「宗教を生み出す本能」(ジェームズ・D・ワトソン)これもGWに読んだ中で、かなり面白かった。
 
宗教についてかなり盛り沢山の内容だが、本書の一貫した主張は宗教が持つ社会的な機能の進化である。すなわち、人間社会ではグループの成員が利己心を抑制して、共通した価値観、道徳を有し、結束することで利害的に敵対するグループに対する攻撃力と防御力を高め、その社会(グループ)全体の生存が有利になる。その機能(道徳的直感・本能)の形成を宗教が担って来たと主張する。その観点から、宗教的衝動が平和的・道徳的側面と戦争・残虐の側面の双方を持つことも解き明かす。

こうして形成されてきた人間の宗教行動は後天的・文化的な要素のみでなく、淘汰の結果として遺伝的基盤にも根差したものとなっていると説く。ただしそれは現時点では仮説であって、十分に検証できたものではないとも認めている。

人間に遺伝子レベルに根差す「道徳的直感」があるかどうか、あるとすればそれはどのようなものであるかは、かなり議論を呼ぶテーマだろう。現代の言語学では言語は全くの後天的・文化的な学習の産物とは言えず、言語構造としての文法には「メタ文法」とでも言うべき基本構造があり、それは人間の遺伝子的なレベルの特性に根ざしているという議論が有力だそうで、宗教の核にある「道徳的直感」も同様だと言う。

人間は道徳的な判断の理由を求められると、理屈をつけて説明するが、実はそれは無意識下に根ざしている道徳的直感を意識が正当化しているだけだ。実際に道徳判断は突きつめると合理的な説明は不能だと論じる。

そこで登場するのが、マイケル・サンデル先生のベストセラー「正義」で登場した「暴走する路面電車」の事例だ。「正義」を読んだとき、このたとえ話はサンデル先生のオリジナルかと思ったが、そうではなかった(「正義」ではその点は本文には書かれていないが、引用文献として掲載されていた)。サンデル先生はこの事例を功利主義的思想とそれに対する批判の構図を説明する材料に使っている、と私には読める。

しかし「暴走する路面電車」の事例は道徳哲学者フィリッパ・フットの考案で、道徳的な推論では合理的に説明できない道徳的直感を人間が持っていることを考察したものだった。このような道徳直感に関して心理学者のマーク・ハウザーは、「接触原則」「意図原則」「行動原則」の3つに整理する。その内容については本書を読んで頂きたい。

経済活動を含む人間の社会を、利己的で合理的な諸個人の選択の結果として説明するアプローチは、その最たる経済学の分野でも破綻が見えている。アダム・スミスが「諸国民の富」と合わせて残した著書は「道徳感情論」であり、人間の道徳的な基盤を考察するものだったことも近年再評価の対象となった。そういう点も含めて考えると、仮説的ではあるが、本書はとても知的に刺激的な内容だ。

ユダヤ教、キリスト教の起源、形成過程に関する章も興味深い。「イエス・キリスト」となった人物が現代に蘇って、あるいは5世紀に蘇ったという仮定でも同様だが、その時代に唱えられている「キリスト教」に接すれば「これは私の宗教ではない」と言うことは、まず間違いないと思う。