クリント・イーストウッド監督の最新作「アメリカン・スナイパー(American Sniper)」を見た。全米で大ヒットとなり、この映画の含意を巡ってリベラルと保守の立場からいろいろ意見が噴出し、論議になっているそうだ。 
 
 http://wwws.warnerbros.co.jp/americansniper/ (映画のオフィシャルサイト)
 
私としては、 2006年の「Flags of Our Fathers(父達の星条旗)」「Letters from Iwo Jima(硫黄島からの手紙)」、さらに2009年の映画「Gran Torino」など近年の一連の作品を通じて、イーストウッド監督の思索、メッセージが、らせんを描くようにゆっくりと展開、発展しているように感じる。
 
映画は米国海軍のSEALS(特殊部隊)で狙撃手として2000年代のイラク戦線で活躍した人物、クリス・カイルの実話である。 クリス・カイルの実話については、NHKニュースなどでも報道されているので、以下では映画のラストまでネタバレで語る。それを知らずにまず映画を見たい方は、ご注意頂きたい。
 
映画グラントリノのメッセージをふり返る
 
2008年の「グラントリノ(Gran Torino)」については、映画に絡めて2009年に日経ビジネスオンラインで以下の論考を寄稿、掲載している。まずの映画のメッセージから振り返ろうか。私の論考を読まれていない方は、以下ご覧頂きたい。(↓)
 
引用:「ウォルト(主人公)が自分の心の深い傷、罪の意識を償い、誇りを回復したことは確かだ。同時に彼は過去の何かを捨て、未来に向けて何かを救い、何かを託したのだ。 何を?
 
ウォルトが投げ捨てたものは「力による恫喝」と「民族的な偏見」だと言えるだろう。振り返ってみれば自分の父母、あるいは祖父母も移民としてこの国に渡って来たのだ。街の床屋の「イタ公」も、建設現場監督の「アイリッシュ野郎」もそうだ。
 
彼は自分の人生を歩き始めたばかりのスーとタオにこの国アメリカで生きる勇気と希望を与えた。
 
『この国(アメリカ)は世界中からやって来た移民とその子孫に、ハードワークと独立心を代償に、自由と繁栄を与える土地だ。これまでもそうだった。そしてこれからも』
そういうセリフは映画の中では一切出てこないが、これは多くの現代アメリカ人の琴線に触れる信条だ・・・
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多くのすぐれた物語がそうであるように、込められたメッセージはひとつではない。しかしこの映画から、ひとつだけ重要なメッセージを抽出すると、主人公ウォルトの悔恨とラストシーンを通じて描かれているのは、「怨嗟と暴力による報復は暴力の連鎖を生むだけだ。人はその連鎖を断ち切らなくてはならない」これだと思う。
 
このテーマ以外にも、この映画は今日のアメリカにおける移民と多民族社会の問題、製造業の空洞化の問題、社会におけるキリスト教の存在意義等、現代の米国社会を考える重要な要素が盛り込まれている。 そのため私は大学で担当している「アメリカ経済論」で2コマ使って、映画の鑑賞とレポートを課している。
 
この映画を題材にした講義で、学生諸君に私が一番感じとって欲しいテーマは、やはり「暴力は暴力の連鎖を生む」というこのメッセージだ。
 
しかし同時に私の脳裏には、ひとつの疑問が浮かび上がってくる。映画ではウォルトはタオとトスーを守るためにギャング達を撃ち殺すのではなく、ギャング達に自らを撃ち殺すように仕向けた。その結果、ウォルトは死ぬが、ギャング達は警察に逮捕され、長期の刑務所服役必至となった。
 
こうしてウォルトは、人を殺傷することなく大事な二人を守ることができた。 同時にそれはかつで朝鮮戦争で、ほとんど降伏しかけていた少年兵を逆上した自分が殺してしまったことへの自戒の含意もあったろう。
 
物語としては、非常に完結性が高くて素晴らしいラストだ。 ただし、このような結末がつけられる条件として、ひとつの法治国家の中で、法秩序を守る警察とその背後の国家が機能していることが大前提になっている。
 
グラントリノのメッセージの限界
 
それでは、国家権力が相対化する国際間での暴力、あるいは国家権力が正常に機能していない紛争地域ではどうなるのか? その条件下でも「暴力による報復、制圧は暴力の連鎖を生むだけだ」と言って非暴力主義で済ませていられるだろうか? 非暴力で暴力の連鎖を断つことはできるのだろうか?
 
そうした理想主義は、日本国憲法の前文の次の文章が代表しているものだ。
平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した
 
その理想主義の理念的価値は評価するとしても、これで国民の生命・安全が守れないのが世界の現実だ。 北朝鮮による拉致事件、2013年のアリジェリアの化学プラントでの武装勢力による日本人を多数含む人質・殺害事件、最近のISによる日本人人質・殺害事件など, あげるまでもないだろう。
 
さらに遡れば、1979年のイラン革命の騒乱下、テヘラン空港から脱出できなくなった現地駐在の多数の日本人らを救出するために、当時は日本政府は法律の制約で自衛隊の飛行機すら飛ばすことができなかった。日本政府に代わってテヘラン空港に救出機を飛ばしてくれたのはトルコ政府だった。
 
当然、同時多発テロ9・11とその後のアフガンとイラクでの戦争、中東などでの内紛と難民の大規模な発生、テロリスト集団の跋扈など、イーストウッド監督も「グラン・トリノ」のメッセージでは完結できない世界の現実について考え続けたはずだ。
 
暴力が支配する世界の現実の中で・・・
 
映画アメリカン・スナイパーで、主人公クリスは米国のテキサスで生まれ育ち、ハンティングやロデオを楽しむごく普通の若者だった。 ところが、中東でのテロリストによる米国大使館爆破事件を契機に、「自分もこの国を守るために何かしなくては・・・」と思い立ち、海軍に志願し、厳しい訓練を経てSEALSの狙撃手となる。
 
9・11のテロの後、いよいよイラク戦線に派遣され、地域の制圧と抵抗武装勢力を残滅する任務につく。 スナイパーの基本任務は味方の兵が展開する地域で、高いビルの屋上などに陣取り、味方を攻撃しようとする敵兵を先んじて発見し、狙撃することだ。 クリスは160名以上の敵兵を殺し、仲間からはレジェンド(legend)と呼ばれ守護神のように頼りにされる。ヒーロー視されるが、気持は晴れない。 
 
クリスが経験したことは、現地にも自分らと同じように何かを守ろうと戦う住民がおり、子供の死に慟哭する親がおり、自分らとは異なるが神を信仰する人々いて、自分と同じように同僚の兵士を守ろうとする狙撃手が敵側にもいるという現実だ。その敵方の狙撃手に自分の親しい同僚も撃たれる。
 
4度目の赴任でついに敵方の狙撃手を発見、射殺し、命からがら生還するが、他の多くの派遣兵と同様に心理的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状を起こす。 それでも彼は軽度な方で、回復後は心理的、あるいは身体的な障害者となった他の帰還兵を慰安しながら、妻と子供たちとの平穏な家庭生活を取り戻す。
 
ところがある日、クリスは慰安のために同行したPTSDを病む帰還兵に、突然銃撃されて絶命してしまう。ラストシーンは、実際に故郷で行なわれたクリス・カイルの葬儀の実写映像で終わる。クリスの遺体を乗せた霊柩車が走る沿道には、彼の死を悼む大勢の住民が並ぶ・・・。
 
映画グラントリノには視聴者を感動させると同時にすっきりとさせる完結性があった。しかしアメリカン・スナイパーには、そうした完結性やすっきり感はない。
 
「人を殺すってことは、とんでもない地獄を経験するということなんだ」 これは、「グラントリノ」でもウォルトが語ることだし、「許されざる者」でも同じセリフが出てくる。  これはイーストウッド監督の一貫したメッセージであり、この映画でも貫かれている。 しかし暴力が支配する世界で、どうしたら人を殺さずに人を守れるのか? 「グラントリノ」にあった完結したメッセージはこの映画では成り立っていない。
 
4度目のイラク派遣でようやく発見した敵方狙撃手に向けてクリスが放った弾丸は、超スローモーションで長い軌跡を描き、敵方狙撃手を射抜いた。 しかしイーストウッド監督がこの映画を通じて放ったメッセージは、完結することのない問いのまま空を彷徨っているのだ。
 
むしろこの問いに私達が正面から向き合うことこそ、イーストウッド監督のメッセージだったのかもしれない。 「暴力による報復と制圧は暴力の連鎖を生む。しかし一国の法治が成り立たない状況では、どうしたらいいのか?」
 
映画グラントリノを見て、やはり私同様に「荒野の用心棒」以来のクリント・イーストウッド・ファンだった友人(女性)が、メールにこう書いていた。 
 
「若い頃は、ガンマン役やデカ役(ダーティハリー)で、悪い奴らをガンガン撃ち殺して格好いいとこ見せつけておきながら、晩年になって『君達、暴力は際限のない暴力の連鎖を生むだけだよ。どうすれば良いのか?わしが見せてやろう』と言わんばかりに、自分が死んで見せるなんて、格好が良過ぎてずるいわ!」(記憶による再現です。) 
 
その通りだ。暴力が支配する世界の現実は、格好の良い解決法も、腑に落ちるような完結性も拒否しているのだ。
 
どうしたらいい? 「イラクがテロリスト集団が跋扈、支配するような今の様な状態になったのも、そもそも米国のイラク戦争の結果であり、更に遡れば・・・」と米国批判を展開する筋もあり、私も別に米国の過去の中東政策を正当化する気は毛頭ない。 しかしそういうことを述べ立てて済ませるだけなら、ISが暴力と恐怖で支配地域を広げ、異教徒が奴隷化される現状に対しては全く無力、不毛でしかない。
 
もしかしたらイーストウッド監督は「その解答は、俺が棺桶に入るまでには間に合わないかもしれない。その場合は、その後の世界を託されたお前たち世代に任せるよ」と逃げ切る気でいるのかもしれない。
 
クリントじいさん、あんたやはり格好良過ぎて、ずるいよ・・・・
 
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 追記:IS問題について、中東・イスラム問題を専門とする池内恵氏(東大准教授)が良い指摘をしているので、引用しておきます。
「(日本では)問題は『一神教同士の争い』であるといった通俗・劇画的解釈を開陳する方々が澎湃と現れ、いくら否定しても不思議がるだけで理解してもらえない。大前提として、西欧の世俗主義と、神の啓示を上位とするイスラーム教の宗教的絶対主義がぶつかっている、という基本認識を日本の知識人が持っていない。」  雑誌「公研」2015年2月号より
 
最後の点は、日本の知識人一般というよりは、「左派系知識人」にその傾向が顕著であることを言い添えておきます。
 
追記:このフランスの政治学者の論考は、問題の難しさ、微妙さを語っていると思う。
引用:「ジハードとイスラムが無関係であるということ、暴力的な過激化が信仰でもたらされる真理や宗教的実践と無関係だとすることは、間違っているばかりか、政治的に非生産的である。  
 
テロ実行犯とムスリムを同一視することの間違いと危険は、まさにこの事実を否認することから生まれる。 宗教的な事象は、時代を問わずいつも過激派を生み、その暴力が同じ宗派の者、違う宗教を信じる者、不信心者に対して向けられてきたのだ。    
 
それゆえ、そのような事実を指摘することでテロリストとムスリムが同一視され、ムスリムや礼拝所への攻撃につながる危険があるかもしれないということにこそ、一層の注意が払われるべきなのだ。」 
http://synodos.jp/international/13010
 
追記(2月28日):町山智浩氏のこの映画に関する評を引用しておきます。正しいと思います。
引用:「だからね、この、要するに『これは戦争を賛美している映画だからよくない!』って言っている人も、『賛美してなにが悪いんだ!?』って言っている右側の人も、両方とも間違っているんですよ。まったく賛美していないんですよ。この映画。戦争を。」
 
「イーストウッドっていう人はね、右とか左とかね、いっつもね、両方からね、『自分たちの敵だ!』って言われてるんですけど。どっちでもない人でね、なかなか面白い人ですよ。」
 
「まあ彼のいちばん有名な映画で、『許されざる者』の中でイーストウッドが言う、いちばんいいセリフっていうのがいちばん重要なことで。彼はこう言うんですね。『人を殺すっていうのは地獄なんだよ』って言うんですよ。」 (同種のセリフは「グラントリノ」でもありましたね。竹中)
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