昨年から大学で教鞭をとり、ゼミも担当するようになった。
継続的に学生諸君の教育に関わるようになったわけだが、どこにでも教師を悩ますのが「落ちこぼれていく学生諸君」の問題だ。
単位の取得が遅れている学生諸君と面談すると、多くの場合、具体的な勉学の支障事情があるわけではない。学費は親が出してくれる。病気でもない。ただなんとなく、勉強の意欲がわかずに、落ちて行く。
例えば、こんな具合だ(現実をベースにした仮想会話)
私「きみ、このままだと4年で卒業するのあぶなくなるけど、ちゃんと卒業して、就職したいと思っていますか?」
学生「はい、そのつもりです・・・・」
私「それじゃあ、しっかり講義に出て、単位も取得しないとね。5年で卒業なんかしたら、就職はますます難しくなりますよ」
学生「はあ・・・」
私「就職に関して、具体的な希望のイメージはありますか?どういう職種を希望するの?」
学生「・・・・具体的には・・・・・イメージないっす」
まあ、こんな感じだ。卒業後のなりたい自分の姿のイメージが驚くほど空っぽ。
だから目標設定ができない。
一方「こうなりたい」というイメージがある学生は、それが目標設定になり、それを実現するために、これをしよう、あれをしようと、勉強も含めて前に向かって動いていくので心配はない。時々、手助けやアドバイスをしてやればすくすくと育っていく。
彼らは、なんでこれほど将来希望イメージが空っぽでいられるのか???
私にはほとんど異星人のようなこういう学生諸君について考えてみた。
だれでも若いころには、社会に出てどういう職業につこうか悩むものだ。
社会でどういう自分になりたいかというイメージは、社会(世界)とはどうなっているのかという社会に関する知識、イメージと並行して、相互に依存しながら形成されてくるものだ。
なりたい自分に関するイメージの貧困さ、欠落は、社会に関する知識、イメージの貧困さと表裏である。
落ちこぼれていく学生諸君は、多くの場合、自分の極めて狭い関係範囲、例えるならタコつぼのような世界にとどまっていて、そこから出ていこうとしていない。
なんで、そんなタコつぼの中に籠っていられるんだろう? これも私には「異星人行動」なのだが、彼らに共通していることは、外に向かった好奇心がひどく弱いことだ。様々な新しい経験、勉強のチャンスがすぐ隣に広がっているのに、自分から積極的に関わっていこうとしない。
まあ、確かに私が高校生だった1970年代にも、当時の若者の一部にある傾向が「三無主義」と呼ばれた。無気力、無関心、無責任、だからこれは昔からある問題でもあるのだ。
人類の歴史では、多くの人間にとって衣食住の欠乏、あるいは欠乏するリスクがむしろ恒常的な問題だった。人間、衣食住が欠乏した状態では、生き延びるためになんとかしようと体が動いて、もがく。 人類史の多くはこうした「もがき」の営みだったと言えるのではなかろうか。
ところが、現代、衣食住が一応満たされると、一部の人類には、それ以上のことはしないで済ませようという無気力、無関心に捕らわれるのかもしれない。そういう意味では「落ちこぼれていく学生諸君」は現代病のひとつなのだろう。
大学で勉強できる、学費は親が出してくれる、このことが人類史上どれほどの幸運か、彼らは分かっていない。 そう言ってみても問題が解決するわけではない。教師としては「タコつぼから出ようよ、広い世界を勉強しようよ」と刺激を繰り返すしかないのだが。