たけなかまさはるブログ

Yahooブログから2019年8月に引っ越しました。

タグ:その他自然科学

NHKBS、日曜日夜のドラマ、「ハードナッツ、数学 ガールの恋する事件簿」(全8回、2回目終了)が面白くて見ている。 主演の女優はNHK朝ドラ「アマちゃん」でユイちゃん役を演じた橋本愛(役名:難波くるみ)だ。
 
第2回で出てきた数学ネタのひとつは以下の通り。
相手役の若い刑事、伴田が検診の結果、1万人に1人といわれる難病の検査で陽性と出て、再検査の必要を通知される。 検査の精度は99.9%、伴田は助からないと覚悟する。
 
クライマックスで爆弾魔の罠にはまって爆弾を仕掛けられ、動けなくなった伴田は「オレはどのみち死ぬ身だ。オレにかまわずにお前は逃げろ」とくるみに言う。
しかし、くるみは、「あれ~伴田さんが病気で死ぬ確率は・・・約1割でしかないですよ!」と言う。
 
「えっ!そうなの?なんで・・・・?検査の精度は99.9%なんでしょ」と視聴者に思わせて、その場でくるみが説明する。
 
「だって、検査の精度が99.9%ということは、10,000人のうち、0.1%、つまり10人は病気でなくても、検査で陽性と出てしまうということでしょ。でも実際に病気になるのは10,000人に1人だけ。だから~検査で陽性と出た伴田さんが本当に病気だという確率は、約1割でしかないんです!」(愛ちゃん、かわいいなあ・・・(^_^;))
*****
 
これは統計や認知心理学の一般書などで、人間が正しい確率的計算が苦手であることの事例としてよく紹介されるケースだ。 検査の精度が99.9%と言われると、検査で「陽性」と出ると「ほぼ確実に、99.9%の確率で病気だ」と思ってしまう。しかし実際には、検査の適否は検査の精度と当時に現象(ここでは病気、罹患比率)の度合いに依存している。
 
ドラマのこの場面で、一緒に見ていた家族に「今の愛ちゃんの説明、わかった?」と尋ねたら、中学2年生の息子は「わからない・・・」、一方 大学1年生(理系)の娘は「あったりまえのことでしょ」との反応、やはり統計の基礎で習っていないと瞬間的にはわからないよね。
 
以下解説
罹患(病気)比率:0.01%(10,000人に1人)
検査の精度:99.9%(0.1%は誤った結果が出る)
 
非罹患者(問題なし人)9,999人
①うち検査で陰性(病気でない)と出る人数:9989=(9999×0.999)  正しい検査結果
②うち検査で陽性(病気だ)と出る人数:9.999=(9999×0.001)     誤った検査結果
罹患者1人 
③うち検査で陽性(病気だ)と出る人数:0.999=(1×0.999)      正しい検査結果
④うち検査で陰性(病気でない)と出る人数:0.001=(1×0.001)   誤った検査結果
 
検査で陽性と出る②と③の合計は、10.998人
そのうち、本当の罹患者は③の0.999人だけだから、陽性と出た人数のうち、実際に罹患している人の比率(X)は0.999/10.998=0.0908、つまり9.08%となる。
これをドラマでは「約10%」と言ったわけだ。
 
さてこれを一般式にしてみようか。
罹患(病気)比率:a
検査の精度:b
とすると、X=ab/(1-(a+b)+2ab)となる。
 
式の組み立ては自分でやってみてください。 
さて、この一般式を使って検査精度が99.9%の場合に、実際の罹患比率(a)が100%から0.001%まで変化した時の「陽性と出た人数のうち、実際に罹患している人の比率(X)」の変化をグラフにしたのが以下の図だ(縦軸は対数メモリ)。 
 
罹患比率が1%を下回るあたりから、急速に「陽性と出た人数のうち、実際に罹患している人の比率(X)」が低下するのがわかる。 これはある意味で当然のことで、要するに非常に確率的に低い事象(ここでは病気)を発見するためには、その低い確率に見合って検査の精度が上昇しないと誤差が拡大する、つまり「陽性と出た人数のうち、実際に罹患している人の比率(X)」が急激に低下するということを意味している。
 
ありていに言えば、小さなミクロの現象を見るには顕微鏡で見ないとわからないと言っているのと本質的には同じことを言っていることになるね。
 
さて、以上のことの人間の認知能力上の含意だが・・・・本日はここまでにして、次回に回しましょう。
 
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takenakamasaharu/  Yahooニュース個人
イメージ 1
 
イメージ 2
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

進化心理学者ニコラス・ハンフリーの「ソウルダスト(Soul Dust)意識という魅惑の幻想」を以前レビューを書いて紹介した。ハンフリーの「喪失と獲得(The Mind Made Flesh)」(紀伊国屋書店、2004年)も良いですよと知人が言うので、読んでみた。本書は独立に執筆された長短のある論考を編集したものなので、様々なテーマを扱っているが、実に面白い。
 
進化心理学とは
まず「進化心理学」に馴染みのない方のために補足しておくと、これは、人間はその数百万年から数十万年の歴史の中で支配的だった環境に適応するように進化してきたわけであり、人間の様々な選好や行動特性から意識の機能と存在まで、環境適応上の優位があったからこそ今の様にあるのだという視点で考える学問だ。同時にそうして形成されたあり方が、現代のテクノロジーが発達した環境では一部不適応になっているとも推測できる。
 
ひとことでいうと、「人間は宇宙時代に生きる石器時代の生き物だ」(p386)となる。
 
奇形の変容
私にとって最も関心を惹かれたのは第8章「奇形の変容」だ。論旨を紹介しよう。
生き物は多数の表現型特性(背の高さ、体重、羽の有無、色等など)の構成物であり、それによって環境の中で特定の生物学的な適応度を実現している。
 
ある高さの適応度からもっと高いレベルの適応度への移行(進化)はどのように実現されるだろうか?遺伝子のランダムな変化と環境による淘汰圧が漸進的な改良をもたらすというのでは、実は説明が困難だ。
 
というのは現状の適応度は局所的には最も高い位置にあるはずであり、もっと高い適応度への移行は、現在の局所的には最適の組み合わせを変更することで、適応度の低下という局面を乗り越える必要があるからだ。その際、適応度の低下が大き過ぎれば、その種はより高い適応度に辿りつく前に絶滅するだろう。 進化とは着実で漸進的改良というよりは、文字通り命がけの飛躍というイメージに近いのかもしれない。
 
こうしたより高い適応度に向けた変革にまつわる事情は、実は生命の進化過程だけでなく、我々も身近に経験していることだ。 スポーツ選手がパフォーマンスを上げるためにフォームの改善に挑戦する場合、その過程でパフォーマンスを落とすことは良くあることだ。
 
例えば、ゴルフスイングという身体の動かし方それ自体、複数の動きの微妙な組み合わせで構成されているわけだが、従来の馴れた組み合わせは局所的な最適化を実現している。その組み合わせを一度、解いてより高い適応度を実現する新たな組み合わせを試行錯誤する過程で、パフォーマンス(適応度)が落ちるわけだ。
 
人間は意識的にそうした再構成に挑戦するが、生物進化の過程では意識的な再構成という仕組みは働かない。その場合、変化を強いるのは突然変異による「喪失」であると著者は言う。つまりなんらかの変異の結果、それまでの局所的な最適化を実現していた表現型特性を失うことによって、適応度の局所的な高みから転落した生物が、進化的な試行錯誤の結果、より高い適応地点に辿りつける可能性を得る。
 
その例として、著者はサルの先祖から分岐した人類が体毛を失った例を上げている。体毛を失ったことで寒さへの防寒能力が低下したが、人類はどこかの時点で火を扱うことを習得し、防寒ばかりか、料理、獣からの防衛など様々な用途に火を使うことを発達させることで、有毛の祖先よりも高い適応度に到達したというシナリオである(仮説である)。
 
著者のよるとサルにはない人間の抽象概念を操る能力も、それはサルにはある「写真的記憶力」を人間が失った結果、その能力を補完する能力として発達したものであり、最終的には圧倒的に高い適応地点に人間を導いた能力だと言う。
 
脳の驚異的な適応力
さらに人間はそれまでの生き物にはなかった優位も実現した。「人間の脳は(遺伝的にプログラムされた肉体とはまったく異なって)個人の一生という時間のなかで驚くべき進歩を遂げることができるひとつの器官(唯一の器官かも?)なのである」(p180)
 
この点は脳の可塑性として比較的近年注目されている。別のレビューで紹介した「奇跡の脳」は、脳内出血で左脳の機能を損なわれた著者の脳が、生き残っている部分を再構成し、様々な機能を一歩一歩回復して行く物語だが、そのキーワードは脳の「可塑性」である。
 
視力を失った人の聴力が鋭くなることは昔から知られている。これは注意力が視力から聴力に移るだけではなく、それに見合って脳内の機能も再構成されている可能性がある。
 
facebookで紹介したが、NHKのロンドンオリンピックに向けた特集番組「ミラクル・ボディー」で体操の内村選手の飛び抜けた空間感覚を科学的に分析した過程で、ひとつの注目すべき脳内現象が紹介されていた。
 
内村選手は、子供時代から優れた体操選手のビデオを繰り返し見て、その動きを試み、イメージトレーニングと実際の動きの練習を果てしなく繰り返してきた。そうしたイメージトレーニングしている時の内村選手の脳の動きをMRI(磁気共鳴画像装置)で他の普通の選手の脳と比べると、活性化している部位に大きな相違が見つかった。 イメトレ中の内村の脳は運動機能をつかさどる運動野と呼ばれる部分が活性化している一方、普通の選手は視覚野が活性化していた。
 
つまり普通の選手は、イメトレ中に第3者の視点で運動を「見ている」のだが、内村の脳は運動している自分自身を感じていると推測される。これは内村の脳が、イメージと練習を繰り返すことで運動機能の点でより高い適応度に変容した結果だろう。
 
歴史を振り返ると、それまでの局所適応的な組み合わせを失ったことで大きな変革が起こり、それがより高い適応に、人、企業、ビジネス、社会を導く事例に満ちていると気がつくだろう。今の停滞気味な日本社会に求めらていることは、戦後の繁栄を築いた局所適応的な組み合わせの破壊的再構築なのだとも言えようか。
 
大学教授としての私の第2のキャリアの展開も、ある時点で銀行員としての適応(つまり出世)を捨てた、あるいは失ったところから始まっているとも言える。まことに塞翁が馬ですな(^^)v
 
竹中正治HP
最近facebookでの書き込みを活発化しております。本ブログのリピーターの方はfacebookでお友達リクエストをして頂ければ、つながります。

「奇跡の脳(My Stroke of Insight)」ジル・ボルト・テイラー、新潮文庫、2012年4月
(↑例によってアマゾンにレビュー掲載しました。良かったら「参考になった」クリックお願いします)
 
著者はアメリカの脳神経解剖学者だ。37歳の時に左脳内で血管が切れ、脳卒中となる。左脳の機能がマヒした状態から、手術を経て、回復に至るリハビリ物語でもある。以前、TV番組(NHK?)で著者のストーリーは見て知っていたが、本が出ていたことを知って読んだ。脳科学者が左脳マヒ状態を自ら経験し、自己観察するというある意味では希有な体験を語ったものだ。

左脳が機能マヒを起こしたことによって、著者は言語を失い、数字と文字を判読できなくなり、自分と世界の境界が分からなくなる。同時に自分は世界と一体だという不思議な涅槃感覚にひたる。それは右脳の感じる自己と世界だったと気づく。

左脳から血の塊を除去する手術を受け、死んだ左脳の回路を母に助けられながら、一歩一歩回復するリハビリの経過が語られている。「失ったこと、できないことを悲嘆するのではなく、ひとつひとつできるようになったことを喜ぶ」ことでリハビリのプロセスが、ポジティブな感覚でつづられている。

後半部では右脳と左脳の機能的なコントラストについてわかりやすく、文字通り著者の経験談として書かれている。右脳は感性的で今の瞬間のことに傾斜する。左脳は計画的、分析的で、過去から未来への時間感覚の中で行動を管理している。現代社会はある意味で左脳優先、左脳支配の環境だと言えるだろう。左脳は自分と他者を比較して妬んだり、卑屈になったりネガティブな感情の源泉にもなっているという。

結局、著者は右脳の価値に覚醒することで、左脳のネガティブな面の復活を抑制しながら、右脳と左脳のバランスをとることができるようになった。確かに現代社会は左脳の全力疾走を要求するようなストレスの多い社会だ。左脳の暴走を抑え、右脳スイッチを操ることができるようになれば、人生はより豊かになるというのが貴重なメッセージであろう。
 
竹中正治HP
最近facebookでの書き込みを活発化しております。本ブログのリピーターの方はfacebookでお友達リクエストをして頂ければ、つながります。

紀伊国屋書店、2012年4月(↑例によってアマゾンにレビュー書いています。よろしければ「参考になった」をクリックしてください)
 
著者はロンドン大学の名誉教授、元々は心理学が専攻だが、その知見は心理学から進化論、脳科学、哲学、宗教に及ぶ。なにしろ自己意識という超難題を解こうとするのだから、学際的なアプローチになる。著者の重層的な論理を数行で要約するのは困難だが、最も基本的な視点は進化論的なアプローチだろう。

自己意識というものは、我々がみな持っていると感じながら、直接他人の自己意識の存在を観察することができない(相手は心がない心理学的なゾンビで、人間らしく反応しているだけなのかもしれない)。 しかし、「我、感じる。ゆえに我、存在する」である。 自己意識も存在する以上は、自然環境の淘汰圧の中で生存上の有利性があったからこそ、進化して来た産物であるはずだとして読み解いていく。

しかし自己意識(この文脈では「現象的意識」と著者は呼んでいる)の特徴は、視力とか聴力、羽などのそれがなければできないことを可能にするような役割ではなく、「それがなければしようとは思わないことをするようにやる気をださせるもの」ではないかと言う(p94)。

もっと具体的に言うと、現象的意識には正真正銘の生物学的価値があるのであって、それは「(それがなかった場合よりも)付加された生存の喜びと、自分が生きている世界の新たな魅力と、自分自身の形而上学的な重要性という新規な感覚のおかげで、個体が自分の生存のために行う投資が、進化の歴史の中で劇的に増えた」ことにあると説く(p97)。

自己意識を持つ結果として人間は(自己意識を持つ以前よりももっと)死を恐れるようになったと理解できるならば、それは他のどんな動物の生物学的適応度よりも、人間の生物学的適応度の向上に貢献する」(p130)。

と同時に自己意識を形成するに至った人間は「生への強い執着」と「死の不可避性」という難問を背負うことにもなる。その難問へのひとつの解決法として魂の不滅性という宗教の中核的な信条が生み出されたと理解することで、宗教を求める人間の心理学的基礎も読み解いてしまう(12章「死を欺く」)。

自己意識の謎を取り扱う書籍は、これまで幾冊か読んだが、おそらくベストの一冊である。
 
竹中正治HP
最近facebookでの書き込みを活発化しております。本ブログのリピーターの方はfacebookでお友達リクエストをして頂ければ、つながります。

Incognito, The Secret Lives of the Brain 「意識は傍観者である」デイビッド・イーグルマン著、早川書房
(↑アマゾンに書いたレビュー、よろしければ「参考になった」をクリックしてください)
 
日本語のタイトル「意識は傍観者である」は、あまり適切ではない。読めばわかるが、人間の意識は自分自身を本当に理解しているわけではないが、傍観者以上の役割も果たしているからだ。
 
著者は大学で認知行動学研修室を主宰する神経科学者だ。原題のIncognitoはイタリア語で「匿名者」あるいは「匿名の」の意味。私が編集者なら「私の中の他人」とかの日本語タイトルにするだろう。

要するに私達の意識は多くの場合は自分自身の本当の動機を理解しているわけではなく、それは無意識のプロセスの結果であり、自分の中に正体不明の他人(匿名者)が存在しているようなものだという意味だ。

一番興味深かったのは第5章「脳はライバルからなるチーム」だ。脳は無数のサブルーチン(サブエージェント)が行動という出力チャンネルを求めて競争し合う議会のようなものだと例えられる。したがってある意味では葛藤こそが人間の脳の本質だということになる。

ただし大きく分けると(2大政党制のように)理性的意識的ネットワーク(認知的、体系的、明示的、分析的、内省的)と感情的ネットワーク(自動的、潜在的、発見的、直感的、全体的、反作用的、衝動的)に分かれ、葛藤、競合する。

現代社会では前者の方が評価される優位があるように思えるが、おそらく前者だけでは行動の決断力に欠ける結果になるのではなかろうか。合理的な判断も感情的な衝動をばねにしないとできない・・・そういうあざなえる縄のような関係にあるのではないかと思う(これは著者が明示的に語っていることではない)。

そうした脳の構造の中で意識にはどういう機能があるのか?仮説として意識はこうした葛藤し合う無数の無意識下のサブシステムを制御、そして制御を分配するために存在する。要するに意識は大会社のCEOのようなものだ。

意識は新しい環境で新しい行動パターンを組織しなければならない時に出番となり、機能する。環境への行動パターンの適応が進むにつれて、行動は自動化が進み、意識は直接関与しなくなる。これは私達が、運動でも知的な学習でも必ず繰り返すことだ。この無数のサブシステムを必要に応じて再編成する知的柔軟性こそが意識の役割であり、それがもたらす環境適応上の優位性こそが人類史において意識が進化してきた理由だと考えられる。

ふ~ん、なるほど。しかし同じ人類でも意識の機能度、つまりそれがもたらす知的柔軟性の個人差は大きいようだね。自分が慣れた環境の中で、周囲の人達と同じことだけを繰り返して済ませたいという生活をしている方々も多いからね。
 
竹中正治HP
最近facebookでの書き込みを活発化しております。本ブログのリピーターの方はfacebookでお友達リクエストをして頂ければ、つながります。

快感回路(The Compas of Pleasure)」(Daivid J Linden、河出書房新社、2012年1月)は、かなり面白かった。(↑例によってアマゾンにレビュー書いています。よろしければ「参考になった」クリックしてください。)
 
筆者は米国ジョンズ・ホプキンス大学の神経科学者だ。人間の「快感」という感覚は脳内のどういう変化によって生じているのかを一般人にも分かりやすく説明しながら、脳科学の最先端の研究成果を紹介している。
 
以前紹介した「複雑で単純な世界」もそうだったが、サイエンス・ライターではなく、その分野の一流の研究者が、わかりやすく一般向けに書いてくれる本というものは有り難い。
 
サイエンス・ライターもぴんきりだが、俗流なレベルのものも多いからね。もっとも科学的な知見を一般向けに分かりやすく書くと言うのは、専門研究とはまた違った能力と努力が要求されるもので、誰でもできるわけじゃない。
 
私が面白いと引きつけられたのは、行動経済学などで紹介されている行動心理学的な実験で明らかになってきているヒューリスティックなバイアスの根本原因は、やはり人間の脳の仕組みに根ざしているわけで、脳科学がそれを解き明かしつつあるようだからだ。
 
脳には解剖学的にも生化学的にも明確に定義される「快感回路」(報酬系)があり、この回路が興奮する時に私達は「快感」を感じている。この脳の一群の領域は、内側前脳快感回路と呼ばれているそうだ。その中で最も重要な部分は腹側被蓋野(VTA)と呼ばれている。
 
脳の当該部分が「興奮する」というのは、シナプス小胞に蓄えれらていた神経伝達物質ドーパミンの放出が促進されることだ。
 
人間に特徴的なことは、この回路は固定的ではなく、経験(学習)を通じて持続的な変化を起こす。従って、記憶と快感は密接に結びついている。そして、著者の大きな感心は様々な依存症に向けられるのだが、依存症もこの脳内回路の持続的な変化として生じると言う。
 
「私達人間は、本能から離れた全く任意の目標の達成に向けて快感回路を変化させ、その快感によって自らを動機づけることができるのだ(p11)」 この一文は、人間の本質(少なくともその一面)に関する著者の洞察を要約している。 言い換えれば「習慣とは第2の天性である」ということわざは、脳の構造に根ざした真実であるということだろう。
 
ヒューリスティックなバイアスが脳内部の生化学的な変化として、検証されているという点について紹介すると、例えば脳はある種の不確実性やリスクに快感を感じるようにできているそうだ(p153)。そして進んでリスクをとろうとする神経系は進化上適応的だったという仮説が紹介されている。狩猟に特化したオスの方が、採集するメスよりもリスクをとることに適していた可能性があり、ギャンブル依存症が女性よりも男性にずっと多いことと一致する。 
 
そうだね、社会・文化的要因ももちろん排除しないが、有名な(あるいは悪名高い)投機家は男性ばかりだね。女性では思いつかない。
 
そしてサルの実験によると、サルはエサなどの生存上直接的な有用性のある報酬だけでなく、抽象的な情報そのものからも快感を得ることが確認されているという。従って人間もそうだろう。「抽象的な心的構成概念が快感回路を働かせられるようになっている(p192)」 
そりゃ、よくわかるよ。 お気に入りの野球チームが勝って狂喜するファンとか、私達の日常でありふれたことだからね。
 
そこからさらに発展すると「観念」は依存性薬物と類似した働きもすると指摘する。これは重要な指摘だ。宗教でもイデオロギーでも自分が帰依している観念に対する執着が、時に非合理的なレベルまで嵩じることも、よくあることだ。
 
「経験により脳内の快感回路を長期的に変化させる能力のおかげで、人間は様々なものを自由に報酬と感じることができ、抽象的観念さえも快いものにできる。人間の行動や文化の多くはこの現象に依存している。しかし残念なことに、その同じプロセスが快感を依存症へと変化させてしまうのである。(p195)」 
 
著者は依存症を「快感のダークサイド」と呼んでいる。 ジェダイのフォースと、シスのダークサイドのパワーは表と裏、ポジとネガのように一体不可分の関係にあるということだ。
映画マトリックスでも、ネオとスミスの関係がポジとネガの関係にあることが強く示唆されていたことを思い出すね。 このモチーフは神話や伝説でも、繰り返し登場するものだが、実は人間の脳の構造・働き方に根ざしたものだったんだ・・・というようにも解釈できる。
 

日本に限らず世界は原発推進派と反対派に分かれて、ほとんでイデオロギー闘争と呼べるような対決議論を展開してきたから、今回の福島原発の事故のようなことが起こると一気に反対派は原発否定のキャンペーンを強める。「原発の技術自体が不完全で不安定なものだ」という主張が全面に出てくる。
 
この点で今週号(4月19日)の週刊エコノミストで橘川武郎教授(一橋大学大学院商学研究科)が冷静な指摘をしている。以下引用
 
「(福島第1原発と)同様に東日本大震災に伴う大津波に直面しながら、東北電力女川原子力発電所は基本的に安全停止し、一時的には地元住民の避難場所にまでなった。(中略) 福島第1原発と女川原発の命運を分けたのは、津波対策の違いであったと思われる。 女川原発では(中略)津波への強い危機感を持ち続けて来た。それが、平均潮位より14.8メートル高い位置に建設した女川原発と最大5.7メートルの津波を想定した対策しか施さなかった福島第1原発の違いとなって表れ、両者の命運を分けた。」
 
原発の原子炉と構造物はM9の超巨大地震にも耐えたと言う点も評価すべきだろう。
問題は技術ではなく、技術を使う人間、組織にあると言える。
 
ちなみに女川原発の位置は以下の全国原発マップを見て頂きたい。
また、静岡の浜岡原発(中部電力)は、東海、東南海沖地震で津波が想定されるが、どのような対策になっているのだろうか?
 原発マップ
 

福島原発事故は深刻であるが、放射能漏れに関する報道はいたずらに不安を拡散し、過剰反応を引き起こしていると感じている人は私だけではなかろう。狂牛病(BSE)の時にも同じ過剰反応があった。しかも政府の情報供給はそれに対応できず、不安と過剰反応のみが広がった。
 
その点で今日のダイヤモンド・オンラインに掲載された以下の記事は冷静かつ啓蒙的な良い記事だ。
 
以下一部引用
**********
政府内に放射線に詳しい専門家がいないため、かえって混乱を招くだけの結果になっている。国民が理解できるような方法でデータを噛み砕いて伝えることができていないのだ。
たとえば、(日本政府は)現在、飲料水では放射性ヨウ素が1リットルあたり300ベクレルを超えると好ましくないというメッセージを国民に伝えている(乳児の規制値は100ベクレル)。しかし、この数値は何も目の前のコップに入った水を飲むと危険だということを示しているのではない。
20杯飲んでも大丈夫なはずだ。その値以上の飲料水を5リットルほど毎日1年間飲み続けたら、ガンになる確率が1万分の1上がる可能性がわずかにある、ということだ。そういう説明を、自信を持ってできる人間が政府内にいないことが問題なのだ。
 
そもそも海には以前から放射性物質が含まれている。1994年まで海底での核実験が行われていたし、原子力潜水艦や核弾頭なども海底に沈んでいるからだ。海水の放射能汚染は何も新しいことではない。 むしろ今後の問題は、人々が怖れるあまり近海の魚が売れなくなり、経済的な打撃を受けることだろう。だが、それは無知に基づいた反応以外の何ものでもない。政府は、専門家による委員会を組織し、そうした説明を国民に向けて行うべきだろう。今からでも決して遅くない。
 
(チェルノブイリ事故の影響で)6000件の甲状腺ガンが報告されているが、これは子どもたちが放射性物質に汚染されたミルクを飲み続けていたからだ。周辺は農村地域で、当時は食糧の流通システムも発達しておらず、住民たちは地元農村で採れたものを口にしていた。こうしたことに加えて、(放射性物質が甲状腺に害を与えるのを防ぐ)ヨウ素剤も十分に行き渡らなかった。つまり、原発事故直後に本来取られるべき措置のすべてが取られなかったのだ。
これに対して、福島原発事故では、日本政府の説明下手という問題はあるが、放射能汚染リスクへの対処はきちんと行われていると私は考えている。
******
 
枝野さんは一生懸命やっていると思うが、やはり専門家ではない限界がある。放射能のリスクについてかみ砕いて説明できるこういう先生を節目節目の発表の席に同席させて、伝えて頂ければずいぶんと違うと思うのだが・・・。
また、「放射能汚染不安」で価格が暴落したり、値がつかない野菜や魚、これが株式などの金融資産なら絶好の買い場だから今買って将来売りぬけることもできるが、生鮮食料品ではそのような投資機会には結びつかないのが、残念だ。
 

みなさん、昨日からの大地震と大津波、ご無事でしょうか。
私は大学が春休みなので東京(新宿区)の自宅におり、東北地方の沿岸町村が大津波にのみ込まれていく映像をTVの実況で見ていました。
 
思い出したのは、1970年代に映画化された小松左京原作の「日本沈没」ですね。
それから地球崩壊テーマの映画「2012年」の映像も思い出しました。
 
1995年の阪神淡路地震の時もそうでしたが、東京に住む身としては(近年は半分は京都に住んでいますが)「やがて東京でも大地震は起こる、自分が生きている間にきっとくる」という不安というか、覚悟というか、あるいは諦観のようなものがあります。
 
それでも「地震で自分や家族が死ぬのはいやじゃ、財産を失うのもいやじゃ」と当然思うわけで、そうすると自分が今住んでいる土地の地盤はどうなんだろう、危険度は高いのか低いのか、など思うわけです。
 
地盤の危険度
 
その点でちょっと参考になるのが、「東京の液状化予測図」です。以下サイト
 
これを見ると、地盤が液状化する危険度が色で表示されているので、一目で分かります。
ピンク色の地域が液状化危険度の高い地域です。ピンク地域は東京では湾岸から隅田川沿いの広い地域です。
 
昨日、不動産仲介業者から隅田川沿いの蔵前で築10年未満のマンション物件が出たが、投資目的で買いませんかとセールスを受けました。テナントが入っており、収益物件としてはまずまずの利回りだったのでちょっと心が動きました。
 
ところがこの液状化危険度マップでみたら、ピンク色地域だったので関心は急速に萎えました。そして午後の大地震・・・・、ああ、これは私の守護神様か仏様かわかりませんが、「気をつけなさいね」と囁いてくれているのではないか、などど空想してしまいます。
 
火事・延焼危険度
もちろん、地盤の液状化だけが地震のリスクじゃありませんから、これだけを目安にするのは単純過ぎるでしょうけどね。もうひとつのリスクは火事とその延焼ですね。阪神淡路はこれで死んだ人が増えましたから。その判断は、木造住宅の存在(密集)度合いです。
 
私の地元では、かなり昔に新築住宅は木造が禁止された地域になったので、木造家屋は今ではほとんどありません。最後まで残ったお隣の木造家屋は昨年取り壊されて、5階建てのマンションになりましたので、発火しても延焼リスクは最小限でしょう。
 
もちろん、自分が資産として保有しているマンションには全て地震保険をかけています。わずかな保険料を惜しんで、元も子もなくすのは投資としては愚策中の愚策ですから。
 
津波危険度
 そして今回最大の猛威をふるったのが津波ですが、木造家屋というのは家の土台はコンクリートで固めても、そのうえに木造の構築物がちょこんとのっているだけなんですね。だから津波が来ると水に浮いて簡単に流されてしまうというのが、TVを見ていてよくわかりました。
 東京のウォーターフロントは現在ではほとんど木造家屋はなくなっていると思いますので、同じことは起こらない。しかも、幸い東京は東京湾が外海との出入り口がちいさくすぼんだ形をしているので、津波危険度はかなり低いはずです。
 この点で反対なのが大阪湾です。U字型に外海に口を開いているので、一気に津波で海水が湾の中に流れ込み、U字型の底(つまり沿岸)に達した時に最大の高さに上昇します。大阪湾の沿岸部に住む方々はそれを前提に対策をたてる必要がありますね。住まないですむならそれが一番。
 東海、東南海、南海沖地震も地震学的には「起こるのは時間の問題」とのことですからねえ。
 

既に旧い本で恐縮だが、アーサーCクラークの「3001年終局への旅」(The Final Odyssey)を読んだ。日本語版は2001年の発刊。しかし今まで不覚にも知らなかった。ご存じの方、多いだろうが、「2001年宇宙の旅」(A Space Odyssey)に始まるシリーズの完結編だ。
 
私にとって「事の起こり」は1968年、小学校6年生の時に映画「2001年宇宙の旅」を劇場で見たことだ。スタンリー・キューブリック監督とクラークの共作である。その時は封切りから1年経った再ロードショウだった。
とにかく「がび~ん」と驚いた。「うわ~!すごい映画だ。でもストーリーが途中からチンプンカンプ???」と当時みな思った映画だった。
そのチンプンカンプの謎解きが行なわれたのが、クラークによる小説「2001年宇宙の旅」である。
 
それからど~んと年月が過ぎ、1984年、続編映画「2010年宇宙の旅」が制作された。当時銀行勤務でNYにいた私(まだ独身)は封切り初日に見に行った。原作小説も邦訳が出る前に英語で読んだぞ。
さらにシリーズは「2061年宇宙の旅」と続き、「3001年」で完結した。
 
「3001年」では2001年に宇宙船ディスカバリーで土星に向かう途上、コンピューターハルの反逆で、宇宙空間にど~んと放り出され、宇宙服のエアーパイプも切られて死んでしまい、漂流していたプール(航海士だっけ?)の遺体が、1000年の時を経てなんと土星軌道近くで発見される。しかも、死に方が真空瞬間凍結だったから1000年経っても「鮮度が保たれていた」、ということで3001年の未来医療技術のおかげで蘇る。
 
しかし、なんだね。1960年代にイメージされていた21世紀には、今頃人類は巨大な宇宙ステーションだけでなく、恒久的な月面基地を持ち、有人の土星探査、木星探査までやっているはずだった。コンピューターは人間と会話し、機械の意思を持つまでに進化していた。スペースシャトルにはステュワーデスだって乗っていた。
 
現実はずいぶんと遅れているじゃないか。老朽化したスペースシャトルは今年で打ち切り、アメリカの次世代ロケットの開発は事実上の休止状態。未だにソ連時代と姿の変わらないソユーズだけでスペースステーションに人を送る状態になる。
 
21世紀ってこんなもんだったの?
 
ようやく日本開発のロケットがスペースステーションまで物資を運搬できるまでになった。将来的には有人化も視野に入っているとのこと。だったらここは一番、なけなしの国家予算投入して、一気に有人ロケットまで進化させて、アメリカ無しでも日本が物資と人間のステーションへの移動を引き受けますぜ、というところまでやってみせたら、下がり続けていると言われる「日本の株」もずいぶんと上がると思うのだが・・・。
ばらまき予算よりも、そういう国民を鼓舞するようなプロジェクトが求められているんじゃない?ちがうかな。オールドSFファンのたわ言でしょうか・・・。
 
 
 
イメージ 1
4月5日に打ち上げられたスペースシャトルの航跡

↑このページのトップヘ