たけなかまさはるブログ

Yahooブログから2019年8月に引っ越しました。

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昨晩行われた戦後70年の安倍首相会見における談話、比較ポイントを3点に絞って1995年の村山談話と読み比べてみよう。

安倍談話全文:戦後70年安倍首相談話

1、どのように国策を誤ったのか?

安倍談話引用:百年以上前の世界には、西洋諸国を中心とした国々の広大な植民地が、広がっていました。圧倒的な技術優位を背景に、植民地支配の波は、十九世紀、アジアにも押し寄せました。その危機感が、日本にとって、近代化の原動力となったことは、間違いありません。アジアで最初に立憲政治を打ち立て、独立を守り抜きました。日露戦争は、植民地支配のもとにあった、多くのアジアやアフリカの人々を勇気づけました。

 世界を巻き込んだ第一次世界大戦を経て、民族自決の動きが広がり、それまでの植民地化にブレーキがかかりました。この戦争は、一千万人もの戦死者を出す、悲惨な戦争でありました。人々は「平和」を強く願い、国際連盟を創設し、不戦条約を生み出しました。戦争自体を違法化する、新たな国際社会の潮流が生まれました。

 当初は、日本も足並みを揃えました。しかし、世界恐慌が発生し、欧米諸国が、植民地経済を巻き込んだ、経済のブロック化を進めると、日本経済は大きな打撃を受けました。その中で日本は、孤立感を深め、外交的、経済的な行き詰まりを、力の行使によって解決しようと試みました。国内の政治システムは、その歯止めたりえなかった。こうして、日本は、世界の大勢を見失っていきました。

 満州事変、そして国際連盟からの脱退。日本は、次第に、国際社会が壮絶な犠牲の上に築こうとした「新しい国際秩序」への「挑戦者」となっていった。進むべき針路を誤り、戦争への道を進んで行きました。そして七十年前。日本は、敗戦しました。」

村山談話引用:「わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。」

村山談話では「国策を誤り」と言っているだけで、どのような国際情勢の中で、どのように国策を誤ったのか、その説明が全くない。その点、安倍談話では先日公表された有識者報告をベースにその歴史的な過程が説明されている。そのことを通じて、主要な過ちが第1次世界大戦後に起こった点も明らかにされている。 戦前の日本を明治期まで遡って一括りに否定するような歴史認識の粗雑化を許さないために、これは重要な説明だろう。

2、侵略、植民地支配、反省、お詫びなど

安倍談話:「二度と戦争の惨禍を繰り返してはならない。事変、侵略、戦争。いかなる武力の威嚇や行使も、国際紛争を解決する手段としては、もう二度と用いてはならない。植民地支配から永遠に訣別し、すべての民族の自決の権利が尊重される世界にしなければならない。

 先の大戦への深い悔悟の念と共に、我が国は、そう誓いました。自由で民主的な国を創り上げ、法の支配を重んじ、ひたすら不戦の誓いを堅持してまいりました。七十年間に及ぶ平和国家としての歩みに、私たちは、静かな誇りを抱きながら、この不動の方針を、これからも貫いてまいります。

 我が国は、先の大戦における行いについて、繰り返し、痛切な反省と心からのお詫びの気持ちを表明してきました。その思いを実際の行動で示すため、インドネシア、フィリピンはじめ東南アジアの国々、台湾、韓国、中国など、隣人であるアジアの人々が歩んできた苦難の歴史を胸に刻み、戦後一貫して、その平和と繁栄のために力を尽くしてきました。こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものであります。」

村山談話:「私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。」

村山談話のこの部分の主語が「私は」であるのに対して、安倍談話では「我が国は」「こうした歴代内閣の立場は、今後も、ゆるぎない」となっている。この点をさっそく日本共産党の志位委員長は「「反省」と「お詫び」も過去の歴代政権が表明したという事実に言及しただけで、首相自らの言葉としては語らないという欺瞞に満ちたものとなりました」と批判しているが、果たして公正な批判だろうか?

直接話法から間接話法になってトーンダウンしているという批判は公正か?

主語が村山談話の「私は」に代わって「我が国は」となっているが、これは首相が何らかの意味で日本を代表して語るときの語法としては全く真っ当なものであり、批判される理由が理解できない。
さらに言えば、村山元首相は1924年生まれであり、学徒出陣で日本陸軍歩兵になり、終戦時点では陸軍軍曹の階級で終戦を迎えたという戦争経験世代であったため、首相としての立場と戦争体験者の自分個人が重なり、「私は」という主語になったと理解できる。それはある意味で自然なことだ。

一方、安倍首相は戦後1954年生まれであり、戦争体験者としての「私」は存在しない。したがって自分が経験したことではないが、日本国を代表して語る首相として「我が国は」となったののも自然なことだ。反省やお詫びを弱める意図があったというのは、中傷・誹謗の類だろう。

過去形にすることでトーンダウンしているという批判は公正か?
 
この点も、「こうした歴代内閣の立場は、今後も、揺るぎないものでありますと語っているのだから、語っている事実に基づかない誹謗・中傷だろう。

3、戦後生まれの世代が、戦争に対する道義的な責任、お詫びを共有すべき理由はない?
前回のブログで私が取り上げたこの問題に関連して、安倍首相は談話の中で以下述べている。もちろん村山談話にはない部分だ。

引用:「日本では、戦後生まれの世代が、今や、人口の八割を超えています。あの戦争には何ら関わりのない、私たちの子や孫、そしてその先の世代の子どもたちに、謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません。

 首相談話でこの一言が盛り込まれたおかげで、私はほっとした。首相の語りとしてはこれで十分だろう。この点に関連して、談話後の質疑応答で産経新聞の阿比留さんがすかさず以下のフォローを入れている。

引用:「Q:今回の談話には「未来の子どもたちに謝罪を続ける宿命を背負わせてはなりません」とある一方で、「世代を超えて過去の歴史に真正面から向き合わなければなりません」と書かれています。ドイツのワイツゼッカー大統領の有名な演説の「歴史から目をそらさないという一方で、みずからが手を下してはいない行為について、みずからの罪を告白することはできない」と述べたのに通じるものがあると思うのですが、総理の考えをお聞かせください。

A:戦後から70年が経過しました。あの戦争には、何ら関わりのない、私たちの子や孫、その先の世代、未来の子どもたちが、
謝罪を続けなければいけないような状況そうした宿命を背負わせてはならない。これは、今を生きる私たちの世代の責任であると考えました。その思いを、談話の中にも盛り込んだところであります

しかし、それでも、なお、私たち日本人は世代を超えて、過去の歴史に真正面から向き合わなければならないと考えます。まずは、何よりも、あの戦争のあと、敵であった日本に善意や支援の手を差し伸べ、国際社会に導いてくれた国々、その寛容な心に対して、感謝すべきであり、その感謝の気持ちは、世代を超えて忘れてはならないと考えています。

同時に過去を反省すべきであります。歴史の教訓を、深く胸に刻み、よりよい未来を切り開いていく、アジア、そして、世界の平和と繁栄に力を尽くす、その大きな責任があると思っています。そうした思いについても、合わせて今回の談話に盛り込んだところであります。」

TVで談話と質疑応答を見ていて、この部分で溜飲が下がる思いだった。これでいいだろう。

最後にもう一点、「安保関連法案で支持率が低下して来たので、首相は自身の真意を曲げて、妥協した内容を語ったのだ」という非難の仕方がある。 しかしこれは語るに値しない非難だ。

有権者としての私にとって首相の個人的な心情などには関心がない。首相という公人として、何を語り、何を行うか、それが全てだ。近代的な政治、政治家と有権者の関係、さらには国家を代表する政治家相互の関係とは、そういうものだろう。欧米の政治家もみなそう考え、そう反応するだろう。

前述の日本共産党の立場としては、安倍談話がなんと言おうと、非難 ・反対するのが彼らの政治的な宿命のようだから、もはや論外だろう。

むしろ試されるのは韓国と中国の対応だ。英語を含む各国語で安倍首相談話は公表されるので、各国の政府関係者らも読み、中韓以外からは「これでOK」「よかった」という反応があるはずだ。この内容をもってしても、例えば韓国が対話を閉ざすというのであれば、それは韓国が意固地に日本と世界の良識に背を向けていることを露にするだけだろう。

安倍首相が行う戦後70年談話の参考となる「有識者懇談会の報告書」、全文読んだ。
正式名称は「20世紀を振り返り21世紀の世界秩序と日本の役割を構想するための有識者懇談会(21世紀構想懇談会)による報告」である。

例えば以下のような記述には、中韓や日本の左派が批判する「歴史修正主義」の要素は微塵も感じられない。

引用:「日本は、満州事変以後、大陸への侵略1を拡大し、第一次大戦後の民族自決、戦争違法化、民主化、経済的発展主義という流れから逸脱して、世界の大勢を見失い、無謀な戦争でアジアを中心とする諸国に多くの被害を与えた。

特に中国では広範な地域で多数の犠牲者を出すことになった。また、軍部は兵士を最小限度の補給も武器もなしに戦場に送り出したうえ、捕虜にとられることを許さず、死に至らしめたことも少なくなかった。
広島・長崎・東京大空襲ばかりではなく、日本全国の多数の都市が焼夷弾による空襲で焼け野原と化した。特に、沖縄は、全住民の3分の1が死亡するという凄惨な戦場となった。植民地についても、民族自決の大勢に逆行し、特に1930年代後半から、植民地支配が過酷化した。
1930年代以後の日本の政府、軍の指導者の責任は誠に重いと言わざるを得ない。」


アメリカの位置づけをめぐる二つの対立する世界観

私にとっては概ね違和感のない良くできた内容だが、安全保障関連法案に対する左派と政府の対立点は、たどって行くと結局「アメリカ」という国をどう位置付けるかで大きく分岐するのだと思う。この点、党としての見解が統一できずに、「憲法違反一点張り」で実質的な安全保障問題の議論ができない民主党は、ある意味で論外だろう。

SEALDsなどに参加している若者諸君も、以下の2つの世界観の対立の中で、自分がどちらにつくことを選ぶのか?そういう問題に行き着くことを熟考して欲しい。

懇談会報告書の見解:
1960年代までに多くの植民地が独立を達成したことにより、世界中全ての国が平等の権利を持って国際社会に参加するシステムが生まれた。そして、新たな国際社会の繁栄の原動力となった諸原則が、平和、法の支配、自由民主主義、人権尊重、自由貿易体制、民族自決、途上国の経済発展への支援であった」

上記の太字にしたポイントこそ、2度の世界大戦を経験した20世紀の教訓として継承すべきものと報告書は総括しており、その実現を主導してきたのは、アメリカとその同盟諸国である西欧並びに日本であると位置づけている。

一方、この見解と真逆の立場は、例えば日本共産党の綱領に記載された以下のようなものであろう。

引用:「アメリカが、アメリカ一国の利益を世界平和の利益と国際秩序の上に置き、国連をも無視して他国にたいする先制攻撃戦争を実行し、新しい植民地主義を持ち込もうとしていることは、重大である。   
アメリカは、「世界の警察官」と自認することによって、アメリカ中心の国際秩序と世界支配をめざすその野望を正当化しようとしているが、それは、独占資本主義に特有の帝国主義的侵略性を、ソ連の解体によってアメリカが世界の唯一の超大国となった状況のもとで、むきだしに現わしたものにほかならない。   

これらの政策と行動は、諸国民の独立と自由の原則とも、国連憲章の諸原則とも両立できない、あからさまな覇権主義、帝国主義の政策と行動である。   いま、アメリカ帝国主義は、世界の平和と安全、諸国民の主権と独立にとって最大の脅威となっている。」  

私は戦後、アメリカがやって来たことが全部正しい、正義だなんて全く思っていない。アメリカはアメリカとして自国の国益と価値観の実現を追求して来ただけだ。ただし、例えばかつてのソ連、今のロシアや、戦後の中国が世界最大の大国、覇権国家になった世界を想像して頂きたい。あるいはアメリカではなく、ソ連が戦後の日本を占領した世界を想像して頂きたい。

そして自分がそうした世界に生きることを選ぶか、あるいは今の世界に生きることを選ぶか、それを考えれば、私にとって選択は後者(今の世界)しかありえない。そういう相対比較の問題として考えているわけだ。 

日米同盟破棄は中国の戦略の上で踊るようなもの

中国ウオッチャーはみな同意するだろうが、今の中国の権力者は日米同盟を破棄させることができ、かつ米中が手を握れば、中国にとって日本などはどうにでもなる対象、赤子の手をひねるような存在になると判断し、それを戦略的に志向している。 現実の世界はパワーポリティクスだからね。日米同盟破棄を掲げるなんてのは、主観的にはそういうつもりはなくても、結局中国の思惑通りに踊ることになる。この点、間違いないと確信している。

自分が生まれる前に起こった過去の出来事に対してどうして謝罪ができるのか?

今回の報告書については中韓を含め日本の左派は村山談話にあった「おわび」や「謝罪」をすべきとの指摘がないと批判をしている。

例えば赤旗は次のように報じている。
引用:「『侵略』明記、『おわび』求めず」 「 報告書は、最大の焦点となる歴史認識について「先の大戦への痛切な反省」を明記。「植民地支配」や「侵略」という表現も記載する一方、戦後50年の村山富市首相談話(1995年)にある「おわび」の踏襲は求めませんでした」

日経新聞(8月7日)は中国の報道を以下のように報じている。
引用:「 【北京=共同】中国国営通信、新華社は2日、安倍晋三首相が今夏に発表する戦後70年談話について、先の大戦に関する「痛切な反省」を明記しても「おわび」の表明がなければ、戦後50年の村山富市首相談話と比べて「深刻な後退だ」とする記事を配信した。 記事は村山談話のキーワードが「植民地支配」「侵略」「おわび」だとし、安倍氏がこれらに言及するかどうかが注目点だとした。」

「謝罪」というのは直接か間接か選択する何かしらの自由が自分にあり、その結果に対する道義的な責任から生じることだ。 例えば全く行動の自由選択のない奴隷の立場ならば、道義的な責任も生じないので「謝罪」もあり得ない。

自分が生きている同時代のことで、自国のやった所業が他国に大いなる災いをもたらしたのであれば、たとえそれに自分が直接関与していなくても、国家としての「謝罪」の念を共有することはあり得るだろう。

しかし自分が生まれた前に起こった過去の出来事とは、自分自身には間接的にも直接的にも選択の自由が全くなかった出来事である。それに関して、どうして私を含めた戦後生まれの国民に道義的な責任や謝罪の必要性が生じるのか、論理的な説明を見聞したことが私はない。 「過去の教訓として過ちは繰り返さない」という意思の表明で十分だろう。 つまり戦後生まれの私たちのとって、問題の過去は、同時代の過去ではなく、歴史的な過去なのだ。

中韓や日本の左派が、それでも「謝罪が必要」と言うのであれば、それはどのようなロジックによるものだろうか? 自分が生まれる前のことであろうと、「国家としての連続性がある以上、戦後生まれの政府や有権者も謝罪すべきだ」と彼らは言っていることになる。つまり国家を擬人化して、その道義的な責任を追求しているわけだ。

この主張が前提とするロジックとはいかなるものだろうか?
戦中時代を描いたある再現ドラマを見ていて、はたと気が付いた。ドラマの中で「お国のために私たち国民ひとりひとりも滅私奉公しなくては」というセリフが出てきた。もちろん、これは今では国家主義的なロジックとして一部の極右の方々を除けば全く否定されているものだ。

ところが 「謝罪せよ」と主張している方々のロジックとは、まさにこの国家主義的なロジックと表裏、あるいはポジとネガの関係にあるのではなかろうか。すなわち「お国のせい(責任)なんだから、戦争の同時代の世代だろうと、戦後生まれの世代だろうと、日本国民とその政府である限り『謝罪』すべきだ」と主張していることになる。

日本の左派は右派の国家主義的なロジックを批判し続けてきたが、今に至るまで「謝罪せよ」という自らのロジックは、実は国家主義的なロジックの矛先を逆に向けただけで、同質のものだったのだ。

もちろん、国家を擬人化することには、一定範囲内での合理性もある。例えば、同様の擬人化には「法人」もある。 法人は契約の主体となり、その遵守の義務がある。国家は条約の主体となり、その遵守の義務がある。法人の契約や国家の条約は、締結後に生まれた経営者、あるいは国民・政府でも遵守しなくてはならない。

承知の通り、戦争賠償をめぐる日韓の条約は1965年の日韓基本条約であり、この条約で日本の韓国に対する経済協力が約束されると同時に、韓国の日本に対する一切の請求権の「完全かつ最終的な解決」が取り決められている。

また中国人民共和国との間では、条約よりは弱いがそれに準するものとして1972年の日中共同声明で、日本が台湾ではなく中華人民共和国政府を正当な「中国」として事実上認知すると同時に、「中華人民共和国政府は、中日両国国民の友好のために、日本国に対する戦争賠償の請求を放棄すること」が宣言されている。

これらの条約や共同声明は、国家を構成する国民が世代交代で変わっても、遵守すべき事柄であり、自国の政治情勢などの変化で一方的に破ることはあってはならないはずなのだが。

追記(8月11日): 
橘玲 公式サイト で先日の私のブログなどよりもずっと整理されて包括的な議論が全3回にわたって展開されているのを発見しました。
基本的にはサンデル教授のコミュニタリアン的な考え方(「戦後生まれでも謝罪すべき」)と、自由主義的・リバタリアン的(道徳個人主義「戦後生まれは謝罪の必要なし」)を対比しながら、サンデル教授の議論を批判的に読み解いています。

これは秀逸な内容だ。結論としては、本件についても複数の立場があり、どれが決定的に正しいのかはわからないのだが、各立場の論点と強弱が鮮明になっています。
もちろん私のブログでの今回の主張は自由主義的・リバタリアン的(道徳的個人主義)な視点からのものです。

引用:「(道徳的個人主義を批判する)サンデル教授は、『法人としての国家(共同体)は先祖の罪に対して責任を負うべきだ』と述べているのだろうか。だがそうなるとこんどは、「道徳的個人主義」に対する教授の批判が破綻してしまう。道徳的個人主義者は個人としての責任は認めないかもしれないが、法人としての責任を積極的に支持することは十分にあり得るからだ」 

この最後の部分が私の意見に一番近いです。すなわち戦後生まれの私たちは、戦争について謝罪する道義的な責任はないと考えますが、国家どうしとしてならば相応な範囲内で過去の責任を認め、賠償交渉にも対応し、その結果締結された条約や共同声明を遵守する義務がある。そして日本はそれを戦後やってきたはず、ということです。

ただしそれでも問題が残るという。

引用:「国家間の戦争の場合は、損害の規模が大きすぎて、個別のケースごとに賠償金額を算定したり、賠償すべきかどうかを決めることは明らかに非現実的だ。とはいえこのままでは永遠に紛争は解決できないので、便宜的に謝罪と賠償の対象を相手国(法人)とする方策(次善の策)が採用されることになる。これが平和条約だ。

いったん平和条約が締結されると、法人と法人のあいだの紛争は解決され、その後、追加の謝罪や賠償は要求できないとされる。過去の歴史的事象を取り上げていつでも好きなときに賠償
請求できるのでは国家間の正常な関係は成り立たないから、両国の国益を最大化するためにもこれは合理的なルールだろう。

だが私の考えによれば、ここにはの(サンデルの)「正義論」におけるきわめて深刻な問題が横たわっている。仮に国家と国家が平和条約を締結したとしても、その合意に個人(一人ひとりの被害者)が従わなくてはならないとする道徳的な根拠を提示することができないからだ」  

 最後の部分の指摘については、コミュニタリアンの立場から「生まれる前の過去の出来事にも責任がある」とするサンデル教授の正義論の問題を指摘しているわけです。 私としては、国家間の条約に個人が従わなくてはならない道徳的な根拠を示す必要が果たしてあるのか、国家間の条約は条約として国内法もそれとの整合性を求められるだけであり、道徳とは別事だということでよいのではないかと思います。

こうして見ると、共同体が共有している価値観や道徳を重視するサンデル教授のコミュニタリアンの思想は、それが強くなると左右双方の全体主義(あるいは国家主義)の考え方と親和性が高くなると思えてきました。もっともこの辺の思想状況に日本で最も詳しいと思われる井上達夫教授の近著よると、サンデルはコミュニタリアンの立場から、その後はリベラリズムに次第に接近しているそうです。それは実によかったね・・・と言っておきましょうか。

イラクに派兵された自衛官の自殺率の高さを指摘するブログやら一部報道が出回っています。だいたいレフトサイドの論者からのものですが、目についたものを点検してみましょう。

「イラク帰還自衛隊員の自殺は一般の15~17倍、米兵は毎日22人が自殺、集団的自衛権行使は若者の命奪う」 井上伸氏(国家公務員一般労働組合の執行委員)

引用:「『2014年度末現在、イラク派遣の陸上自衛官が21名、航空自衛官が8名、計29名。アフガン派遣の海上自衛官が25名。合計54名の海外派遣された自衛隊員が帰国後、自殺しています』

昨日(5月27日)行われた国会答弁で防衛省が報告したものです。
防衛省のサイトにあるイラク派遣の結果報告を見ると、イラク派遣された陸上自衛官は600名で、航空自衛官は210名です。

警察庁によると、自殺死亡率は、人口10万人当たりの自殺者数を示し、その計算式は、「自殺者数÷人口×10万人」となります。これで計算すると、イラク派遣された陸上自衛官の自殺死亡率は3,500で、航空自衛官の自殺死亡率は3,809.5になります。警察庁公表の2014年の日本全体での自殺死亡率は20.0なので、陸上自衛官は175倍、航空自衛官は190.4倍も多いことになります。

防衛省は、2004年から2014年までの11年間の自殺者数と言っていますので、これを11で割るとして、陸上自衛官は15.9倍、航空自衛官は17.3倍になります。」
***

上記の計算は以下の通りです。
イラク派兵陸自自衛官の自殺率:21/11/600 =318人(年間10万人当たり)
318/20=15.9倍
イラク派兵の空自自衛官の自殺率:8/11/210=346人(年間10万人当たり)
346/20=17.3倍

この計算、何がおかしいでしょうか?問題は分母の600人、210人という数字が、イラクに派兵された自衛官の実数ではなく、部隊の人員数になっていることです。

部隊は自衛官をある程度入れ替えながら、複数回派遣されていますので、「毎回100%同じ自衛官が派遣されている」と極端な想定をした場合のみ、成り立つ計算です。

もちろん、部隊の構成員は入れ替えられているはずなので、派遣経験の自衛官実数>部隊人員数です。こうやって論理的に誤った過大な自殺率を計算しておいて、次のように煽っています。

引用:「安倍政権が今国会で成立を狙う集団的自衛権の行使を含む「戦争法案」が強行されるようなことがあると、自衛隊員のおびただしい戦場での戦死と、帰還後の自殺、PTSD、人間性破壊の惨状が現実のものとなってしまいます。 」

次にこうしたレフトサイドからの攻撃に対して、「反証」を提示したブログを見てみましょう。
http://blogos.com/outline/117490/ 参議院議員(自民党)佐藤正久氏のブログです。
「自衛官の自殺率:一般成人男性 約40.8人>イラク派遣自衛官約33.0人」

引用:「平和安全法制関連法案の審議が進む中、にわかに注目を集める「自衛官の自殺」。現在、事実とはかけ離れた数字や内容が独り歩きしています。そこで、「事実」を共有すべく、防衛省が作成した資料をお示ししたいと思います。

【自衛官の自殺死亡率】(概数)
一般成人男性(40.8人) > 男性自衛官(35.8人) > イラク派遣自衛官(33.0人)

イラク特措法に基づき派遣された自衛官の「平均自殺死亡率」は、一般成人男性(20歳から59歳)のそれに比べて、「低い」ことが明らかになりました。計算方法や数値など、細部は下に示した資料をご覧下さい。」
***

私はこちらが真実かな・・・と最初思ったのですが、ちょっと疑問が残るのです。それを説明しましょう。

上記ブログの資料は防衛庁サイトでは公表されていませんので、国会で紙で配布されたものかもしれません。計算のベースとなった数字と計算過程が掲載されずに結果だけなのがもどかしいですが、検証のために逆算してみましょう。

イラク派遣自衛官自殺率33人(年間10万人当たり)
公表されているイラク派遣の陸自と海自の自衛官の自殺数29名(おそらく10年間)
イラク派遣された自衛官の実数:X
((29/10)/X)×100,000=33人
X=8788人

イラク派遣された自衛官の総数は8788人と逆算されました。
さらに以下の防衛省のイラク派遣に関するレポートを見ると「参考1」に自衛隊の部隊派遣実績が各回の部隊隊員数を含めて開示されています。
この表から陸自と海自の派遣のべ人数を合計すると、8870人となります。
あれ・・・? 上記の逆算したXともの凄く近似していますよね。

私の推測ですが、佐藤議員のブログで開示された防衛省資料のイラク派遣自衛官の自殺率は、派遣のべ人数を分母に計算された可能性が極めて高いと考えられます。私の逆算とのわずかな誤差は小数点以下四捨五入されているからでしょう。

派遣のべ人数を分母に計算することは、毎回100%隊員が入れ替わり、誰ひとりとして複数回派遣されていないという極端な想定のもとでなら、正しいですが、常識的に考えてそんなことはあり得ないでしょう。引き継ぎの必要からも、複数回派遣されている隊員がいるはずです。

というわけでこの防衛庁の計算は過小計算の可能性があります。
真実は上記の過大計算と過小計算の中間にあるようです。
防衛庁さん、ちゃんとサイトで詳細開示してください。

それから参考情報として、 政府の人事院は省別の国家公務員の自殺率を公表し、自衛官の自殺率が国民平均の1.5倍であることを示しています。以下参照

あとひとこと言い添えます。
2011年の東北大震災の後、多くの自衛官の方々が遺体の探索・発見に長い時間従事してくれました。しかしこれは心理的に過酷な作業でしょう。 なにしろ死後日数が経過して腐乱した遺体だって多いのですから。気の弱い人間なら逃げ出したくなるような作業です。それを黙々とやってくださった自衛官の方々には頭が下がります。

自衛官だって人の子ですから、中には気が滅入ってうつ病になる方だって少なくないのでは?その中から悲しくも自殺する方が普通よりも多く出ても不思議はないと思います。

6月26日追記:同様の誤った数字を報道していた東京新聞は訂正・おわび記事を出したそうです。
以下

http://bylines.news.yahoo.co.jp/takenakamasaharu/  Yahooニュース個人
↑New!YouTube(ダイビング動画)(^^)v

日本共産党はなぜポツダム宣言を絶対視するのだろうか?
 
「歴史」は多くの場合、勝者の語るストーリー・記録が、圧倒的な影響力を持つが、歴史の実相は勝者と敗者双方の主張・記録を見てみないとわからない。こんなことは常識だと思うが、日本共産党は第2次世界大戦の勝者の「宣言」を歴史認識の上で絶対視しているようだ。
 
以下は今週話題になった国会での共産党志位委員長による首相質問場面の動画である。 
 
要するに、日本はポツダム宣言を受け入れて降伏した。そのポツダム宣言では今次の戦争は日本とドイツの結託による世界征服のための戦争だったと書かれている。したがって首相もそれを歴史認識として受け入れるべきだという論旨である。
 
ポツダム宣言、第6条項:「日本の人民を欺きかつ誤らせ世界征服に赴かせた、影響勢力及び権威・権力は永久に排除されなければならない。」
 
しかし、こうした政治外交文書の記述は歴史認識の上で重要な資料であるが、それは当時の連合国側が日独伊同盟国側を「世界征服を目的に戦争を起こした」と主張していたという事実を示すにとどまるものだろう。 その文書自体が歴史認識となるべきと出張するなら、歴史認識は全て勝者の記録のみで足りるということになってしまう。
 
ちなみに、私自身は日本の対中国戦争は侵略的な性質を持っていたし、対英米の太平洋戦争も回避すべき戦争だったと(その意味で誤った戦争だった)と考えているが、当時の日本政府・軍部の意図が世界征服だったとはとうてい認識できないと思う。
 
なぜ共産党はポツダム宣言の記載を絶対視するのか? 共産党の綱領を読んだら、その理由がわかった気がした。(以下)
 
日本共産党綱領から抜粋引用(太字は筆者の強調):「日本帝国主義は敗北し、日本政府はポツダム宣言を受諾した。反ファッショ連合国によるこの宣言は、軍国主義の除去と民主主義の確立を基本的な内容としたもので、日本の国民的な活路は、平和で民主的な日本の実現にこそあることをしめした。
 
第二次世界大戦における日独伊侵略ブロックの敗北、反ファッショ連合国と世界民主勢力の勝利は、日本人民の解放のための内外の諸条件を大きくかえ、天皇制の支配のもとに苦しんでいたわが国人民がたちあがる道をひらいた。

戦後公然と活動を開始した日本共産党は、ポツダム宣言の完全実施と民主主義的変革を徹底してなしとげることを主張し、天皇制の廃止、軍国主義の一掃、国民の立場にたった国の復興のために、民主勢力の先頭にたってたたかった。党が、「人民共和国憲法草案」を発表したのは、この立場からであった。
 
わが国を占領した連合軍の主力が、原爆を武器として対ソ戦争の計画をもち新しい世界支配をねらうアメリカであったことは、日本国民の運命を、外国帝国主義への従属という歴史上かつてない状態にみちびく第一歩となった。
 
世界の民主勢力と日本人民の圧力のもとに一連の「民主化」措置がとられたが、アメリカは、これをかれらの対日支配に必要な範囲にかぎり、民主主義革命を流産させようとした。
 
現行憲法は、このような状況のもとでつくられたものであり、主権在民の立場にたった民主的平和的な条項をもつと同時に、天皇条項などの反動的なものを残している。天皇制は絶対主義的な性格を失ったが、ブルジョア君主制の一種として温存され、アメリカ帝国主義と日本独占資本の政治的思想的支配と軍国主義復活の道具とされた。

アメリカ帝国主義は、世界支配の野望を実現するために、ポツダム宣言をふみにじって日本を事実上かれらの単独支配のもとにおき、日本を軍事基地としてかためながら、日本独占資本を目したの同盟者として復活させる政策をすすめ、日本人民の解放闘争を弾圧した。
***
 
というわけで、ポツダム宣言が単なる勝者の主張ではなく、日本共産党にとって金科玉条になり得るのは、それが「反ファッショ連合国と世界民主勢力」の勝利の成果と位置付けているからである。一方で、それは戦後直後に、世界支配の野望を抱く米国の手によって捻じ曲げられた、という歴史解釈を共産党はしているわけだ。
 
しかしながら、「米国の世界支配の野望」が事実なら、それは1945年以降突然生じたわけではないだろう。 同時に連合国の中で米国は軍事力も政治力も圧倒的な存在だった。そうすると連合国側から「世界支配の野望を抱く米国」を除いた「反ファッショ連合国と世界民主勢力」というのは、いったいどこの国、どの勢力だったんだろうか?
 
ソ連だろうか?中国共産党? 
ソ連については、綱領の後段で次の様に記載されている。
 
引用:「ソ連では、レーニンの死後、スターリンを中心とした指導部が、科学的社会主義の原則を投げすてて、対外的には覇権主義、国内的には官僚主義・専制主義の誤った道をすすみ・・・」
 
第2次世界大戦中は既にスターリンの独裁支配が確立していたから、このように規定される国が
「反ファッショ連合国と世界民主勢力」だったとは言えないだろう。
 
中国共産党との関係については綱領にはほとんど記述がないが、1950年に日本共産党が各派に分裂し、1951年に当時の主流派は、中国共産党の強い影響下で、反米武装闘争の方針を決定し、中国共産党の抗日戦術を模倣したことがある。
 
当時の非主流派の国際派(これが今日まで続く現存派)は、この当時の武装派を「間違った路線」「中国盲従派」と否定し、長きにわたり中国共産党と日本共産党は相互に批判し合う関係だった。
 
要するに、ポツダム宣言をそれほど高く評価する根拠としての「反ファッショ連合国と世界民主勢力」というピカピカに健全な勢力なんてものが、そもそも存在していたのか、ということだ。
 
私の意図はポツダム宣言の内容を否定することではない。むしろ以下の様な当時としては先進的な条項を含んでいたことを評価したい。
 
第10項目:「われわれは、日本を人種として奴隷化するつもりもなければ国民として絶滅させるつもりもない。しかし、われわれの捕虜を虐待したものを含めて、すべての戦争犯罪人に対しては断固たる正義を付与するものである。日本政府は、日本の人民の間に民主主義的風潮を強化しあるいは復活するにあたって障害となるものはこれを排除するものとする。言論、宗教、思想の自由及び基本的人権の尊重はこれを確立するものとする。」
 
第12項目:「連合国占領軍は、その目的達成後そして日本人民の自由なる意志に従って、平和的傾向を帯びかつ責任ある政府が樹立されるに置いては、直ちに日本より撤退するものとする。」
 
しかしながら、それでも同宣言は、米英ソ連を中心にした連合国側の政治的な主張、認識に拠ったものであり、同宣言を金科玉条にして、「日本の戦争の動機は世界征服だったのであり、それを認めないのは当該戦争を正当化するのものだ」という志位委員長の論法は、控えめに言ってもかなり奇妙な議論だと思う。
 
補足追記:ポツダム宣言についてwikiから引用しておきます。
ナチス・ドイツ降伏後の1945年(昭和20年)7月17日から8月2日にかけ、ベルリン郊外ポツダムにおいて、米国、英国、ソ連の3カ国の首脳(アメリカ合衆国大統領ハリー・S・トルーマンイギリスの首相ウィンストン・チャーチルソビエト連邦共産党書記長ヨシフ・スターリン)が集まり、第二次世界大戦の戦後処理について話し合われた(ポツダム会談)。
 
ポツダム宣言は、この会談の期間中、米国のトルーマン大統領、イギリスのチャーチル首相と中華民国の蒋介石国民政府主席の共同声明として発表されたものである。ただし宣言文の大部分はアメリカによって作成され、イギリスが若干の修正を行なったものであり、中華民国を含む他の連合国は内容に関与していない。
 
英国代表として会談に出席していたチャーチル首相は当時帰国しており、蒋介石を含む中華民国のメンバーはそもそも会談に参加していなかったため、トルーマンが自身を含めた3人分の署名を行った(蒋介石とは無線で了承を得て署名した)。」
***
以上wikiではポツダム宣言は「宣言文の大部分はアメリカによって作成され、イギリスが若干の修正を行なったもの」と書かれています。  
 
そのアメリカについて日本共産党の綱領では 「わが国を占領した連合軍の主力が、原爆を武器として対ソ戦争の計画をもち新しい世界支配をねらうアメリカであったことは、日本国民の運命を、外国帝国主義への従属という歴史上かつてない状態にみちびく第一歩となった」と書かれています。   
 
wikiの指摘が正しいとすると、日本共産党は、同時代のアメリカを一方では「反ファッショ連合国と世界民主勢力」の代表として、同時に「世界支配の野望を抱く国」とも位置付けているわけで、なかなか興味深い矛盾を呈していると言えます。 
 
 
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3月6日の東京高裁の判決を受けて、1票の格差とその是正問題が話題になっているが、政治家の動きは鈍い。格差のおかげで当選している地域の議員さんという既得権層の抵抗が強くて、大政党ほど抜本的な是正ができない構図が目に見えている。
本格的な格差是正ができれば、日本の政治的な力関係は変革され、政策と経済的な資源配分にも地殻変動を起こすだろう。
 
昨年衆院選は「違憲」=是正遅れ「看過できず」1票の格差訴訟・東京高裁
引用:「「1票の格差」を是正せずに実施された昨年12月16日の衆院選は違憲として、弁護士らのグループが東京1区の選挙無効を求めた訴訟の判決が6日、東京高裁であった。難波孝一裁判長は「違憲状態とした最高裁判決で強い警鐘が鳴らされたのに、区割りが是正されず選挙に至ったのは看過できない」として、選挙は違憲と判断した。選挙無効の請求は棄却した。」
 
添付の図表は、一票の格差として「都道府県別の20歳以上人口に対する衆議院議席数の比率(東京都=1とした場合の比率)」を横軸にとり、縦軸にやはり都道府県別の地方交付税(給付)の人口1人当たりの金額(単位:万円)を示した散布図だ。
見事に右肩上がりの分布になっており、相関係数(R)は0.755とかなり1に近い。
 
つまり結果を見る限り、1票の格差の結果、選挙人口に比べて国会により多くの議員を送り出している府県ほど、人口一人当たりより多くの地方交付金(総額8.2兆円、平成21年度)を受けていることになる。
 
もちろん、地方交付税の給付額は各地域の「基準財政需要額」と「基準財政収入額」を計算して、「財源不足額」をベースに割り当てられるので、そこの選挙区の議員の数が多いからと言って、「多い者勝ち」で配分されているわけではない。
 
戦後長期にわたって人口減少度合いの高い地域は税収も上がらず、結果として財源不足額大きくなると同時に、議員定数の是正が進んでいないので多くの議員が割り当てられている結果だとは一応言える。
 
しかし悪魔は細部に宿るのたとえで、「基準財政需要額」の計算だってちょっとした想定の変更で大きくも小さくもなるだろう。そういう部分に絡むのが政治家の得意なことだし、結果的に自分らの地域が不利になるような(もらいが少なくなるような)ルール変更には多数を頼んで抵抗することになる。
 
そういう意味では、地方交付税8兆円は一例に過ぎず、有権者数を公平に反映しない議員定数の分布が、国家予算全体の配分を本来あるべき姿(完全に議員定数が公平に割り振られた場合に生じる予算配分や政策)から乖離させていることは、公共経済学や財政学の分野の経済学者などがもっととり上げて問題にすべきじゃなかろうか。
 
報道によると自民党の議員も、JAの支持を得て当選した国会議員数が170人もいるそうだ。人口分布を考えれば明らかに歪んだ結果だろう。
 
追記(3月26日):違憲のみならず、無効!という判決も出ました。
 
Yahooニュース個人に投稿を始めました。以下サイトです。よろしければサイトで「おすすめ」クリックとかお願い致します<(_ _)>
本件ブログと同じ内容です。
定着したら、そちらにシフトするかもしれません。
 
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とんでもない本だ・・・海千山千の経験を積んだベンチャーキャピタリストが、米国から輸入されたこざかしい経営学の諸説など一度投げ捨てて、ビジネス的な「野生の本能」に戻れと挑発する。
(アマゾンサイト↑ 例によってレビュー書いています。よろしければ「参考になった」くりっくお願い)

この本を読んで何かビジネス上の問題を解決する知恵が得られる期待してはいけない。著者はマッキンゼーのコンサルタントだったにもかかわらず、ぬけぬけと言い放つ。「問題解決は得意ではない。私が得意なのは課題創造である。」 こらあ!金返せ(^_^;)

著者の言う「もう終わっている会社」とは次のような会社だ。
1、コア事業にすべての経営資源を投下している。
2、中期経営計画をしっかりつくる。
3、「お客様の声を聞け!」と必死になる。
4、新規事業などを大まじめに検討する。
5、あいまいさを許さない内部統制とコンプライナンスに一生懸命になる。

どこの会社も一生懸命やっていることじゃないか・・・(゜o゜)

一番にやり玉にあげるのは、日本の会社が90年代以降一生懸命やってきた「集中と選択」だ。
「どうしてそれがいけないの?日本の企業は集中と選択が足りないって、経営コンサルタントも経営学者も、みんな言ってきたじゃない」

米国では結果的に不確実で不連続な未来に賭けるような集中と選択が行なわれた(失敗も多かったろうが)のに、日本では「従前の国内の成熟事業や変革のない安定した市場にやみくもに押し戻すこと」が「集中と選択」の名の下に行なわれてきたからだと言う。

その結果は、イノベーションの枯渇だ。
だいたい世の中のイノベーションの芽は、早期の段階では誰もその可能性信じていないようなものだ。ところが組織の中の異端児が(場合によっては社長が)、クレジーな情熱を注いで実現したようなことばかりじゃないのかという。成功した後でそれをふり返ると、過去が美化されて狙いすました「英断」となっている語られるのだろう。

そうした芽を「集中と選択」で摘んでしまっては、イノベーションは枯渇し、会社は面白くも楽しくもなくなる。「未来の不確実性に挑戦する人間の原始的能力こそ会社の利益の源泉」なのに、それが枯れる。キャノンの御手洗社長は、「その事業はいかがわしいか?いかがわしいなら、やれ!」と言ったそうだ。なんて非論理的で直感的な名言じゃあないか、と著者は共感する。

イノベーションはそのマグニチュードが大きいほど、既存事業や産業に対して破壊的なものになる。そんなものが、組織や産業のメインストリームから生まれるはずがないだろう。「すてるものがない、守るものがないベンチャーや、誰にも侵されることのない辺境や周辺から」イノベーションは生まれるのだという。だからベンチャーを育てよう。組織の中にベンチャー的な挑戦を許す多様性を大事にしようと語る。

そのためには覚醒した(あるいは、気のふれた?)個人が横、縦、斜めに連携して、ゲリラ的に創造的な破壊活動を展開しようというのが著者の遠吠えメッセージだ。

もう一度言う。
とんでもない本だ・・・・そして読みながらこんなワクワクしたビジネス書ははじめてだ!
 
竹中正治HP
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民主党の敗因を考える2つの対極的な論考を掲載しておこう。
 
1つめは元朝日新聞編集委員の山田厚史という方の論考だ。
「中道左派=リベルラ退潮の理由」
引用:「自民圧勝の総選挙は「中道左派=リベラル」の退潮を印象付けた。米国でオバマ大統領を支えたのはリベラルであり、フランスのオランド大統領は社会党だ。格差を生み出すグローバル市場主義に平等志向で対峙する中道左派はなぜ日本で支持を得られないのか。
 
格差を生み出すグローバル市場主義に平等志向で対峙する中道左派はなぜ日本で支持を得られないのか。

答えは明白だ。旧左翼と市民運動の間に「深い溝」がある。越えようとする覚悟がない。組織防衛が先に立ち「妥協」を拒む。負け癖がついて敗北に危機感が伴わない。

リベラルはグローバリズムの反作用であるナショナリズムに押され気味だ。不況への苛立ちから拝外主義や強い政府を求める空気は欧米でも起きている。尖閣・竹島・北のミサイルなど近隣の不愉快な動きが右の追い風になり、中道左派は結束できないまま自民党の独走を許した。」
*****
 
「なぜ私たちは負けているの?」との自問、この方の主張には私は賛同しないが、なぜ?の問いについては、私にとって「答えは明白だ。」
私はアメリカでのリベラリズムには共感する点が多い。しかし日本の「リベラリズム」には共感できない。そもそも内容が違うのだ。
違いはいろいろあるが、最大の違いは一言でいうとgovernance 能力だ。
ガバナンス能力と意識がないから、すべて主張は「アンチ」になってしまう。
米国のリベラルと日本のそれの違いとして、NAFTA(北米自由貿易協定)を実現したのは民主党のクリントン政権だったことをあげておこうか。
この山田さんという方、そんなことも知らないで書いているのかな・・・・さすが元朝日新聞(-_-;)だあ。
こんなドはずれな教訓を抽出している限りは日本で「中道左派」の復権はないだろうな。
 
2つめは竹中治堅さんという名前が私と一字違いの政策研究大学院大学の教授の論考だ。
「民主党代表選で問われるもの:総選挙敗北の教訓」
http://bylines.news.yahoo.co.jp/takenakaharukata/20121222-00022807/
 
引用:「下記の政策をご覧頂きたい。この政策がどの政党のものかわかるであろうか?
財政
国家財政に企業会計的視点を導入し、実態を国民にわかりやすく示す。行政改革・経済構造改革を進め、国・地方をあわせた財政赤字について、2010年まで の明確な削減・抑制の数値目標を設定する。
経済情勢に柔軟に対応し、持続可能な経済成長と財政再建を両立させる。赤字国債・建設国債の区分をなくし、限られた資金を政策的に必要な分野に回せるように改革する。

経済
自己責任と自由意思を前提とした市場原理を貫徹することにより、経済構造改革を行う。これにより、3%程度の持続可能な経済成長をめざす。

規制改革
規制改革を長期的経済発展の基本と位置づけ、経済的規制は原則廃止する。環境保全や消費者・勤労者保護などのための社会的規制は透明化や明確化を進める。

この政策には構造改革という文字が並ぶ。財政の再建目標が2010年ということがなければ、みんなの党、あるいは日本維新の会のものかと見紛うような政策である。

これは民主党が現在もその基本政策として掲げるものである。1998年4月に民主党が新党友愛や民政党などと合併した際に策定された。今も民主党のホームページに「民主党基本情報」として載っている。」
*****

こちらの論考には共感する点が多い。
たしかに2000年代前半頃までは民主党は自民党と「改革を競い合う」スタンスだった。それがその後、小沢の主導で変質したのが、今回の敗北の遠因との結論だ。

ただし結論の部分については私はちょっとだけ違う意見だ。民主党にはそもそも党として統一した政策原理なんか持っていなかった。 時代の雰囲気に合わせてふらふらと漂流してきた。

政策原理なんかなかったので、その過程で右から左まで吸収して大きくなることができた。ただし野党の時はそれで良かったが、政権を担うようになったとたんに、その矛盾が吹き出し、ガバナンス能力の欠落を露呈してしまった。そういうことではないか(-_-;)

もっとも政策を軸に政党が組織されていないというのは自民党にも言えることで、日本の政党のあり方の最大の問題だと思う。
 
竹中正治HP
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先日のミット・ロムニーの共和党での大統領候補演説で、増税せず、歳出削減で財政赤字を削減しながら、4年間で1200万人の新規雇用創出は非現実的だとコメントした。さて、オバマはどう言うか?
 
昨日はオバマ大統領の再選を向けた候補指名演説があった。以下のサイトでフルテキストが読める。
 
オバマ大統領が演説の中で雇用について具体的に数字で語っているのは、以下の通り。
We can help big factories and small businesses double their exports, and if we choose
this path, we can create a million new manufacturing jobs in the next four years.
(製造業で4年間で100万人)
 
If you choose this path, we can cut our oil imports in half by 2020 and support more
than 600,000 new jobs in natural gas alone.
(天然ガスで2020年までの8年間で60万人)
 
Help me recruit 100,000 math and science teachers in the next ten years, and improve
early childhood education.
10年間で理科系、数学系の先生を10万人)
 
Help give two million workers the chance to learn skills at their community college that
will lead directly to a job. (200万人のカレッジスクールでの再教育、これは雇用ではなく、雇用に向けた再教育)
 
4年間で1200万人とぶちあげたロムニーの空想的なでっちあげに比べれば、とても控えめで、現実的というべきか。
 
問題は米国の人口は3.1億人で、人口は年率約1%、生産年齢人口は約0.5%毎年増えているということだ。つまり年間155万人の新規雇用増がないと、失業率は低下しない。 だから上記の雇用増の数字では全然帳尻がつかない(足りない)。
 
オバマの雇用に関する上記の数字も、「たとえばこんなことをするよ」と言っているだけで、経済全体の雇用増の規模はコミットしていないと理解すべきだろう。政権を担当してみて、バブル崩壊後の雇用増加がいかに難題か分かった結果だとも言えようか。
 
さて日本の民主党は次回の総選挙のマニフェストはどんなものにするのかな?空想的なメニューがおてんこ盛りになっていた2009年のマニフェストとは様変わりにしぶくなるんだろうな。まさか学習効果が働かないなんてことは、ないよね・・・・・(^_^;)
 
 
竹中正治HP
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なんだか今日4月21日の日経新聞記事は妙にコメントしたくなる記事が3件、以下の通り。
 
1、日本の大学教育
アメリカの高等教育も様々な問題をかかえており、理想視する気は毛頭ないが、日本の現状に対する指摘としては妥当だと思う。

引用:
... 「在日米国商工会議所のブライアン・ノートン氏は「日本企業の競争力低下の原因は人材、特に文系人材の劣化だ。その責任は大学にある」と言い切る。 「米国の大学は論理的な思考力や分析力を徹底的に鍛えるが、日本では塾のように知識を教えるだけ。グローバルビジネスに最も必要な能力を学ばせていない」と日本の文系教育を批判する。」

「考える知的技法」これを伝えたいと思って私は教壇に立つ。簡単じゃないけどね。
 
アメリカの大学についてもコメントすると、たとえば経営学、経営のための「知的技法」がマニュアル化されていて、それを身につけると皆ステレオタイプのソリューションを生む出すようになる。 オリジナルな発想を生み出す知的技法というのは、結局学生が受動的な講義では教えることはできない。自分でつかみとるしかないんだ。それができるようになる諸君は少数。
 
2、尖閣諸島
引用:
「民主党の前原誠司政調会長は20日、都内で講演し東京都の石原慎太郎知事が沖縄県の尖閣諸島(石垣市)を都の予算で買い取る意向を示したことに関して「もし買うのであれば、国が買って実効支配を続けないといけない」と語った。「東京都が所有するのは筋違いだ」とも指摘した」

「国が買うならそれでいいよ、さっさとやりな」というのが石原さんの腹の内ではなかろうか。
一方、前原さんは、石原さんの術中に落ちた様に見せながら、実は自分でもそうすべきだと考えていたことを実現しようとしているのかもしれない。 もっとも民主党政権が契約時まで存続できるかは別の話だが。
 
3、ワシントンポストが
引用:
「米紙ワシントン・ポスト(電子版)は19日、野田佳彦首相へのインタビューに関連した「日本は難しい決断ができるか」と題した記事で、首相を「ここ数年のリーダーで最も賢明だ」と評価した。」
 
「野田首相はここ数年のリーダーで最も賢明だ」=「小泉首相の後はダメ&バカ首相ばかりだった。野田はマシな方」
ま、上品な新聞としては左の表現になりますね。夕刊フジ調なら右の表現
 
 
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デーモン閣下、民主党にイラつく・・・朝日新聞3月22日
 
私は朝日新聞なんか購読していないが、3階に住む母が最近、新聞販売勧誘で「3か月だけよ」とか言って購読、それを女房がもらって読んでいる。今日の朝刊の「デーモン閣下」のインタビュー記事が傑作だから読めと言う。
 
「悪魔の目的は人類の滅亡だ。悪魔の立場からすると、今の日本は思い通りに(滅亡に向かって)進んでいる。」「(民主党について)見ていてイライラするんだ、我輩は」
イライラしているのは悪魔閣下も人間も同じか。
 
ただし次の最後の台詞は冒頭と矛盾している。
「ずばり日本政治を良くする特効薬は?」
「そんな答えがあったら、我輩が議員になってやっているよ。答えがないからこんなことをやっているんだ、我輩は。ハハハ」
 
私だったらこう答えるぞ。
「特効薬?もちろん悪魔の我輩は知っている。しかしそれを教えたら、お前らは滅亡しなくなるので教えてなんかやらない。ガハハハ」
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