今年邦訳が出版されたロバート・スキデルスキー著の「なにがケインズを復活させたのか?」(日本経済新聞出版社)、これは私にとってケインズの経済学に関する「眼から鱗の剥落効果」抜群だった。
原著のタイトルはKeynes:“The Return of The Master” なかなかやるね、スキデルスキー先生。
映画スターウオーズの“Return of Jedi”を思い出す。
 
大学の先生方との研究会の後の宴会などで、私はこの本を「どう思います?」と幾度も話題にしてきた。
まだ読んでいない人、読んで感銘を受けた人、様々だ。
著者は第1級のケインズ研究者で、新古典派、1960年代に全盛期を迎えたアメリカ・ケインジアン、マネタリストによる「反ケインズ革命」、そして1990年代に「復活」したニューケインジアン、これら全てに対してラディカルな批判を展開し、ケインズの経済学の今日的価値の復興を唱える。
すごいなあ、それってほとんど全部を論敵に回しているってことじゃないか。

私自身、大学ではケインズ経済学の主要ポイントのひとつは労賃の下方硬直性だと習った。更に広げて、価格の硬直性があるから、需要減少などのショックが起こると相対価格の調整に時間がかかり、生産、所得、消費などの実体経済の縮小が起こるのであり、それが古典派に対置するケインズ経済学のポイントだと習った。ところが著者によると、それはケインズの体系の一部ではあるが、副次的なポイントに過ぎない。
ケインズの提起したポイントは「不確実性」の概念にあるという。それは確率計算によるリスク計測のできない不確実性であり、ナイトの不確実性と本質的に同じものだ。 えっえええ、そうだったの!
たしかにケインズが晩年、アメリカのケインジアンを自認する経済学者らと会議をした後、ポツリとこう言ったという逸話がある。「みなケインジアンだったよ、私以外はね」

新古典派も、新古典派総合も合理的期待仮説によってケインズの提起した不確実性の問題を体系から排除してしまった。ニューケインジアンも価格の硬直性をベースに体系を再構築したものの、合理的期待仮説の点では迎合し、ケインズの本質を継承できていない。 その結果、現代の主流の経済学の体系は、バブルとその崩壊、金融危機に対して無防備で、理論的に破綻していると批判する。
 
価格の硬直性なら、価格が修正されるまでに時間がかかるというファクターを体系の中に導入するだけで済む。ところが、計測不可能な不確実性というファクターは、どうにも厄介極まりない。それを体系の中に導入しようとすると、数理的に精緻に組み立てられたモデル自体が解体してしまうのだろう。
数理的に精緻なモデルに惹かれてきた先生方には耐えられないことだ。
 
現代の金融工学、現代投資理論も、リスクを計測可能なものと定義することで成り立っている。ところが私達が現実の経済活動の中で直面する不確実性とは、計測可能性を拒否するようなものの方が遥かに多い。 「ブラックスワン」のナシム・タレブが強調していることだね。
 
また、アカロフ&シラーは「アニマルスピリット」の中でこう書いている。「事業者たちは、未来についての根本的な不確実性を抱えたまま決断を下す」 その時の不確実性とは、1921年にシカゴ大学のフランク・ナイトが書いた『危険・不確実性、および利潤』の中で述べられた確率計測不可能なものだ。
 
精緻な虚構を愛し続けるか? それとも、現実の不確実性と混沌を受け入れ、少々野蛮でも生き残る知恵に賭けるか? そういう選択かな?