たけなかまさはるブログ

Yahooブログから2019年8月に引っ越しました。

タグ:ノンフィクション、エッセイ

龍谷大学は親鸞聖人の教えを建学の精神にしているので、大学のあちらこちらに仏教の教えに関する短いフレーズが掲載されていたりする。その中で「あれっ?」と思わせるものがあった。正岡子規の文章の一節である。
本日放映のNHKドラマ「坂の上の雲」の正岡子規の闘病と死を見て思い出したので、ここに書いておこう。
 
「悟りといふ事は
如何なる場合にも平気で死ぬる事
かと思って居たのは間違ひで、
悟りといふ事は
如何なる場合にも平気で生きて居る事であつた」
 
なるほど、なるほど、と合点できるでしょ。
 
 

ナドレックさんのブログです。今回の実写版映画「SPACE BATTLESHIP ヤマト」を切り口に採り上げています。それ以外の映画、アニメも豊富に盛り込まれています。
 
冒頭だけ引用します。あとは是非ブログお読みください。なかなか楽しい内容です。
********
「その惹句を目にしたとき、作り手の並々ならぬ想いを感じた。
 それは、どこまでをヤマトと考えるのか、という大問題だ。

「必ず、生きて還る。」

それが、『
SPACE BATTLESHIP ヤマト』の宣伝に採用された惹句である。
この文言に接して、ヤマトファンは2つのことを連想するだろう。
1つは、『宇宙戦艦ヤマト』第1テレビシリーズ(1974年)の
主題歌における次の一節だ。

必ずここへ 帰って来ると
手をふる人に 笑顔で答え

そうだ、第1テレビシリーズは、帰ってくるためにはどんな困難をも乗り越える物語だった。
そして2つ目は、続編『さらば宇宙戦艦ヤマト 愛の戦士たち』(1978年)の宣伝で流れた言葉。

 「君は愛する人のために死ねるか」

この映画は、帰れない覚悟を迫る物語だった。

方向性がまったく異なるこの2作を、私は同じシリーズだとは思っていない。設定や登場人物に共通点はあるものの、意図するところ、目指すところが相容れないからだ。」
*******
 
まことに同感。オリジナルのTVアニメが強調していた「生還」「救済」の希望が、続編では「犠牲」「滅私」にすり変わっていると感じていた人は少なくないと思います。
かなり長い論考ですが、その他の指摘にも共感、同感する点が多いです。
私の日経ビジネスオンラインの論考「『なぜもっと早く降伏できなかったのか』を議論しよう」も複数引用して頂いています。
かなりの映画・アニメ系知的オタクと見ました。
引き続きよろしく、ナドレッグさん、「ど~この誰かは、知らないけれど~♪」
 

映画「ハリーポッターと死の秘宝パート1(Harry Potter and the Deathly Hallows-Part1)」が昨日封切りとなり、さっそく見てきた。
 
物語もとうとう最終章だ。ヴォルデモートは完全復活し、権力(魔法省)は彼の手下によって支配されてしまった。 物語は悲壮な雰囲気で展開する。
権力の悪い方向への転換で社会全体が暗転するイメージ、JKローリングは現実の歴史を重ねてイメージしていたに違いないと思う。 1930年代のドイツ、ナチの台頭だろうか。ソ連のスターリニズムの時代だろうか。
 
ハリーポッターについては日経ビジネスオンラインに評論を以前書いた。それは若干編集して「ラーメン屋vs.マクドナルド」にも盛り込んだ。これまで私が書いた評論の中で最も気に入っているもののひとつだ。ご覧でないかたは、以下のサイトでお読み頂きたい。
 
 
ところで役者について言えば、超可愛かったエマ・ワトソンが期待通りの美人に育ってきたのが印象的だ。
 

映画 “Resident Evil”シリーズPart4 “Afterlife”が封切られたので早速見て来ました。
日本では「バイオハザード・シリーズ」と言う方が一般的でしょうか。
 
要するに近未来を舞台にしたバイオ&ゾンビ物なんですが、プレーステーションでバイオハザード・ゲームをやったためか、映画も第1作からはまり、全部見ています。
 
女房に言わせれば、「ゾンビ映画なんて気持ち悪いものは、お金をもらっても見たくない。お金を払って見る人の気がしれない」とのことですが、何事についても、なぜそれにはまるのか?を他人に対して説得力のある説明をするのは至難です。
ほとんど無理。
 
地下研究所という密室空間で展開したパート1に比べると、パート3、パート4は荒廃した近未来世界で展開する再現のないバトルということで、昔の映画“Mad Max”の世界に似てきましたね。ちなみにMad Maxの主役メル・ギブソンは大好きな役者です。
 
しかし、欧米人、特にアメリカ人は、なんでこんなにゾンビ映画が好きなんでしょうか? 連中、昔から数限りないゾンビ映画をつくってきました。
 
ゾンビというのは、人間としての意思、魂を失った生き物で、ほとんど食物(人間)を求めての条件反射的な攻撃衝動だけで動いている。日本にはこういう類例がないですね。幽霊も妖怪も、固有の意思とか感情は持っている。
 
ソンビというものがこれほど溢れ出てくる連中の文化的な土壌って、一体なんなんだろう・・・・とずうっと考え続けているのですが、まだ納得のいく仮説ができません。
ご意見のある方は、どうぞ。
 
映画の前宣伝に「大江戸りびんぐでっど」というものが紹介されました。
宮藤官九郎のいたずらのような作品ですね。
歌舞伎界にもけっこうゾンビ映画好きがいるってことでしょうか。
 
追記:「ゾンビ映画を見るときの心得」だそうです。
 

井上ひさしの遺作「一週間」を読んだ。(クリックすればアマゾンに飛ぶ)
なかなか考えさせられる濃厚な内容だった。
読まれた方もいるだろう。内容は、ここでは紹介しないから、読まれてない方は、アマゾンにレビューを書いておいたので、それをご覧いただきたい。
 
一番面白かったというか、苦笑してしまったのは、小説の中で問題になる「レーニンの手紙」の在りかを追及するソ連の若い女性インテリ将校がいらいらしながら、主人公(抑留されている日本兵、ロシア語ができる、問題の手紙を隠している)に以下のように語る場面だ。
 
「日本人は匿名主義の集団である、なにごとによらず輪郭のはっきりした個性を嫌うと、大学でそう習った。なにかにつけて角が立って目立つ人間は、集団のまとまりを壊しかねない。だから、そういう目立った人間はその集団から排除される。それが日本人というものだ・・・・教授たちは、口を揃えてそう断言していらっしゃった。それなのに、あんたのやり方は目立ち過ぎる。全シベリア60余万の日本軍捕虜の中で、こんな突飛な交換条件を持ち出したのは、あんたが初めてよ。」
 
「あんたは、例の『日本人の風向きの原則』にも適わない。日本人はいつもその時その時の風向きを気にしながら生きている。なにかというと、「みなさんがそうおっしゃるのだから仕方がない』と、その時の吹いている風に合わせて自分の態度を決める・・・・これは、ある教授の口癖だったわ。ところが今のあんたはどうですか。(略)あんたは、たった一人でその風に逆らおうとしている。これはどういうことなんですか。」
 
弊著「なぜ人は市場に踊らされるのか」をご覧くださった方は、同じバブルでも日本とアメリカではバブルに踊る動機に違いがあることを指摘した終章「『みなさんそうされていますよ』という呪縛から目を覚まそう」を思い出されるだろう。
 
あるいは既に古典である丸山眞男の「現代政治の思想と行動」で、丸山が戦争責任を巡ってナチドイツと日本を比較し、日本的政策意思決定プロセスにおける主体的意識の不在を批判した下り「超国家主義の論理と心理」を想起したい。「ラーメン屋vs.マクドナルド」の第2章で引用した部分だ(以下)。
「わが国の場合は、これだけの大戦争を起こしながら、我こそ戦争を起こしたという意識がこれまでの所、どこにも見当たらないのである。何となく、何物かに押されつつ、ずるずると国を挙げて戦争の渦中に突入したというこの驚くべき事態は何を意味するか」
 
丸山眞男のこの部分は、「日本人論」を語る場合、どう議論するかは別として論点として外せない場所だ。実際、最近ベストセラーになった内田樹の「日本辺境論」でも、丸山の同じ個所が引用されている。
 
しかし、ここで私はちょっと深読みしたい。井上ひさし程の作家である。既に繰り返し語られてステレオタイプになった(それでいてちっとも克服はされていないが)日本に関する類型論を、また繰り返しているのだろうか? 
 
昔から指摘されているこの日本的な問題、主体的意識の不在という問題が、克服されていないことを読者に読ませると同時に、実はこうした集団埋没型の人間類型は、スターリンの下で完成するソ連共産主義国家が生み出した人間類型でもあることを言外に含ませた痛烈な皮肉なのではなかろうか?
 
この小説、会話が濃厚で、他の諸問題もいろいろ考えさせられる。エンディングに尻切れトンボの感があるのは、遺作の所以かもしれない。
********** 
追記
ブログ名ナドレックさんが、先月書いた私のブログ「無条件降伏」って何されても文句言えないってことだったの? に以下のご自身のブログへのトラックバックをつけてくれた。
なかなか考えさせられる良い論考だ。是非ご覧頂きたい。
 
「一週間」の中では、日本兵と同様にソ連軍の捕虜になったドイツ軍兵も、ソ連軍に抑留され労役に従事させられるが、ドイツ将校らは捕虜の取り扱いに関する国際条約に精通しており、待遇改善の要求を粘り強く行ない、ソ連軍もそれを無視することはできなかったと書かれている。
 
一方、日本軍の将校はそのような国際法、国際条約の常識に欠け、ソ連軍に待遇改善を要求するどころか、旧軍の身分秩序が維持されたことを良いことに、下級の兵士らをこき使い、配給食糧まで搾取して自らは肥え、兵士を餓死や衰弱に追いやった様が、繰り返し小説のなかで描かれている。
 
司馬遼太郎の「坂の上の雲」を読むと、日本の将校も日露戦争まではクソ真面目なほど国際法の順守に気をつけていたという。それが事実なら、日露戦争と太平洋戦争の間の期間に、日本軍の国際感覚・知識は大いに劣化したということになる。
 
ともあれ、シベリア抑留時の問題、全ての日本将校がそうだったわけではないようだが、こうした事態が起こったことを、戦後の私達はどれだけ事実として発掘し、議論してきただろうか? 井上ひさしのこの遺作は、そうした問題を議論もせずに忘却してしまおうとする戦後の日本への、鋭い批判だった。文字通り、彼の人生の最後の精根を傾けた批判だった・・・・。 
 

 
本日(8月17日)の日経ビジネスオンライン掲載の筆者の論考
 
浅田次郎の新作、アマゾン・レビューでは本書への辛口のコメントが散見されるが、私も著者の小説を読むときは、どうしても「蒼穹の昴」と比較してしまう。しかし「昴」は超別格であり、常にそれと比較されるのは、著者としては難儀なことだろう。

「昴」はともかくとして、本書は歴史小説として十分読み応えがある。日本海軍の海上輸送能力が壊滅した結果、当時の日本の最北端の島、占守島に強固な要塞と戦車隊を保有する無傷の精鋭部隊が2万人以上も残存し、8月15日の日本の降伏宣言(ポツダム宣言受諾)後に島に侵攻、攻撃を仕掛けてきたソ連軍と交戦したという歴史のひとこまとその含意を気づかせてくれただけでも、高く評価したい。

疎開先を脱走して東京に向かう子供二人が、苦しい旅を励まし合いながら、宮沢健治の「雨ニモマケズ、風ニモマケズ」を暗誦し、「ああ、本当の大和魂とはこのことだったんだ!」と覚醒する場面に、じわ~んときた私は根が単純なんだろうか。

中国戦線での「武功」で勲章をもらい英雄に祭り上げられた鬼熊軍曹が「おれは死なぬ。アメ公が上陸してきたら真っ先に降参してやる。勅諭も戦陣訓もくそくらえじゃ!」と言う。 その軍曹は、日本の降伏後に島に侵攻、攻撃を仕掛けてきたソ連軍と交戦し、憤死する。

この小説が、戦争の悲惨さを通じて描いているものは、政治的なイデオロギーとしての愛国心や、戦後の教条化された平和主義でもなく、人を愛して生きることへの草の根的なたくましさ、思想的な萌芽であろうか。

300万人の命と主要都市を焦土と化した犠牲を払いながら、戦後の私達はその萌芽を強固な思想にまで育てるとこに成功していないのではないか、と痛感せざるを得ない。そういう意味で「この夏」は終わっていないのだろう。
 
 
 
 

朝ドラ「ゲゲゲの女房」のことである。
また、感動しちゃったので、そのシーンを書いておきたい。記憶だけで書くので不正確だが、ご勘弁頂きたい。
 
時は1960年代後半か、「墓場の鬼太郎」をTV化しようとしたが、スポンサーがつかない。そりゃあそうだろう。不気味過ぎる。
 
そこで出版社と制作会社は、「悪魔くん」をまずTV化しようと考える。視聴者の目を慣らしてから、最終的には鬼太郎に持っていこうという作戦だ。
 
水木はまず週刊マンガ誌に新版「悪魔くん」の連載を出版社から依頼される。ただし以前出版して全く売れなかった旧版(オリジナル版)悪魔くんは不気味過ぎるので、悪魔くんの想定を魔族から人間の子供に換えて書いてくれと依頼される。
 
しかし、水木の筆が進まない。旧版「悪魔くん」には精根込めて書いても書いても売れず、貧乏続きの当時の境遇への憤りの念が込められていた。旧版悪魔くんは売れぬまま打ち切りになってしまった。その時のこだわりをあっさり捨てて、可愛く人間の少年にした新版悪魔くんを書く気に水木はなれなかった。
 
悩む水木に女房は言う。
「あなたがあの時悪魔くんを書いていた時に、私が悪魔くんが死んでしまうラストシーンは、悲し過ぎて嫌だって言ったら、あなた『心配するな、悪魔くんは必ず復活する。だから悲しくはない』って言ったわよね。私、悪魔くんはあなたのことだって、その時思ったのよ。どんなことがあっても復活するって。
悪魔くんが復活する時が来たんじゃないの?新しい姿で?」
 
この女房の一言が水木の気持ちを一変させた。
新版「悪魔くん」の復活だった。
 
 
 
 
 

NHKの連続朝ドラなどは見ないのだが、今放送している「ゲゲゲの女房」はとうとうはまって見るようになった。
大学の講義で朝一、9時からあるのは水曜日だけだから、8時からの放映を見ている。
普通のサラリーマンの方は出勤時間だろう。
この辺が、大学の先生という職の「優雅?」なところだ。
 
ご存じ異色のマンガ家、水木シゲルとその妻をモデルにしたドラマである。
時は1960年代、「貸本屋」というビジネスが日本に広くあった時代だ。
私の小学生のころであり、私も貸本屋でマンガを借りて読んでいた。
「貸本マンガ家」という、儲からない貧乏底なしの絶滅危惧種として水木はスタートする。
 
昔の貧乏物語は、なぜか受けるパターンだ。
今も貧乏だったら「昔の貧乏だった時代」を思い起こして楽しむことはできない。
なんだかんだ言っても、今の日本が豊かだから昔の貧乏時代物語がうけるのだ。
 
私も子供時分、水木シゲルのマンガも読んだ。
「ゲゲゲの鬼太郎」、「河童の三平」、「悪魔くん」など覚えている。
たしかに水木のマンガは異色だ。どう見ても子供向けではない。
目に見える現実世界と、その背後にある(ような気がする)妖怪や幽霊がうごめく異次元が隣接している不思議な怖さを描いている。背後?あちらから見れば、こちらが背後か。
 
何と言っても、マンガ絵の風貌が異色だ。
見方によっては、「気持ち悪い、薄気味悪い、健康的でない」そう言って、子供マンガに相応しくないと感じた人も多かったのだろう。そうした状況が、ドラマでも良く描かれている。
ねずみ男なんて、絵から耐えがたい臭さが伝わってくる感じがする。
 
ドラマでは、とうとう大手週刊マンガ雑誌にデビューしたのに、最初は受け入れられず、掲載取りやめかの瀬戸際、これが本日木曜日の放映内容だった。この後どう展開するのか、明日の朝の放送が楽しみになってしまう。
 
ゲゲゲの鬼太郎は後年テレビアニメにもなった。その結果、アニメでは薄気味の悪さという毒が抜け、明るく健康的になってしまった。これは水木の望んだ展開ではなかったろうと思う。
 
1960年代に少年マガジンに連載を始めた当時のゲゲゲの鬼太郎(当初は「墓場鬼太郎」)の復刻版が発刊されている。アマゾンで注文した。週末には配達されるだろう。これも待ち遠しい。
 

なんだかブログのアクセス件数が微妙に上がっている。
1ドル80円台の円高基調だから、為替相場系の方々が、「たけなかが何か言わないか」とチェックされているのだろうか。 
ははは、言わないよ~。言うべき程のことは既に言った、書いた、やった。
 
それでも円高が気になって気になって眠れない方は、インターネットの相場サイトではなく、アニメでも見ている方が良いと思う。
 
男子系アニメ、マンガはある意味ではほとんどバトル・ストーリーだ。
私が昔楽しんだバトル系マンガ・アニメから3つだけ選ぶと、
 
北斗の拳
幽遊白書
聖闘士星矢
 
この3つかな。
「何言ってんだ。『明日のジョー』だろ」という方もいるだろう。相対的に若い人は「ドラゴンボール」か。
 
最近みつけたが、聖闘士星矢のThe Lost CanvasがGyaOのサイトで見られる。
毎週月曜日に一話づつ進む。今は第7話まで掲載されている。
けっこう面白い。パターンは昔も今も同じだ。
 
強い敵に打ちのめされる度に、
「オレは、まだまだこんなもんじゃないお!」とか
「こんなところで、オレはくたばるわけにはいかないん
と星矢は吠えながら、何度も立ち上がる。
 
完璧に同じパターン、しかしなぜか飽きないから不思議。
昔に比べるとアテナが「豊乳」になっている気がするが、時代による嗜好の変化か。
 
 

GWなので話題の3D映画、Alice in Wonderlandを家族と見て来た。まあ、まあ、楽しめる。3Dの話題沸騰の映画界だが、テレビや映画が白黒からカラーに変わった時ほどの興奮を私は感じない。眼鏡をかけると映像が少し暗くなるのも気になる。それでも3D映画が増えていくんだろうなとは思うが。
 
この映画でもそうだが、アリスのキャラは「気丈な娘」が合っている。今回の映画では、剣で赤の女王のモンスターと戦うのが預言書に書かれたアリスの宿命だ、とワンダーランドの住人たちから期待されてしまう。「そんなこと私にはできないわ」とうろたえていたアリスが、やがて運命に立ち向かう覚悟を固める、それが物語の主要な展開だ。そして元の世界に戻ったアリスは・・・・。
 
このストーリーは昔から物語、神話などでも何度も繰り返され、それでも決して飽きられることのない普遍的な人気パターンだ。私も「資産運用のセオリー 投資の魔物を退治しよう」(光文社)のミニ・ストーリーで利用させてもらった。読まれた方はお分かりだろう。
 
さらに調子に乗って、2009年11月の毎日新聞社の「エコノミスト」特集号で「アリスと学ぶFXの知的投資術」というのを完全な物語仕立てで書いた。ホームページこのサイト。 自分では「良くできた! ダジャレもオチも完璧に決まっている。わっははは(^。^)」の気分だったが、本やウエッブマガジンと違って、雑誌というのはどうも反響の度合いが分からない。このブログを訪問された方、どうぞご覧ください。
 
 

↑このページのトップヘ