまでの迫害される立場から一転して、ギリシア、あるいはローマ以来の多神教、自然哲学を嘲笑、破壊する勢力に転換していく過程が描かれている。ユダヤ教徒との相克も登場する。
 
ローマの皇帝を頂点とする権力がキリスト教側についたことで、アレキサンドリアの有力者も次第にキリスト教に転向して行く。 主人公のヒパティアはそうした宗教的な転向には一切妥協せずに、天文・自然哲学に専心しているが、最後には魔女だという避難を浴びてキリスト教徒らによって惨殺されてしまう。
 
アレキサンドリア図書館の古代からの貴重な所蔵文献がキリスト教徒によって破壊、焼却される場面は、歴史の中で古今東西様々な権力、勢力によって繰り返されてきたこととは言え、人類史における反知性主義的な蛮行として心に突き刺さる。
 
ブログをご覧になる方の中にはもしかしたらクリスチャンもいるかもしれないから、念のために言っておくと、もちろん私はクリスチャンがみな反知性主義者だと言っているわけではない。私など足元にも及ばないような教養と知性の持ち主もおられる。キリスト教という巨大で、かつある程度多様な宗教の中に反知性主義的な要素があると言っているに過ぎない。同様の事情はイスラム教についても言えるだろう。
 
この物語で思い出すのは、辻邦生の歴史小説「背教者ユリアヌス」だ。やはり4世紀のローマ帝国の末期に、ギリシア・ローマ文化を守ろうとしながら、キリスト教に傾斜していく社会の流れに抗ったユリアヌス皇帝の物語だ。 もちろん「背教者」というのはキリスト教徒からの呼び方であり、ギリシア・ローマ文化の立場からは擁護者だった。
 
私が辻邦生のこの歴史小説を読んだのは、高校生か大学生の時だったが、ローマという日本人作家にとって異文化の古代歴史を背景に、これだけいきいきとした小説が書かれていることに感嘆した記憶がある。
 
アメリカのSF映画「コンタクト(CONTACT)」も思い出した。ジョディ・フォスターが演じる無神論者であることを公言する女性科学者がキリスト教的世論と鋭く対立する場面が印象的だった。ただし、こちらの映画は宗教的な情念に対してより妥協的に出来上がっていると思った。
 
ちなみに普通のアメリカ人に「あなたの宗教は?」と尋ねられた時に「no religion」とは言わない方が良い。それは彼らにとっては「私はエイリアンです」「私はゾンビです」と言っているようなものだ。
信心がなくても「I am a Buddhist」と言っておくのが良いだろう。実際、死んだらお寺の坊さん供養してもらうのだから、ウソではない。
 
4世紀のローマ帝国でキリスト教、とりわけキリスト教諸派の中でも後にカトリック教会として確立される派が優勢になった理由、背景については、私は塩野七生「ローマ人の物語、キリストの勝利」を読んで感銘を受けたことがある。塩野さんは、キリスト教が優勢になっていくプロセスをとても世俗的な事情(税制事情など)、旧い言い方をすれば唯物史観的な観点で描き切っているのだ。観念的な言い草でごまかさない、こういう醒めた視点、私は大好きだ。
 
ところで原題のAGORAというのはギリシャ語で「広場」を意味するそうだ。ポリスの広場で様々な議論を自由に闘わせることができる政治、文化環境を象徴する言葉としてタイトルになったのではないかなと思う。そういう意味では「知」と「自由」の喪失は、歴史の中で繰り返し同時に起こったと言えるだろう。
 
我らが大日本帝国でも、政治のAGORAから合理的、理性的な機能が失われつつようで心配だ。AGORAの崩壊の次に来るものが、戦前に見られたような日本版反知性主義の復活でないと良いのだが・・・。
 
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既にブロッガー、ナドレッグさんのサイトを紹介する形で昨年12月にとり上げた映画、
The Space Battleship ヤマト をようやく昨日見た。
 
実はあまり期待していなかったのだが、細かい不満点は複数あるものの、予想以上の出来栄えだった。いや、なぜか琴線にふれる要素が多く、全く予想外にも「じ~ん」としてしまったと白状しておこう。 そのため何が琴線にふれたのか、昨晩から考えている。
 
まず、なぜ期待していなかったのか? 私には1973年-74年にTVアニメで放映された「宇宙戦艦ヤマト」の印象が心深く刻まれているので、実写版を「キムタクや黒木メイサがやるからって、なんぼのもんじゃい」というイメージがあったからだろう。原作マンガや原作アニメが、実写版映画になってがっかりするほど陳腐化する例は多いからね。
 
なぜ原アニメが私の心深く沁み込んでいるかと言うと、TV放映が始まった1973年は偶然私が大学受験を控えた高校3年生だったことも影響している。番組放映は1974年3月に完結する予定で展開した。まさに大学受験のタイミングにピタリと重なっていたのだ。
 
放映の最後に出る「地球滅亡まで後150日、急げ、ヤマト!」のフレーズは「大学受験まで後**日」という私自身の切迫感、緊張感と重なり、物語で展開する悲壮と希望の交錯が心に沁み込んでしまったのだ。
 
しかし、予想外に感じてしまった原因はそれだけじゃないだろう。
とりあえず次のような要素が考えられる。
 
1、日本人の大好きな「悲壮感」いっぱい
 悲壮感という言葉、英語に訳そうとすると一語で適切な訳語が出てこない。つまり日本的カルチャー、 価値観に特有な要素を代表している言葉なんだ。
 
2、ヒーローが最後に死ぬ(ネタバレごめん)
 日本では生き残るヒーローは2流で、真のヒーロー(伝説化されたり、神格化される)は死なねばならな い。超タフに生き残るヒーロー物語が大好きなアメリカ人のヒーロー像とは違うのだ。もちろん双方例外 はあるがね。
 
3、「戦艦ヤマト」が日本人に想起させる複雑な思い
  太平洋戦争に対する否定的情緒と同時に、その汚点を濯ぎたい、あるいは否定を肯定に転換するよ  うな復権を希求する感情
 
まだあるだろう。この映画の映画としての評価は別にして、なぜか琴線にふれる構図は、良くも悪しくも、けっこう複雑かもしれないと思い始めている。

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